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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
もう何十度目かになるんですが、
えーと、
内的対照というやつをテーマにしたいんですけど、
なんかようやく、自分なりに、
一応概念的にはこうかなっていうのが、
見えてきた感じがするんでお話ししたいんですが、
要するに、よくわからん理屈なんですよ、あれは。
わかるような部分はいろいろあるんだけど、
こうですっていう定義がなされてなかったり、
なされていてもよくわからなかったり、
いきなり平気で使い出す、
無定義で、みたいな人もいるし、
その人の論文とかも全部読めば書いてあるのかもしれませんが、
はっきり言って、この対照関係論
って言うんですけども、
イギリスの方の精神分析、私が一番好きな方面の
人たちの本って、一応役はあるけど、
むちゃくちゃ高い上に、
よくわからん役である場合もあるというんですね。
むちゃくちゃ高いというのは、1冊1万円近いっていう本で、
しかも、買ってみるとさっぱり意味があったりすることも多々あるんで、
すごいギャンブルなんですよ。
しかも中古だったりしますからね。
全く人におすすめすることができないというね。
こういうものをかじりかじりなので、
いかに危うい仕事をしゃべっているかという、
聞いてる人が聞いていたら全然ダメなんだろうけど、
それはしょうがないんですよね。
僕は分析家じゃないんでね。
しかも、ちゃんと教えてくれる人がいないんですよ、これ。
日本でもこういう話をしている人って、
ごくわずかだし、
数人とかになっちゃう恐れがあるんですね。
アメリカではこの種の話をしている人はいません。
アメリカの精神分析というのは、
理論ではなくて自我心理学というふうに一般では考えられているやつで、
アンナフロイトを中心とした
すごい一大勢力だったから、
今でも大体そうなんですけど、
精神分析の話をしていてもですね、
ウィニコットとか、
ましてビオンとかオグデンとかいう話になってくると、
教科書の囲みにすら現れないみたいな、
さすがに人名として出てはくるんだけど、
出てこなくはないけど、
分かるような説明を受けた記憶は一切ないんですよ。
これは留学中に自我心理学、
自学心理学はもう山のように代わりに習います。
そのための授業が一つセットであるみたいな感じで、
これも考えてみると、
2000年より、
2002年よりも、
自学心理学はやっぱり
アメリカはすごく自学心理学が、
今は知りませんけど、
強力な勢力なので、
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私の指導教官も、
私の直接教えてくれた先生も、
その上の先生も、
みんな自学心理学でしたから、
そういうわけで、
いっぱい普通に習うんだけど、
そっちをいっぱい習っていると、
対象関係論がよけい分からなくなる感じがあります。
その中でも内的対象というのは、
対象関係論ではすごく中心に出てくるんですけど、
なんで私がこれにこんなにこだわっているんだろうなと思うと、
グッドバイブスの影響も多分にありつつ、
夫婦関係というものが、
これで相当いい説明ができるんだと、
私は思っています。
相当いい線、説明できるんだと。
なんとなくですね、
日本でアダルトチルドレンという言葉が流行っていて、
そっちで説明されているんだけど、
アダルトチルドレンとなってくると、
自我心理学とも少しずれるし、
間違いなく自我心理学だと思うんですけど、
少しずれるし、対象関係論から見ると、
かなり微妙な発想だし、
結局にはいまいち響かなかったということで、
結局対象関係論になったんですね。
一言では言えませんが、
多分こういうことだと思うんですよね。
僕の今納得している感じで言うと、
自我、要するに私ですよ。
私の一部が分裂する。
排除する。
排除するんだけども、自我なんで、一部なんで、
くっついているわけです。
卵の白身の一部が、揺れ卵の白身の一部が、
剥き方が悪いんで、
切れそうになったと考えていただくといいかなと思うんですよ。
切れそうになった部分、つまり切れているわけじゃないんですよ。
切れたらもう私じゃなくなるから。
私の一部なんだけど、切れそうになった部分があって、
この中にですね、
要するに切れそうになっているぐらいだから、
嫌な体験と関係があるんですね。
ここは話を分かりやすくするために、
単純に言っちゃいますけども、
嫌なところの中、その切れそうになった部分の一部が、
私の母親の嫌な部分。
すごい怒った時とか、
ありえないほど攻撃された記憶みたいなやつね。
これがあると。
それに対応する私が、
セットになってそこにあると。
つまり私の一部がですね、
一部が分裂して、
その分裂した一部がさらに2個に分かれている感じ。
私と私の母。
だから内的対称は2人なんですよ。
私の母だけが内的対称とか言うことはないわけですよね。
その内的対称が、
私の中で力を持つと。
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私は私の母と、
その私の母に怒られている私というものになっちゃう。
これが多分、
僕が考える内的対称というやつなんですね。
これを夫婦関係、
この内的対称を投影することがあるんですよ。
ものすごくしょっちゅう。
人に向かって投影するんですよ。
この方がやりやすいんですね。
その中だけで、
私の母と私自身になってみて、あれこれやると。
そういうこともあるけれども、
そういうことをわざわざやるエネルギー。
これそもそも嫌だから分割しているわけですから。
基本あまり思い出さないわけですよ。
分割排除という言い方をするんですけどね。
ゆで卵の一部が切れそうになっているみたいな。
全体でゆで卵は私なんですけど、
その時があるわけですね。
どういう時かというと、夫婦喧嘩している時とかなんですよ。
その時に怒っている奥さんに、
嫌だった時のお母さんを投影しちゃう。
その役を当てる、私が心の中で。
そして怒られている時の私に、私自身はなっちゃう。
そうすると何が起きるかというと、
ゆで卵の切れそうになっている部分は小さいので、
全体的に小さな自我で生きている感じになるんですね。
この夫婦喧嘩をやっている最中というのは、
残りの大きな部分があるわけじゃないですか。
残った部分。こっちがほとんど機能を停止するわけですよ。
だからすごい機能したくなるんですね。
簡単に言うと小さくなるし、
小さくなるというのは要するに脳の機能としてはですね、
はなはな脆弱になる感じがあるわけ。
しかもシチュエーションが悪いじゃないですか。
悪いシチュエーションだから、
何とかしなければいけないんだけど、
何とかする能力も低いわけですよ。
しかもこの切れそうになっているせいで、
他の残っている切れそうになっていないゆで卵のある意味、
大部分、本体のところは成長してきているわけですよね。
現実的にはいろんなことを経験して。
でも切れそうになっている方はある意味分割されて、
分割されて、解除されてきているから、
未熟なままなわけですね。
だから、自体としては悪化しているのに、
対象能力が下がっているという状態を招くんです。
これが多分内的対象論というやつなんじゃないのかな、
というふうに思うんです。
ここを簡単にするためにですね、
対抗とか言ったんですよ。
子供の頃に帰っちゃうんですよ、と。
でもこれ、子供の頃に帰っているわけじゃないんですよ。
どっちかっていうと、
未熟な部分が自分の中心にずれたみたいな感じで、
本体の部分がなくなったわけでもないんで、
これを対抗というのもわからなくはないんだけど、
全体としては別に対抗しているわけじゃなくて、
中心がずれたみたいな感じの話なんで、
対抗って言っちゃうのはどうなのかな、
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つまり子供が赤ちゃん帰りしましたよ、
いや、してはいないんだよ、というふうに思うんですよ。
対抗って言っちゃうのはどうなのかな、
赤ちゃん帰りしましたよ、
いや、してはいないんだよ、というふうに言いたくなるわけですよね。
しちゃったら、もう対応ができないじゃないですか。
ここで大事なのは、この卵の本体の方に中心を戻していくことであって、
対抗しちゃいました、みたいな話。
心の中に大人と子供がいるんですっていうのは、
比喩としては大変わかりやすいんだけれども、
ちょっと大雑把すぎるようなっていうのはやっぱりあります。
もう一つが、
対抗と全く同じような表現なんだけど、
アダルトチルドレンみたいな感じで、
チルドレンになっちゃってるんです。
あなたの心には小さなチルドレンがいます。
これインナーベイビーみたいな表現もするじゃないですか。
わからなくはないんですけど、これも。
これだとより一層、
じゃあどうすればいいのかがわからないというのと、
対象が出てこないんですよね。
いつでもどこでも小さな子供になるわけではないんですよ。
今言った通り、
悪いお母さんみたいな人が
登場するようなシチュエーションに入った時に、
決まってこのことが起こりやすくなるっていうのが
大事なんだと思うんですよね。
反復、脅迫的にですね。
繰り返し繰り返しこういう事態が発生すると。
でですね、
こういう風に考えてみると、
当然これをやるのは私だけではないわけですよね。
当然これをやるのは
奥さんの方もやるはずなんですよ。
奥さんの方がやっぱり内部に
同じ卵の割れ目みたいなのがあり、
その中に怒ったお母さんと
怒られた自分というのがいた場合、
これはですね、私がやったのと逆のやり方で
そういうやり方もできるんですよ。
自分怒ったお母さん役で、相手怒られている子供自分役
っていうこともできるんですよ。
この私がさっきやったやつも、
今奥さんがやってるという風に考えてるやつも
どっちもこれを投影同位使って言うんですよ。
つまり、昔自分が怒られたシチュエーションを
ここで再現するわけです。
再現するんです。
だから私は、当然怒られている子供役なので
口応えは許されないわけですよ。
相手からしてみればね。
怒ってるお母さんになっちゃってるわけですから。
さぞ嫌な経験だったんだと思うんですけども、
何か嫌なことが起きてるから夫婦で喧嘩してるわけだから、
この時、最も嫌だったやつは、
実は最も使い勝手がいいとも言えるんですね。
お前怒られた私役をやれっていうことなんですよ。
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ある意味オカルトみたいなことができるのかというと、
実に簡単にできるんですね。
これをガーッとやられるとですね、
私の本体だった部分が消えてうせるわけじゃないはずなんだけど、
その時の奥さんがやってることからしてみるとですね、
本体の私は邪魔なんですよ。
だからなるべくそいつは無視することに限るわけですね。
怒られてる自分のように振る舞えと、
それ以外の振る舞いは一切無視するっていう、
そういう風になっていくんです。
これも非常に演劇的な部分が、
演劇は私知らないんですけども、
ある意味演劇的だなと。
私はもうその時は私であっちゃダメなんですよね。
もう与えられた役をやりなさいと。
不思議とですね、やっちゃうんですよね。
その時どういう風になるのかわかんないんだけどしょんぼりすると。
なぜかというと、私の反応が正しくなければそこは無視されるか、
徹底的に攻撃されるか、
結局同じことになっていくんですよ。
こうして昔の時代のが、
その場に、
今ここでボンと再現されると。
東映ドイツ化が起きると。
だから内的対称と東映ドイツ化はセットなんですね。
私はここのところをいろいろ結びつけるのに、
結構努力を要したんですよ。
本がわかりにくい。
少なくとも私にはわかりにくかったんで。
だから二人、自画の中で分裂すると、
上がるとチルドリンになっちゃうじゃなくて、
二人の自分のやりとりが、
そこにセットで発生しています。
自画の中の一部を占めています。
ここが大事なんですね。
二人だったら容易に東映ドイツ化できるじゃないですか。
これがものすごい例えば、
嫌なお父さんと自分みたいなのでも、
多分できると思うんですよね。
お父さんが嫌なエバってましたみたいな、
エバられた私になっちゃうんです。
内的対処も当然ありますよね。
これを会社に行って上司に振るんですよ。
嫌なお父さんはこの上司、
その時怒られている僕が今の私、
っていう風になるわけですよ。
そうすると非常にスルーズにある意味、
その劇場が成立してしまう。
そこに二者関係が発生して、
非常に滑らかにある意味、
この上司はとても嫌いだ。
うちのお父さんと似ている。
ナンセンスな感じもするけど、
ものすごくフィットするような感じもあるわけです。
性を合わせるということは、
性情な人であれば当然やります。
男の上司であればお父さん、
女の上司であればお母さん。
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もう少し病理が進行していくと、
女の人だけどお父さん、
男の人だけどお母さん。
どうして東映同一かというと、
嫌な話ばかりになってくるかというと、
それは非常に分かりやすいですよね。
そもそも自分の自画の中で分割しておいて、
玉も切れそうになっているというのが、
嫌だったからですよね。
こんなことを覚えておきたくないんだけれども、
覚えておかないわけにもいかないから覚えてはいます。
何よりもいい体験ではありません。
いい体験だったら自分の自画の中に
しっかりと収納しておけばいいわけじゃないですか。
収納しておけばいいわけじゃないですか。
嫌だから分割して排除する。
どうしても内的対象というのはどっちかというと、
特に精神分析はカウンセリングなので、
ネガティブな話で出てきやすい。
ネガティブな父かネガティブな先生かで出てきて、
しかもトラウマ的な話なんですよね。
しかも東映ドイツカやるということになると。
本当は東映ドイツカの中にも
いい東映ドイツカがあるはずなんですし、
私たちはそういうこともやっているんですけれども、
多くの場合、嫌な東映ドイツカの方が
話としては多くなりますよね。
特に病理の話なんかの場合は、
どういう生きさせでこんな風になるんだぐらい
むちゃくちゃな話がいっぱい出てくるので、
内的対象と東映ドイツカという時には
だいたいホラーチックになってしまうということはあります。
そもそもこれをですね、
精神分析の世界で何をするかというと、
これを要するに無理やり作り出すんですよね。
関係を強引に深めると、
そこに疑似家族演劇、劇場みたいなのができちゃうわけですよ。
すぐできちゃうわけですよ、ある意味。
なぜかというと、
ライン嫌な内的対象を抱えている人が普通は来るわけですから、
問題何もない人は行かないですからね。
お金いっぱい払って時間もいっぱいかけて。
何かよっぽど重いものを抱えてくるから来るわけで、
そうするとそこで家族ごっこをしましょうということなんですよ。
あれはある意味では。
そうすればですね、
分析家の方は訓練を積んでいるからいろんな役がやれますよね。
いいお父さんでも悪いお父さんでも、
いいお母さんでも悪いお母さんでもやれるはずですよね。
いろいろ訓練を積んできているわけですから。
でもやってきている人の場合、
家族とはどういうものであるかは明らかなわけですよ。
だって嫌な目にやってきているということは、
家族関係は素晴らしくてということはあんまりある意味ないので、
ここで家族劇場をしましょうということになったら、
とてつもない家族関係、
しかも家族とはそれ以外のものではありえないという、
ある種の思い込みに囚われたような家族関係を
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敗役として振るわけだから、
すごい劇場になるに決まっているわけですよね。
これに耐えられないようでは、
分析家じゃないということなんだと思います。
だから訓練がいるんですよね、きっと。
普通に考えると、ごく健全に育った人だと、
いろんな家族がいるんだろうなって思いますが、
そうでなかった場合は、
家族というものはもううちの親のようであるというのは、
非常に強くはっきりと打ち出されるはずなので、
家族ごっこをやればどういう家族になるかは、
患者さんがよく知っている、ある意味そういうことになるわけですよ。
分析家は何にも知らなくてもいいわけですよ。
素直にその場にいれば、
最悪のお母さん役とかを自動的に振り分けられるわけですね。
ある意味都合がいいと言えば都合がいいことに、
病理が重ければ重いほど、
その人がおじいさんであっても悪いお母さん役、
若い悪いお母さん役、やれってことになるわけじゃないですか。
なぜならば、私にとってのお母さんとは
そういう人だったからという人しか来ないわけですからね、ある意味。
もうめちゃくちゃのお母さん役をやれと。
逆転もさせられるわけですよ。
私めちゃくちゃのお母さん役やるから、
あんたそれにひどい逆対応される役やんなさいと。
ある意味分析家はそこに拒絶する余地はないわけ。
選択の余地はなく、
何が何でもその役をやらなきゃいけないわけですね。
でもその役をやりながら
気が狂いそうになりますよね、ある意味。
そういうことを仕事にして、次は全然違う人がまた別の全然違う役をやれってことを
やるわけですからね。
そういうふうにして、
ものすごく逆対される役をやっているうちに、
すごいきつくなってくるわけじゃないですか。
これがその人のあってきた体験ですよね。
その体験を共感させられるという状態。
だから共感しましょうでは済まされないよって話はよく
分析の本に書いてあるんですけど、
まさに共感させられるわけですよ。
思い知らされるわけですよ。
そういうことだからなのかな、思い知らされると。
その中でもこうもできたんじゃないか。
これはウニコットが言うところの遊びなんですけど、
こうもできたんじゃないかって考えつくってことが
大事なんだみたいな話にだんだんなっていくんですね。
この時もうこれじゃどうしようもないよねっていう風に感じつつも、
でもこうもできるんじゃないかっていうのが
ふと閃く。
そういう風な閃きを得るっていうことを
できれば相手に分かるように伝えると。
難しいと思いますけどね。
でもそういうことをやっていくと何かが起こるんじゃないか
っていうような考え方。
要するに疑似家族劇場なわけですよね。
だから本当の家族でやっちゃダメなんですよ、こういうことを。
これを本当の家族でやるなんてとんでもないことですよね。
フロイトはやっちゃってるんですけど、
もう凄まじいことだと知れば知るほど思います。
アンナさんにやっちゃってますけどね。
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どう考えてもこれを本当の家族でやるのはダメですよね。
あとあんまり親しい関係でやるようなことでもないような気がします。
できれば関係性として離れてる人とやるのが
やっぱりいいんじゃないかなという風に
読めば読むほど感じます。
でも離れてる人がいるということは
それなりの人数がいないと分析家の数が
非常に極端に限られてしまうと
特に地方とかでは
その人しか知らないみたいなことが起こり得るので
ここに難しさがありそうな気がするんですけど
何にしてもあんまり非常に親しい親友でやるようなものでは
確かにないなと。
まして恋愛関係にあるような人との間でやったら
もう思慮が熱烈ですよねとは思います。
ここまで考えてみて
フィットワイフスがどう関係するんだという話になると思うんですけど
一つには
まず一つってのが
大事になるなって
この亀裂ぶくみで抱え込むという言い方もするんですが
内的対処というのは
亀裂であることが多いので
亀裂がない方がいいわけですよ。
一番良くないのはほとんど完全に分割されてしまった部分になって
しかもそれになった時は
自分がどっちだか分かりませんみたいな
それが一番ある意味まずいわけですよね。
卵1個がそんなに綺麗にはならないですけど
脳亀裂というわけにいかないかもしれませんけど
極力これが少ないということが
ほぼどんな問題にも対応できるっていう自我なんだと思うんですよね。
私なんだと思うんです。
一番やっぱりまずいじゃないですか。
怒られている自分になっちゃいました。
手も足も出ません。そうなってしまったら。
多分その自我の部分というのは
私が2歳の頃になってしまって
怒られている時の自分なんだから
全く無能力になるのは当然なんですが
ひばしばこれがある種の会社やオフィスでは実現してしまう。
それをまず避けたいということ。
ある種の人が職場というのを大変苦手とするのは
おそらくこの事情によると思うんですね。
職場にいるとすぐに
悪いお父さんの内的対象が
主流になりますと。
悪いお父さんみたいなのばっかりですっていうのが一番まずいですよね。
それじゃ全然仕事にならないわけですよ。
わざわざ職場に行ってなのに。
こういうことを避けるためにもなるべく
ホームポジションみたいな言い方をするんですけど
内的対象のお父さんに怒られている自分っていうところに
フォーカスせずに戻していくように
できるようになるというのがいいと。
それとの関連だと思うんですよね。
時々外に出るとかいうのが
グッドワイブスで出てくるんだけど
内的対象のお父さんにもお母さんにも
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これは小さい頃だからなんですけど、慣れるわけですから結局これ。
役とはいえ
悪いお父さんになってみたり
それに怒られる人になってみたりしているってことは慣れるってことですよね。
何にでも慣れるってことですよね。
原理的にですよ。
実際に成人しちゃうと自分がある程度固定するんで難しくなりますけど
何にでも慣れるっていうことになるわけじゃないですか。
だからある意味外に出れば何にでも慣れるわけですよ。
これが大事なんだと思うんですね。
何にでも慣れるということは
別に怒られている子供でなきゃいけないなんてことはないわけですよ。
何にでも慣れるんであるから
自分自身にも慣れるわけですよ。
ここがたぶんグッドワイブスとの関係性かなと思っています。
やっぱり内的対象のいろんな分裂が起こる
何にでも慣れるからこそ
非常に極端なケースでは
ATMに見張られている人にもなっちゃうわけですよ。
分かりにくいかもしれませんけど
つまり分割していなければこういうことは起こらないわけですよね。
若い頃のお母さんとか
若い頃のお父さんとか
そのお父さんやお母さんも全身で出てこないはずなんですよ。
分割されてますよね。主に顔だと思うんですね。
しかも裸じゃないと思うんですよ。服着てますよね。
ということは服着たお母さんになれるということ
服にもなれるということになるわけじゃないですか。
こうして耐えがたいケースであればあるほど
分割をしていくと思うんですね。
分割していくと例えばお医者さんだったら
白衣とか着てそうじゃないですか。
しばしば白衣そのものが怖いみたいなことも起こるじゃないですか。
白衣に分割されたんですよね。
こうしてただのものでしかないはずのものが
医師を持っていたり
医師を睨んでいたりしうるということなんですよ。
この辺までいくと完全に妄想の世界なんですけれども
理屈は我々が知っている世界なんですよね。
結局我々は夢が見られるということは
ある意味夢で見られたものにならなれるということなんで
夢で見られているものは見ちゃいないわけですからね。
でも外にはそのきっかけになるものがあるわけですよ。
白衣を見ることもありますし
車を見ることもあるわけですよね。
よく子供向けのアニメとかで
車に顔がついていて人間化して走っていたりするじゃないですか。
カンコレとかもそういう世界でしたよね。
ああいうことを我々はできるということは
分割して
自分の一部を分割して
それになることができるということですよね。
であればですね
一切その分割をやめにして
元に戻ることもできるということなんだと思うんです。
これをなるべく自由自在にできるようになると
平安が保ちやすくなるし
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能力的には全然
それこそ現実なら何とかなる
ってところまで持っていけるってことなんだと思うんですよ。
逆に
結局どの自分になるかが固定されてしまうときほど
自分としては
現実機能は下がっていかざるを得ない
っていう話になると思います。