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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
全くモーニング感のない時刻に撮っております。
でも、配信はモーニングにしたいと思っています。
色々試行錯誤の真っ最中といったところですね。
時間は、色々狂ってくるわけですね。
色々ばっかり言ってますけれども、
今日はですね、昨日あった大事件の話をしてもいいかなと思っているんですが、
あまり言うべきこともないかなと思いまして、
全然違う話をしちゃいますね。
甘えさせるっていうテーマ、
しばしば本にも書いたんですけどね、
顔色を伺うの本に書いたんですが、
どうもこう、ややもすると、
僕の喋り方にも問題があるにせよ、
ややこしくと受け止められているなと思うんですよ。
実は非常に単純な話なんだと思うんですね。
つまり、例えばすごい大変に仕事でなってきたとか、
給食をせざるを得なくなったみたいな方が、
そろそろ復職するかなっていう時なんかに、
ブログなんかに書かれる内容によくあるのが、
もっと周囲に甘えてよかったんだっていうあれなんですね。
全くその通りだと思うんですよ。
だけれども、そこまでいってしまうと大変なので、
その前に私は手が打てると思うんですね。
そこまでいってしまうというのは、
私の感覚では、つまりそれは
グッドワイブス的な表現を使うと、
イリュージョンが濃すぎると思うんですね。
この言い方は分かりにくいかもしれないんですけど、
私はやっぱりそういうふうに思われるんですよ。
あまりにも固定したものの見方が強くなっていて、
それが現実を侵食し始めている感じがあるんですね。
あそこまでいくと、
それこそ倉園さんのセッションを数度受けるぐらいしないと、
なかなか現実を見に行く気にもならないっていう話になりかねないので、
その遥か手前のところに甘えさせるっていうのがあるんだと思うんですよ。
もっと甘えてよかったんだっていうのは、
つまりそんなに甘えてなかったって話じゃないですか。
そして、どうしてそんなに甘えることができていないのかというと、
人には甘えは許されないというのがあっちりあったからだと思うんですね。
私が本の中で繰り返ししつこいとしか言えないほど書いたのは、
甘えは悪いものではなくむしろ必要なものだっていう、
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あれが私の本のテーマで、今も基本これにあるわけですけれども、
甘えが悪いものだって思っているわけですよ。
なお、吸食に追い込まれてもなお思っているわけですよ。
もっと甘えてよかったんだっていうのは、
依然としてこれには限度があるっていう話をしています。
甘えるのにも限度があるだろうと。
ただその限度は自分が思っていたよりはもっとゆるくてよかったのかもしれない。
なぜならあんまり厳しいと病気になるからだってこういう文脈ですよね。
これでは私は全然本人の大変なことに違いはないと思います。
つまり甘えは許されないなんですよ。
甘えは許されないというのは、
私が人に甘えるのも、人が私に甘えるのも、
人が他人に甘えるのも全部許されないって話ですよね。
つまりそれは法ですよね。言ってみれば。
おきてですよね。
そのおきては誰が作ったのかというと、
誰が作ったのかはちょっとわからないにしても、
その場合は本人の心の中にあるんですよ。
あるいは脳の中にあるわけですよ。
どっちでもいいですけど、つまり長寿がいるわけですよ。
長寿がはもう私の自由にはならないんですね。
甘えが許されないというのは、
世間に実在するおきてみたいになってしまってるわけですよ。
だから私のことも騒ぐ。他人のことも当然騒ぐ。
つまり全然主観だと思ってないわけですね。
これは客観だと言ってるわけですよ。
その人にしてみれば。
これは甘えが許されないというのは客観であると。
私はそれに対して反旗を翻しているわけだから、
つまり甘えが許されるというか、
甘えというのは必須だというのは、
これが客観だとある意味では言ってるわけですね。
私の主観ですけどね。もちろん。
これはもう完全にバッティングしているわけです。
多くの方が、多くの方ではないかもしれませんけど、
あの本にまず一番否定的だったのが、
パワハラの上司を甘えさせてどうするんだと。
そういった話でしたよね。
つまり甘えるのには資格がいるという考え方なんですよね。
あるいは、ある種の人を野放しに甘えさせると、
悪がどんどん広がっていき大変なほどになるぞと。
パワハラの上司を甘えさせるなどということをすれば、
相手はつけあがってますます自分を搾取し、
徹底的に絞り上げ、自分を酷い目に合わせ、
それをどんどんあらゆる場所でやっていき、
やがて人々は滅ぶというような雰囲気になっちゃうんですよね。
これはつまりイリュージョンなんだと思うんですけれども、
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これをイリュージョンだというのは許さないぞという話ですよ。
言ってみれば。これはもう客観的事実なんです。
つまりパワハラという人間がいるんですという客観的事実なんですよ。
でもそれには多分私が思うに、根拠はその人の経験的な観測の結果くらいでしかないと思うんですよね。
そしてその種の人間がいるというふうに言うのも、
例えばそれはネアンデルタール人みたいなパワハラ人がいるって話ではないじゃないですか。
そもそも我々とはDNAが違うとかいう話をしているつもりはないと思うんですよ。
あくまでもそういうふうに見える独特の同じ人間がいる。
実はこれは結構根拠を示せって言われると難しい話になっていくと思うんですね。
ここで生きるものをしててしょうがないと思うんですよ。
だってDNA鑑定とかをしたってしょうがないじゃないですか。
大事なのはそういう人がいるかいないかではなくて、
つまり甘えというものは悪なのかそうではないのかという部分だと思うんです。
この話をするだけであれば、まずパワハラ人の方を甘えさせるというところから
チャレンジしなくても別にいいと思うんですよ。
一番問題になるのは、私たちが人を甘えさせてはまずいと思っているここだけだと思うんです。
例えば私が私の娘を甘えさせるとかだったら全然OKだとみんな思うわけじゃないですか。
ところがいざとなるとそう思えないときに私たちは話が無用な苦しみを得ることになるわけですよ。
意外とあるんですよ。
例えばこれからセミナーの準備をしなきゃいけないと言ったときに娘がお腹ゴロゴロするとか言ってきたときに
一瞬でもカチンと来るとかね、こういう方が私はよっぽど話が難しくなっていると思うんですよ。
パワハラ人を甘えさせるかどうかなどというのは抽象的な議論であって
もっとリアリティがある具体的な事態に直面するときというのは
意外に容易に甘えさせられると思っている人のことすら甘えは許されないんじゃないかと。
例えば娘の元気に登校しているときは自分も目を細めてさぞ甘えさせていると思っているんだけど
例えばその娘が何か意味もなく学校をサボるとか言い出したとき
こういうときに僕らは自分の甘え境みたいなものを試されていると
私は思うんですよね。
意外にそういうときに自分は厳しくなってしまう。
つまり甘えというのは条件次第であると考えるようになると。
そんなの当たり前のように思うと思うんですよね、今の世の中的に。
我々が育ってきた世の中的にも甘えとは条件次第だと。
でも甘えが条件次第というのはクラズノさんのGood Vibesでいうと
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信頼は条件次第というのとよくよく似てるんですよ。
全く同じではないんですけどね、厳密に考えてみると。
でもほとんどかぶってると思ってもいいぐらい。
この信頼が条件次第とか甘えが条件次第だと思っているから
いざというとき苦しむんですよ、自分が。
自分が給食したいという、主観的にはどう考えても会社に行ける体調ではない。
熱もあるしね、体も痛いし、とにかくどう考えても無理だ。
そんなときにすら甘えは許されないんじゃないだろうかって頭をよぎるんですよ。
だってあの大きなプロジェクトも自分が行かなければ進まなくなるし
そうすれば取引先にも会社にも多大な迷惑をかけることになるって
リアリティがある話でもあるじゃないですか。
そういうときに条件をつけてしまうと
条件をつけてしまうと自分はもしかすると
敗人になっても休めないっていう事態を招きかねないわけですよね。
こういうときに甘えが許されるかどうかということが試されるわけじゃないですか。
私はそういうときに甘えがそもそも許されるかどうかっていう表現を取ってる時点で
まずいと思うんですよ。
当然甘えられるじゃないと困っちゃうと思うんですよね。
ということはですね。
普段人を当然甘えさせておかないと厄介なことになるんだと思うんです。
多分人間というのは長寿がというこのフロイトが長寿がといったあの言葉から考えてもですね。
長寿がの正義ってやりほしいんだけど
でも長寿がという言葉が彼が発案し
そしてかなりの人に一時的に受け入れられた経緯を考えてみても
人というのは自分に適応したおきてを他人にも適応したくなるし
他人に適応してしまったおきては自分にとってもおきてになってしまうんですよ。
これを長寿がって言うんですよね。
自我を超えるものだから。
俺は人に甘えるけど人が俺に甘えるのは一切認めないよっていうのは
まず現実的には適応できないと思うんですよ。
人が二度寝しているとぶっ飛ばすけど俺は三度寝だってするよって
そうそう言えるもんではないってことなんですね。
大体私たちは人に厳しくしちゃったら自分に厳しくしちゃうんですよ。
これが長寿がなんですよね。
長寿がでよくよく出てくるのがトイレトレーニングなんですよ。
そういうもんじゃないですか。
人がトイレじゃないところでソソをしたら
思うでしょ。長寿がが発揮されてしまう。
そして自分もそれできないですよね。
長寿がというのは心の中にしかないんだけれどもおきてになるんですよ。
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そんなの当たり前だと人は言うんだけれども
犬とか見てみればそうじゃないのは当たり前じゃないですか。
これやってるのは人間だけですよね。
私は長寿がなんてものを持って自分で
それこそ破滅しかねないのは人間だけだとしか思えないんですよ。
猿がそこら辺でトイレトレーニングに明らかに反していたとして
それを恥ずかしいとは思わないじゃないですか。
恥ずかしいと思う思わない生物種全体で見たら
人間ってめちゃくちゃマイノリティですよ。
この文化的にちゃんとしろと。
言われている通りにちゃんとしないということが
まるで自然の規定に関して感じているように感じるのは
人間だけですよね。間違いなく。
だから人間は素晴らしいんだって言うんですけど
私はそうは全然思えないんですよ。
人間って相当奇妙なことをやってるなって
むしろ私なんかは思います。
だからといってそこらじゅうでトイレしてもらっていいって話にはならないんですけれども
でもこれは岩井さんのおかげで
いわゆる父親的な世界なんですよ。
父親的と言ってるのが男性だけって言ってるわけじゃないですよ。
ここに女性がどんどん入り込んできても何も不思議はないです。
ただ父親的世界なんですよ。
自然的じゃないってことですよね。
フロイトの言葉を使うなら快楽原理と現実原理で
快楽原理が自然的なんですよ。
現実原理が父親的。
ウッドワイブズで言うならば
自然と人工かな。
その辺だと思います。
みんなこのようなことはやっぱり考えるわけですよね。
でも最終的に究極的には自然の方に向かうしかないじゃないですか。
快楽原理に向かうしかないと思うんですよね。
父親原理が最後の砦になるってことは絶対あり得ないと思うんですよ。
やっぱりこれは人工的な掟ですからね。
どう考えても。
この甘えが許されないというのも人工的な掟なわけです。
しかもかなり手狭な掟なわけですよ。
これを他人にどこかで適用してしまうんですよね。
私たちは。
セミナーの準備が迫ってるのに
なんかお腹がゴロゴロするぐらいで学校行かないように
学校に行かなきゃいけないんですよね。
私たちはセミナーの準備が迫ってるのに
なんかお腹がゴロゴロするぐらいで学校に行かないようにしている。
娘は許せないみたいになるんですよ。
つまり甘えに条件をつけてしまう。
そうすると甘えじゃなくなるわけですよね。
ただの掟になっちゃうわけですよ。
こういう場合はニコニコしていられ
こういう場合は厳しく怒るというものになってしまうんですよね。
どうしてそういう線を何の根拠で引いているのかということですよね。
そして何の根拠で引いていたって全然構わないんだけど
必ずその根拠は自分に向かってきちゃうといったことが起こるわけです。
いつか必ずですね。
何なら自分が死ぬ間際とかにですね。
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自分が弱っているときほど
これでこれについて突きつけられるわけですよ。
だって自分が一番甘えたいときって
そういうときじゃないですか。
元気ではずらしとしているのに他人によくかかりたいと思わないでしょう。
他人によくかかりたいと会社でもいいんですけど、国でもいいんですけど
思うのは自分が一人で立っているのは難しくなっているときに決まっているわけですよね。
これが意外と早いタイミングでやってくるんですよ。
これが本人を驚かせるらしいんですけれども
多分意外に早いタイミングでやってくるんですよ。
これが本人に初めて
もっと他人に甘えてもいいんだという困った発言が出てくるんですね。
これは他人がもっと自分に甘えてもいいんだということを前提に含んでいないと
すっごい心苦しくなるはずですよね。本人にしてみれば。
これが私が本の中で
まず先に人を甘えさせなければ始まらないという風に
甘えるのと甘えさせるのは同時に成立するという話を書いたときに
強く意識していた点なんですね。
つまりそういう超自我を持たないということなんだけど
超自我は持っちゃいますよ、もちろん。
トイレトレーニングを受けるという話自体からしてもそうです。
いろんな意味で超自我というのはありますが
強めるべき存在じゃないんですよね。
弱めるべき存在なんですよ。
超自我を強めておけばQOLが上がるとか思うのは
とんでもない話だと思うんですよね。
だいたい楽しくないし、つらいし、
しかもその辛さは大して必要のないものだし
いいことがないわけです。
ほとんど物っぽくなるのは超自我の暴走みたいなのがほとんどだなと。
実際今ではそういう説明はされないですけれども
そういう説明をした後、十分成立するだろうなという事例はいっぱいありますね。
いっぱいあるんだけれども、僕らあれ好きなんですよ。
すごい難しいんですけど、おそらく好きなんですよ。
自分が元気なとき、元気がない人を知った激励するの好きなんですよ。
極めて危険なことをやっている部分もあるんですけどね。
多くの場合、それは何とか辛い人は辛い人なり、
周囲は周囲なりに吸収していくんだけど、
あんまりこれを振りかざしていくと結構厳しいことになっていたりするわけです。
これは恐れと不安に訴えかけているみたいな言い方になってしまっているんですけどね。
本当はこういう言い方をするべきではないんですけれども。
ただ、甘えさせるですよね。
甘えさせるということは、このポッドキャストではしゃべった
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同一化という概念とも関係があるんですけれども、
というか、同一化そのものなんですが、
つまり、人が誰それによっかかってきているというときには、
未来の自分のためにという言い方を今みたいにするのも非常にありだと思うし、
もう一つは、相手と自分が一体であるとするならばですね、
ここで突っ跳ねるという話にしてしまうと、
仮にその人と仲が悪くならなかったとしても、
大体において仲にもギクシャクしたものを残しますけど、
仲が悪くならなかったとしても、
ものすごく複雑な関係性をそこに作り上げてしまうと、
これが私はですね、思春期の親子関係を複雑、
ややこしく難しいものにしている原因で、
これは親子関係が思春期だとよく見受けられるものなんだけど、
私たちの人間関係一般に、
つまり私たちの人間関係一般というのはすごく思春期の親子関係と似たものになっている、
最大の現況がこれなんだと思うんですよ。
一体化を許さないということですね。
私たちは一体化を許さない世の中に生きていますよね。
選挙になると盛んに言われますよね。
個人の確立とかいうやつですよね。
一体化、一体化で危急ですからね、ある意味では。
政治的状況に投入すると。
クラゾンさんがオートバイブスで言ったみたいに、
これは定義したように区別できるんだけれども、
世の中一般ではそんな区別は別にされているわけじゃないから、
一体化といったときには自分の党派性の拡大みたいな話に直結するので、
これはこれで問題は確かにあるんだけれども、
そういうのでもどういうのでもどんなときでも、
個人と個人が対等にっていう、対等はまた別なんだけど、
個人と個人が別々にっていう風にする。
つまり、言ってみればそのときの同一化を認めないと、
甘えというものを許さないという、
たとえ友好な関係においても甘えるのではなくて、
お互いに協力し合うみたいな方がいいっていう風に考えるのは、
関係をすごくややこしくするんですよ。
この場合、信頼とか甘いという言葉を使うならば、
全部に細かな条件をつけるって話なんですね。
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こことここはお互いに仕事を分配しましょうとか、
これとこれはこのぐらいずつの分担にすると、
お金はこういう配分になりますとか、あるじゃないですか。
契約ですけどね。
あれがあれほど複雑なのはこれのせいなんですよ。
ある程度はしょうがないですよね。
私たちはそういう世の中のほうがいいということにしているんだけど、
これが友人関係だったらどこまで借りが作れるのかという話を
し始めているので、
同一じゃないわけですからね。
同一化ってのはそういう意味なんですよ。
同一化を許すとお人よしとして搾取されるって言い方をするときは、
まさにこれが言われているんですよね。
甘えさせないという残酷として、搾取されないためにですよね。
だからこういう時にやっぱりパワハラ人みたいなのが出てくるわけじゃないですか。
一番搾取度が高そうな人というのを警戒するわけですよね。
私はこの複雑さに我々は耐えがたいと思っている気が最近強くするようになりました。
Good Vibesで楽になってからなんですよ。
これをみんなやっているんだけど、すごい大変だなと思います。
やっているとすればですね。
なぜならばみんな違うんですよ。
そこで適応している条件が。
あの人は6×4くらいなら友達ならいいだろうって思っているし、
別の人は7×3までは認めようと思っているし、
友達でも5×5じゃなきゃダメだっていう人もいるし、
しかもそれが暗黙に理に語られるんですよね。
当たり前ですよね。
自分で正確に1000匹をしているわけじゃないんで、
友人ちっても様々じゃないですか。
親友だったら63%までいいのかとか、あるじゃないですか。
いろいろと。
それを全部について厳密には自分でも分からない。
他人にはましても分からないのに、
自分の感覚は絶対だとは思っているわけだから。
あのあれですよね。
自分が抜いていく車はみんな間抜けだし、
自分を抜いていく車はスピード強なんですよ。
私たちの感覚とはそういうものですから。
個別具体、個別については、
個別具体、個別バラバラで
甘えを許さない世の中に生きるんだったら、
これを厳密に、
しかし他人に言語的に伝えることはできず、
他人も言語的に伝えることはせずに、
どの程度かを探り探りやりながら、
ちょうどいい案は見出さなきゃならないんですよ。
これにミスった時に我々の関係というのはこじれるし、
あなたちょっと常識がないんじゃないですかと言ってみたりして、
実は常識がないのがどっちかみたいな議論を始めて、
こじれるんですよね。
こじれますよね。
普通に考えれば。
そうするとこじれるのが嫌だというぐらい、
賢明な人は何をするかというと、
何も人には頼まないんですよ。
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つまりこれが甘えが許されない世界で、
もっと甘えてよかったんじゃないかと
後で考える人の思考の進み方なんだろうと思います。
極めて良心的ですよね。
頭も悪くない。
つまりどこにも問題がないのに
ここに追い込まれるというのが
僕は最大の問題だと思うんですよね。