2023-08-14 44:20

甘えによる万能感【GMV828】

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仕事と甘えを切り離さない。

サマリー

彼は考える仕事術についての話と精神分析を広めることに踏ん切りをつけた。彼は甘えの世界を理解し、甘えを提供し受け取ることは同時にしか成立しないことを説明しています。彼は仕事において甘えが重要であり、甘えの世界に入ることで仕事が楽にできると考えています。彼は甘えの世界に入ることで精神的な負荷を感じずに仕事ができると主張し、甘えの世界の成立は情報の交換や社会環境の活性化にも関係していることを述べています。彼はいつかやりたいことや気になることの洗い出しは、甘えの一種であり、抽象的な願望や不足感を含んでいると説明しています。また、その洗い出しには全意識が関わり、甘えることによって機能不全が引き起こされる可能性もあると指摘しています。彼は甘えにより一人では満たせない万能感を得るためには他人の協力が必要であり、甘えによる万能感は自己成長を促すものであると述べています。

私の考える仕事術
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
1月14日、月曜日、朝の7時44分ですね。
ほぼど真ん中ぐらいかな。ちょっとよくわかんないけど、でも多分そうですよね。その頃だと思った。
明日が8月15日ってやつですね。
台風が来るとかで、天気が怪しげなんですけれども、雨も降るし、めちゃくちゃ日差しが強いよりはだいぶマシ。
最近、ようやく踏ん切りがついたと言いますか、吹っ切れた感があって。
そろそろって言うのかな。そろそろってことでもなんでもないんですけど。
多分あれですね。8月26日の土曜日ですね。
土曜日に山崎孝明さんという方を、精神分析の人なんですけどね、ゲストでお招きするミニセミナーをやるんですよ。
これぜひ来ていただきたいと思って今喋っておりますが、これを企画できたというのが一つのきっかけかなっていう感じはするんですけど。
なるべくですね、わかんないですけど、これから今後この番組では、今僕がちょっと考えている、
僕が考える仕事術みたいなのを喋っていきたいなっていうふうにまず一つ思っています。
なるべくタスクシュートの話に偏るというか、ほとんどタスクシュートの話しかしてこなかった気がするんですけど、仕事術となると。
これはですね、今後は当然教会という形でやっていくわけで、
私があんまりどうせどっかで喋るに決まっちゃうんだけど、
呼ばれて喋るということはともかくとして、ここで一生懸命これについて喋ってなくてもいいだろうと思っているのが一つですね。
究極的には私のオリジナルってわけじゃないですしね。
私は多分ここにこだわるタイプなんでしょうね。
とはいえ自分のオリジナルが全然ない人間なんですけど、こだわる割には持ってないという。
この話は後ほどまたしますからいいとして。
もう一つが、これもそれこそオリジナルじゃないけど、精神分析を、
これはここで喋ってるのはもう散々喋ってるんだけど、
何らかの形で、一般的に特にライフハックとか仕事術の世界にこれを何らかの形で広めていきたいという、
そういうものを自分のもう一つの軸にしようという、そういう踏ん切りがついたっていうのがさっきのギレタってやつですね。
そっちの方が言いたいこととしてはメインです。
これはフロイトの何とかをがっつりやるっていうのではなくて、
例えばこの番組だからいいと思うんですけど、局所論というようなものをですね。
局所論って多分すごく局所論というもの自体が誤解されてる気がするんですよ。
だからそういう話なんですよね。
例えば長寿がって出てきた時だって、この言葉自体がそもそも微妙に納得されてるんだろうかっていう、
僕も納得してないんですけど、そういうことがあるわけで、
まして善意識となってくると、善意識って僕はすごい仕事術だなって思うんですけど、
仕事術に使えるなと思うんだけど、
多分善意識って言葉は、それこそね、昔の言葉みたいになっちゃいかねないと思うんですよね。
善意識っていうのは無意識とは全然違う話の言葉だと思うんですよ。
今から喋ろうと思ってることは僕の善意識にあるってこういうことなんですけどね。
今まで喋ってないってことですよ、まだ。
無意識じゃないじゃないですか。無意識にあるものは、今から喋ろうとかは思えないんですよ。無なんで本当に。
無ってのはすごい大事なんですよね。
だけど、善意識にあるものはこれから喋ろうと思えば喋れるわけですよ。
だから、それはでも意識にあるのかっていうとまたちょっと違うわけですよね。
忘れずにこれから、例えば私今日の昼ぐらいにセッションがあるんですけど、
誰とやるっていうのが明確に今意識はできてない。
でも意識しようと思えばすぐ確実にできる、これが善意識なんですね。
意識してないから無意識だってことにはならないってことですよね。
こういう話は私はですね、仕事術に出てくると思うんですよ。
出し得ると思う。そしてとっても大事なことだと思うので、こういう話もやっていこうというふうに。
どうやっていけるかの形はまだこれから考えるとして、
ポッドキャストで喋るだけではないところで頑張ろうとノートで書いてるんだけど、
これもあんまりポッドキャストと変わらないんじゃないかっていう感じなんで、
もう少しカッチリというのかな、自分の仕事としてやれる形を模索しようと。
それはずっと今までもやってきたことなんだけど、はっきりそういう意識にしようということですね。
プラス、そうなるか分かりませんけどこのポッドキャストもですね、
常識的な時間の範囲内にしようと。
68分とか70何分とかやめようってことですね。
それで今日はですね、さっきCMもしたことだし、
26日はぜひお願いしたいんですけど、オンラインでもですね。
もしその日、申し込みはしたけれども参加はできませんという方には、
アーカイブ配信の方もしようと思います。
ただしこれはアーカイブ単独でそれだけを販売するということはしません。
そういうことになっています。
つまり8月26日以降はこれの動画を入手することはできなくなりますよということですね。
今日したいのはですね、早速スクシュートを使ってもできるけど、
使わないとしてもですね、自分のこの仕事術的なものはできないわけじゃないので、
何をしてどうするっていうことはないんだけど、
仕事術というような話で発信していきたいと。
軒橋機とは言いませんが、そういうことですね。
で、これも全然オリジナリティの欠片も感じられないなと思うんですけど、
2軸僕は持ってるんだなっていう。
いろんなものが他から出てくるんだけど、
ゆえと言われれば2つだなっていうのがあるんですね。
2つ、今ここを起点にすると。
これもどっかで聞いたような話ですけど、
とりあえず私がここが一番僕の中軸になってるなっていうのが1つこれ。
今ここだけを起点にする。
甘えの世界の理解
もう1つが甘えを了解する。甘えの世界ってことですね。
これももう既にこの言葉はどいたけおさんが、
そもそもどいたけおさんが発明した言葉ではないですけどね。
甘えを了解する。甘えの世界を了解するな。
で、こっちからいきたいんですけどね。
甘えの世界の方から。
先日ツイッターでなんですけどね、
動画を発見したんですよ。
よくある動画なんだけど、
ちっちゃい男の子がね、1歳半なのかそうですけどね、
お相撲さんとお相撲を撮るという。
まぁお相撲撮れませんけどね、歩くことはできるんで。
1歳児半の子がちょちょちょちょって言って胸をちょんと押すと、
でっかいお相撲さんがゴロンと倒れると。
で、みんなで拍手するっていう。
これはね、相撲の巡業ではよくやってる出し物みたいなものの1つなんですよ。
まぁ結構ほのぼのとして笑いも取れて。
まぁなんて言うんですかね、出し物みたいなもんですよ。
これがですね、私は見た瞬間にこれが甘えの世界だと思うんですよ。
で、これ見てヤオチョウじゃんっていう人って多分いないと僕は思う。
これとヤオチョウって違うんですよ。
で、甘えの世界というのは、
まず誰でもすぐに気づくのは、この男の子は甘えさせてもらってると。
本人が自覚していないんですけどね。
甘え、これぞ甘えだって、まだ彼は甘えって言葉を知らないから。
これこそが甘えだなんて考えてはいないんだけど、
なんかこれをやると気持ちもいいし楽しいし、
いい思い出になるし、うまくいけば記憶に残るわけですね。
これが甘えてるってことです。
で、ここにですね、お相撲さんが甘えさせているものとして出てくるんですけど、
ゴロンと倒れないですからね。
でもこのお相撲さんは、じゃあ提供のみしてる側なのかっていうと、
僕はそうは言えない感じがするんですよね。
このお相撲さんはこの世界の中で明らかに楽しんでいるわけですよ。
周りで手叩いてるお相撲さんたちもいるんだけど、
なんて言うんですかね、
ここにはですね、ある種の、
ちょっとビジネス用語っぽく言うとウィンウィンがあって、
ウィンウィンって言うと変なんだけど、
ウィンウィンしかないんですね。
で、この世界の中では甘えさせる人と甘えさせてもらっている人が
いかにも両者が別々に甘えが提供される子、
1歳の子が甘えを提供してもらっていて、
その周りの人が甘えを提供している感じはするんだけど、
でも面白いことに言っているのかな、
この1歳の子がいなくなると提供することはできなくなるんですよね。
そうですよね。
ゴロンと倒れても何の意味もなくなっちゃいますからね。
だから1人ではこの世界は成立させられないんです。
甘えの世界に入るためにはですね、
甘えを提供してもらう人、
つまりこの1歳児に相当する人の存在が欠かせないってことになるんですよ。
だから甘えの世界というものを享受するためには、
甘えさせるっていう行為が欠かせなくなって、
甘えさせてもらうっていう人も必ず必要になるんですね。
だから甘えというのは同時にしか成立しない世界ですよ。
2社以上、2社最低2社。
2社でやるのは実は簡単じゃないケースが多いんだけど、
2社は絶対必須で、
甘えの提供と受け取り
2社いてしかも同時にしか成立しないんですよ。
だから今ここなんだけど。
甘えの世界というのは多くのですね、
この話が特に提供という話になった時、
情報発信とかいう時に、
なぜか普通多くの人は空想の世界にしてしまってるんですね。
提供することだけができる人がいるんだっていう考えを持ってるんですよ。
各種っていうのはそれの延長線上にあるんだけどね。
提供される人の存在というものがない。
提供ってできないんですよ。
特に甘えはそう。
だから甘えというのはその世界の中に入ることだと思うので、
実は甘えそのものを誰かが提供すること自体できないんですけれども、
甘えというものは、
だからさっき私は甘えの世界の了解と言ったんですが、
了解でもそれこそ受け取るでもいいんだけども、
これは同時にしか絶対起きないんですね。
先日この話を3ヶ月チャレンジのグループセッションの中でしていたらですね、
ライブの話が出てきたんですね。
ライブって全くそうだと思うんですよね。
ライブって一体感みたいな話が出るんだけど、
僕はあれは基本甘えの世界だと解釈するんですね。
で、あれをやってる時って、
特に有名なアーティストとかだった場合、
私詳しくないですけど、有名なアーティストとかだった場合、
提供する人がアーティストだみたいな発想ってあるじゃないですか。
歌を歌ってる人だと。
僕それでもすごく無理があると思うんですよね。
提供している歌を歌ってる人だけが、
ただ自分の部屋で歌を歌ってても、
ライブにならないんですよ。
ライブというものを提供するためには、
そこに聞きに来る人が最低一人は絶対必要だと思うんですよね。
つまり提供されると言われている人。
この提供される人がいないと、
ライブというものを提供するってことは成り立たなくなるんですよ。
これも倉園圭吾さんがGood Vibesで、
与えられるって話で繰り返しおっしゃってる、
ギフトって話でおっしゃってる話なんですけど、
甘えも全く同じなんですよね、この点について言うと。
甘えの世界というものを、
そこに成立、出現させるってべきかな。
ライブがそうなんだけど、僕の感じでは。
あれを出現させるには、支手がいるんですよ。
参加者でもいいんですけどね。
絶対どんなに上手いアーティストが、
どれほど素晴らしい歌を歌ったとしても、
一人で歌った場合は、ライブには足らないと思うんですよね。
それは何か別のものになると思うんですよ。
支手がゼロである。
だからありますよね、そういうことは。
なんか知りませんけれどもあると思うんですよ。
一人だけで歌うことってのもあると思うんですよ。
ただそれはライブとは言わないと思うんですね。
この関係が全仕事に適応できるって思うんですね。
全ての仕事はこういう構造を何らかの形で持っていて、
甘えという世界を出現させて、
自分がそれを享受したければ、
必ず甘えさせるという立場がどこかに出てくる。
必ず出てくる。
実際その一歳児の男の子もそういう意味で、
お相撲さん達を甘えさせてるんですよ。
だってあの子がちゃんと幼いと、
どうしようもないじゃないですか。
甘えの重要性
そもそもあの子の存在が必須ですよね。
あそこには欠かせない。
あの子がいなかったら無理ですよね。
親方とお相撲さん達だけで、いつもそうやって稽古してるんだけど、
だけであればああはならないですよね。
周りで大人の人達が見てても、
ああいう雰囲気を出現させられないですよ。
だから甘えをただただ提供される側の立場と、
提供する側の立場に、
二分することってできないんですよ。
甘えというのは両者で一体不可分で、
しかもその世界が出現するような感じの
体のものであって、
そこに渡すものと渡されるものの
関係は成り立ってないんですよ。
実際にはね。
目で見た感じはそうじゃないんだけど、
だから母親が子供、赤ちゃんを一方的に甘えさせる
甘えの世界ってないんですよね。
必ずこれは両者がいて初めて出現する世界の中に
両者とも入っているっていう感じの
僕のイメージではそうなっています。
だから私は仕事するときですね、
仕事術っては言わないかもわからないですけど、
仕事術の話にもこれを要するに持ち込みたいわけだけど、
僕は。
仕事やるときは全て甘えの世界に入るって考えるのが
ベストだと思ってるんですよ。
これができるようになれば先送りって消えると僕は思うんですよ。
あの少年がちょちょちょってやって
ちょんとやってコロンってやるあの相撲さんが
いやコロンするの鬱陶しく疲れるから今やってらんないなって思わないんですよ。
甘えの世界ってそういう風になってないんですよね。
不思議なことに。
何か甘えの世界というものが拒否したいと思ったときには
僕はすでにそこには一種の精神的な
障害に近い心理っていうのが働いている。
だからよくよくこの話もするんですよ。
邪魔されたとかね、搾取されたとか。
全て甘えようとしてうまく甘えられていないときの
言葉の表現であって
実際に甘えるという世界を
それを哺乳類は拒否したいと思わない生き物だと思うんだけど
拒否したくないときにはですね
仕事というのは
これといった苦労がそこで疲れないとか
全く体が痛まないとかそういう話ではないんだけど
でもいつも感じるような精神的な負荷は
たぶん全く感じないで済むはず。
現に私はですね
これができるときとできないときが今ははっきりと
少なくとも区別はできるんですよ。
どんな仕事をやっていてもですね
甘いというものの中に入れているというときには
くたびれるとか大変だとか後に回したいとか
まるで思わないんですよね。
ということ自体が奇妙な感じがするんですよ。
私は甘えられない仕事だったら
やらなくていいというふうに思うので
基本的にはですね
先送りとか精神的な負担とか
ストレスとかって悩む理由って一つもないんですよね。
甘えられない仕事っていうのは
今はやらなくていいって言ったんだけど
厳密に言うとやっちゃダメだって思ってるんですよ。
全ての仕事において甘えを成立させるべきだ
っていうのがまず僕の頭にあるんだけど
もしそれがどうしてもできないって言うなら
どうしてもできないというケースは今のところないんですけどね。
どうしてもできないって言うなら
それはやっちゃダメだなって思うんですよね。
それをやると自分も人もおそらく不幸にすることになる感じがあるんで
なんかね、あのお相撲さんの本当にいい
事例だったんですね。
あそこでお相撲さんが子供をゴローンって
次に倒したら、そんなこと絶対しないですけど
不幸になる感じがするじゃないですか。両者ともね。
甘えられずに仕事するってのはそういうことになっちゃうんですよ。
ほとんどの場合。
実際にはね、こじれているとはいえ
ほとんどのケースは甘えなんですよ。
こじれた場合でもね。夫婦喧嘩とかそうですよね。
誰が見ても外から見てると甘えてる感じがする。
そういう意味で救いがない恋ってほとんどないんですけど
甘えという観点を通してみると
救いのない恋ってのはですね、もっとめちゃくちゃなんですよ。
本当に。
ありえないなって行動になってると思うんですよね。
だから夫婦喧嘩なんていうのは、いわゆるかわいいものってやつで
甘えてるんですよ。完全に。
外の目ではすぐにそれが見て取れるんで。
甘えてない恋ってのは本当に怖いんですよね。
人間の恋で甘えがないってのは本当に
プーチンみたいにそれこそになっちゃうんで。
あそこまで行くと甘えがないなって。甘えてるんだけどね彼も。
でもあそこまで行くともう見えなくなってくる。
ああいう恋ってのはやっぱ恐ろしいわけですよ。
人間の恋としてはですね。
非常に人間らしさというものが
希薄になってるというのかな。見えにくくなってる。
それはイリュージョンのせいなんです。この辺はグッドファイブスの用語になっちゃってますけどね。
そうなんですが
通常は現れない。ただ
普通に甘えられる方がいいに決まってるんですよ。
こじれた甘えとかより。こじれた甘えっていうのは
要するに日本人の表現を使う。
よく日本的な表現を使うのは見苦しいってやつが出てくるんで。
苦しいんですよ誰かが見てて。
そういう問題がなくはないんでですね。
その苦しさはそれこそイリュージョンなんですけどね。
まあこの辺はいいとしてとりあえず原則ですね。
原則としては甘えるという方向で行こうと。
そうするとですね。
すごい楽に仕事ってできると思うんですよね。
この番組の前回の時に
迷惑って言葉を言いましたけど
ここを僕ら日本人は特にですね。
甘えというものの文化がすごく成熟している文化に
実は生きてるので迷惑ってことを
すごい恐れているところがあるんですよね。
これは甘え文脈で言うと迷惑というのは
要するにこうなんていうんですかね。
上手くない甘えなので大した問題じゃないんですよ。
それを僕は昔
それこそ江戸時代くらいの日本人には
これで了解されてただろうなと思うんだけど
今の方がよっぽどこういうのが難しくなっているところがあるんですよね。
それは自力ってことも
こだわりすぎているんだと思うんですよ。
もしあの一歳児の子が本気で
お相撲さんを倒せないとダメなんだって思ったら
それはいかにも無理な話になっちゃうんじゃないですか。
それを僕らやろうとしているところがあるんですね。
なんていうんですかねこれはね。
甘えというものを認めない世界なんですよ。
仕事の中で甘えを認めないということをやりだすと
あの一歳児の子は
自力であのお相撲さんを倒せないとダメになっちゃうんですよ。
しかもできないですけどそれは。
できたとしてもそれは
あの甘えの世界ほどのものは誰も享受できないんですよ。
僕らそういう方向に時々シフトするんですよ。
だから多分とっても苦しいんですね。
あの子がトレーニングを始めるような世界なんですよ。
それの方がいいっていう風に
甘えの世界に入ることでの利点
何か最近誤解されていると思うんですよね。
それが西洋流だとか。
全然関係ないですよ。西洋とか東洋とか本当は。
だから
契約というものを通すとね
この甘えがなくて済むんじゃないかっていう風に
考え始めるんですよ。
それの多分ですねある種最たるところが
昔DHロレンスの小説にそういうのがあったんですけど
一人で生活するってやつ。
伝統的にあるんですよね。人里離れたところで暮らすみたいな。
でもそれは人に甘えてないだけで
物に甘えてますからね。自然とかね。
自然に甘えるっていうのは多々ありますよね。
ただこの自然に甘えるっていうのだって
そもそもその人多分知識に甘えてるんで
全然意味なくはないかもしれないけども
やってることの独立性というものを言うんだったら
言葉使っちゃダメだと思うし
知識もダメだと思うし
そもそも自然に甘えるっていうのもどうかと思うんですよ。
結局それは同じようなことになってしまうんだろうな
という感じがします。
甘えは100%の依存じゃないということが
さっきのライブの話では
一応納得できるんじゃないかなと思うんですよ。
これ歌を提供する側にもあるとすぐ分かるんですけどね。
僕のこのセミナーとかでもそうで
ゼロだったら悲惨なものとは言わないですけど
寂しいものですよ。
非常に甘えられないっていう感じになるから。
だから情報を提供する人と
それを享受する人ではないってことです。
そこには甘えの世界の成立というものがある。
甘えの世界と情報の交換
そこで情報の交換がおそらく
行われる人の営みとしてみたいな感じ。
そういう感じで実体はそれに
間違いなく近いと思うんですよ。
同時じゃないっておかしいですから。
だから動画配信とかになってくると
少し寂しさが出てくるわけですよ。
動画配信って同時じゃない感じがするから。
本当あれ同時なんだと僕は思うんですけど
そこにタイムラグを作ってるだけで
同時であるべきっていう立て付けの中で
タイムラグが起きてくる。
代わりに同時感が薄れるんでどうしてもね。
シンクロしてる感じが薄れるんで。
甘えってのはシンクロが非常に大事ですから。
ババちゃんがおっぱいするときに
シンクロ以外は考えられない。
でもやっぱり母乳を哺乳瓶に取っておくってことができますよね。
そしてそこに利便性がありますよ。
人間はそういうことを開発してるんですけれども
そのとき何か甘えの世界というものを
よくしてるっていうことだけは
意識しておいてもいいと思うんですよ。
そしてそのほうがベターではないってことなんですよ。
それは良くて同じだってことですね。
事情があればそれができたほうがいいことは多々あるんだけれども
それによって分かりにくくなるんですよ。
あんまりやられなくなるわけじゃないですよ。
母乳を飲むわけだからね。
これが一つなんですよ。
こういった一瞬の変化としてある何か
作っているやり方として何か
いろいろある点を変えていくってことなんですけど
今パーソナリティで拡大しているそうです。
いつもこういう入力について
やっぱり人間は事前に心を混ぜやすくして
社会環境のシークジルの活性化を拡大させると
これから仕事に入るのに仕事する 気がなくてなんかyoutube見ちゃいます
と 仕事における悩みというのは 特にリモートになってからこれ
しかなくなりつつあるんじゃない かなって思うんですよね 上司に
言われたのが気になってっていう のもありますけど 結局気になって
仕事に集中できないっていうのも 言ってることは同じで これから
やるとなってる仕事に 特にタスクシュート だとこの表現は明確になるんですけど
ネクストアクションに手がつきません って話ですよね これはさっきまで
の自分と今の自分が同一だと考える ことにこだわりすぎていると思うん
ですよね 僕も時々しゃべってて 言いますが 起きてから3時間です
とか この感覚を消してしまえば いいんですよ 起きた人格 起きて
しばらく気渋して歯を磨いたり 食事の準備をしたりする人格と
今 これをしゃべってる人格が全然 別物なんですね だから今 この人格
が始まったと捉えれば このときに しばらく前にSNSをチェックする
というのも 起きてすぐチェック する人って結構いるじゃないですか
こういうふうに新しい人格が登場 したときは その人格がしたいこと
ってあるわけですよ ここを脱線 とか言って これを脱線って言う
ってことは 本来の人格は1人である べきだって考え方があるんですよ
起きてる間中 僕それは相当無茶苦茶 だと思うんですね 今ここごとに
今ここごとっていったら分かり にくいとすると ある時間帯ごとに
少なくとも1,2時間おきぐらいには 人格が変転していくんですね 移り
いつかやりたいことと甘えの関係
変わっていくんですよ だから新しい 人格が登場したら その人格がしたい
ことをさせてあげないと どうしよう もなくなってしまう 他の人格は
全部従属しろって話になります からね 起きたときの人格がのきば
さんだとすると 佐々木翔吾の中に ある全人格はのきばさんの部下
として動けってことになるわけ ですよ そんなことに同意しないん
ですよ このポッドキャストでも よく言ってますけど あれは僕が
別に言ってるわけじゃなくて 養老先生 とかに本読めばすぐ出てくる
養老たけしさんとか 脳にセンター はないんですよ だからどの人格
がこの線を決めるとか 本線を設定 するってことは許されないっていう
か どうせ認められないんです そこにあまりにこだわると ただ
脅迫神経症になるだけで 多分 脱線をゼロにするなどということ
は効率的でないだけでなく 無理 なことなんですね そもそも 脳の
状態というものが急速に動く瞬間 というのと 少なくとも止まってる
瞬間ってないですから 常に動き回 ってるわけで しかもそれこそウッド
ワイブスなんですけれども 同じ 状態に脳は決してなりません
から 同じような状態だと人間が 定義する状態を再現することが
できても どの人の脳の中も神経伝 達物質の流れを僕 今イメージして
るんですけど 雲と同じですから 同じ状態には二度と再現されません
から つまり同じ心理で何かに取り 組もうとするのは無理なんですよ
というか 原理的にそういうこと は起きてないってことです 必ず
何らかの形で少し違った脳が私 だというものと 多分脳と違った
ものは深く関わってると思うん だけど 強い相関を認めるならば
同じ自我で同じ仕事に携わるって ことは二度とできない だから本
戦決めてもそういう意味では全く 意味がないんですよ その本戦って
のは前の人格が決めたものであって 今からやる人格には関係ないもの
少なくともすると本戦ではない ので そこに線はないわけですから
だから こういう考え方ってのは どこかで限界がきますので 僕が
その限界と見積もるのは最大で 4時間かな 平均的に言うと最大で
4時間っていったところ 4時間持つ ことはほとんどありませんけれども
4時間がいいところだろうと思 うんですね だから 普通は2,3時間
2時間ぐらいで変化してしまうので 2時間経ったらファーストタスク
は切り替えるべきだと思うんですよ 一番最初に起きて歯を磨くのが
ファーストタスクだったならば それが起きたのが6時だったら8時
のファーストタスクはもう別に 設定しないとどうしようもない
ってことですね 基本だから今 ここを軸にするっていうことになる
しかないと思うんです 前にやろう と思っていた話 タスクとかリスト
とかそういったものは全部 全意識 なんですよ さっき途中で言いかけた
思い出そうと思えば思い出せる でもそれは思い出してるだけで
私がこれからやろうとしてること と関係ないんですね これが2軸になる
わけです 例えばこういう話の中で これはこれだけで成立しそうな
ものなんだけど 例えばじゃあGTD というタスク管理のあるいは仕事
術で言われているサムデイリスト とかはどうなのかという話がある
かもしれない いつかやりたいこと ですね これはいつかやりたいっていう
そのいつかっていうのが いつでも いいんですけれどもいつかなんだから
本当にいつでもいいと思えてる かどうかっていうのがまず 最初に
考えるべきポイントかなと私は 思います いつかやりたいことって
言ったときも これが多くの人は ただこの言葉通りにはやってない
と僕は思うんですね いつかやり たいことに 例えば福祉をくっつけ
ちゃうんですね 福祉っていうのは とてもとかそういう言葉で いつか
激しくやりたいこととか言ったら もうだいぶなんか雰囲気変わる
じゃないですか いつかやりたい ことっていうのはどういう文脈
を持ってるのかがすごく大事だ と思うんです 例えば いつか子供
にやってあげたいこと 結構ダメ じゃないですか 例えば いつか
子供にミルクを飲ませてあげたい か かなり怖い感じがしてきます
よね これがでもね 例えばそうだな 福祉きちんととかを入れるとどう
なる いつかきちんと子供にやって あげたいとガラッと変わります
よね なんか この親御さんは相当 子供思いだなっていうニュアンス
も出てくるじゃないですか だから いつかやりたいことっていう
のはすごく抽象的で いつかやり たいことって言ったときに その
人はどういう思いをそこに込めて いるつもりでいるのかによって
そのいつかっていうのは そして そのいつかは果たして実現されなければ
いけないものなのかどうかまで 含めて ものすごく変わってくる
なって思うんですよね これも僕は 甘えの一種なんだと思うんですよ
私だけ年をとっているみたいだ っていう漫画 最近時々口にして
いますけれども ヤングケアラー の話ね あのお母さん統合主張症
なんですけれどもね だから娘さん がヤングケアラーになっちゃって
もう本当すごいんですよ 家のことは やるわ 弟の世話はするわ 学校の
勉強もするわで それでプッツン きちゃうっていうか 燃え尽きちゃう
感じなんですけれども だから自我の 成長というのはすごい難しい問題
をそういう時は本当にもたらすん ですけれども ある意味無邪気だった
からできることってあるんですよ ね 無邪気なほうがものすごく有能
に感じられることってのもある わけですよ それはそれとして あの
お母さんが娘のために部屋ごみ屋敷 みたいになる これもよくあること
なんですけど 部屋ごみ屋敷みたい になっちゃうわけですよね 現実
原則というものが弱いので あの お母さんは すごく快楽原則 快楽
原則はほとんどない快楽原則 で 普通ばっかりの快楽原則の中に
生きていて 娘さんが成長してから 大きくなってくるんですね 部屋
の掃除を一緒にして お母さんこれ 何っていうところから ちょっと
感動的な話がいくつか出てくる わけですよ あなたのためにそれ
用意しておいたノートとペンなんだけど みたいな そういうのがしまって
あるわけですよね これはいつか やりたいことですよ これもいつか
やりたいことかな こういういつか やりたいことっていうのは 結局
行われなかったんだけど 子供の 時のための 自分の娘のためのノート
とペンじゃないですか 統合書帳 だから うまく機能しないわけですよ
買っといて用意しておいてあげ ても それをちゃんと適切なタイミング
で持ってきて 娘に提示できない わけですね そういうことを忘れ
ちゃったりもするし 何らかの 理由でできなかったりもすると
こういうの簡単にできるっていう の 実はすごいことなんですよ これ
洗い出しと甘えの関係
をすっごく賢い 例えばボノボチンパンジー でやれって言っても無理じゃないですか
人間の知能っていうのは極めて 高いんだと思うんですよね そういう
やりたかったことっていうのは 何にも機能しなかったわけですけ
ど ただ入り込んでしまっておいた から でも娘さん見つけたじゃない
ですか なんか思うところあります よね こういうときって だから
いつかやりたかったことっていう のは いつかやりたいことっていう
のは大事なんですよ ただそれが 実行されればいいってもんではない
と思うんですよね いつか子供の ためにきちんとやりたかったこと
っていうのがあるわけですよね それは あるだけでは意味がない
かっていうと そうでもないなっていう ふうにああいうシーンを読むと
やっぱ思うんですよね 彼は確かに 甘えの世界だと僕は思うんですよ
娘さんちょっと感動してました から そういうことってあり得る
と思うんですよね まずこれを意図 してこんなことやったはずない
じゃないですか 娘がいつかこれを 探し出してきて感動してくれる
だろうと思ってるわけでは全然 ないわけですよね たまたまそういう
ことになる でも こういうことを やってあげたいなという思いは
そこにあるわけですよね 本人 は忘れていて 娘さんは知らなくても
だから いつかやりたいことという のは どういう意味なのかっていう
のを いちいち考えることが大事 だと思うんですよ GTDのように洗い
出し 気になること全部洗い出し なさいってやると 私はここに制限
を必ずかけるようにしているんです けれども これが他人のためであり
かつ 明示的にまとまれたことだけに 絞ったほうがいいって言うんだけど
適当に洗ってると 目についた気 になることは全部あそこに昇って
きちゃうんですよね これはいろんな そこには要因があると思うんですけど
今のような話があると思うんですよ 一つは そうやって洗っていると
自分の子供のためにやってあげ たいなみたいな そういう願望が
上がってくるんですよ 僕はそれを 洗い出すほうがいいのかどうか
分からないなってよく思うんですよ ね どうせ洗い出したからってそういう
の全部できるわけないじゃない ですか そして 洗い出すタイミング
によって 何が起きるかも全然違 ってきますよね こうやって娘さん
がそれを認識して かつてただ買った だけのものなんだけど 一定の意味
を持つということもあるし 自分 だけで洗い出してると そういうこと
も自分やってあげられなかった なと後悔するかもしれないし そこは
分かんないですけども いろんな ことがそこで起こりうるんですよ
万能感と甘えの関係
やっぱり だから 洗い出しをする っていうのを一つとっても 僕ら
簡単じゃないんですよ どうしても そこに重いってものが大量に乗っ
かってきますから というか乗っからない ようなことは多分 洗い出そうと
思いませんもんね 洗い出しって 何をやるかっていうことになる
と あれ 気になることって ただ 何となくの言葉だからよかった
のかもしれないけど 僕 あれ 甘え だって思うんですよね いつも思うん
ですよ そこにある漠然とした 感じは すごく甘えの世界という
ものを思い出させる もうちょっと 専門用語チックに言うと いつか
やりたいことも含めて 気になる ことの洗い出しっていうのは 全意識
の洗い出しになっちゃうんですよ 全意識っていうのは 思い出そう
と思えば思い出せること全部だから そして そこにいろんなことが気
になっている人 つまり それはいろんな 甘えというものがそこにあって
いろんな甘えさせたいってことが そこにあって つまり甘えるということ
に対する不足感を抱いてるって ことなんですけどね 甘えきれてない
からいろんなことが気になっちゃう ってことなんだけど 気になるっていう
のと 覚えてるっていうのは 同じ じゃないじゃないですか これから
例えばですよ これから私がお昼 にセッションやるなと これは記憶
ですよ ただの全意識です そのために やっぱりこういう話もしてあげ
たいし ああいう話もしてあげたい し その場合 フロイトの本読んど
いたほうがいいと思うしってなる 人いるじゃないですか ものすごく
洗い出す項目が増えていく 全意 っていうこともあるんだけど 良心
的とか もう一つはやっぱり甘える ということが機能不全を起こしているん
ですね 自分が甘えてきたという 認識が薄くて 人を甘えさせている
という自覚もとっても薄いので いろんなことをしてあげないと
甘えの世界が成立しないような 気がする この概念を使ってない
から いつも自分は準備不足だ みたいな言葉になってるんでしょう
けれども ここには情緒的な不足感 みたいなものが僕は感じられる
と思うんですよ もうちょっと別の 言い方をすると 今日はこの週こういう
ことを皮切りにしてるからボンボン 出てきちゃいますけど いい加減
にしますが万能感なんですよ これは 万能感ね 万能と万能感を分ける
理由ってあんまりないんですけど ね 万能感なんですよ 1歳児のお相撲
さんころんやった子のことを考えて みてほしいんですよ あの子万能
感は持ったじゃないですか あやって ちょんとつくところんと大きな大人
が倒れてみんなで拍手してくれる なんかよく分かんないけど自分
甘えによる万能感と一人での満足
万能な感じがするじゃないですか これを僕らはずっと持って 特に
仕事の時はやんないとダメだと思 うんですよ この万能感を成立させる
ためには1人では無理なんですよ 絶対に 多分ライブをする歌を歌う
人もそれを聞きに行く人もこの 中で万能感を得ると思うんだけど
それは僕は甘えの教授って言っても 同じだと思うんですけど それは
1人では無理なんですよ やってくれる 人が必ず必要なんですよ これが
いやそれはわざとらしいよ八王朝 っぽいよって思う人は自分がいかに
甘えられていかに甘えを認識できて ないかってことをよくよくこれを
考えましょうねって言ってもあんまり しょうがないんですけどね これは
むしろ万能感を実感するほうが よっぽど早いんだけれどもね 自分の
中で甘えちゃダメなんだと人の甘え も許しちゃダメなんだという邪魔
と搾取みたいな考え方 あるいは 迷惑みたいなものを大量に用意
してきていろんな甘えを禁施している からそう思うんですよ その世界
に生きるってのはすごい大変な ことだし 全部自力でやらなければ
いけない どっちにしてもできないん ですけど いっくら歌の練習をして
いくら天才的に歌がうまくなっても 自分が提供する一方のライブって
作れないんですよ それって非常 におかしいですからね やってて
とっても奇妙なものになると思います もしそういうものをやれるとすれば
ですけどね これと同じことでも 情報提供とかいったときにはできる
という考え方を僕らは持つんですね そこに不充足感が必ず現れます
自分は万能じゃないんだって感じ を持ちますから そして万能になろう
としますからね 万能感が満足 できないときってのは つまり
その1歳の男の子が いや僕は倒してない 勝手にあっちが倒れてくれたんだから
倒せるようにトレーニングしよう って言って頑張っちゃうような
ものなんですよ でもそれをどれ ほどやって本当に快力を身につけて
もあれと同じものは得られないん ですよ そのことは常々考えておく
必要が自分特にあるなと 私は特に あるなってよく思うんですよね
だから仕事っていうのはすべから く甘えだし 善意識を洗い出した
ときにですね これはもっとこう やんなきゃ あれはもっとこうやん
なきゃっていうのは万能感が充足 できてない 甘えられてないっていう
証拠だとしか思えないんですよね だからそれは甘えられてる人から
すると 善意識全部思い出しても 気になりはしないから 気になる
ことリストに上がってこないと思 うんですよね いつかやりたいこと
万能感にとっての甘えと善意識
っていうのは やればいいって話 ではないんですよ 気持ちを満た
したいというのは どこでどんな ふうに これもやっぱり一人では
できないってことですよね 子供 が成長して これお母さんは私の
ためにとっておいてくれたんだ なって言って感動しているっていう
のは 作ろうとしてもできないん じゃないですか そのいつかやり
たかったという思いは そこでちゃんと 生かされる形を取れていたわけ
ですよね それを意識的に作ろう としても せいぜい適切なタイミング
で子供に提示するっていうこと それはそれでいいんですけどね
でもその場合はいつかやりたい こととは違いますよね こんな
ふうに私はなっていると思うので やりゃいいんじゃないと思うん
ですよね だからやっぱり甘えの 世界みたいなものを意識して万能
感というのを満たそうと これを 一人でやろうとすると万能空想
になっちゃうんですよ これが僕は 一番 これは明日以降に回します
けど 僕らを著しく精神的に損なう 万能空想っていうのが一番僕が
お勧めしないといいますか まず 何かでつらい思いをしているなら
真っ先に手放したらいいと思う のが万能空想ってやつなんです
それは一人だけで万能感を満た そうとしたときに 絶対必要になってくる
何かは空想なんですね
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