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おはようございます。働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト、第1087回をお送りします。
リテイクしない。11月12日火曜日、7時33分です。
今日はゴミ出しで中断するので、どこかで分断するか、そこをつなぐかは流れに任せようと思っています。
引き続きお知らせで、もう間もなくだからね。11月17日、つまり今週の日曜日ですね。あるいは来週の日曜というべきなのかな。
週末ですね。渋谷でダスク種と手帳術の会を開催します。
こちら、申し込み後、多分何名か。リアルの会場では。オンラインでは無限なので、オンラインはいくらでも大丈夫です。
オフラインは上限はありますが、多分上限に達したことは実質ありませんので、遠慮なくどしどしご応募ください。
まあね、多少でも紙の手帳が少しは好きとかじゃないと、ある意味面白くないかもしれませんが、ダスク種類に興味があれば大丈夫だと思うんですけど、どっちかがないと。
紙の手帳に興味ないし、ダスク種類にも興味がありませんって人がいらっしゃってもつまらないと思うんですけど。
まあその後、懇親会はありますから。こちらの渋谷の上手いところを見つけたので、席は大丈夫なんですよ。多分、絶対。
だから渋谷で、日曜日に懇親したいという方もぜひ遊びに来ていただければと思います。
では、本題とかでは、しかもこれが断続しちゃう気がするんですけれども、
私のこれですね、なぜ精神分析ではないのかというのを、これは基礎中の基礎なんですけど、当たり前なんですが、
多分でもね、これを聞いた瞬間に当たり前だと思う人は、実は日本ではマイノリティ中のマイノリティだと思いますから、
説明しておく必要は本当あるんですよね。ということでちょっと説明しますと、精神分析というのは、
この番組を初めて聞きましたって人にはちょっとここから分かりにくくなって恐縮ですけど、精神分析というのは、
何と言うべきですか、精神分析家と言われる心理療法家がですね、
自分を相手の夢の素材として差し出すことによって始まる心理療法、カウンセリングなんだと思うんですね。
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明らかに僕はそれをやっておりませんし、やることができるはずもなく、やる気もないので、それはしません。
これあれですよ、正しい知識として聞かないでくださいね。僕の考え方、一つの感想とか意見みたいなもんだと思って聞いていただくとちょうどいいと。
私が例えば療法家である場合、いろんな療法があるわけですよ。人生相談みたいなものもあるし、占いだってそうだし、もちろんCBT、コグニティブビヘイビオラルセラピーですね。
つまり認知行動療法。この中には2つポイントあって、認知療法と行動療法。その他今もスキーマ療法とか、いろいろあります。アドラーノもありますね。
全部違うんですよ、基本的には。どれも僕はそれなりにもっともだと思うし、例えばロジャーズ派とかね。もっともだと思うし、全部足すんですよ。
ユング心理学も当然ありますね。ユングは精神分析に相当近いとは思うんですけどね。全部混ざってるという心理カウンセリングも今では非常に多いんです。ただ混ざれば、その中には究極的には同じ方向を向くにしても、
一時的にはベクトルがほぼ真逆向いてたり、互いに打ち消しあったり同じか。そういうことが起きるはずだという気はしますよね。中でもこの精神分析というのは至って特殊で、相手の夢に入り込むというのかな。
相手に夢の素材として自分を使ってもらう。そんな感じのものだと思うんですね。これを理解するのがややこしいということであれば、まず真っ先にマトリックスを思い出すべきだと思うんですね。
マトリックスを思い出しましょう。この世界に生きるということは、仮想現実を生きているようなもんだと。人間の大のデカいんで、現実を見ているようで、現実に大量の意味付け、大量の投影、大量の色付け、大量のドラマタイズをしてしまい、シナリオを描くし、思惑あるしで。
そして記憶がなんといってもデカいですよね。記憶というものを持っている。だから、我々は現実を見ていても、現実は素材にしちゃっていて、現実という仮想現実を生きているような生き方をしているんですよね。
この辺のことをすっごくしつこくおっしゃってたのが、多分おっしゃってたことはないね、言ってたのがウィニコット、ドナルド・ウィニコットって人なんですよ。まあ、でもフロイトが言っていることも、要するにそういうことなんですよ。これを治療室で特に作り出すのを定義という話で、ここのところをわりとホットに話題にしているテーマなんですね。
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変異を扱うということが精神分析なんだとフロイトは書いてるわけです。ってことは、やっぱり自分を夢の素材にするわけですよ。マドリックスを思い出してくださいね。マドリックスが治療状況です。治療状況という夢をまず見る装置をガチャンと繋がれたようなもので、繋がなくてもそうなるんだけど、そういう装置を繋がれたとしましょう。
私は夢の中に入ってます。ここにフロイトという人がやってくるわけですよ。夢の中に。そして治療を始めるんですよ。この構造があるから、精神分析は人生相談だとはとても言えないわけです。だって相手の夢の中に入っちゃってますから、すでに。
で、そのシナリオの1登場人物に過ぎないフロイトが、そのシナリオについて外からああだこうだ言うっていうのは、すでに矛盾が生じてしまってるわけです。この夢は、この夢はっていう言い方をするなら、多少ともそうなんですよ。
だから解釈って実は、あなたの見ているこの夢はこういう夢がありますと、夢の中の登場人物が夢の中で喋ってるような、そういう感じになると思うんですね。だからその夢から覚めていない、精神分析受けてるという自体はずっとその夢から覚めていないので、だからキャンセルしてもキャンセル量を取られるんですよ。
キャンセルしたというのは現実の行為だとは見なされてないんですね。精神分析の世界である意味。キャンセルもまた夢のうちなんですよ。だからキャンセルをしますという夢を見る。とはいえ、その間、精神分析家はその夢の中に登場させられておりますので、その登場料金なので、
キャンセルをしたとかキャンセルをしないとか、来ましたとか来なかったというのも、全部夢の一部と見なされる以上、その代金が払わないで済むっていう。払わないで済むってことは、この夢自体をキャンセルしたってことになるじゃないですか。
ということは夢から覚めましたということで、この精神分析は終了するわけですね、そこで。これがすっぽかしてもキャンセル量、すっぽかしても代金払わなきゃならないと。極論、そこに精神分析家が来なくても払わなきゃならないと。実際そうはならないですけどね。
という当て付けというか、ルールなんですよ。ここのところを意識しないと話が意味不明になるし、その上、私がやってるこれとか人生相談とかカウンセリングと精神分析というのが混同されてしまうんですね。混同できるはずがない。
これは精神分析的治療とかを僕はやってないわけです。精神分析は勿論のこと。なぜならば、これは精神分析というルールに則ってないからなんですよ。で、この次に問うべきは、その方法って本当に絶対有効なわけっていう問いなんですよ。
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これはもう精神分析の方で、わからんみたいな答えが、わからんとは言わないけど、みんな何か効果はあるんですって書いてあるけど、どんな良いことがあるんですとは書いてないです。だからここはもうある意味、昔の江戸時代のね、江戸時代の商売に台は見てのお戻りしろっていうのかなあれはね。
あのそういう料金は気に食わなければお返しますよみたいな、そうはしかも言わないのが精神分析なんで、難しいところはありますよね。ただ面白い試みだという意識はあっていいと思うんですよね。
それを受けるのは日本では今難しいかもしれませんけれども、いずれにしても夢に出てくる素材として夢を解釈してくれる人を一人雇うって感じなんですよ。
これはもう秘書みたいなある意味ものなので、それもおかしな言い方だけど、精神分析のセッションのための金額ではないってことになってるんですよ、あれは。
だから毎日やるとか、毎日やらないにしても週に5日も4日もやるとか、そういうもうささましいことになってるわけですね。現実を夢で塗りつぶすみたいな感じですよ。
明石部ってあるじゃないですか。夢見ながら夢見ていることに気づく。まさにその状態を現実に起きたまま実現しようというような話でもあるわけ。
しかもそいつを治療に生かそうという話なわけですよ。だから精神分析の世界からしてみれば明石部なんてある意味当たり前の話なのかもしれないんですよね。
実際その夢を見ている中で自分の見た夢についての報告をするっていうようなフェーズまで出てくるわけですよ。でもややこしいところがあるんですよね。
はい、すみません。今ちょっと中断したんですけどね。こういうルールになっている治療をやっているとですね。
基本的に普通に考えると2人の人間が治療室にいてもそれぞれ別々の心を一人一人が脳内だか胸の奥の方に宿していて、ハートのマークを人型の絵の中に描くじゃないですか。
で、別々のことを考えている。この種の人間観っていうのか、心身観、身体と心の関係の構図って近代になってものすごく急速に伸びましたよ。
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スタンダードアルの赤と黒にもそういうシーン出てきますよね。4人だか5人だか家族だかが食卓を囲んでるんだけど、
生命が考えているものがいちいち異なっている。あれの究極形みたいなのを示したのがユリシーズっていう新しい本ですよ。
名前をど忘れするな、本当に恐ろしい。ジェームズ・ジョイスが書いたやつだと思うんだけど、とにかく主観というものが脳の中にある。身体の中にある。
もうマトリックスからほど遠いわけですよ。マトリックスってみんなが同じものにつながってるから、同じ仮想現実見てるじゃないですか。あれに近いと思うんですよね。
あれに近いのが精神分析。2人が1つの夢の中にいるんですよ。2人が1つの心の中にいる。
望ましいのは患者の心の中にいる。クライアントの心の中にいるってことですね。精神分析の治療室は患者の心になってしまって。
その中に精神分析科という人が登場人物として役割を与えられて、そこに入室してくださいっていう。だから入ってるの患者さんなんだけどね。形が逆になってるわけですよね。
この特殊形式が大事なんですよ。胸の中にハートがあるじゃないですか。ハートの中に2人がいるんですよ。愛で結ばれてるって話ではないですけどね。
ハートの中に2人が1つの心の中にいる。これが定義ですよね。だから中心はもう理想的にはってことだと思うんですけど、クライアントの脳内とかに中心はないんですよ。
部屋の中に中心があるわけですね。その中に2人の人間が入ってる。1人は特に素材としてこの中に登場させられている。それが治療者、精神分析科ですね。部屋が1つの夢空間なわけですよ。
なんかちょっとディズニーランドってそんな感じありません?みんなが夢の中の世界を行っている。
そこに来ているお客さんは夢の中の登場人物である。他の人にとって見ればっていう話で。なんかそういう感じの世界。
その中でクライアントさんには特に特有の老いたちとかがあるんで、夢を見がちである。
だからその夢を見ている中の登場人物である分析科は、特定の役割を特にある種のクライアントさんには振られがちなわけですよ。
悪害者であったり、いじめっ子であったりするわけですよ。何にもその人は私はここではこういうことをやりますとか言わないんですよ、精神分析科っていう人たちは。
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なるべくどんな役でもこなせるようになってるんで、私はあなたのお父さんですとかお母さんですとかお兄さんですとか上司ですとか一切ないんですよ。
だからこそ何にでも慣れてしまうわけですね。何にでもさせられる。しかも来る回が違うと別の役を平気で振られるわけです。
理想の恋人であったり、最悪の恋人であったり、愛人であったり、最悪の愛人であったりするわけですよ。それが非常に大事なんですよね。
ここでやるのがシミュレーションだとか演劇だというわけですらないんですよ。夢なんですよね。夢イコール演劇じゃないじゃないですか。夢っていうのはもっと知り滅レスなものであっていいわけですから。
すごくシナリオライクになってる場合もあるでしょ。だからエナクメントみたいな言い方をするケースもあるんでしょうけど、全然そうじゃない場合もあると思うんですよ。自由連想だから。
もうしっちゃかめっちゃかな劇にはなってないというケースがあるわけですよね。そこのところでいろんなこれについて断片的な情報しか、まとまった情報っていうのは分析家にでもならない限り、もしかするとなっても手に入らないので、断片的な情報が山のように入ってきて精神分析は大量の誤解にまみれていくんですよ。
これもまた精神分析的ってことなのかもしれないですよね。いずれにしてもいろんな誤解がありますよ。一番有名なのが多分無意識を意識化すればいいんだ、説。
あれって、つまりあたかも分析家という人が文字通り本当に分析家になっていて、外科でもやるみたいな感じで、その人の無意識というものを分析して、それを言語化することによって患者が気づきを得て治るみたいな。全然違うじゃないですか。
そうじゃないですよ。2人が一緒に一つの夢を見て、その夢がこういう夢を今あなたは見ています、こういう夢を見ています、その憎しみはこういう夢だと私は思いますと、夢の中の登場人物が言ってるだけなんですよ。それは分析でも何でもない。まして正確な解釈とかを施してるわけでは全然ない。
正確であるに越したことはないんだけど、正確であるというものを何も担保してないじゃないですか、この構造は別に。その人の主観を内側から勝手に、いや内側ですらないですよね。外側から内側であるかのような風を装って、ある意味勝手なことを喋ってるだけなわけですよね。
だから言語化とか無意識の言語化とか、そういうことも起こるでしょうけど、やってるうちに。でも無意識の言語化が治療の効果を持ってるという話はどこにもないわけですよ、この話は。
一生心理学的な話をしていると多分ダメだってことですね。その人の無意識を、患者の無意識を外側から扱っているかのような顔をするのは全て嘘だということです。一緒に一つの心の中に入ってるっていうその構造自体が大事なんで、だから構造を言うんでしょうね。
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他にもよくありがちな誤解として、人生相談であるっていう誤解も当然ナンセンスですよね。当然ナンセンス。会社の上司がとか言ってる話だってそれは夢とみなされてるわけですから、リアルに上司がいるかいないかすら本当は関係ないわけですよ。
あとそうそう、トラウマを引っ張り出す説、あれも嘘ですね。そういうことは起こると思いますよ、当然ね。だけど、それはあなたのトラウマです。
昔なんかね、近所のお兄さんに同行交互、それはあなたのトラウマですから、一緒にその大変な目にあったのも寄り添って一緒に修正浄土体験的に、私がついてますから一緒にそれを意識できるようになって、やっぱり意識家なんだよな。
あるいはそんな酷い目にあったんだったらそういう風になっても、まあこういう話もするとは思うんだけど、でもですね、そういう目に本当にあったかどうかということをここでは全く吟味してないわけですよ。裁判やってるわけじゃないんで、事実そうだったんであろうかっていう話してないんですよ。
こういうことを思い出しましたって言っても、それはエリザベス・ロフタスですね。ロフタスが激しく精神分析を攻撃しましたね。そんなこと起きてないじゃないか。偽の記憶は植え付けられるんだと。いいんですよ、そんなことは別に。だって記憶が本当かどうかを問題にしてませんから。夢なんで。
夢の中で俺こんなことがあったの思い出したわみたいなことを夢の中で言ってたってそんなことなかったかもしれないですか。大事なのはそういうことではないんですよ。その夢をどういう風に内側から起きたまま見て解釈されるかということをどう体験するかって話をしてるのであって、その夢の中で思い出したことが事実でありますとかないですとか、トラウマになりましたとか、そのトラウマ本当にあったんでしょうかとかいう話はしてないんですよね、そこでは。
だからこれ誤解なんですよ。こういう誤解が満載になっていきます。何やってるのかわかんないから。明らかにもしてないし、公にもしてるとは言い切れないんでね。書いてありますけど、フロイトの本とか読めば、ビオンの本とか読めば。でもわかるように書いてないんでよくわかんないんですよ、結局。
まあこれに保険つけるかどうかが議論になるのは当然だとは思いますね。保険つけられるかこれにって話ありますよね。これに保険適用できるかと。国民がこれをみんなでこれやるべきかどうかを納得し、お金を共同で支払うという発想になるでしょうかっていう難しさありますね。
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まあマトリックスの世界体験を保険かけられるかどうかみたいな国民健康保険。そう考えると微妙さが感じられるじゃないですか。やりたい人がやればみたいな感じがしますよね。やりたい人がやればって感じが精神分析ってすっごいするんですよ。だんだんだんだん事情を明らかにしていくとですね。
だからやりたい人がやっていて、やりたい人が激減しているから、今ではもうどこに行けばそれができるのかがよくわからなくなっているわけです。年間パスポートでディズニーランド行くんだったらどっこいどっこいの値段なんじゃないかとは思う。それは富裕層向けではありますけどね、確かに。
まあそういうようなところがあって、で私は当然これはやってません。やってるわけがないですよ。できるとも思えないし。そもそもオンラインでやるもんではないです。
一つの空間を共有して、その空間はクライアントの望ましくはクライアントの夢空間であり、しかしおそらく登場させられている。だからあれなんですよ。この中で夢に白心線を持たせるためにも、やっぱり罵られた分析家は怒る必要があるわけですよ。腹を立てる必要がある。
怒りを表出しなくていいと思うんですけど、あなたは信用ならないとか先生はダメだって言われると傷つくし腹も立つんです。なぜならそれは白心の演技みたいなものでなければダメだからですね。夢の中では夢であることを完全に意識してちゃダメなんですよ。
だけれども夢なんですよ。それはやっぱり本当に心の底から腹を立てたとしても怒鳴り返すとかじゃないんですよね。やっぱりあなたは今私が信用できないんですねと怒りを込めて拝借するみたいな話になってくる。まあ怒りは込めなくてもいいのかもしれませんけどね。いずれにしても夢の登場人物としてふさわしい振る舞いはしなきゃダメだと思うんですよ。
ただし夢の登場人物であるだけでもいけないんですよ。やっぱりプレイングマネージャーなんですよね。これはあくまでも夢ですというのを踏み外してはいけないってことなんですよ。本当に上司がダメですって言ってもその上司のところに行ってじゃあ私が抗議してあげましょうとはダメなんですよ。それは現実の夢を混同しちゃってるんで。
ある意味ではその分析家が一緒に精神病になっちゃったようなものなんですよ。無有病というのはやっぱりいけないわけです。現実見当は持ってなきゃいけない。でも夢も見られなきゃいけない。かつ夢に登場もできなきゃいけない。しかも相手の見ているであろう夢を解釈までしなきゃいけない。まあこれは専門家がやることですよね。確かに。
で、この続きが僕はあると思うんです。僕らが一旦この観点をしかし取り入れたり手にすることはできると思うんですよ。私は夢を見てるんだと起きてるけど。この観点も入れられると思うんですよ。マトリックスの映画を見たってできると思うんですよね。ある程度。
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そしてここでひどい目にあっている。これはつまり白外が夢に挿入されてきたってことじゃないですか。ここが僕は最大のポイントだと思ってます。
罪悪感だろうと、罪悪感を持とうが、白外にあおうが一緒だと思うんですよね。この話はよくグッドバイブスに馴染んでる人は、倉園さんの言ってることと同じじゃんって思われると思う。倉園恵都さんのおっしゃってることと同じじゃんって思われると思うんですけど。そう同じになりますよね。
この現実という知覚が夢であるならば、いやー悪いことしたなという気持ちを外から押し付けられてると言ったっておかしくはないわけですよ。悪いことをしたなという気持ちを夢の中で見てるのであれば、その夢世界そのものにおける出来事は全部ある意味自分の心の出来事なわけですから、
罪悪感を、その夢の中で罪悪感を感じようが、その夢の中で人に白外されようが、結局は同じことだ。嫌な気持ちを押し付けられているという点では変わらないわけですよ。
で、とっても私たちは自己愛的なところがありますから、罪悪感を持ってたってどっかそれは現実が悪いと思ってるわけですよ。私が悪いって言ったって、私という現実が悪いんですよ。これを今のような説明をするよりも、丸ごと夢ですと考えてしまった方がある意味分かりやすいと思うんですよね。丸ごと夢です。
奥さんが不機嫌です。これに対して、本当に奥さんは不機嫌さえコントロールできなくて悪い奥さんだって思っても、なんか私悪いことしたのかなと、奥さんの機嫌直さなくちゃと思っても同じことなんですよ。夢なんで。それが夢だと思ったら同じことじゃないですか。
夢の中の奥さんの機嫌を良くしたっていいし、夢の中の奥さんを罵倒したっていいし、夢の中で懺悔したっていいし、あとはもうある意味好きにすればいいわけですよ。それが夢だということに確信を得ることができたら。で、起きているのに夢だということ言えないじゃんって言うかもしれないけど、夢であるというような、つまりそれがある種の意味付けであり解釈であるということが分かれば、同じことになると思うんですよね。
罪悪感などというものは現実のものではないです。不機嫌などというのも現実のものではないわけですから。ただそこに現実としてあるものに何の意味もつかなければ、ほぼ罪悪感とか不機嫌といったものは消滅してしまうと思うんですね。
でも消せないと。消せないんだったらそれは夢を見ているんですよ。で、夢を見ているんだったら、罪悪感を持とうが、相手が不機嫌だから他責しようが一緒なんですよ。自分の夢なんだから。その他責と言ってる相手のその他だって実は自分の心の中にあるわけですよ。
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これは他人がいないって意味じゃないですよ。心の中には他人という存在もあるってことですよね。むしろどっちかといえば。私たちは心の中にいるのであって、自分の中に心があるのではないのだから。っていう話をしてるわけです。
精神分析的に見るとそうなるわけです。マトリックスってそうです。マトリックスで敵を倒そうが、敵に倒されようが、敵が嫌な奴であろうが、同じじゃないですか。そこに敵はいないんだから。それは幻なわけですから。悪という幻を自分の心が見てるわけだから、その悪が自分の心の中のものだと考えようと、現実の敵だと考えようと同じことですよね。
それはどっちも同じです。夢です。夢の中に自分という対象が存在していようと、敵という対象が存在していようと、結局大きく見れば自分の心というものの中の何かですよね。同じことです。
そこに過去を掘り出すとか、真相真理を見るとかは関係ない。大事なのはそこに夢を見てるってことです。今夢を見ている。どういう構造になっているかとかは、この際大した問題じゃないってことですよね。
いずれにしても、ただ私たちはまず考えなきゃいけないのは、嫌なことがあります。この嫌なことというのが心の中のことであるならば、嫌なことって心の中のことですよね。嫌なことって現実に宙に浮いてたりはしないじゃないですか。必ず何かに対して嫌なことというラベルをつけるわけです。
このラベルが心の機能であるならば、これは現実の側にあるように思っても、自分の側にあるように思っても同じことです。あとはこれが迫害的にある程度感じられているという事実を意識できればとりあえずいいと思うんですよ。
罪悪感というものが押し付けられたような感じがすると。どうして罪悪感というものを押し付けられるんだろうと、自分は。そういうふうに感じやすい心なのかもしれないし、こういう出来事を、それに近い出来事、何かの出来事があったんでしょう、現実界において。
それは見えませんけど直接に。現実界の出来事に対して自分がそういう投影ですね、そういうお絵描き、そういう演出をしたいのかもしれないし、あるいは自分はもうこの現実というものから引きこもりたいのかもしれないし。
あるいは自分はその現実というものを攻撃したいんだけど、攻撃するとこの装置に対して何かダメージを与えるかもしれないから、それが恐ろしいのかもしれないし。
あるいは昔、自分の経験した出来事の中において、それもまた夢の一つなんですが、素材の一つなんですが、出来事の中において、相手が自分の夢というものに対して何か悪い色塗りをしたがっていたのかもしれないし、これは虐待に近い現象について一応僕なりに喋ってみているというだけですけどね。
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こういったいろんな私が見る夢についての私の描き方の作り出し方の、その夢の夢見方の修正とか癖のようなものが、しかもそれは夢を見るたびに微妙に変わっていくんですよ。
こいつを、あなたはこういう夢の見方をする習性がありますね。今はこういう夢の見方をしたいんですねって、夢の内側からいちいち言ってくる奴がいるということが、いい夢の見方をするというのか、現実的な夢の見方をするのの助けになるという考え方に基づいているんだと思うんです。
僕らはそれ自体はできないので、これについて語ると。そういうやり方がこの世の中にあって有効らしいよっていう話をお互いにすると。そのうちにいろんなことを思い出したり、いろんな心当たりみたいなものを、つまり夢の尻尾を捕まえることができつつあるようになると。
これを実験的にやり続けていったら、少なくとも働くってことについて、あるいは家庭生活ってことについて少しは楽になれるんじゃないかと。なぜならそれが夢だというものの尻尾を掴めば掴むほどですね、現実にはそんな上にあっていないって、これはどっちにしたって悪夢に過ぎない。
完全に覚めることはできないかもしれないっていうか、多分できないんですけど、美音の言い方を考えてみると、夢を見ている夢見る人と夢を解釈する夢見る人がいるって、結局お前ら二人とも夢見てるじゃんってことになってるんで、覚めてないわじゃんっていうことになるんだけど、でも夢を解釈する夢見る人の方が楽そうですよね、結局。なんだかんだ言ったって。
このことを踏まえればですね、仕事をするために朝起きるのが辛いですという夢、仕事に行って上司に迫害されますという夢、家に帰ってきたら帰ってきたで誰もいなくて寂しいですという夢、これらを解釈できる立場に立っている人の方が楽そうなんじゃないかと。
なぜならそれは、現実ほどの重みはどっちにしても持つ必要がないという話になっていくから。
これがどっかですね、なんていうのかな。
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その夢の中で、コンテイングとかコンテインっていう話を出してくるには、いよいよこの話をややこしくするようでもあるし、パーツパーツに分けられるから、パーツパーツではないのかもしれないけど、やっぱり対象ってのは夢の素材って意味だと思いますから、この場合は。
そういうふうにこの夢を見方についていろんな人の観点を見ていくくらいは夢をこういうふうに、こういうフレームで捉えます。
ミニコットだったらこういう言い方をします。
ビオンだったらこういう言い方をします。
それぞれの言い方の中にどれかについていくと、どれかにはついていきにくくなるんですけれども。
どれかの人の観点を採用することによって、ある種の夢見の収穫みたいなもの、癖みたいなものが捉えやすくなることは確かなんですよね。
ミニコット流に見ると寂しさと引きこもりっていう問題は捉えやすくなる。
で、クライン流に見ると悪いやつと悪害っていう話にはやっぱり捉えやすくなるっていうのがあるような気はするんですよ。
あるいは、ローゼンフェルドの自己愛みたいな、総敵防衛と自己愛みたいな見方をとると、
ある種の人の妙に急に元気がなくなったり、しょっちゅうお出かけしていたりする、ちょっとこうなんていうんですかね、
世の中を理想化してみたり、急に罪悪感に捉えられてみたり、その罪悪感によくこう、
罪悪感を持っている割には多発的だったりする人の傾向がローゼンフェルドだと見えやすくなる。
そういうことがあったりするんですよ。
この罪悪感を持つ割に多発的っていうのは、今では頻繁に見かけるので、おはや精神療法とかの対象ではないような気もしてくるんですけど、
このことと、だからあれですよね、接触障害なりの私癖的な話が、アディクション的な話が絡んでくると、
松木さんの本っていうのがすごいわかりやすくなるし、役に立つ感じっていうか、非常にありがたい感じがしてきたりもしますよね。
ここでやっぱり話題、中心に置きたいのが、その人が見ている夢のような現実、現実のような夢の中で、
自然災害では何であれ、非常に迫害的なものを意識させる。
なぜかその人の中ではそれが迫害的になって見えてくる。
これはトラウマってことでは必ずしもないし、家族利益がひどく悪くもないケースはあるんですよ、結構。
うちの肉親がまさにそうなんですよ、私の肉親が。
だって私と同じ家庭環境で育ってますから、私はあそこまで迫害的にものを見る必要性って感じないんですよ。
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一方で罪悪感がどこかしらに漂っている。どうせ私が悪いんだっていうような気持ちが漂っている。
なんだけど非常に多色的で、すべて親側みたいにもなる。
でもこの感覚っていうのが、夢を見ていて、この夢の中での悪い出来事がその人を苦しめていると考えると、とっても分かりやすいじゃないですか。
夢を見てるのは自分が悪いわけですよ、夢を見てるんだ。
だけれどもその夢の中で起きている出来事が現実の出来事である以上、すべては現実が悪いわけですよ。
現実が自分を攻撃してくる、それが大雨であれ大地震であれ、やっぱり現実が自分を攻撃しているように感じられるわけですよ。
これっておかしなことではないですよね。
差跡であるがすべては罪悪感みたいなのっておかしなことではないですよね。
罰したくなるのは両方同時にですよ。
この夢を罰したいという考え方はこの現実を罰したいということと全く同じじゃないですか。
この夢が悪いと言っているのと、現実が悪いと言っているのは全く同じじゃないですか。
夢を見ているのは自分だから、そういう意味では自分が悪いとも言えるし、夢そのものが現実だから、そういう意味では現実が悪いとも言えますよね。
言葉のかなり精神分析的な意味で、世の中に漂っている意味ではない、自己愛、ナルシシズム。
世の中ではナルシズムですけど、ナルシシズムというものがあるわけですよ。
だって現実が自分なんですから、まさにナルシシズムじゃないですか。
自他の区別というものがほとんどそこには全くないわけですよね。
だから見張られていると思ったら、何でもかんでも見張ってしまうわけですよ。
窓の向こうには人がいるわけですよ。
ウェブカメラの向こうには公安がいるわけですよ。
お前はそんな重要人物なのか、みたいなことを言っちゃいけないわけですよ。
夢なんで。夢である以上、ある意味全ては目なわけですよ。
あるいは白い目で見ているわけです。自分のこと。
みんなが自分に注目している。
そういう意味では、世の中の言う人の言うところのナルシスティックなんだけれども、そうではない。
これは夢と現実の区別がついていないと、ただし我々はほとんどついていない。
この種の人にとっては著しく極端についていないだけであって、
我々だって現実に夢を追っかぶせて現実を見ているに違いはないんですよね。
この話もしょっちゅうしてます。
だから精神病部分と非精神病部分なんですよ。
正気の部分と狂気の部分というのが、どっちがある程度活性化するかによっている。
正気と狂気というのは良くないんですよね。
夢見がちな部分と、これもうなんか変な意味になっちゃいますけどね、
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なるべく現実に合わせようとする部分と、
つまり夢の尻尾をやっぱりつかもうとどのぐらいしているかというところなんだと思います。