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おはようございます。グッドモーニングバイブスです。
果たしてどれどのぐらい 意味があるのかわからない、ここでの
CMですが、 昨日ですね
大変ありがたいことに書き上げ塾が満席になったんですね。 効果音を入れたいところですが
面倒くさいと思うので多分 入れませんが、それに聞いている方も鬱陶しいだけだと思うので入れませんが
いや大変ありがたいと思います。今回で初めて、第3期になって初めて 満席になりました。満員音霊ですね
だんだん増えていて それだけの価値があると私は思っているので、第4期もぜひですね
あると思いますので、まあその先のことはわかりませんがあると思いますのでぜひ
もしご検討いただいている方がいらっしゃったらお楽しみにしていただければと思います。
本を書くということで、最近結構また頑張っていろいろ企画を作ってみたり
書き始めてみたりしております。一時ですね、二重の意味で
一つのライフハックブームみたいなものが終焉しつつあり ビジネスショブームみたいなものも以前ほどのエネルギーが感じられなくなり
まあそれは内部的問題ももちろんあったと思うんですけど何よりも 出版の世界が極めて曲がり角に来ていると
極めて曲がり角は変ですね。まさしく曲がり角みたいなところ。 僕はっきり言ってあまり詳しい方じゃないんですけど
まあこの場のど真ん中にいた者としてはやっぱりこう曲がり角に来ればさすがにこう 何か感じないわけにはいかないですよね
早い話仕事がなくなっていくわけです。 その状況にあってなおですね、流れに逆らって頑張るみたいな
のもあると思うんですが、私はだいたいその 昔から歴史漫画とか歴史物がやたら好きな関係上ですね
流れに逆らうのはやめておきたいって思ってしまったんですね だからこれは流れに身を任せてビジネス書作家ではない世界で生きていこうと思った
ところでコロナが来てですね 意外とこう本を書くという方向がまだ
別の意味でいけるんではないかと思ってこう現在いろいろ頑張ってみて 再度ちょっと前とは違った形ででも頑張ろうと思っていて
その一環としての書き上げ塾とも言えるのでですね やっぱり本の
なんていうんですか本が消えるというふうには私は少しも思わないのでそういう心配して ないんですけれどももう少し盛り上がってもいいんではないかなと
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思うようにもなりました
昔はいっぱい平置きされていたりいろいろしていた本も実はすごく様変わりしていてですね
その中で私結構何度も何度も平置きのど真ん中で見ていた本があったんですよ 置かれた場所で咲かせなさいという本があって
一昨日だかその前だかそのちょっと先週ぐらいだったか忘れましたがそういう話がですね 私の方に
なんていうんですかね 持ち込まれてですねあれとグッドバイブスは何が違うのかと
でやや批判的にその置かれた場所で咲かせなさいに対してですね な話を何僕はこれ2回ぐらい聞いたことがあるんですねで私はその都度ですね
えっとあの2つは違うんで しかも私が一つ非常に引っかかってたのはですね置かれた場所で咲かせなさいは何度も見たんですよ
でも1回も読んだことがないんですよね余分すらないんですよ この種の本について言及はしないことにしているんですよね
タイトルで批判するとって著者
をやったことが一度でもあればですね大変高コマ困ったことなんですよ なぜたらタイトルって自分
著者の一人では決められないケースが多いので ましてあれば英訳英書の翻訳本じゃないですか
あのだからほとんど現代と全く同じだということが普通はないし 現代と全く同じだとしてもですね
ちょっとこうニュアンスが変わったりしちゃうんですよねそこはもうしょうがないです よね
英語日本語にしているわけですからね というわけでえっとあんまりその違うという直接言われればそのタイトルから考えて
違うだろうとは言えるんだけど中読んでないだけに 果たして本当に本の中身が全く違うのかどうかもわからないし
難しいことなんですよそういう時にですね 私的にはあまり読んでない本について言及したくはない
そもそも読んだ本についてだって全部言及できてないんで 先に読んだ本について喋っておけばいいわけですよね
でも聞かれたことが2度あったんでしかも決してこう
どっちについても誤解があるんじゃないかなっていうのがまずありますね で私あのタイトルしか知らないんでそういうふうに
聞いててほしいんですが ただしタイトルすら正確に引用できているかわかんないんですよね
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多分そうだろうと平置きされていたのは何度も見たんですよね 朝かとかの駅で
だからすごく売れてるし売れてる本を読んでもいないのに言及するというのは一番 避けたいとは思うんですよね
一番避けたいってわけじゃないか そのタイトルは
グッドバイブスとは違うんですよ一つ大事な違い2つあるな 少なくとも2つ大事な違いがあって一つはグッドバイブスに命令系はないと思うん
8 あれはいろんなものを手放すと楽になれますという話ですね
手放しなさいと多分書いてない第1に手放しなさいってなんかちょっと変ですよね 咲かせなさいならまだわかるんだけど
手放しなさいっていうのは手放せないような場合において単なる命令系ではあまり 意味をなさないというか
しかも多くの場合手放す対象イリュージョンときてるんでイリュージョンってことは つまり存在してないものなんですよ
だから存在してないものって本当はないことを認識さえすれば手放すという作業すら いらないんですよ
これに対して命令系っていらないと思うんですね だからグッドバイブスの中でですね8しなければならないことって実は一つもないと思うん
ですよ クラゾンさんのこれはそれこそ性格もあると思うんですけれども
グッドバイブスっていうのはあらゆる 選択は自由に開かれているこれ360度であるっていうようなニュアンスなんですよね
これは結構実はよく考えるとすごいことだと思うんですよね 普通の人はそう思ってないですよね360度私たちは自由に開かれているっていう
その考え方自体をあんまり取らないんですよ だけどこの360度自由に開かれているということはですね
つまりやってもやらなくてもいいんだってことを意味しますよねどうしたって だから咲かせなさいという命令系になっているということは
あれよりは遥かにですねそのメッセージ性が強いと言いますか 方向性というか価値観というものがはっきりしているという段階で実は相当違うんですね
この基本姿勢が大きく違うと思うんですよ
まあ多分抗議しているのはそういう点ではないんでしょうけどね でもう少し本題に近づきますと
咲かせなさいが違うんだと僕は思うんですよね グッドバイブスは咲くことがいいことだとは決して考えないと思うんです
えっとあれは 非常に仏教的なところがあって例えば人生万事最王が馬なんですよ
そうした方がいいとは誰もわからないっていう
のがあるんですねでもこれはまあ非常に目新しいなどということは決してないですよね 英語で言えばチャンリージーさんですよね
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つまり最王なんですけれども
タイムウィルテルなわけですよ 時が経つまでそれが良かったかどうか誰にもわからないっていうあれなんですよ
あれを虚しいって人もいるかもしれませんが少なくとも確実に違うのは 咲かせなさいってからには咲くことはいいことだってことじゃないですか
ところが グッドバイブスは咲くことがいいことかどうか誰にもわからないっていう含みが明らかに
あって これ私は精神分析もとてもよく似てると思うんですよね
一見したところそれは良いことだが果たして良いことなのかどうかわからないよっていうのが 精神分析にはずっとあるんですよ
あの私どうしても彼氏欲しいんです彼氏できましたそれは最悪かもしれないって考えるんですよ これはかなりあの大事なところなんですよね
咲くことイコールいいことだっていうのは なかなかこうあれなんですよね世俗に関して楽観的っていうか
あの 価値観がはっきりやっぱここも同じなんですよね価値観がはっきりしてるんですよそこは
グッドバイブスには実は少しも価値観がはっきりしていないところがあって 手放して平安になることはいいことなんですけど
ある意味それしかないとも言えなくはないんですね でしかも平安を邪魔するものは全て実は存在していないものってきてるんで
すごくこうですね世俗的な価値というものと相入れないと思うんですね 世俗的な価値例えばこう何者かになるってやつが昨日あったじゃないですか
グッドバイスは少しもそれを良しとしてないところありますし その他諸々あります
つまり幸福幸に関してですねはっきりしたこう ものがないはっきりしたものが得てあるとすると
ないものに苦しめられないことが良いことってことになりますね 幸福だ
それ咲かせるってこととほど遠いと思うんですね花を咲かせると でだいたいこの2点で私は大きく違うという話を聞かれれば
概ねしかも聞く機会的あればするんですけどね で私自身の経験で言うとちょっとただ違いまして
8置かれた場所で咲かせなさいというのはそう悪いメッセージじゃないと思うんですね ただ
私はそれを本あったのを知ってたにも関わらず読んでないわけですよ それは
非常にはっきりした理由がありましてですね いやの無理だろうと思ったわけですね
無理だろうと で抗議
多いっていうかそのグッドバイブスと置かれた場所で咲かせなさい 両方に対して言われる抗議として
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まず一つ目にそのように言うのは残酷だっていう主張があるんですね つまり多分グッドバイブスの分離を手放すというか分離を避けるみたいな発想と
置かれた場所で咲かせるというのが多分 混同されていてどっちもですね残酷だっていうわけですよね
こう置かれた場所が良ければいいけど過酷だったらどうするのかと ところがですね私この件に関しては置かれた場所で咲かせなさいの方が
まだ残酷じゃないと思うんですよ 置かれた場所で咲かせなさいが残酷だということはですね
置かれた場所が過酷だった場合 さっさと逃げ出しなさいって言ってるわけじゃないですかあるいはこう
転職離婚移動その他ですよね できる場合はいいですができない場合はどうなるんだろうっていうのがあるんですよ
私あの中学高校時代に特に中学時代かな いじめにあったことがあって
あれ こう逃げられますかねあれね
逃げられないことが大きなポイントなんじゃないかと思うんですよね 逃げられるように周りが頑張ってサポートするのは大事だと思うし
逃げられるに越したことはないですよ でも私は逃げられはしなかったし
あれ何度やっても逃げられる気がなかなかあってしないものだったんですよ 一番いいのはですね休むことだと思いますね
逃げる休むは逃げるに近いのかもしれませんがですねとにかく休むことができれば 休むことだと思う
休む時もただそんなに簡単じゃないですよね 相応の覚悟がいりますよ
絶対に誰にどう引きずられようとも休む 家から出ないぞと
てか部屋から出ないぞですね これをあの一定の覚悟を持ってやんないと多分休むのすら難しいと思います
つまり置かれた場所にから逃げられるとか移動できるとか そういう選択肢が選べるならそうしたらそうした方がいいんですけど
それが難しいんですよ過酷な状況というのはね 私今回
読むセラピーの2で その過酷な状況を探したんですよ
で最も過酷だということでナチスの強制収容所を選んだんですけど逃げられないこと になっているじゃないですかあれ
置かれた場所にいるより他ないんですよね 咲くのは無理なんだけどとにかく置かれた場所から動き出せ動き出すことを推奨しないのは
残酷だっていうのはつまり置かれた場所から動けって言わないのは残酷だっていうの とほとんど同じぐらい置かれた場所から
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移動したり逃げたりしろっていうのは十分残酷だと思うんですよ それを残酷だというなら
えっと 原則的にはサクって言ってるからにあれ植物なわけですよね
植物って自ら動くことはまああれ非常に難しいことを言うならば自ら動くことができないと言えるか
どうかあるんだけど まあでも動けないと動物に比べれば動けないと考えるのが一応常識だと思うん
ですね そうすると動けないものに対して動けっていうのは大変厳しい言い方だと自分は思うん
ですよね 子供が親を選べないっていうのとよく似ていて
選べって言われても困るっていうことですよ つまり
それは動けるならば 動くんですけれども
動けないんじゃないかなって思うんですよね つまりえっとですね私がグッドワイブスを読んだ時に置かれた場所で咲かせなさいという
タイトルよりも遥かに安心できたのは動けと書いてないからだったんですよ 今の私であればですね別にこの場所から動こう
動かねばならんとか思うことはないんだけどそうは言ってもやっぱりこう 嫌なことがあれば
動くっていう選択肢を考えるわけじゃないですか いじめにあってた頃よりは全然ないですが
例えばこの家を出るとかだって全く考えないのかっていうとわからないじゃないですか うちの娘でさえわからないですよ
親が虐待しなくて欲しいものは基本的に
欲しいものはというのかな やりたいことはできてやりたくないことはほとんどしなくて済むけれど
だから家から絶対出たくないと思ってることかなってわかんないですよ けれどもじゃあ娘に動けるかっていうと動けないでしょう
非常に難しいと思うんですよね動くということは家が恵まれて言うと恵まれていないと なんだけど恵まれていなければ余計だと思いますね
うちの子は私が考える限り相対的には恵まれていると思いますよ じゃあ恵まれていれば動けるのかっていうと動けますかね
ここから出てみれば より良いところに行けるっていう確信が必要じゃないですか
動くからには自分そんなに何かパワーもなければ金もないわけですから 家中にあるお金持ち出したって
そうそう持たないし 家中にあるお金を持ち出して家を出るっていうこと自体が過酷ですよね
置かれた場所とは何なのかという話になってくるんですけどこれは 置かれた場所じゃないところの方がより安心より安全より幸福に近い
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絶対そう言えると わかんないですもんだってね私も考えたことが全くないわけじゃないですよ
家が嫌いだったわけじゃないけども 家出て考えますよ
よほど親が好きじゃなければ私は結構考えました なぜかあんなに考えたのかわかんないですけどね
今思っても親に対してそれほど思うところはないんですよ 当時もそれほどなかった
でも家出て考えましたよね家出をする 例えば世の中で善意だとされている存在だとしてもね
わからないと思うんですよね私は 例えばそのなんとか
ヘルプってあるじゃないですか助けてくれるということになっているSOS 行った先で虐待されないという保障はどこにあるんだろう
私は当時小学校2年多分3年だったと思いますけど真剣に考えれば出るというのは賢明な選択だとは思えない
何度もそういうことを考えた記憶があります だって行った先の人が人食いじゃないっていう保障ってないじゃないですか
これは別にですねえっとだから動くべきではないって話じゃないんですよ 動いたほうがいいケースは多々あると思うんですよ
ただ動くのは容易なことだとは思えないんだと思うんですね あの
アメリカとかはすごいんで そういうのはものすごく徹底して整備している傾向があるんですね
だってあの虐待というものがおかしい人はおかしいんですよ 本当に
でもですねクライシスインターベンション危機介入って言うんですけど介入する側も大変なんですよ 介入できるのかって話私あの
習ったんですね大学でクライシスインターベンション その時に冒頭でいきなり言われたのがあなた方私は心理学習ってたから
あんた方はサイコロジーという心理学というあの生ぬるいやつをやってるけど あんなものは役に立たないんだってことを教授がいきなり言ったんですよ
何を言い出すんだろうと思ったんですけども 例えば自殺のアセスメントをしている間に人は殺されちゃうんだと
まあアメリカですからね 銃持ってますからねしばしば確かにそういうことなんですよ結局あの
奥さんがボコボコに殴られて鬱になっていると 鬱のアセスメントやってるうちにえっと額を打ち抜かれるとだから危機介入なんだと
でも安易に介入しちゃいけないんだとすぐ訴えられますからね 私は特にこう外国人だったんで何があろうと絶対に人の家に
招待もされてないのに入っちゃダメだと しかも招待状をちゃんととっとけ
打ち殺されたとしても必ずしも文句は言えないんだよっていうこのですね やっぱり私がその日本じゃありえないじゃないですか
招待されて家行って打ち殺されて文句が入れてなん どういう意味なんだそれはって思ったんですけどそれは私は何度も注意は受けました
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非公式な注意でしたけどね公式にさすがにそんなことは言えないですよね でも確かによく考えてみると私すごいこう
あるアメリカの中年の中年中高年そういう大学生もいっぱいいますからね サンクスギーミングデイに招待されてまぁ
危機としてウキウキしてなぜウキウキするかアメリカの人と仲良くなるのは難しいんです あの留学生はね
英語 できるようになりたいというのもあるし様々いいんですよ
あのいざとなったらいざとなったらというのはどういうことかというと
定期試験の教室変更になりましたこれだいたい聞き落とすんですね でそういうお友達に聞けると非常に大事なんですよ
だから危機としてサンクスギーミングデイに行ったんですけど 夫ご主人ライフルとか持ってましたからね
まぁあのあれですけどね 狩りやるハンティングやるためのものであって人を撃つためのものじゃないんですけど
でもあれに撃たれれば即死ですよね であの私はその時も別の留学生の台湾人かなんかに注意を受けたんですけどあの
正午 あの奥さんとやたら仲良くなったらダメだからねって言われたんですよ
つまりフリを疑われて撃たれるといやいやいや別にその僕のお母さんより年上ですから 関係ないからそんなことはって言われたんですよね
ということなので危機介入というのはですね難しいんですよ 非常に
ただそれは 日本だったらもっと遥かに平和にはやれると思うんですけどそうやってもやっぱり
プライバープライベートに入っていかなければ介入にならないのでその
何らかの形でやっぱり いきなり飛び出せないと思うんですよねどういう状態にあってもまして高過酷な状態にある人
いきなり飛び出すということをするためには8 多分当てらしきものがあるという確信が必要だと思うんです
私がですね一番現実的だなと思ったのは8いじめだったらもう休むっていうのが現実的な 気がやっぱします
まあただこれもシチュエーション次第ですよね だって親が引きずり出すというような親だった場合どうするのかっていうのはどうしても
どっかに出てくると思うんですよ もう一つかなり確実だと思うのは祖父母って存在なんだろうなと生きていればね
これもケースバイケースに違いはないんですけど 祖父母というのは親に比べるとあの完全需要度が高いなぁってやっぱりする部分は
あります 私は家で娘に関しては完全需要的だと思うんですけど
ある意味では例えば私の母は私の母はそういう性格では全くなかったから驚くんです けど
絶対需要感がどこかにあるなっていうのがあります 多分それ責任が僕に比べると責任感が
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感じないからだとむしろ思うんですけどね だから話が全然またずれまくってますけど昨日
そういう詐欺の話が出ましたよね 孫を装っておばあちゃんに当てにするっていうのがやっぱり一番効果的だと
その時親には黙っておいてほしいって言うんだと これが効果を発揮して老人の判断を狂わせると
なるほどなって思いますね なんか母のその孫に対する態度は確かに子供に対してはありえないような態度だったって思うんですよ
それやっぱり何かしらの社会的判断からずれていくんでしょうね それが救いになることもあるんじゃないかなと思います
もう一つがその咲く 咲かせるってやつですよね私はこれが同意できないんですけどつまり
good vibes って咲かせなさいとは言わないと思う というか言わないんですよ
これもまた非常に大きなポイントで 置かれた場所から逃げ出せれば逃げ出せばいいと思うんですが
置かれた場所で逃げ出せない場合とか少なくとも即座には逃げられない場合には 逃げる算段みたいなのをまず立てるじゃないですか人間は
そしてとにかく 移動する移動するということはつまり
当てがあってその当てに向かって動くわけですよね この際に私は咲かせるってことについて考えない方がいいと思うんですよ
でgood vibes っていうのは生まれた途端に価値マックスでそれは永遠に損なわれることがない っていうのがあるんですね
私はこの方が受け入れらやすかったしやっぱり安心感があったんですよ 何にも変わらないと言われればそうなんですけれども
つまりですね 置かれた場所で咲けなくても咲けても価値変わらないってことになるんですよこれは
咲いた方が価値がありますっていう含みが咲かせなさいには発生するじゃないですか 命令系であれば特にね
しかし私はそうは思わなかったんですよね 置かれた場所で咲けない種はいっぱいあるはずだと
えっとこれは比喩じゃなくて
具体的にそうであったとしてもですね 植物の種が全部咲くとは到底思えない
咲けないのも絶対あるはずなんですよ それで価値の上下が発生してしまうと過酷じゃないですか
どんどん移動できたとしますよね 移動した先でならなぜ避けるんだって話あるじゃないですか
だから私は置かれた場所で咲かせなさいというのはそう悪い話ではないと思うんですよ 移った場所なら避けるのかって話がどこかに
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出てくるんででも私はどっちも過酷だと思うんですね 置かれた場所で咲くのも大変だし移動した先で咲くのも大変だと思うんですよ
咲く方がいいと思わなきゃいいと思うんですね そう思わないとそう思える余地がないとやっぱりこうですね
点々とすればうまくいく っていう
ことになってしまうと 点々としてうまくいかなかった時にすっごく自分に対して
罪悪感が発生すると思うんですね そういう人は僕はいっぱいいるような気がします
ある意味ではその置かれた場所で咲かせなさいよりは遥かに現代の日本で現実的なのは 移動した場所で咲けませんという問題のような気がするんですよね
置かれた場所で咲かせなさいに対する避難の一つとし 避難はその置かれた場所の環境が不遇だったらどうするのかっていう話なんだけど
では環境がに恵まれていれば咲けるのかって問題は僕は置き去りになると思うんですよね 確かに環境に恵まれている方が過酷であるよりはいいと思います
でも花が咲く咲かないは そのことだけではわからないような気もするんですよ
うちの庭どこをとっても土の質悪いんですけどね なぜかここではすごくうまくいきこっちではダメっていうのがあるんですよね
ところが植物反対にすると逆転したりするんですよ 過酷さっていうものが
客観的に決められないっていう問題もあると思うし 一番問題なのは果たして環境で咲く咲かないが
そんな風に決定論的に決められるんだろうかと 私あの兄弟いるんですけど同じ家で育ちながら
なんかこう大きく違う結果のように思われるケースがことが多いんですよ 私これ非常に納得がいかなくて
いやいやいや私と私の兄弟はほとんど同じように育っているぞと ただ見た目に大きな違いがあるかもしれないが
しかもそのように兄弟も思っているらしいんですけども 私には育て方にそんなに違いがあったようには見えないんですよ
でも主観的にはそうじゃないらしいんですよ 私の兄弟に寄せれば私の親は酷いんですよ
そして私に対しては甘かったんですよ そう見えるんだと思うんですよ
でも私にはやっぱり私が甘く育てられたから 私が優遇されていたからそう思うのかもしれないんですけど
私にはどういうふうに見てもそうは見えないんですよ 大して違わなかったように見えます正直言って
でも受け止め方は全く違うんですよね こういうケースはどうなるんだろうと
私は私と私の兄弟においてですね 咲く咲かないは論外だと思うんですね
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多分 私が咲いているという言い方をする人もいるんでしょうけど
私はそうは感じないし そんなことはちっとも大事なことだとも思えないんですね
私は私がその兄弟と喋っているときはすごい楽しいと思うし あれでなぜいけないのかと思っちゃうんですよね
その咲く咲かないに 対する価値の置き方が過剰だと思いますね
そういうのって
だから 不遇というのもまたですね
うちのその兄弟に寄せれば自分の環境はすこぶる不遇だったことになる
私にはそれは到底同意できないんだけれども この場合の不遇はとても主観的なものがむしろ大事なんだとは思うんですね
じゃあでもですね その不遇な環境から移れたかというと
移れたとは思えないんですよね本当に どうすれば移れたんだろうってむしろ思ってしまうんですよ
うちの親が毒親だったとして私には全くそうじゃないんだけど つまり毒親というのは主観的な成分を含むと思うんですが
だったとしてじゃあ親をどうやって取り替えるんだと おじいちゃん家に行ったら良かったのかと
良かったのかもしれませんよそれはわからないです おじいちゃんおばあちゃん優しかったですしね
でもじゃあおじいちゃん家に行くというのは現実的な選択だったかなと よっぽどね親がね毎日なんか毒入りのキノコを食べさせるとかだったら
それは連れて出て行ったっていうことも考えなくはないですけど そういうんじゃないですからね少なくとも
目に見えるひどいことっていうのはなかったし 私からすれば目に見えないひどいことも一切なかったんですよ
でも目に見えないひどいことが山のようにあったという主張もあるんですよ こうなってくると
何を持ってどういう基準で移動した方がいいのかその場にいた方がいいのか ここに咲く咲かないを絡めるのは本当に
なんかナンセンスな感じがしますね 咲けなかったから不遇だったみたいな
そうしたらもうなんか救いようがない感じがするんですよね 映っていたら咲けたのかよっていう話になりかねない
咲くって何なんだよっていうことにもなりかねないと思うんです
もう一つあってですね だから抗議が必要だってやつですよね
これですね私これもこれで過酷だと思うんですよ 結局その逃げ出すというのもいいと思うんですよ
怒りを示すというのも悪くないと思うんですね 自由ですから360度開かれている
私はその怒れないって問題が昔からありましてこの問題何度も言及しているかな 多分私で怒れないということと
人にフランクに打ち解けられないということと 大学時代やだらと彼女が欲しかったということが僕の心の中で多分
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極めて深い関係にあると思っているんですね そしてつまり私は分裂的だと思ってるんですけど
この話を解きほぐすために精神分裂が必要だったんですけど この話を長々としてきたんで散々またそのうちすると思いますが
もっとコンパクトにしないとあれなんですがね あの
怒れないんですよとにかく だってですねうちの親は私はさっきも言いましたがさほど強権的だったと思いませんが
真剣にめちゃくちゃ怒られている時に怒り返すってできるようになったのは大学生あたりですよ 私の場合は
私はさして気が強くなかったということはまあ同じだな結局怒れないとそういうことであって
怒れないんですよね 怒ることも必要だという言い方は私はとっても不思議な気がするんです
それは何かですね怒るということが非常に簡単に選択できる選択肢の一つみたいに見えるんですよ
さっき私言いましたがいじめにあっていた頃があったんですけど 怒れるぐらいならいじめに合わないんじゃないですかね
そうじゃないんだろうか 私あの時に単純にですよ怖くて怒れませんでした
それ以上言うべきことがないんですよこれを言うのもそもそも今ではもうなんてことは ないですけど当時だったら恥ずかしくてこれ言えなかったと思いますね
ここに逃げるのが難しい怒るのが難しいって問題があるような気がするんです ウッドワイブスが私は読んだ時に強い安心感があったのは
怒りを封印するとこれ非常に私にとっては あのなんてリアリティがあったんですよ
怒れもしないのに怒るという選択肢がしかもそれが必要だということになってくると とてもそのことで罪悪感を抱くっていう心理ってあると思うんですね
例えばこう昨日もありましたけれども野党の 立憲民主党の当初が怒っていたじゃないですか
パフォーマンスなんだと思うんですけどね彼強そうだと思うんですよ 私は
弱者のためにっていう話だけど彼自身を決して弱者には見えないんですね あれができる人ってすごいなと思うんですよ
でも私あれやれって言われるとめちゃくちゃ困っちゃうんですよ だって自分が強い側にもいないのに少なくとも強い方に向かって怒るわけでしょう
君たちはどう生きるかという漫画があるじゃないですか漫画じゃなくて現状もあるんです けど
あれは私大変正直苦手な作品ででしてその怒れる状況にある人が怒るということを 称賛されているっていうのは私のような人間にとってはですね
コンプレックスをひたすら刺激されるんですよね つまりお前は気が小さくて勇気がなくてダメな奴なんだぞっていうことを繰り返し言われてる
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ような気がするんですよ でもなんか納得がいかなかったんですよ
現実っていうのは決してああいうふうには展開しない気がするんですね わかりませんけどこれもまた現実がどう展開するかって本当わからないんでやって
みないとやってみないとわかんないんですけどやってみることができないんですよ この逃げるとねちょっと似てる気がするんですよね
あてが必要だと思うんですよ 怒った後にどうなるのかのあてが
だっていじめてる来てる子に対してやたら怒ってあの帰り討ちにあってめちゃくちゃ 殴られたらもうどうしようもなくないですかね私はそう思ったんですよ端的に
どうしようもなくなるじゃんそれじゃとどうしてくれるんだ 怒ったとして
怒ったことによって事態が好転すればいいですよ 事態が一層悪化したらどうしてくれるんだと誰かそのその時には何とかしてくれるんだろう
やっぱこう考えますよね 情けないと思われるかもしれないけどこう考えるわけですよ
先のこと考えずにはいられないですよねそういう状況にあったら この先のこと考えるというのが多分私なんかのケースでは考えすぎで先のこと先のこと先の
こと考えるから何もできなくなってしまうんですけれども とはいえあの時の自分にですね何回やり直しさせても逃げるは選択できたかもしれません
でも怒るは選択できた気がしません だからえっとですねあの怒りを手放すっていうのは私にとっては
その方がまだやれる気がするってのがあったんですよね 怒り手放すのも簡単ではないですよあの状況ではね
でも 怒る
勇気を示せってやつですよね それは無理だなって感じがしますあの最近すごい悲しが飛ぶようなんですけど
うちの娘が体育なわけですよ体育苦手なのね 他はまあなんてことないですよただ体育が苦手だと
で私はいやいいじゃん体育ぐらい苦手の方がいいよって言うん言うんですよ でもねやっぱり子供ってなそうじゃないんですよね
飛べって言われれば 人並みには飛んで見せたいと自分ができる方ではないのはわかってるが人並みには
飛んで見せたいとこういうことになってしまいますよね 飛べない食ってもいいじゃん飛べない方がいいぐらい私は本当にそう思うんだけど
全部20丸であるよりは1個ぐらい丸とか三角の方が良くないかって思うんですよ ところがまあやっぱりそうは思わない
だから何とか頑張って6弾を飛んで見せたいと みんな少なくとも5弾は飛んでるからやっぱり5弾は飛んで見せたいと
ところが飛べないと理由簡単ですよね 飛び箱飛ぶのは勇気がいりますよね
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この日ではない勇気がいりますよね いじめられっ子がいじめっ子に対して怒りを示すっていうのは
で飛び箱を飛ぶのだってですね私飛び箱飛び損ねって手くじいたことがあるんですけどね あの要するにある勇気の問題なんですけど
あれが難しいんですよ大変ね 飛べるんですよ私は6弾まで飛べてるんで手くじいた時は5弾だったんですけど
でくじいてから3弾飛ぶのにえらい苦労するようになったんですよ そういうもんなんですよね
で
怒りを手放すということあるいはそうですね怒りを手放すということ つまり置かれた場所から動けませんという時
に
そこでですねなんかこう 嫌われる勇気じゃないですけど勇気発揮しろっていうのは
勇気発揮していいんだよって言われるのは 結構過酷ですよね私はそれがそのアドバイスが悪いとは思わないんですが
そのアドバイスがえっと置かれた場所で咲かせなさいが過酷であるから するんだっていう言い方は私にはなんかですね借銭としないんですよね
少なくとも同じぐらいは過酷だと思うんですよ 逃げるのも怒るのも
咲かせるのもですね で
咲かなくても良くて逃げるのはできればにして 怒るのは手放す
これが私はリアルだなと思ったんですね 怒りを手放すことが
これもまあ容易じゃないですけどできればですね その分は苦しむ分は苦しみが減るんですよね
で逃げ出すという選択肢はとっといて あるものとして逃げ出す算段を考えながら逃げ出す作戦を考える
でもその場でなんとかこうその場で自分はこう 罪悪感を持たないこれを持つんですよ
だって怒れないとかになると罪悪感を持つじゃないですか だから怒りを手放すってのもそうだし
相手が 必ずしも悪いわけじゃないっていう少なくともその悪いっていう部分を手放す
ってことによって 怒らなきゃいけないとかこのいじめられているのを
防がなきゃいけないとか自分のためにね あの守んなきゃいけないとかから解放されないと
いけなくはないですけどそういう選択肢が欲しかったんですよね それはとってもリアルに役に立つと思うんですよ
事態は改善されないかもしれませんが少なくともそういうことによってですね 自分が何かをしなきゃいけない
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その何にも出来もしないのにしなきゃいけないことが追加されないっていうのが 大きい
かなと思います 自分はそういうことを考えていた気がしますね非常に考えていた気がします
やっぱりこう罰するとかそんなことができるぐらいだったら苦労はしないんですよ 逃げ出すこともままならなかったのに罰するなんて
どうやったって無理ですよ だから
怒るっていうのもその分結局こう 怒りを抱えていて
行かれないそうするといずれ状況が悪くなれば悪くなるほど自分責めるようになりますよね これもなくて済むじゃないですか
この辺かなという感じがしますこの辺をですね今私は自分の兄弟にものすごく緩やかに 伝えているわけですね
つまり
親は
美容によっては毒親だったのかもしれないか なんて言うんですかねそういう不遇な目にあった
自分の状況というものの不公平さを この不公平さをどうしてくれるんだって思う限り
その時間が長くなるので苦しみが増すばかりじゃないですか だから結局その苦しみっていうものは打ち切るためには
この不平等というものの 不平等は
少なくとも今はもうその時間で累積されるようなものでないっていうことにしちゃわないと してしまえば
そこから 一気に好転し得る
って思えないと 辛いよねっていうことなんですだって8
なんて言うんですかね 本来のあるべき姿に直すっていう作業はできないわけですからもはや
で多分最初からできなかったと思うんですよねそのようなこと そして果たしてそんなものがあるのかどうかも本当疑わしいんですよ
私の目には同じようには見えてないだけでもですね 8あんたのものの見方が間違ってるんだと
仮に私のものの見方が間違っていてうちの部屋はどこやだったということにしたとしてもですね それでも自体は少しも回転する気がしないんですよね
これが私は罰するということがすごい虚しいっていう意味の正体の なんじゃないかなぁと
最近は思うんですね だから置かれた場所で咲かせなさいというのは
1個だけ取り除けば悪くないメッセージじゃないかと思うんですよね 咲かせなさいをなくしちゃえばいいと思うんですよ
咲かなくてもすでに咲いている人と全く変わらないっていうふうに思えればいいと思うん ですよ
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ただ本読んでないですから私は実は中ではそういうふうに書いてあるのかもしれないし プラスですねタイトルだけなんで私が知ってるのは
その上 置かれた場所で咲かせなさいならまああれぐらい売れるかもしれませんけど置かれた場所で
大丈夫ですとかいうわけのわかんないタイトルでは咲かなくてもいいんですとかで多分全く 売れないのでそういうことは別途ありますね