甘えと罪のカテゴリーの対比
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
8月10日の木曜日の13時ちょうどです。
もはやお昼も過ぎて、モーニングもないもんですけれども、
暑いですね。全然関係ないですけど、この時代はやっぱ暑いですね。
昨日一昨日とちょっと雨が降ったり止んだりで、だいぶ温度が下がった感じだったんですけど、
だから今朝も結構クーラーなしで一時過ごしてたり、
割と余裕をこいていたんですけど、全然余裕がなくなってきて、今はもうめちゃくちゃ暑い。
たまたま今日はですね、朝これを撮ろうと思ってたんですが、
祭司が出かけるというのでですね、大慌てで準備をしたり、
それこそ奏芸をしたりしているうちに、もうこの時間になって、
今私一人でいるから、ここで下の涼しい部屋でですね、
クーラーかけてしてるわけですよ、収録を。
そんなこと言ってもよくわからんと思うんですけど、家に上がったほどのある人以外は。
リビングで割と気ままに、さっきまで大谷翔平さんのをチラッと見ながらね、気ままにやっております。
それでですね、明日山の日の先送りを極限まで減らすタスクシュートの考え方を、
申し込みすごく多くここに来て集まって大変ありがたいです。
本当にありがとうございます。
これでね、26日の土曜日の山崎さんを迎えしての神保町でやるやつですね。
夜の7時から神保町でやる放納も集まってくれるとありがたいなと。
そんな感じで、割と都合のいいことを考えながらですね、
ノートもおいおいもっと書いておかなきゃな、などなんて思っているところです。
昨日ちょっとですね、台風がうんたらかんたら言ってたんで、
それで庭の、庭木の避難等をしているうちに時間がなくなって、
そのまま美容院に行かなきゃならなくなってですね、スキップしちゃったんですけど、
今日は普通通りやろうと思ってます。
で、同じような話が続いて、ちょっと恐縮ではあるんですけどね、
ここをやっぱり一歩も引かないっていうのもおかしなものなんですけど、
いろんなところから一番納得されていないのの一つにですね、
反省しないっていうふうにプラザノオさんがお話になっているGood Vibesの文脈ではあるんだけど、
甘えの重要性
反省しないにはつまり罪というものはないっていう発想があって、
で、この罪というものがなくなると、当然罰というものもなくなって、
もろもろそれに付随する関係の、例えば被害を被るとかも、
相手が人間じゃない場合は別としてですね、迷惑をかけられるとかね、
クレーム入れられるとか、こういったことが一切なくなるっていうね、
これは言葉の綾だとしか思われないと思うんですよ。
やはりそういうのがなくならないでしょう、ただ捉え方なんでしょうって言われるかもしれないんですけど、
それを言えば、全く逆のことも言えて、
例えば苦情を言われるっていうのは捉え方なんですよ、結局。
事実としては苦情を言われるのはただ言い換えているだけでしょうって言うかもしれませんが、
事実としてはただ何か誰かがメールを送ってきたのは苦情と言っているだけでしょうと言ってもいいわけですよ。
ここに僕らがよく言うというのかな、意味付けとかラベリングとか、
言葉の名詞って全部そうなんですけどね、
言葉をつけるということは、実体ではないものと実体であるものを引きつけてと言いますか、
同じようなものだと捉えているわけじゃないですか。
でも私は苦情と言われるとか迷惑をかけたとか迷惑をこむるとかいうものはですね、
全部何か本来そうでない部分があるにもかかわらず、
そうだってことにしているって話でしかないと思うんですよ。
例えばリンゴとトマトを並べて同じようなものですって言うこともできるけれども、
いや全然違いますよというふうにして、
リンゴとバナナの方を持ってきてこっちの方が似てるんですっていう観点も取れるわけじゃないですか。
大体今の人だとそうするかなと思うんだけど。
でもこれは見た目で似てるかどうかだけを言うなら、
多分リンゴとトマトの方が似てると思うんですよね。
捉え方次第だと言うのって、こういう部分があると思うんですね。
それは絶対にそうでなきゃおかしいっていうことって実際には何もなくて、
あくまでも何と似てるかっていう話で、
どこにカテゴリーの線を入れるかというだけのことでしかなくて、
これが罪のある世界のカテゴリーとない世界のカテゴリーでは全然物の見え方が変わり、
事実上現実が変わってしまうも同然だという話をしたいわけですね。
ていうかしてるわけです。
で、自分でもしばしばこは迷惑をかけちゃったとか、
罪悪感が止まらないとか、
そういうことは特に昔はもう野放しだったから、
ほめどもなくそういう観点で苦しんでいたわけだけど、
今思うとね、よくあんなことやってられたなとしか言いようがないぐらい、
あれはひどいわけですよ。
だからこれで本当に辛いと言うなら、これをやめる方法がありますと。
そのうちの一つに、この罪のない世界っていうカテゴリーの、
全く新しいカテゴリーの作り、結局人間カテゴリーは作っちゃいますから、
そういう世界に入ってみるとですね、
そういう観点を見つかると迷惑をかけるとか、かけられるとか、
被害を被るとか、罰を与えなければならないとか、
そういうものが一切ない世界にも、
割とパチッと、ある意味一瞬で行き来することが、
行ったり来たりすることはないんだけど、
行ってしまうことも可能なんですよ。
これが到底信じられないとか、
そういう世界に行くのは危険極まりない気がするとか、
許しがたいとか、
それこそクレームも入ったりするわけで、
私もそういうわけだから、
倉園さんのところにですね、
Good Vibes TVというのの収録をしに行った時には、
大体1回は4回撮るんですけど、
1回はこの話、何らかの形で持っていくなってことを感じるんですよね。
今一番ブラッシュアップされるとどう答えられるのか、
つまり人に迷惑をかけて反省しないで、
罪の意識を持たないでどうするんだっていうクレームが、
そういう話をするわけですよ。
甘えと迷惑をかける行為
ここがやっぱり一つの飲み込みがたいポイントというか、
納得されにくい一つの大きな山場なんだなっていう話ですね。
私は今もっぱらこの件については、
甘えというキーワードを持ち出していて、
先日と全く同じ話をもう一回繰り返すことにはなるんですけどね。
甘えというものが私たちの根源的なあり方というか、
根源的な望みとしてあると。
生まれながらにして持っている、
多分一番最初の欲求が甘えたい。
これはあって当然のものなので、
あって当然のものをストップをかけようとしたり、
認めなかったりすると、
対外困ったことになるんですよ。
例えばご飯が食べたいですとか、お腹が空きましたっていうのを、
当たり前の欲求じゃないですか。
当たり前のものに対して、
今ダイエット中だから食欲は一切認めませんとやると、
大変困ったことが生じたりするわけですよね。
つまり、あって当たり前のものをないことにするっていうのはダメなわけですよ。
これは当然なんですよね。
私たち、対外あって当たり前のものは、
でもこれに手を出していくってことを人間はするんですけどね。
例えば、お母さんが好きですという気持ちはあって当たり前なんだけど、
うちのお母さんだけは好きにならないようにしないとまずいんだよねっていうことになると、
一気に話が複雑化していくわけじゃないですか。
こんなの、私なんか例えばもう50ですから、
お母さんが好きですっていう気持ちなんて、
別にないことにしても何にも問題なさそうなもんなんですよ。
ところがそうはいかないように人の心ってできてるんだなっていうのを、
むしろこの年になると思い知らされるんですよね。
特に一緒に住んでるわけでなく、
頼み事をしに行くこともほとんどなく、
向こうからの連絡がそんなに来るわけですらない。
そして、何かにつけて頼ってるってことはほとんどない。
この状態になって、
母親が好きかどうかなんて大した問題じゃないと思うんだけれども、
これが意外に大した問題だなってことを、
後々思い知らされるみたいな形になる。
これはあれですよ、
うちの母は間もなく死にますとか、
それは私は知ってるわけじゃないですよ。
あって当たり前の気持ちは、
あって当たり前にしておいた方がいいよねっていう程度の話なんですよ。
で、甘えってのがあると。
甘えは本当に甘えの構造が大ベストセラーになったにもかかわらず、
私はすごく大事なところが、
なぜか何箇所も無視されてるなと思うんですけど、
一つはこれですね。
人はみんな甘えたいんだ。
世の東西を問わない。
日本人だけ甘えたいとかね、
そういうことではないんですっていうのが一つです。
みんな甘えたいと思ってる。
これがまず重大なポイントなんですよ。
これだけとでもですね、
例の迷惑をかけられるっていうのは、
相当この甘えの話は無視されている証拠だと思うんですよね。
ある意味では。ある意味ではですよ。
だって甘えたいというのが自然であり当然であり、
認められるべき欲望であるというならば、
人が何かしでかした時に、
その人は甘えたいと思うわけじゃないですか。
あの人迷惑だよねっていうのは甘え認めないって話をしてますよね。
人の甘えを認めないというのは、
これはもう倉園さんのGood Vibesでものすごく何回もおっしゃってる話ですけど、
人と自分は同じルールを適用しちゃうんですよ。
これがエリプスってことだと僕は思うのも、
この話をするたびに喋ってますけど、
それは僕は大事だと思ってるからなんだけど、
人と自分は同じルールなんですよ。
なかなかジャイアンのようにはできないんですよ。
人はもっとひどいルールに従え、
自分は従わないぞってのは難しいんですよ、人間にとっては。
だから他人の甘えを認めないっていうルールを作っちゃうと、
俺の甘えだけは認めさせるってことができなくなるんですね。
こうして人に迷惑をかけてはいけないルールってものが脳内にガチッとはまると、
自分が人に迷惑をかけているんじゃないだろうかという心配が募ってきて、
甘えるっていうのが非常に難しくなるわけですね。
私はこのことが、これがいわゆる私のホットキャスト文脈で言えば、
タスクシュートとも深い関係があると思っているので、
タスクシュートでずっとこれやらなきゃいけないのにできてないなって思っているとき、
だいたいその人はこれが人に迷惑をかけてるんじゃないだろうかとか、
下手にこの仕事に手を出すと人に迷惑をさらにかけることになるんじゃないだろうか、
っていう恐れを抱いているケースがほとんどだからです。
甘えと迷惑
甘えられてないんですよ。
甘えられないという時にひっくり返って出てくるのが、
迷惑をかけちゃダメだっていうルールなんで。
だから迷惑をかけないようにこのタスクをやろうとした途端、
決してその人にとって難しくもなければ、ややこしくもなければ、
手が出ないなんてことはおよそないはずの仕事がいきなり全く手がつかなくなる。
なぜならそれは迷惑を絶対にかけないように済ませるっていうのが恐らく難しいタスクだからなんですね。
これ一つとっても僕はですね、
誰もが甘えというものを根源的に持っていて、
ある人の甘えは許されないが、ある人の甘えはある条件では許されるみたいなことはやめたほうが、
やっぱり少なくとも仕事は絶対進むんですね。
これはもう僕がずっと自分の仕事を見てきても、
仕事が進まないときは決まってこの甘えるのが難しくなっているケースで。
で、トータルで見ればそのGood Vibes以来ですね。
甘えというものは100%無条件で誰のでも認めようってして、
瞬間にと言っていいと思うんですけど、
それを実地でやってたのが奥さんのクラウドワークスを手伝いまくってた時代ですよ。
あれは完全に奥さんの甘えですからね。
これが畑迷惑な話だと思って全部突っ跳ねていたら、
人に甘えるっていうのが実に難しくなっていたはずなんですね。
そしたら私のタスクが進まなくなるノリなわけです。
だから自分がこうやって人の今幸いにしてやらずに住んでいるクラウドワークスなんですけど、
やりまくってたというのはあの時期においては、
とことん時間がもったいない感じがしてたんだけど、
やっぱりトータルで見ると遥かに時間が浮くんですよ、
ああいうことをやっておくと。
このちょっと鶴野恩返し的な話をしていても、
何か釈然としないかもしれないんですけど、
自分にそれだけ人ってのは面倒くさいルールを課しちゃうんだなってことなんですよ。
人の甘えを認めないと、
人に迷惑をこむっているっていう風に捉えるというのは、
結局自分が人に迷惑をかけてはならないという話になって、
ひとつ奥さんにってことにならないんですよね。
そこを越えてってしまうんですよ。
例えば鶴野さんにも迷惑かけられないとか、
J松崎さんに迷惑かけられないとか考えてると、
自分の仕事がどんどん難しくなっていくんですね。
一例を出すならば、
まだ架空の話になっちゃいますけど、
百日チャレンジの新しいイベントをしましょうと。
続いては佐々木さん、
告知文作っておいてくれませんかって言われて、
断れないですから、はっきり言って。
人間関係上ね。
ちょっと告知文はやってらんないなとか、
それは相当甘えてますよね。
やりますって普通に言いますよ。
言うんだけど、
ここで人に迷惑をかけちゃダメだって思うと、
下手な告知文書けないなって考えるじゃないですか。
考えるもんだったと思うんですよね。
下手な告知文ってどういうことかっていうと、
これ書いても人が全く来ない告知文ですよね。
ってことは、
人がワンサが来る告知文書かなきゃなんだかなんですよ。
ただ告知をするっていうのと、
人が公開した瞬間にどんどん人が、
われもわれもとポチってくれる告知書くのと、
全然仕事の難易度変わります。
こういうところに、
奥さんのクラウドワークスを手伝っておくかどうかが、
かぶってくるんですよ。
物の見事にっていうぐらい。
人間、人に迷惑かけちゃダメだよねっていうのが、
ごく当たり前のように言われている世界では、
告知書くのがすっごい難しくなります。
これはすぐどこにでも発生する、
し得る出来事なので、
本だってそうですよね。
売れない本を書くっていうのは、
ある意味出版社さんにすっごい迷惑かける感じにも、
なりますんで、著者の観点からするとね。
いやもう在庫、先日ちょっとあったんですよ。
そういう在庫処分したくてですね。
続いては、半額で著者さんに買ってくれませんか。
半額で買うって言ったってですね、
私の部屋に500冊とか1000冊とか本来ちゃったら、
余ったもんじゃないわけですよ。
しかもそれを捌けるのかっていうと、
甘えと仕事
捌けないじゃないですか。
うち書店じゃないんで。
だから、いかにこういうことが迷惑なのかってことを
考え始めちゃったら、
本なんか出せなくなっちゃいますよね。
ので、迷惑という概念ない世界で仕事をすると、
どれほど身軽かってことですね。
とってもフットワークが軽くなる。
それは迷惑をかけてもいいやと思っているわけじゃないですよ。
そこをやるのは、
総的防衛に僕は近いと思うんですよね。
もう軽装状態で、
いやいや、人間なんて人に迷惑かけるもんでしょみたいな感じで、
ガンガンガンガン迷惑かけてくるみたいな。
これは甘えられていないんですよ、やっぱり。
防衛なんでね。
総的防衛っていうのは、
心を先にそうやってこう、
空元気でガンガンやって、
心を守っておいてから、
ある種の行動に打って出るみたいな、
そういう感じなんですよね。
ちょっと見分けがつきにくいかもしれませんが、
これと素直に甘えるっていうのとは、
全然違うということが、
多分内面で考えてみると分かるんですよね。
甘えられるというのは、
要はこれももうフットワイブスそのまんまですけど、
不安と恐れがない状態なんですよ。
恐れと不安がない状態で、
人の行為というものを当てにするっていうのと、
めちゃくちゃ恐れていて内心ではね、
いやもうこれ多分人すっごい迷惑だと思うんだろうな、
という恐怖がすごく先にあるんだけど、
そこを強引に防衛してですね、
いやいやもう人間なんてそんなものだからということにして、
ガンガンアタックしていくみたいなのとは、
やっぱ違うんですよね。
これは恐れと不安に結構まみれてますから、
総的防衛なんで。
総的ではありますけどね、
元気がある感じがするんですけど、
やっぱりこれは元気がある感じを自分でアップしてるだけなんですよね。
チェアアップしてる感じなんですよ。
これのバリエーションの一種に、
これはあんまりやってる人にも悪いし、
営業防衛になっちゃうとあれなんですけど、
やっぱり体に刺激を与えるというのはこれに近いなって感じがするんですよね。
ドラッグとかじゃなくても、
体に強い刺激を与えるってことはできるじゃないですか。
いろんなやり方ね。
スピード的な何かとか、
そういうことをやって、
やっぱあれもチェアしてる感じがするんですよね。
総的にやって、
自分を元気づけることで、
明日も会社に行けるようにしようと。
それが悪いとは思わないですし、
けれども、私はあれで、
カウンセリングの代わりになるみたいなのはないだろうな、
そういうわけにはいかないんじゃないかなっていう感じは持ちます。
それが甘えというものは認められるかどうか。
一つ簡単に言うと甘えというものが、
人間の根源的な要求として一生存在し続けるものなんだと感じられるかどうか。
根源的なものを指定するのって無理がありますから、
それ死にたくないっていう人に向かって、
いや死にたくないのはダメでしょみたいな、
そういうのを言ってるのと変わらなくなってきますから、
人間である以上死にたくないとは思うものなんですよ。
そこが人がニュートラルじゃないっていう話でもあるわけです。
もう一つがですね、甘えというものが満たされない、
あるいはほとんど認められもしないと、
自分がなくなると。
この発見が先日もこのポッドキャストで全く同じ話をしてますけど、
大事だと思うんですよね。
自分があるってことは甘えられるよっていうことなんですよ。
結局どうしてそうなるのかという話がやっぱり分かりにくいと思うし、
ちょっとさっきも甘えの構造を読んでみたんだけど、
決して分かりやすくは書いてないなと思ったんで、
この話をしたくなったのは、
さっきの迷惑ってことと関係があるんですね。
どうしてもみなさんこれに引っかかりますかってね、
人に迷惑をかけられるのもやだし、
人に迷惑をかけるのはもっと恐ろしいっていうのが、
特に僕はやっぱりライフハックで長らくやってきたので、
みなさんそのことすごい気にしていらっしゃるのはよくわかるんですよ。
甘えと言ってもなるべく少ないほうがいいっしょみたいな、
それと一緒に甘えは否定されてるってことなんだけど、
甘えられないというか、まずですね、
甘えと欲求
生きている以上我々は欲望ってあるわけじゃないですか。
意思って言ってもいいんですけど、あるわけですよ。
で、欲望を満たそうという、
欲望を満たそうという話をする、
欲望を満たすためには、
自覚的であるほうがいいですよね。
自分はこういう欲求を持っているから、
これをやって、こういうフィードバックを得て、
充足感を得られるんだって、この感じがないと、
欲望というものを満たしたという、
その満足感がないですよね。
なんとなく自分に食欲があるのかないのかも分からずに
物を食べていたら美味しくないじゃないですか。
ごく単純なところから言ってそういうことになると思うんですね。
自分がこれをしているんだと認識するってのが、
欲望を満たすという上で大事で、
満たした満足感を得るってことが、
自分がここにあるんだぞっていう感覚を実感する上で、
やっぱり欠かせないと思うんですよ。
だから根源的な欲求ってのはそういうことだと思うんですよね。
この根源的な欲求が残念なことに、
何らかの理由で自分にあるっていうことに対して、
ひどく自覚が薄い人ってやっぱりいるわけですよね。
多分養育歴とか、その他独特の信念等のために、
そういうことになっちゃってるんだと思うんですけど、
自分が例えば物を食べたいと思ってるっていうことに、
自覚が薄い。
そうすると、物を食べなさいと言われてるから食べてるみたいな感じでね。
給食とかそういうことはありましたけどね、
私幼い頃、私は食欲が幸い旺盛な方だったんで、
給食って残したことがないんだけど、
給食を残す人っていっぱいいましたよね。
それって食べたくないわけじゃないですか。
だから自覚はないわけですけども、
甘えの自覚と満足
いや食べろ食べろって先生が食べないと精算してるとか言うから食べてると。
こういうことになってくると、
給食食べてても自分はないですよね、そこには。
だってそれは先生が食べろと言ったから食べるって行動を取ってるんで、
そこに中核となる自分ってものはいらないわけですよね。
全くないとは言いませんけど、
あんまり好んで食べてる子に比べれば、
当然自覚が乏しくなるわけじゃないですか。
これが甘えるということには、
著しく発生しやすい方っていらっしゃるわけですよ。
それはつまり、自分が甘えたいという認識を持っちゃダメだと。
親なり社会なりに言われている気がしているために、
私は甘えたいなんて少しも思ってないんだっていうことになると、
その人はでも生きているんだから甘えないってことはできないわけですよ。
すっごく極端な話をすると、
これは結構多くの場面で見受けられるんだけど、
人に話をしてるって段階で既に甘えているんですよ。
まず第一に話をしたいと思ってるわけだし、
話を聞いてほしいと思ってる上に、
自分の話を理解してほしいと思ってるだけでなく、
理解されるだろうと思ってますよね。
この人自分の話は1ミリも理解しないだろうなと思ってたら、
多分普通になんて絶対話せないと思うんですよ。
だいたい人の話の仕方って、そんなに理路整然とはしてないですよね。
私はこのGood Vibes一緒にやってて、
倉野さんって話すのすごい上手いなと思っているんですが、
そういう人の方が稀で、私の話とかもそうだけど、
ぐちゃぐちゃになりやすいじゃないですか、話って。
つまり話というのは、人が話を理解してくれるだろうなと、
相当甘えていないと話してらんないんですよ。
僕が思うに、だからすっごい甘えることが苦手な人は、
そもそも無口になる傾向でもあります。
話しても分かってもらえないだろうなとか、
分かるように自分は話せないだろうなって思ってる人って、
そもそも話せなくなっていくんですよ。
だから、饒舌に喋ることができるってのは、
もう甘えられているっていうふうに考えられるし、
そう考えるしかないなって思うんですよね。
で、そう考えてみると、私たちは間違いなく甘えているじゃないですか。
人とコミュニケーションを普通に取りますよね。
取りたいとも思ってますよね。
だから私は全然甘えていません。
完全に自立して生きてますって言ってるのは、
大体経済的なところだけを言っていて、
そもそも経済で生きていけるっていう考え方自体が甘えそのものですよね。
だってお金払えば相手は物をくれたり、
この話前もしましたが、
お金払えば相手はサービスしてくれるって勝手にそう信じてるわけですから、
それはそもそもお金を払う相手に甘えている上に、
このお金の上に生きているというシステムにも甘えている。
こういうふうになっちゃってるんですよ、人間社会というものは。
人間というのは面白いことに、
自分の肉体だけでできることよりも、
遥かに超える欲求をある意味持っているような気がするんですよね。
例えばだって、普通に見たらですよ、
宇宙はどのくらい広いかわかるとかってありえないじゃないですか。
そんなことがわかるためには、
やっぱり普通に肉体をただ使っている以上の欲求を何らかの形で持ってないと、
おかしいと思うんですよ。
だから僕らはそういうのを持っていて、
つまり人の力を宛にするということを、
生まれながらにやる気まんま、
生まれながらに要するに甘える気まんまだということですね。
この自覚が薄い人は、さっきの食欲の自覚に薄い人と同じように、
人に甘えを満たしてもらった時に、
私が甘えを満たして、この私がですよ、
自分が満たそうとしている甘えを、
今満たしてもらったんだという充足感を得にくいんですよ。
ここを塞ごうとしているから。
そうすると、つまり自分というものがない人になってしまうんですよ。
こういうことっていうのがですね、
優秀とか無能とか関係なく起きるんですよね。
たまにそういう自覚を乏しい人が、
不意に自覚する瞬間っていうのが目撃することがあって、
だいたいそれはですね、怒りまくってる人なんですよね。
昔多かったです。
本当に、この話もしたかもしれないですけどね、
先生がいて、
本当、何て言うんですかね、
慢性的暴力症とでも名付けたいぐらい、
いつも暴力を狂ってますよ。
本当にめちゃくちゃ甘えてるとも言えるんですけども、
当時は子供だったから、僕もね、当然周りも、
めっちゃ恐れてましたよね。
さに恐怖政治とはこれのことで、
怒鳴りまくりだし殴りまくりだし、
小学校だったんで、
本当にこう、
常に殴ってる光景を目にするぐらいな時があったんですよ。
で、その先生がでも不意に、
ある時ですね、私はその先生に殴られたことないんですけど、
ある時その先生の激霖に触れたことが、
激霖つっても大したことは何もしてないんですよ。
何したかも覚えてないです。
で、その先生激霖ばっかりだったんで、
激霖に触れたことがあって、
めっちゃ怒られそうになった時に、
先生がピタッと止まって、
さっき、
俺すっごい性に怖がられているようで、
嫌なんだよな、みたいなことを言うんですよ。
今正確には思い出せないですけど、
そういうことを言うんですよ。
俺って怒りすぎてるかな、みたいなことを言ったんですよね。
僕それ、つい先日なんかで思い出したんですけど、
そういうことを言われて、
なんで僕にそれを言うんだろうっていうのは、
ちょっと当時は思ったんですけど、
今から思うと、
なんとなくあの先生に僕は結局殴られたことがない、
まず少ない生徒の一人だったんで、
でも女の子はあんまり殴られなかったんで、
男で殴られなかったのは珍しい方だったんで、
僕はそれだけ人に殴られないように、
最大限の注意を払ってたとも言えるんですけど、
むしろ臆病な子だったんでね。
そういうことがあって、
つまりこれがですね、
自分というものを発見する瞬間だと私は思うんですよね。
あの怒りまくってる人がこれ時々あるなって思うんですよ。
自分というものを自分の振る舞いから発見するという時、
甘えまくってるのに、
それを周りの人が結局何らかの形で感受してる、
まさに甘えて受けるなんだけど、
感受してることに気づけないんですよ。
甘えてないと信じてるから。
甘えまくってるってことに、
不意に気づく瞬間っていうのが面白いことにありまして、
だいたい怒ってる人は、
自分が怒ってるから周りの人はこういう反応をするんだろう。
当たり前じゃんって思うかもしれないけど、
それだけそういうことは気づきにくいと僕は思うんですよね。
人って漫画とかでそうじゃないですか。
すみません、ピンポンが鳴っちゃったんで。
だから、漫画の主人公とかって見ているといつも思うんですけど、
ニュートラルじゃないですか。
全人類、何にも望んでないんだけど被害にだけは会うみたいなね。
あれが多分僕らの主観の状態にとってもよく近いんだろうなって思うんですよ。
私たちは甘えたいという自覚に乏しいんだと思うんですよね。
あまりにも乏しい人は、ほとんど甘えたいという欲望なんてないと思ってるから、
それが満たされなかった時だけ、あるいは大いに妨害を受けた場合だけ、
甘えたかったという欲望を自覚するんですよ。
自己の発見
ただ、その自覚を受けた時は満たされてないはずだから、被害感しかないんですよね。
だから私は最初に言ったように、甘えというものを認めない世界では、
僕らは被害にあってばっかりいる羽目になると思うんですよね。
迷惑をかけられたり、クレームをつけられたり、怒られたり、怒鳴られたり、
とにかくひどい目にあいまくるんですよ。
それは甘えというものが認められてない世界。
したがって自分はそこで善良に生きるということは、甘えたいという欲望を封印しているので、
封印はしてるんだけど満たしているんですよ。
満たしている段階では自覚ができないんですね。
満たした良かったという自覚はないんですよ。
ないのにもかかわらず満たせなかった時は、満たしたいという欲望は持ってるから封印してても、
満たせなかった時にだけ痛感するんですよ。
ああひどい目にあってる。俺甘え満たせてないと。
ただその自覚がないからどう思うかというと、人はひどいことをしてきたってことになっちゃうと思うんですよね。
この流れが分かりにくいとは思うんだけど、全然今も分かりやすい説明にならなかったんですけど、
ご飯、給食食べてね。給食の例に戻すと、給食を食べて、
いや食べたかったって思ってないから、先生食べろって言ったからしょうがなく食べてるんですってことになってるから、
食べても嬉しくはないと思うんですよ。
でもものすごくお腹が空いていますと、でも今日給食なしですってなったら、
その人はうわひどーってことになると思うんですよ。
たとえ食べたくなくても。
つまりお腹が空いてるっていう時にだけ、
そしてそれを満たせなかった時にだけ、自覚が通節に走るんだと思うんですね。
これが自分がないっていう状態だと思うんです。
だから自分がない状態の人っていうのは、被害感に満ちてるっていうふうに、
甘えの構造と人生
甘えの構造で土井武夫さんが書いたのはこういうような意味かなっていうふうに思うんですよね。
持ってない人はいないから、満たさずに生きてる人もいないから、
それじゃすぐ生きられないから、それでは。
実際に生きてるってことは、甘えを満たしながら生きてるんだけど、
満たしたいと思ってないだけに嬉しくはないんですよ。
だからそこは自覚がないんですね。甘えてるという自覚がない。
でも満たせなかった時には邪魔をされたり妨害された感じを抱くんですよ。
だから満たせなかった時にだけ自分というものの存在の片鱗に気づくわけですね。
なんか、私は今苦しいっていう方ですよ。
私は今幸せだは分からないんだけど、だから幸せな時には私は現れてこないんです。
私は今苦しいだけは現れてくる。
こういう世界に生きてる人は当然、私とはいつも苦しい存在だってことになってしまうじゃないですか。
これが多分甘えられず、甘えを満たすということを知らず、
自分がない人の人生がとても辛いものになりやすいという理由なんだろうな。
そのことが書いてあるのが甘えの構造なんだろうなというふうに、
甘えを満たすということの意識
自分は見てるんですけどね、それこそ。
どうしたらいいかというか、どうするもこうするもなくて、
甘えを認めると、この一点につけると思うんですけどね。
特に満たしている時の自覚ってものを強く意識することなんですよね。
当然、罪悪感なし。
だからご飯が食べれて幸せだって時に、罪悪感を持つことはないと思うんだけど、
甘えが満たせて幸せだって時には、罪悪感を非常に簡単に持つんですよ、私たちは。
あれですね、倉野野さんも以前Good Vibesで話題にされてましたけど、
ありがとうとすみませんの話ですね。
ありがとうって言ってもいい場面ですみませんと言ってしまうというのは、
甘えを満たした時の私たちの心理状態を表しているわけです。
甘えを満たしているという自覚はここであるから、人に対して言うわけですね。
それは欲物ポジションに入れているということだから、
人間社会において正気だって意味にはなるんだけど、
ただし、欲物的に正気なんですよ。
つまり、甘えを満たせた、申し訳なかったと、そういうことになってしまうんですね。
つまり、甘えを満たすということが迷惑をかけるということと同義語になっているわけですよ。
で、満たさずにはいられないということは、
つまり、その人の世界の中では迷惑をかけずには人は生きていけないぐらいな感じだったと思うんですね。
それは人間社会でやっていく上においては、
特にこれまでの時代、
理想的にも乏しくて、生きるのが非常に困難だった時代には、
それなりに結構な考え方なのかもしれないんだけど、
今のような時代、おそらくでも江戸時代とかであっても、
この発想って必ずしも結構ではなかったんじゃないかと、
最近思うようになってきました。
特に今の時代にそれは全然結構じゃないだろうなって感じがします。
欲物的に世の中を渡っていくというのは、
そうじゃなくてもそれは辛いじゃないですか。
誰が考えても迷惑をかけている、迷惑をかけているって思って生きていくのって辛いです。
そして人が迷惑をかけているっていうのを目撃しては、
そこに怒りを覚えるというのもやっぱり辛いじゃないですか。
この発想っていうのは、
極当たり前のこと、つまり甘えを満たすということですね。
当たり前だと見なさないところから来ている無理な発想なんだと思うんですね。
食べ物を食べたいと思うのは、生きているものは当然思うものであって、
それは他の動物にとって迷惑をかけることだっていう発想を持ったら、
そういう考えを持つ人っていらっしゃるけれども、
生きにくそうではありますよね。
少なくとも生きやすそうではないですよね。
これが例えば父親が好きになるというのは当然だって思えるのと、
いや父親なんてもう最悪だと、
顔を思い出すのも気持ちが悪くなるっていうのは、
どっちが生きやすいかって言えば、やっぱりそれはその人のせいじゃないですよ。
その人のせいではないけれど、前者の方が生きやすいとは思うんですよ。
ここに甘えを満たすっていうのが、
すっごくその人の生きやすさ、生きにくさの分岐点になってしまうという原因があるんだろうと思います。
そう思ってたら、やっぱり2点だと思うんですよね。
甘えを満たしているという時、つまり当たり前のことができたという時に、
なるべくその実感を持つという、割と生ぬるく聞こえるかもしれないけど、これが一つ目で、
もう一つが、被害感を受けた時に、
これをやっぱり感受するっていうだけじゃなくて、
積極的に人の甘えを満たしていくっていう観点で見ていくっていうのがいいと思うんですよね。
あの人いつも約束を破ってすっごい迷惑だわって思うんじゃなくて、
装的防衛と装的防衛によって生まれるややこしさ
あの人も人に甘えたいんだ、自分と同じようにって思っとけば、こと足りると思うんですよ。
これをどう捉えるかっていうのは、一番最初のリンゴとトマトのカテゴリーの話に戻っちゃうんですけど、
どう捉えるかだけの問題ではないような感じがするんですね。
なぜならば、自分が人に迷惑をかけるかもしれない段階ってやってくるじゃないですか。
甘えずには生きていけない人間としては。
つまり人間っていうのは全て自分がフィードバックを得ているものっていうのは、
全て自分の一人の力では到底作り出せないものばかりなんですよ。
言葉がいい例だと思うんですよね。
言葉って自分で作った人いないですよね。
でも使って生きてますよね。
これがもう甘えですよ。
だから言葉自分で開発してその言葉を全員に使わせるとでもいうぐらい、
ものすごく他の人に対して圧倒的な存在であるっていうなら、
これになりたいって人が実は結構いらっしゃる気がするんですけれども、特別な存在ってのは。
これにはなれない。
これになりたいっていうのは、もう一つの甘えられない独特の形態なんですよね。
先日お話しした自己愛っていうのはこういうことだと思うんですよね。
甘えられない自分に対する強烈な怒りがあって、
その怒りを他人に対して振りまいているっていう傾向を感じるんですよ。
なるべく特別扱いしろってことなんですよ。
ものすごくやっぱりこれも甘えがあって、しかも甘えられてないっていう話だと思うんですけれども。
だから、素直に甘えられないというのはそうかもしれないんですけれども、
でも実は素直に甘えるのが簡単な分野っていうのがいっぱいあって、
言葉を使うのがそうだし、物を食べるのがそうだし、やっぱりトイレに行くのがそうだと、
あと眠るのがそうだと思うんですよね。
この辺は確実にそうだと思うんですよ。
ここだけで基礎的な部分は全部満たし得るはずなので、
だってこれの繰り返しで生きていくことはできますから、原則として。
だから僕らは満たされているはずなので、あとはもう情緒的な問題なんですよね。
これを満たしてはいけないものなんだと思っていないかどうかというのを内面的にチェックしていく。
そして装的に防衛しないってことですね。
特に人と交渉するとかそういった時に、
いやあいついなくても俺平気だもんねってやつですよ。
人に甘えるっていうのが面白くない時に、これを必ず使い始めるんですよね。
僕なんか特にそうだったんですよ。
爺さんとかにこれだけ世話になっていて、
彼に甘えて生きている部分って僕大きいのに、
それがいや年下だし、ベルリンだし、ベルリン関係ないんだけど、
それが面白くないとなるとですね、
爺いなくても全然これまで本で生きていたしみたいに思う。
これが装的防衛だと僕は思うんですよね。
無理やり自分を元気にして、ある程度イケてる存在みたいにして、
そういう認識を自分に覆いかぶさせることによって、
自分の内面の甘えを満たしたいっていう部分と、甘えずには生きていけないっていう部分を封印しにかかるんですよ。
僕のやった経験ではですね、これで生きるというのは、
その分非常に困難にするだけでなくて、
結果として何も良いこと生まないんですよ。
ついでに言うと、誰もこれを評価さえしてくれない。
ここは結構僕は当然と言えば当然なんだけど、
これをやってる時は当然だと思ってなかったんですよ。
こんなに空元気感はあったから、空元気まで動員して、
そして結局例えば金銭的に無理が出たり、人間関係が破綻したり、
こういう苦しみを感受して、
それこそ受け止めてまで頑張ってるのに、評価しろよみたいな気持ちになってくるんですよ。
装的防衛で頑張ってるじゃんみたいな。
甘えられないということのひねり方
これは昔はグッドワイブスというものでやろうという風に考える以前に、
一番僕がある意味無理すぎを世の中に通したかったことの一つですね。
単に装的防衛をしていたっていうだけじゃないですよね。
装的防衛に誇りを抱いてたところがあるんですよ。
自立感があるからこれには。
だから俺装的防衛でやってるんだからもっと褒めてよっていうような感じ。
だって人とわざわざ縁を切って孤独になっても生きてるじゃんみたいな、
なんかこういう不思議な感じを僕は持ってたんですよね。
装的防衛はいいことぐらい。
なんつーのかな。
あんまり僕自身やったことはないんだけど、
よく物語なんかに親元を飛び出して、
こんな家出てってやるとか言って、
そしてその中で、
お前なんか一人で生きていけるものかって言われるんだけど、
頑張って一人で生きてみました。
お金も稼ぎましたって時に、
親に褒めてほしいって思うじゃないですか。
思わないかな。
そういう感じが僕の中にあってですね。
装的防衛をこんなにやってるのに、
ちゃんとガジェットとか、
なんとかメソッドとかを駆使して生きてる俺は偉いみたいな、
そういう感覚ってありましたね。
人じゃないものに頼ってる。
結局物に頼ってるんだけど、
物に頼る方が人に頼る人より偉いみたいな。
この甘えられないっていうのは、
すっごくひねくれちゃうんですよ。
やっぱりいろんな形でね。
ちょっとこの話分かんない人には、
かなり訳分かんないこと言ってんなこいつって感じがすると思うんですけど、
それは甘えられなさのひねり方っていうのは、
人にはなかなか分かんないってことなんですよね。
装的防衛なんてローゼンフェルドのでも、
タナトスですよね。
死の衝動ぐらいに言われていて、
内的ギャングとか書かれていて、
かなりけちょんけちょんに言われてるんで、
僕あれ読んでみて、
これ相当私のことだわって思ったんですけど、
あれは陰性治療反応っていって、
つまりですね、
いや俺カウンセラーなんかいなくても大丈夫だもんねっていう風に装的防衛を使って、
治療打ち切るから治療が行き詰まるわけですよね。
だから治療の行き詰まりと解釈みたいな、
そういうタイトルになってんだけど、
すっごい自分だわっていう、
見る夢まで似てるわっていう、
そういうことがですね、
あるんですよね。
だから、
だけども僕がすごくこう、
装的防衛で昔やめられなかったな、
やめる気がそもそもさらさらなかったという、
それによって自分が行き詰まっていてもですね、
なんか行き詰まっているからむしろ素晴らしいぐらいに、
つまりそういう困難を乗り越えられてきている、
みたいなそういう感覚を持ってたんですよ。
話がちょっと少しずれてきておりますけれども、
要は甘えられないと、
甘えを封印して、
自分は迷惑をかけてない不を装うというのは、
いろんなこう、
ややこしさをいろんな形で生むんだけど、
やってることはえらい複雑そうなんだけど、
すごいこう、
自分の甘えを肯定すること
無駄な遠回りっていうのかな、
すごいいらないうよ曲折をいっぱいやってしまうんですよ。
何のことはないじゃないですか。
あの、
いや、あの、
Jさんに僕はこう甘えてないとうまくいかないからって思っとけば、
それで済む話なのに、
えーと、
それができないんですよね。
すごく簡単なところで、
あの、
本当にこれはあちこちであります。
例えば自分の娘とかの時でも、
えーと、
なんていうのかな、
上手いタイミングで起こせなかったとか、
先に起きて、
お弁当用意できなかった時とかも、
いや娘に甘えておけば、
あるいは妻に甘えておけばそれで済むのに、
いやーだって最近ちゃんと毎日起きてるじゃんとか、
頑張りたくなっちゃうわけですよ。
自分が甘えたい、
甘えさせてもらっておけば、
それで収まる話を、
えーと、
余計なうよ曲折をいっぱいつけて、
あのー、
じゃあこれからはもう、
俺弁当作るのやめるから、
弁当買ってよとかやって、
こう、
親子関係をわざわざこじらせる方向に持っていくと、
そういうのもそういうので、
人間の、
こう文化だなって思わなくはないんですけど、
まあそうじて、
あのー、
無駄な苦労を自分に強いることになる感じがするので、
甘えたいんだってこと、
そして甘えたいんなら、
人が甘えたいと思うのは当然だっていうことと、
えー、
それを満たしていくっていうことが、
つまり自分の甘えを肯定するってことができるようになるので、
その時にすごい自分ってものが、
えー、
はっきり見えてきてですね、
周囲の中における自分ってものですね、
はっきりは見えないんですけど、
輪郭がこう浮かび上がりやすくなってきて、
すごくそれを生きさせやすくなる、
ということがありますので、
まあ、えー、
何か参考にしていただければ、
いいかなと思います。