1. 働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト
  2. 『精神分析の歩きかた』の著者..
2023-08-08 46:44

『精神分析の歩きかた』の著者さんをゲスト講師にお招きします!【GMV826】

それでどうなるの?と問わない

サマリー

お値段は4,000円で一応募集しています。この講座は、精神分析の歩き方を知りたいという方におすすめです。私は家庭内の不安から立ち直るまでの経験や、総的防衛による変化の拒否と戦う姿勢について話しています。総敵防衛と優しいお姉さんによる治療法で精神状態を改善することについて話し合い、外部の干渉や特定の目標に固執せずに現実に任せることの重要性が強調されました。また、山崎さんという精神分析の歩き方の著者をゲスト講師に迎え、臨床心理学やマーケティングについても話し合います。精神分析の歩き方の著者は、ゲスト講師として登場し、セッションの回数や相談の目的についてお話しします。

00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
8月…8日…8月…言い直そうかな。8月8日、火曜日。
7時29分。8時って言えればよかったんですけどね。これアップする頃には8時ぐらいかなと思いますが。
火曜日ですね。ゾロ目なんですね。ゾロ目って言わないのか、こういうのは。
サイコロに8ないですからね。
台風が来ているとかなんとかで、ちょっと接近している地域の方は、ぜひ気をつけ。
こんなこと言うような感覚って僕なかったんですけど、近年の台風ってすごいじゃないですか。
どういうことだっていうぐらい、気をつけようがある意味ないなっていうぐらいすごいので、気をつけるしかないよな、こりゃ。
昔だったら大雨が降って、もちろん私家、昔実家の寺に住んでたとき、目の前川で、実に危ないところではあったんですけど、
それでもここ近年のようでなければ溢れることはまずなかったし、溢れたとしてもなんとかなるぐらいな感じだったんですけど、
いやもう本当に、今すごいもんねっていう感じですよね。
今回、今日はこの話に終止したいというのがあるんですが、
山崎隆さんのゲスト講師
8月の26日、土曜日の19時からゲスト講師として山崎隆さんという方をお招きして、
いつものセミナーなんですけど、先送りしない心理学というタイトルにはしてあるんですけどね。
このタイトルも含めてちょっと今日お伝えしたいんですけど、精神分析の歩き方っていう本を書いていらっしゃる方なんですよ。
こちらの方をお招きして、質疑中心の、ちょっと昔僕らが使ってた言葉としては質問ドリブン、質問をドライブのきっかけにする形式で、
2時間ほどですね、ハイブリッドで寺坊町に直接来ていただくことができて、
ただここの人数少なめで、オンラインの方では20名ぐらいはマックスいけるかなと思っています。
お値段4,000円で一応募集かけております。
これ精神分析の歩き方って本書かれている方なので、そういうお話をしていただきたくてお招きしたんですけど、
私の活動としてはですね、ここのところでやってる活動はもちろん全部意味あると思ってやってるわけですが、
これは僕が一番やりたかったことの一つなんです。
これですね、お値段4,000円なんですけども、これで僕としてはもう相当書きやすにしているというつもりでいて、
これだったら私は結局、絶対申し込むな、死んでも申し込むなっていうものの一つなんですよ。
死んでもっておかしいんだけど、ただの強調ですね。
やりたかったことの一つなんですよ。
それはあんたがただやりたかっただけやんってことになっちゃうんですけど、
その通りでそれでいいんですが、
それではマーケティング的には良くないらしいので、その辺の含めてこれからお話したいと思うんですね。
先日東京オライファ研究会で、マーケティングについては一加減ある方がいらっしゃるし、
大変私もそういうのはダメな人間なんで、お話を伺っていて、
いや全くその通りだなと。
そういえば先日岡野純さんがね、やる気クエストを、
私のオリジナルの彼の作品というふうに僕なんか感じてますけれども、
やる気クエストというコミカライズしてくださった方なんですけどね、
彼が書いているのとほぼそのマーケティングのお話は被ってて、
要は例えばタスクシュートなりを出す時も、
タスクシュートは素晴らしいですって言っちゃダメだと。
みんなタスクシュートがしたいわけではなく、
例えば仕事を早く終わらせたいとかね、
それこそ先送りを何とかしたいとか、定時で上がりたいとか、
そういうふうに考えているのであって、
タスクシュートそのものはどうでもいいんだと。
これはね、その通りだと思いまして、
私もこれから心がけようと思った矢先なんですけど、
マーケティングと精神分析
精神分析のある人を呼んだから来てねっていうふうに僕はなっちゃうんですよね。
これはですね、これじゃダメなのは分かるんだけど、
でもタスクシュートも同じで、
教会には小橋絵蔵さんとかJ.増崎さんとか、
少なくとも私なんかよりはこの辺のことがよく分かっていらっしゃる人がいるから、
基本そちらの方にそういうことをお願いして、
私はですね、これは甘えなんですが、甘えの構造の甘えね、甘えなんですが、
いや私はタスクシュート素晴らしいよね、活かしていただきたいなっていうね、
今日この話をこれからするんですよ。
何が言いたいかというと、私は結局そういうことを言いたくないんだなってことが、
ひしひしと分かるんですよ、自分がやろうとしてみると。
昨日もこの矢先さんをお招きした告知文を書いていて、
全く同じ悩みに突き当たることが分かったんですよ。
皆さんが言いたいのはこういうことですよね、精神分析を人は知りたいんじゃないんだと、
それで例えば夫婦仲がどうしたとか、子供が学校行かないから困ってるとか、
それこそ先送りで悩んでるとか、そういった上司が怖すぎるとかね、
そういう問題を解決するために精神分析がどう役立つのかを言えってこういうことですよね。
それは全くその通りだと思いますが、私はでもそうじゃないんだって思ってるってことなんですよね。
人は本当は金儲けがしたいとか病気治したいですけど、
そうは思ってないんだよなって僕は考えてるんですよ、結局。
グッドバイブスでも同じなんですよね。
人はグッドバイブスになんか興味がないって言いたいわけじゃないですか。
例えばあんたアトピーが治ったとか、僕はこれを言いたくないんですよ。
本当にね、これを言うの嫌なんですよね。
嘘はないんですけど、嘘なんですよ。
非常にここが厄介ですけど、でも精神分析ってそういうところが非常に強くありまして、
それこそですね、私がずっと愛読してきた藤山直樹さんだと思う。
僕名前よく間違うから怖いんだよね、空で言うのが。
藤山直樹さんの何かの対談で、精神分析やるとあんなに手間も暇もかかるものをやってね、
しかも世に知られてもいなくてお金もかかるものをやってね、
一体どんな良いことがあるのかと聞かれるけど、
これには答えようがない的なことを書いてあって、
私はそこにすっごく共感するんですよね。
タスクシュートを例に出すと、
私はやっぱりね、人にタスクシュートを勧めるときはタスクシュートをやってほしいんですよね。
ここを違う言葉に言い換えるというのは、私はすっごく嫌なんですよ。
本心を言うと。
やらなきゃならないからそういうことを言いますけど、
記憶力が減りますよとか、過去の記録が残って便利ですよとか言うけど、
そういうことはどうでもよくはない。
嘘はないんですよ、そうなんですけど、そうじゃないんだよなって思うんですよね。
タスクシュートをやってくださいと。
タスク管理の一種なんですねって言われると、
これにもそうじゃないですって言いたいんですよ、要するに。
そんな他のタスク管理のことは、タスクシュートを進めるときはね、
そんなことはどうでもいいんですと言いたいんですよね。
だから僕は本当ね、昔自分もやっちゃったから、
でも昔やったことは僕は今の自分と関係ないぐらいに思うようにしてるんですが、
昔やっちゃったんですよ、GTDとタスクシュートを接続するみたいな。
あとJさんも7つの習慣とタスクシュートの関連について結構言及されてますけど、
あれはほうべんってやつだと思うんですよ、ほうべんぽんなんですよ。
ほうべんぽんっていうのは仏教の経典でね、ほうべん、ちょっと違うんだよね意味がね。
時代が経つと意味変わってしまいますね。
ほうべんっていうのは嘘もほうべんっていうやつなんだけど、
でも嘘なわけじゃないからね、ほうべんぽん。
ほうべんぽんに嘘を書いてあるってわけじゃないんで、
僕は2歳の頃からほうべんぽんにやたらと唱えさせられていた人間ですけど、
そんなことはどうでもいいんですが、そういうことです。
別に多少そういうところがある、経典にはそういう部分ありますよね、当然ね。
趣旨だけ書くんだったら同じ言葉をずっと繰り返すことになっちゃうんで、
やっぱり例え話でほうべんじゃないですか、結局。
だからそういうことはあるんですが、必要だとも思いますし、
マーケティング的には全く正しいと思うんですけど、
マーケティングだけじゃないよねっていう話なのかな。
ちょっとここら辺はもうぐだぐだに、今日はぐだぐだ会なんで、
ぐだぐだ会じゃない会は第何回なんだって言われるかもしれませんけど、
原則Good Morning Voiceはぐだぐだ会で行くので、
たまにそうじゃないのがあるよねっていうぐらいで。
タスクシュートと目的
タスクシュートはタスクシュートなんですね。
僕がタスクシュートをやる一番いいやり方は、
タスクシュートそのものをやることだと思っているんですよ。
ここに余計な解釈を追加しない。
これは何々のためにやるとかね。
そういう結果を得ることがおそらくできるんでしょうが、
そういう結果を目指してやることではないんじゃないかなっていうふうに思っていて、
僕が思ってるだけなんだけど。
だからこれはあれですよ、タスクシュート一般についてとか、
100日チャレンジ同行ってこととは関係ないです。
私のもう信念みたいなもので。
タスクシュートというのは、私はタスクシュートをするためにタスクシュートしてるんですよ。
これが手段と目的の転倒だと言われようと、
混同だと言われると、そんなことはもう100も承知だってことです。
そうして、そのように意識してずっとやってきたし、
もう10年以上そうなんだから、
それで間違って言おうとなんだろうと構わないんですよ。
そもそも、
Good Vibesと私がきっかけとして言っていいならば、
やっぱりジンマシン、これもジンマシンっていうの嫌なんですよね。
これは心身傷と言っておきたいんですよ。
これが私のGood Vibes、倉園圭三さんの門を叩いたと言いますか、
もともと知っている人ではありましたけど、きっかけなんですが、
近くのクリニックを回って、
結局はCTスキャンもやって、それどころか内飾を検査もして、
異常が全然ないわけですよ。
どっかで聞いた話だなと。
僕フロイトを読みまくっていた時期があったので、
どっかで聞いたっていうか、あの話そのものじゃんっていう感じがしてたんですよ。
体はどこも悪くない。
体が悪い。
だから、どこにも原因と見つけられるものは見当たらない。
特にジンマシンが大量に、アームを大量に吹き出したとなってくると、
異常を調べるんだけど、異常は綺麗です。
綺麗なんですよね。
家庭内不安と焦点化
また僕がイメージしていた自分の位置よりずっと綺麗なんで、
今後余計なイメージは一切しないようにしようと心に誓ったぐらい綺麗なんですよ。
なんかもうこれ焼肉にして食ったらうまそうだなって思いましたからね。
自分の意味で。
ミノって言うじゃないですか。
余計なことをまたこういうところで。
あの、すごい綺麗でびっくりしたんですよ。
でもジンマシンは全く効かないんですよね。
で、グッドバイブスで話を聞いて、
一番のポイントはそれでも家庭内不安なんですよね。
ここを何とかしなければいけなかったんですよ。
その他のことは、でもね、これもね、
なんていうんだろうな、焦点化って言ったりするんですよね。
どこにフォーカスするか。
虚しいんですよね、その言葉は。
非常に虚しい感じがします。
今から考えてみるとですね、
なんか人間ってのはしょうがないんだけど、
なんつうんですかね、言葉というものを、
なんて言えばいいんだろう、カテゴライズというのかな、
言葉というのか、ラベリングを重く受け止めすぎてる気がするというか、
簡単に飲み込みすぎているというか、そんな気がしますね。
家庭内不安って言っても、
一つ一つの事象はまるで違うんですよ。
いろんなことが起こってるんですよ、そこでは。
で、その一つ一つの事象、
まあ、よくある夫婦喧嘩と言われればそういうことになるんだけど、
それをどういうふうに、それがどんなふうに自分に
見つけられるっていうのかな、でもそういう言い方になるんですよね。
見つけられるのかっていうのは、
変えようと思えばガラッと変わるんですよね。
これが起きたことなんですよ、正しくは。
正しくはないんだけど、かなり、
普通に言うよりはだいぶマシに言うとこうなるんですよね。
フラゾノさんのお話を伺って、私ができるようになったことっていうのは、
もっと遥かにいろんな観点があるんだけれども、
まあそれは当然あったんですよ、それまでだってね。
あったんだけど、見る気がしなかったっていうのかな。
そっちを見てどうするんだろうって感じだった。
そういう観点を積極的に取るっていうことができるようになっていくと、
現実そのものに対するコミットの私の仕方が
大きく変わるので、自然と私の現実も大きく変わっていくっていう感じなんですね。
総的防衛と心身症
これはでも普段から起きていることではあるんだけど、
むしろ逆なんですよね。
堅くなにそっちを拒むみたいな。
変化ってのはどうせ起きちゃうんですよ。
毎日世の中は動いているし、
同じことは二度と起きないのは確かだから。
変化は常に起きてるんだけど、
なるべく変化を起こさせないとする力っていうのがやっぱあるわけです。
特に、これはGood Vibesでよく言うあれですよ。
恐れと不安にまみれていたので、私はまみれていたので。
そのまみれ方が問題なんですよね。
恐れと不安をものすごく大事にしているから、
なるべく変えないようにするんですよ。
どこもかしこ。
現実というものが、
変化していくにもかかわらず、
変化させないとするんですね。
この方がよっぽどつらいんですよ。
変わろうとする力を、
砂の城とかを作っても、
波でバシャンとやると崩れていくじゃん。
そこを手で頑張って囲って、
崩す前に頑張っているんだけど、
それは崩れるじゃないですか、絶対に。
手とかで囲ったって無駄ですよね。
でも、そういう無駄な努力を一生懸命やっている感じが近いんですよね。
要するに、倉殿さんのお話ししたことというのは、
してくださったことというのは、
こうすればジンマシン治りますとか、
こうすればアトピー治りますという話ではないんですよ。
ただ、その手で囲ってても、
もう崩れちゃってますよ、みたいな感じですよ。
やってることってのはね。
実際は違いますからね。
実際に悩み相談やると、
かなり具体的で積極的な話が出ますから、
この話はそれこそ、
比喩として受け止めてほしいんですよね。
僕が知ったことはそういうことだったってことなんですよ。
だから、要は変えない努力をしてしまうと、
ジンマシンは出るんですよ。
つい先日も僕、昨日の話したと言ってたわけですね。
変化するから出るんですよ。
ただ、私はそういうつもりが自分の中にないんだけど、
ジンマシンを出てしまって、
一旦ちょっとそれにハマり込むと、
今度はジンマシンを出たまんまにしようと頑張っちゃってるんですよね。
そういう風にしてはいないんだけど、
そういうことなんですよ、これは。
なるべくジンマシンを出たまんまにしようという、
それこそ無意識のとしか言いようがないんだけど、
そういう頑張りを自分はしてしまうので、
なかなか治るんだよね。
ほっとけば消えていくのに、
放っておかないから、
あれですよ、手でいじってたとかいうわけじゃないですよ。
そうじゃないんだけど、
全身全霊を込めてその事態を維持しようとしてるんで、
つまり私は変化を恐れていたから、
良い変化以外は変化を認めないという、
そういう努力は結局変化そのものを認めないとするのと同じになってしまうんですね。
やり方がマズると。
で、私はものすごくマズってたので、
当時はたまたま不運もあって、
余計恐怖と守りに入る意識がものすごく強かったんです。
ここら辺から専門用語が出ちゃうんですけど、
僕のそれまでの人生で最も危機に陥った時何するかというと、
総的防衛に走る一手なんですよ。
究極的にはそれになってしまうんですよ。
とにかく総的防衛だっていうことで。
ただ、僕の総的防衛っていうのは、
僕は空元気を自分に孵化して、
俺は今ある全てを失っても平気だっていう主張をするってことなんだけど、
これを僕の人魂だらけだった時代にこの主張をしてしまうと、
親と縁は切れるわ。実家はなくなるわ。
肉親がほぼいなくなるか、会えなくなるかな上に家族も失う。
でも僕は総的防衛しか知らなかったから、
いやいや大丈夫なんだっていう風にね、
孵化してたわけですよ。
孵化すって言葉がちょっとピッタリなんですよね。
で、これが心身症に出ちゃうんですよね。
ここが説明できないんですけれども、
僕はただ内的には確信を持ってるから、
だから僕は心身症って言いたいって言ってるんですよ。
人魂とあれを言ってしまうと、
優しいお姉さんと現実への逃避
いろいろ人魂のカテゴリーに入ってしまうんですよね。
僕の中で起きたことは、
やっぱり僕はあれに関しては分かってると思ってるんですよね。
間違ってるかもしれないけど、
でも間違いないだろうって感じがあるんですよ。
自分の中で。
あれは心身症であったし、
あの時自分が何をしていたかは分かる気がするんですよ。
要はいろんなものを切り離してはいないんだけど、
切り離れちゃったって俺は大丈夫だもんねって、
言って頑張ってるわけですよ。
このうち自分の体を切り離していく感じがあるんですね。
体なんかなくなって平気だもんねっていう感じ。
これで嫌なものを、
これがメラニ・クラインの言う排出なんだけど、
悪いものを外へ外へと出していこうとするんですよ。
全部原因は相手にあると思いたいわけですよ。
相手にある。
いくらかの事実はそうなんですよ。
例えば、あの時私の母は心臓病になってね、
手術をしてしかも失敗するという、
こんなことがなぜか追っかぶさってきたんだけど、
これって別に僕に原因があるわけじゃないわけじゃないですか。
だからいや、あれは母の問題なんだからって、
こういう感じで壮的防衛していくんですよ。
結局僕の中に当然ある、
母と子の失いたくないって気持ちも当然ありますよね。
だけども、いいもん。
いいんだと。
失っても平気だからと。
母の心臓なんだから。
俺の心臓じゃないんだからって、
こうやって切っていくんですよね、僕は心の中で。
母に冷たくするとかではないですよ。
僕はそういうことはしないんだけど、
そういうふうに、はっきりとした一線を引いて距離を取るっていうのが、
当時の私のやり方で、
これをやる限り、
私の本体は決して傷つかないんだっていう、
独特の心理的な位置づけを持つんですね。
これは今でも全然やんないかっていうととんでもなくて、
これはもう癖になっちゃっていって、
なんかぼんやりしてるとやっちゃうんですよ。
ぼんやりしてるとやるんですよね、これがね。
心がそういうふうに動いていくっていうのかな。
ローゼンフェルドっていう人の病理構造体だったっけかな、
ややこしい言葉だなと思うんだけど、
そういうのがよくわかる気がするんですよ。
藤山直樹さんがさっき言った精神分析家の人ですけど、
心の中にギャングを持って、
いいものが現れると、
そのギャングがみんなで徹底的にやっつけるっていう表現を取ってたんですけど、
すごくわかる気がするんですね。
なんかね、こう、なんていうんですかね、
前向きで健全な話を、
こう、なんていうんだろう、
酔ってたかってダメにしてしまいたくなる自分っていうのが、
心の中にあって、
なんでそんなことをするかっていうと、
健全な方針を示されると腹が立つんですよ。
そういうことをしなくても、
自分はこの、なんていうんだろうな、
現実から切り離された、
それこそあれなんですよ。
万能空想の世界があるんですよ、僕の中で。
そこがね、ポイント。
こういう話をしたくないんだけどね、あんまりね。
したくない面もあるんですよ、僕にだって。
優しいお姉さんがいるんですよ、そこに。
その優しいお姉さんが全部いいようにしてくれるから、
この優しいお姉さんが僕は現実に欲しかった時代があったんですね。
それを探しに行ってたのが大学時代の、
この彼女を探しの瞑想の旅なんですよ。
ものすごい頑張りましたから。
総敵防衛と優しいお姉さん
そういうお姉さんが現実にはどこにもいないんだなと知るまでに、
長い年月がかかってるんですよ。
この優しいお姉さんがいる、心の中の世界に私という人間がいて、
そこで大事にしてもらえるから、後のことはいいんだっていう。
ここでギリッキリ切り離しきれないのが、
当時どうしてもこれは無理だっていうのが娘だったんですよね。
ここで僕はジンマシンを発症するという形を取ったわけですよ。
それが僕の中では、今の喋った話では一向に出しが開かないというか、
そんなことは信じられんと思われるのは最もなんだけど、
僕の内面でやってたことの感覚ではそうなんですよ。
だから千と千尋の神隠しとか、今回の君たちはどう生きるかっていうのは、
すごく上手いことをやっぱり表現するなって思うんですよね。
内面で起きてることを外面と交互させた表現を取るってのは、
すごく難しいことで、一つ一つを人に分かるようにしようとすると、
どうしても象徴劇みたいにならざるを得ない感じがあるんですよね。
トムは真夜中の庭でっていうのかな、
そういうタイトルのファンタジーがあったんですけど、
あれもそういう話だよなと。
ファンタジーってだいたいそうですけど、
上手くやられてるなって感じを抱かされる話であるんですよ。
私はそういう能力はあまりないしまして、
映画化したいなんて思わないって。
かけらほども思わないですよ。
そんな面倒くせえなっていう感じしかしないんで、
そんなことはしませんけど、
説明するとこんな感じになるんですよね。
だから私はGood Vibesでクラソノさんとお話しに行って、
僕の場合には皮膚が収まっていくっていう形になったんだけど、
それはつまり僕がこの状態、心理状態、
それこそ病理構造体みたいなのとか、
心の中のギャングみたいなのとか、
総敵防衛とか、優しいお姉さんとかに、
こういうこだわりを全部目放してしまえば、
そういう病気でいなくても大丈夫になるみたいな感じなんですよ。
変化が起こるから。
あとはその変化に任せておけばいい。
ただ僕はこれを当然全く受け入れられなかったんですよ。
だって僕はこの戦略でというか、
戦略になってないんだけど、
でもやっぱりこの戦略で何を犠牲にしようと、
自分の心の安泰を守れるというやり方で、
結構いろいろなトラブルなり困難なりを、
一応曲がりなりにも乗り切ってきて、
あの時代だから25年はそうやって生きてきたわけじゃないですか。
そうなんですよ。
今さらそれ全部手放せと言われてもですね、
そんな過酷なことができないと思ったんですよね。
それほど現実というのは信頼に値しないというか、
まさにこういうことなんですよ。
それほど現実マックスにして、
自分がひどい目に遭うというか、
もうめちゃくちゃになっても、
どうせくらどんさんは責任を取ってくれるわけじゃないじゃないですか。
ここの責任を人に渡すほど筋違いなことはないわけですよね。
これ全部僕に降りかかってくる話で、
もともと僕に降りかかってきた話だから。
だからそんなの全部手放すわけにいかないよな、
っていうところから話が始まって、
だったら一番手放しやすいところから手放せばいい、
っていうような話になっていくんですね。
で、これがまたびっくりすることではあるんだけど、
ここを強調したくないってことなんですよね。
これがちょっと手放してみたら、
もうあっという間に僕の心身症はサッと引いていくんですよ。
でもね、ここを言うと、
心身症を治すためにグッドバイブスをするっていう、
それでもいいのかもしれないんですけどね。
そこはもう僕にも何とも言い難いところだし、
人はそうするよねと言われればその通りなんですけど、
これがさっき最初に話したマーケティングの話と同じなんですよね。
グッドバイブスに興味があるわけじゃないでしょう、
ジムマシン治したいんでしょう、
まあそうですよ。
でもそうではないんですよね。
私は別にジムマシンが治したかったわけではないんですよ。
当時ははっきりして目に見えるものがそれだったから、
医者にも言ったしウォーサーをしてたから、
ジムマシン治すために渾躁してたように見えたんだけど、
でも倉妻さんの前にパッと言って喋ったことって、
一番最初に喋ったことはやっぱりそうではなかったんですよ。
ジムマシン治したいですとは言わなかったし、
アトピー治したいですとも言わなかった。
そんなことは考えなかったんですよ。
やっぱりこう、なんていうんですかね、
そのものどん地場っていうのはどれだっていうのは、
今でもはっきりしない面もあるし、
父が失職したことも、
なぜこんなことが全部かぶったのかわかりませんが、
かぶってきたんだけど、
父の失職だってそれは回避できるものなら何とかしたいと、
結局回避できませんでしたけどね、
と思いましたけど、
でもやっぱり私は総的防衛しか考えつかなかったんで、
いやいや父が失職するのであって、
俺が失職するわけじゃないしなと。
結局こういう態度で物事を、
これも別に僕は父に辞めちゃえばと言ったりはしてないんですけどね、
ないんですよ。
だから僕に別に責任がないって言えばそうなんだけど、
でも影響はあるわけですよね。
非常に大きな影響は受けたわけですよ。
だからこれも相談すればしてもいい話でもあったんですよね。
でも相談したからといって、
彼がクビにならないで済んだ方法はなかったでしょうね、
今から考えても。
それはなかったと思う。
そんな感じでですね、
グッドバイブスは、やっぱり僕はグッドバイブスをしに行けばいいと思うので、
ここで大事なのが、こう思えるかどうかなんですよ。
仮に10回、
10回クラゾンさんのセッションを受けて何の効果もなかったとしても、
別にいいじゃんって思えるかどうかなんですよ。
これが思えるぐらいならそもそもいらないんじゃないかって話もなくはないんだけど、
こうは思えないっていう心理状態がきっとあるはずなんですよね。
そこに自分の状態を難しくしている。
つまり変化を起こすというのはですね、
変化が起きているっていう認識一つあれば実はたくさんなんだけど、
そうは思えないんですよね、僕らは。
いい変化を起こそうとするから。
悪い変化の方は一切受け付けず、いい変化だけを起こしたい。
結局、病気を治したいとかいうのは全部そういう意味のはずなんですよ。
これを、このこだわりをどんだけ捨てられるかというか、
手放せるかかな。
現実任せにできると言ってもいいんですけど、
そういう話だったと私は理解しているんですよね。
だからこういう状態になったらグッドバイオスに行きましょうみたいな、
そういうこうアトピーになったら皮膚科に行きましょうっていう話とは、
ほとんど逆だなって思うんですね。
ほとんど逆だなって感じがするんですよ。
だからあんまりそういう方面で進めたくはないし、
グッドバイブスとタスクシュート
そういう話もしたくはないんですね。
同じことがタスクシュートでも僕の中ではあるんですよ、やっぱり。
あるんですよ、しょうがないんですよ、これはもう。
そりゃタスクシュートするのは仕事早くなるためだよねって言われれば、
そこに異を唱える理由はないんだけど、
やっぱり僕はタスクシュートをするのは仕事が早くなるためではなくて、
タスクシュートしとけばいいんですよ。
これ多分受け入れられないと思うんですよね。
でもタスクシュートしとけば別に仕事は早くならなくったって、
その人がどうしても定時に帰る必要があるならば、
定時に帰れるようになると思うんですね。
こういうことが起こるはずだっていうのが僕の中にあるんで、
早くなることによって事態が悪化するかもしれないじゃないかって思うんですよね。
だからマーケティング的にどれほど正しがろうと、
早くなるためにタスクシュートするんであって、
タスクシュート自体に興味がないんだっていう話に乗りたくないんですよ。
タスクシュート自体に興味持ってくださいっていうのを言いたくなる。
僕の中では成人分析っていうのはそういう話をしている分野だから、
僕の中では正式にそうだとは誰も言ってませんから。
僕が言ってるのはインチキだと思って聞いてくださいね。
インチキでも聞いといてやるぐらいな気持ちで聞いてくんないと、
今のような時代にはこの話の持っていき方ってすごい難しいんですよ本当に。
絶対やっぱり成人分析やればうつ治るんですかになっちゃうんですよ。
僕はこれはナンセンスだなって感じがするんですよ。
でもその人が成人分析をやるといいような気がするとかね、
ますますナンセンスな感じがするんだけど、
僕のこれタスクシュートの話でもグッドバイブスの話でも何ら変わらないんですよね。
望んでる良いことは起こるかどうかわかんないんだけど、
そもそも望んでる良いことをあなたが望んでるかどうかだって結構怪しいですよっていうような話を実はしたいんですね。
お金に対する万能感
例えば私は総的防衛のほかに、
私は母にバッチリ、これは非常に今思うと母を恨んでるわけではないんだけど、
良くなかっただろうなぁと思うのことの一つに、
お金に対する万能感っていうのが絶大なんですね僕は。
なぜなら母がそうだったから。
母かわいそうでね、お父さんがつまり私から見ると祖父なんだけど、
宗教かぶれなんで、宗教かぶれだからお父さんと結婚させたりしたわけだけど、
宗教かぶれなんで、あれですよ今時よくテレビで話題になってる、
ありとあらゆる金を全部宗教に継ぎ込んでしまうというね、
非常に困るよね、あれを親がやってしまうと子供はね。
しかもこだくさんと来てるじゃないですか、あの時代。
だから母はですね、お金があれば、それでも母はそれなりに現実感覚を保ってて、
お金があれば幸せになれるとは言わなかったんだけど、
お金があれば不幸にはならないっていうオカルトなんだけど、
これは私にバッチリ叩き込んだんですね。
お金があれば不幸にはならない。
金に関する信念と万能感
これは逆に言うと、お金がなくなれば不幸のどん底に落ちるってことになっちゃうんですよ。
で、これが万能感ってもののすごい問題だと思うんですよね。
万能なものってこの世にないから。
何かが万能であるっていう風にだいたい信仰し始めると、
だいたい良いこと起きないんですよ。
結婚できれば幸せになれるみたいな万能感は有名ですけど、
真実ではないじゃないですか。
結婚して不幸になる人はいっぱいいますよね。
要するにそういうことなんですよ。
万能であるものを何か用意しちゃいけないんですよね。
だけど私は母が幼少期、そういう時代を過ごして大変金に困ったんで、
困らなくていいのに困ったんで、
心の底から多分思ったと思うんですよ。
金がなければダメだっていう風に。
今でも彼女はそれに結構取り憑かれてる感があるんですよね。
私もそれにすっかりのみりこまされてしまって、
思えばですね、私の妹も一番苦労してるのは結局そこだなって感じがするんですよね。
そういうことなんですよね。
だからこういうのもすごく僕は分析的だとは思う。
グッドバイブス的にでもいいですよ。
つまり恐れと不安を持たないってことと関係があるというか、
ほとんどそれにしか関係ないんで、
何を恐れてるかって貧乏を恐れてるんで。
貧乏を極端に恐れてるんで。
それはもう母が恐れていたことがまんまコピーされてきてるんで、
そこに全然リアリティがないんです。
オカルトなんですよ、これは。
貧乏になれば不幸になると。
ここの因果律ってないじゃないですか。
勝手に結びつけてるんですよね、強引に。
父親っぷりっぷりですよ。
唱えれば何かが起きるぐらいの勢いで。
お金がないイコール不幸っていう、
こういう何の底に根拠もいらない。
それは事実としてそうなっちゃってるっていうことになってるんですよね。
だからこういう人はお金稼ぐ努力をするかというとそうはならない。
貧乏にならないために、
そして貧乏というものを連想させるものに対する恐怖感でいっぱいになってしまうんです。
では母は今でもそうだったんですけど、銀行の手数料とかを見てはうめくるんですよ。
銀行の手数料なんて絶対かかるじゃないですか。
振り込み送金とかするとき。
だけどこれを有効な手立てを打つ必要がそもそもないんだけど、ないんですよ別に。
母は本当の意味で父と結婚してからそんなことで困ったことは一回もないんで、
実際はないんですよね。
そういう200何十円みたいなものに対してうめくほどの理由はないんだけど、
うめちゃうんですよね。
そういう万能感が母にあって、私にも当然そういう万能感が映ってるわけです。
宗教の効用と価値
お金万能みたいな。
だからこれはいわゆる銭ゲバ的な話とはちょっと違うんですよね。
やっぱ言葉ってのは面白くて、
お金があれば幸福になれるとは母は一言も言ったことがないんで、
そういう観念は持ってないですね。
お金がなくなると不幸になるっていう観念だけを持っているんですよ。
まあ母の言い方はそうではなかったんですけどね。
お金があれば不幸には、これもこれで大きな間違いなんですよね。
お金があって不幸になってる人はいっぱいいますからね。
彼女の信念なんですよね。
分かると言っていいもんだと思う。
これを手放すようになったのが僕の中でも大きな転機になってるわけですよ。
これを手放すのもやっぱりグッドワイブスだったんだけど、
これを手放すということの中に含まれている意味を解明してくれているのが精神分析なんですよ、私にとっては。
一つそういうのがあるという。
お金がないということが許されざる状況だというのは、
一体その信念みたいなものってどこから来ていて、私に何をさせていて、
どんなことを忘れさせがちで、どういうことに意識を向けさせがちでっていうことが全部説明がつくんだなっていうのを、
しかもそれがちゃんと一応の論理的な、論理的とは言い難いかもしれないけど、
なんとか論理立てて説明している考え方があるんですよね。
精神分析というものの中には僕はあると思うんですよ。
このことといろいろ深い関係があるものが性的にあるんですよね。
非常にこれも厄介で、本当に困ったもんだなって思うんですけれども、
いろんなものが絡みついているんですよ。
要は〇〇があれば良いことがあるっていう、そういう信念。
おかしいんだけれども、どうしてもそうなりやすいわけですよね。
最初に私が習ったマーケティング的な話を聞いても、結局それは良いことがあるから何々をしようね。
何々は手段だからね。それはその通りなんだけど、
良いことがあるからグッドバイブスなり精神分析なりタスクシュートなり。
だから良いことがなければしないよねっていう話なんだろうけれども、
そこを強調しないと人は来ないよねっていうのはそうだと思う。
だけどそれを強調しようとする心理状態そのものに問題がある場合、
ここを強調するっていうことがどういう意味を持つんだろうとは思っちゃいますよね。
だからあんまりそれをやりたくないわけです。
私は他の人がやってくださいみたいな、なんていうのかな。
やっぱりそういうのは得手不得手ってあると思うし、得意な人がやったらいいと思うんですよ。
これをやれば幸せになれるって考えてみるとですね、面白いなと思うのが、
うちの父がやっぱりそうだったなって思うんですよ。
宗教って人に勧めるものなんですよ。
特にああいう伝統的で古典的なのはね。
だから人に勧めるんだけど、この宗教信じれば幸せになれるぞとは父は言わないような努力をしてたんですよね。
かなり明治的にっていうのかな。
とにかくなぜするのか考えるなみたいなことを言うんですよ。
なぜこの宗教を信じるのかは考えるなみたいなことを言うんですよ。
これほどでも今の時代にダメな言い方ってないじゃないですか。
これはもう本当に、それはまさに洗脳だろうってことになっちゃうんですよね。
だけど僕はやっぱり歩き出て逆だと思うんですよね。
多くの人はこういうことを聞きたいわけですよ。
この宗教に入信すれば家族はみんな幸せになれますかと。
だいたいあんまり幸せじゃない状態の人がやってくるわけだから、この問いは実に切実なんですよね。
ひどいことがなんかいっぱい起きてるわけですよ。
だからこの宗教に入信すれば本当に私は幸せになれますかと言われた時、
父は一言、はいなれますって言っときゃいいんだけど、これができない人なんですよね、父はね。
そういうことは言えないみたいな態度になっちゃうんですよ。
でも入信はしろみたいなね。
これは普通に考えてダメだろうって感じがやっぱりしますよね。
でもうちはそれなりに信者さん多かったんですよね。
後から入信した人も含めてですよ。
今時々なかなかそんな宗教を変えたりしないじゃないですか。
それにしてはずいぶん新しい信者さんの人がいて、
マーケティングっていうのは奥が深いと思わなくもないんですよね。
宗教は手段かっていう話ですよ、これは結局。
だってそうですよね。
タスクシュートしたいわけじゃないんだと。
ページに帰りたいんだから、あるいはお金が儲けたいから。
だからこういういいことがあるからタスクシュートしましょうっていうのが正しいっていうのなら、
宗教もそうであるべきだってことになってるわけですよ、結局。
ごとに突き詰めればね、この宗教史ってどうなるんですかとか、何になるんですかとか。
精神分析の実用性と価値
でもそれほど宗教的でない話ってないんですよ、実際のところはね。
ここまで言うことはないのかもしれないと思うんですけれども、
今回は山崎さんを招きしてセミナーを。
山崎はですね、これを聞いていただくというのが、
私の現状の8月期の活動の中では、もびきり価値があるものだと信じてますが、
それで何になるのかというと、いろいろなると思います。
例えば臨床心理というものを活用するために、こういうことを最初に言えばいいんでしょうね。
活用する上でどういう知識があるといいのかとか、分かると思う。
例えば最近会社に行くと気が重いんだけれども、そういう場合に臨床心理役に立つのかと、
診療内科に行くのとカウンセリング受けるのはどう違うのかということを知識として仕入れるのには、
これは必要な知識だと、僕は精神分析の歩き方みたいな本に書いてあることは必要な知識だと思います。
だからそういう意味で実用性はあると思うけれども、そういうことよりもですね、
佐々木が思うに8月期の私の活動の中で一番価値があるのはこれだと思うので、
聞いていただいて損は僕は絶対ないと。
僕だったら8月26日に何があろうと、何とかしてこれをオンラインで聞いていただけますからね。
沖縄旅行をしている最中だとしても、これには参加したいと思うぐらいの価値はあると思ってます。
僕は倉殿さんの10回のセッションを受けるというのもものすごく価値があると思ってるし、
僕にとってそれによって何になるということはなくても、
そして党にとって何になるということがはっきりしなくても受けに行ったらいいと思いますし、
タスクシュートもですね、ただタスクシュートをやるというだけで僕はいいと。
それすごい簡単なことなんでね。
またこれがすごい大変なことならば、こうまではお勧めしにくいんですけれども、
それすごい簡単なことなんですよ、実際には。
皆さんが何かを追加してしまわなければ決して難しいことじゃないんですよ。
タスクシュートに目標を追加するとか、そういう余計なことさえしなければ、
気になることを先に洗い出すとか、そういう余計なことさえしなければですね、非常に簡単なんですよ。
ただ開始ボタンして終わったら終了ボタンを押すだけで済むんで、
頻繁にやるから大変だとかいうのは僕は全然当たらないなって、やっぱり今でも思います。
みんなにはそうじゃないって言われてるから僕が間違ってるんでしょうけどね。
今回の精神分析の話も3000円、4000円でオンラインで、
山崎さんの話が2時間、質問、冒頭で聞ける点だったらば、
それが何になるっていう問いは、僕だったらいらないなって感じが。
もちろんこれはね、僕だから言ってることがあって、
セッションの回数と目的
皆さんに当てはまるとは思いませんけど、僕だったらいらないなって思いますね。
クラゾノさんのGood Vibesの特にやっぱりセッションですよね。
僕からすると10回しか、10回はやったらいいって思うんですよね。
これは安いとは思わないけど確かに。
でも安いと思うのはやっぱり10回だからね。
聞きに行ったらいいと思うっていうか、
何かお話しに行ったらいいっていうふうに私は思うんですよね。
特に理由はなくても。
多分でも特に理由がなければいかないと思うんですよ。
何かで困ってると。
何かで困ってて、かなり困ってて、
私のジンマシンみたいにすごく困ってても、
そのものずばりと相談できるかどうかっていうのがまず結構ハードルあると思う。
そのものずばりってなんだっていう問いがですね、
聞くときには必ず上がってくるはずなんですよ。
そのものずばり、本当は自分なんで困ってんだろうっていう気持ちになると思うんですよね。
そのことだけでも意味があるとは思うんですよ。
そういうときに〇〇を解決できるからこれこれですっていうのはおかしいと思うんですよね。
私はアトピーだったけど当時はアトピーですとは、
アトピーを何とかしてくださいとは言わなかった。
それほどジンマシンで困ってたくせにジンマシンの話もしなかった。
一番最初はしなかったわけですよ。
どうしてそうなるのかってことを考えるだけでも意味があると思うんですよね。
そういうのが僕は精神分析でも同じだと思うんですよ。
何しにやりに行くのかわかんないけど、
すっごいとにかく困ってるってときに、
そもそも自分ってどうしてすごい困ってるんだろうっていうことを明らかにするっていうのは、
意味あることなんですよきっと。
まあまあそんな感じで今日はもう全くどこにも落としどころもなければ、
ただ告知をして終わりにします。
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