自己愛と依存の影響
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1146回をお送りします。
2月28日、2月終わります。金曜日、7時32分です。
いいタイミングですね。今日はでもね、いろいろありまして、残念ながらさらっと終わりたいと。残念だと思う人にとっては残念ながら、さらっと終わりたいと思っています。
だから、話をさっさと進めていきたいと思っております。
1つだけCMですね。3月15日、つまり今日が2月28日だから、間もなく2週間後に、山崎孝明さんと新井さんという方と3人で、3ヶ月チャレンジや精神分析的心理療法に
参加されている新井さんと、購入心理師で臨床心理師での山崎孝明さんと、カナエダにします。3月15日ですね。
会場はいろいろございまして、最大10名。残り4枠と、4席になっちゃったので、これギリギリ埋まるんではないかと私は思っておりますんでですね。
なるべくお早めに、大体1週間前とかになってくるケースがほとんどですが、なるべくお早めに、オンラインとかね、動画配信の方はもうこれは100と100と適当に書いておきましたけれども、事実上の上限はございませんので、
ただし、3月16日以降、つまりイベント以降に動画を配信販売するかどうかは、まだ未定例、もしかするとしないかもしれませんので、動画配信が欲しいと言った方はですね、
3月15日までには、いつ見てもいいと思うんですけど、買うのは15日までにしていただいておけるといいと思います。
はい、では、本題2というか、本題はですね、今日はもう非常にサラッといきたいわけですよ。サラッといった試しないけどほとんど。
自己愛構造体の話をこれまで、自己愛対象関係の話をこれまでちょいちょいしてきましたね、今週は。
この話で締めくくりたいんですが、これを最もやっぱり私の観点からいくとですね、私たちにとって一番現れやすいところというのは、先送りと片付けと、もしかすると接触系の話かなと思うんですね。
で、いずれも長自画と私はやっぱり言いたくなるんですよ。ここに長自画っていうのはね、あんまり主人公として精神分析の本ではもう登場してこないんですけど、やっぱここは長自画が一番妥当だなって感じが私はしちゃうんですよね。
長自画の実例
長自画に依存してしまうということ。つまりそれは自分に依存しているという意味になって自己愛的なんですよね。そう思ってないんだけど、自分に依存されている。で、人に依存できない。で、大事なのは人に依存するってことなんだけど、現代社会では人に依存するのはまた迷惑でダメなやつだっていうのが一方でかなり強めにあるんで、ここで長自画的に自分に禁じちゃうんですよね。
他人に依存するってこと。そして自立自立に向かおうとしてしまって、この問題はですね、昔から栄枯しいこの問題を十分ややこしくしていって、なんだかこの種の話が多いなと感じるわけですよ。もう入り組んできてますね。もうちょっと簡単な話にしますね。
例えば、掃除ができないっていう話がよくあるわけですよ。でも、だいたいですね、そもそもライフハックの人間に言わせれば、掃除なんてできないんですよ。で、掃除ができないというのは、つまり、この自己愛的な言い方をするならば、要するに長自画に見張られてるからできないんですよ。これね、不思議だなと思われるかもしれませんが、決して不思議な話ではなくて、長自画というものを掃除できない。
長自画というものがあんまりこなれてない、成熟していないとですね、見守るが見張るになってしまって、やりにくくってしょうがないんですよ。
ちょっと考えてみてほしいんですけど、皆さん多分これを聞いてる方は、寿司を握るってことを少なくとも本格的にやったことはないと思うんですね。寿司麺の人とかいらっしゃったら、その人はそういうもんだと思って聞いてください。
普通寿司は握ったことないですね。ここにめちゃくちゃ頑固でめちゃくちゃ怖くて、ほとんど言葉も発さずいきなり怒鳴りつけたり張り倒してくるみたいな、なんかもう漫画に出てきそうなおじさんが横で見張ってるとしましょう。寿司握れるかってことなんですよ。無理ですよね。
つまり、分かっていて、ちゃんとしていて、その人が横にいることによってどうすれば正しいのかが明快に分かるという怖い人が横にいるとできなくなるんですよ。こういうことがいっぱいあるんだけど、なんかね、語られないんですよ。逆の話が始まるんですよ。
そこでも頑張って握るべきだ、みたいなね、人がいるし、一方でそういう人がいてこそ正しく握れるんだから、むしろ安心するべきだ。無理なんですよ。そうはいかない。つまりこの見張られているという感覚はですね、私たちを制止させるというかに十分なんですよ。
ところが、これが手放せないんですね。なぜならこういう厳しくて、正しくて、一方的な人は頼りになる感じがするからなんですよ。我々は心の中でこういう人に、つまり親なんだけど、こういう人に頼ったという経験があるんですよ、おそらく。2歳とかの頃にですね。
大棒だけど頼りになる。だって2歳児から見れば40歳のおじさんは頼りになるじゃないですか。そしてだいたい大棒じゃないですか。どんなに優しくたってまぁ大棒ですよ。優しいから大棒じゃないってことにはならないですよね。2歳児は無力なんだから。2歳児から見れば巨大巨人みたいな大人たちはみんな大棒で大変頼りになるわけです。
だから大棒で頼りたい人ってのが心の中に、これが接種と呼ぶべきなのか内在と呼ぶべきなのかわかりませんが、とにかく一体化していくわけですが、この一体化が過剰に進行していって様々な課題を引き起こすのが多分自己愛対象関係と言われているものだったと思うんですね。
そしてそれが我々ビジネス書とかライフハックの世界で一番出てきがちなのが先送りという現象だったり、片付けられないという現象だったりするわけですよ。
特にこの2つは顕著ですね。顕著だからこそこのテーマにしたビジネス書はよく売れる。そして大体書いてあることは片付けの本にはまあ捨てましょうと書いてある。先送りの本には完璧主義をやめなさいと書いてある。
そしたらどっちも長寿画のことがすごく意識されていると、力道的に見てしまいがちな私の偏った目からするとそう見えるわけですよ。捨てられないんですよ。
だって長寿画というのは横暴なんで、役に立つものは取っとけ。いらないものは捨てろ。それはそうなんですよ。そうに決まってるわけですよ。正論なんですよね。
この正論が何の役にも立たないから片付けられないわけじゃないですか。役に立つものは取っとけ。いらないものは捨てろ。まったくその通りなんですよ。
あと片付ける時間を作れ。これもまったくその通りなんですよ。だから非常に長寿画的なんですよね。
つまり、だってさ、握れないからいきなり拳を飛ばしてくるって非常に幼稚じゃないですか、教え方として。頑固一徹みたいな言い方もできるかもしれないけど、
要はその人は教え方ってものがよくわかってないわけですよね。つまり幼いわけ。この幼い長寿画というものはしかし強力なんですよ。
だって二歳児が見た30歳の人だから、その二歳児の世界にいる長寿画なんだから、幼いに決まってるんですよ。その人の頭。
よっぽど頭が良くなって、その二歳児が藤井聡太さんとか、最近話題の皇太子様とかだとしても、幼いことは幼いわけですよ。20歳じゃないんでね。
だからこの二歳児が作り出した長寿画というのは幼いんだけど、外してこの種の長寿画というのが僕らのですね、感情的な部分でえばってるわけですよ。
心の成長と課題
すごくこの影響力が大きいんですよね。だからあの人にバカにされたくないとか、これで小学生が言いそうなことじゃないですか。そんなのがばっかりなんですよ。
我々の中でですね、一番情緒的に独裁権を握って、なんかこう妙なことを言ってるようなんだけど、我々はそいつの言うことを聞かずにはいられず、なぜかそいつに頼ってしまう。
なぜなら二歳児が親に頼ってた時の感覚が残ってるから、これを手放すとなんか悪いことが起きそうな気がするわけですね。
これはもうなんか悪いことが起きそうな気がする。それは致命的な気がするということで、なんだか破綻恐怖と呼ばれているものに近いんですよね。
非常に変なんだけど、親の言うことに言い付けに従わなかったくらいで人生破綻するとは考えられないんですけれども、自分の今の親を考えればそのことは明らかなんですが、
例えばスマホの設定一つできないとかね、実際の親はそうなんだけど、我々は二歳児だった時の親の感覚というものを頼りにしちゃっているので、この漢字がですね、頭の中で整合が取れないわけですよね。
そして自分はその長児がに、その長児がに頼っている時、その非常に幼い長児がに頼っている時の感覚の自分自身を思い出すとすごく無力な感じがする。だって二歳児ですからね。
自分の自己肯定感とかって話が出た時は決まってこのペアがですね、まず中核に感じられるんですよ。
これはあのリキドー系の話を参照するとものすごくクリアな感じがしてくるけど、そうでなくても似たようなことは実は片付けの本とかにちゃんと書いてありますけどね。
だって捨てられませんっていうのはもったいないって言葉が出てくるでしょ。
で、もったいないっていうのって完全には振り捨てられないじゃないですか。ここからあの例の創的防衛ってやつが出てくると思うんですけどね。
つまり、捨てられません。もったいないですって気持ちを何とかしなさいと。
そういう時に時々こうね、あの思い込みとか信念を破壊しようみたいな話とか、えーと、何とかブロックを外そうみたいな話がメンタルブロックが出てくるじゃないですか。
これってつまり長寿我を振り施こうって話なんですよ。もったいなくないから捨てちゃえみたいなノリがあるわけですよね。
だからどんどん捨てるみたいな話に急になるんだけど、すごく創的防衛って感じがしますよね。
なんか急に創的になってる。で、なんでそんなに急に元気になっちゃうかというと、長寿我から解放されたら万歳って感じなんだけど、長寿我って自分の心の中にいるもんだから、一時黙らせることができても解放はされないんですよ。
で、この長寿我から解放されたいという気持ちが猛烈になった時に、非常に僕らは奇妙なことをやる。
その長寿我における攻撃力を今度は今までと反対の方向に急に使い始める。こういう万能的なことができるのが心の問題であり、非現実的なところですね。
急に今まであんなにもったいながっていて、あんなにものの活用というものに注意を払おうとしてたのに、急に全部捨てちゃうモードというものにバーッとなるわけですよ。
これ接触障害ではおなじみですよ。ずーっと食べずにいたのに急に大量のものを食べ始めるということが起きる。それは食べたいからなんですけどね。
で、この時に起きることなんだけれども、結局この長寿我と抑圧されている弱々しい自分のスペアというのは、どっちかが自分なんですけど、非常に辛いというかやってられなくなるわけです。
だって頑固一徹の親父に張り倒される構図で自分生きてるわけですから、ただ頑固一徹の親父になった気分の時だけ爽快感があるとか、
あるいはこれと和解できて、これに褒められたって感じがした時だけ爽快感ができて、あとはずーっと不快に。
だから部屋が片付いていないという状態を見るとずーっと不快なんですよ。横でこう見張っている厳しいお父さんみたいなのがずーっと見張ってるから。
だからこいつの目を盗みたくなるという現象は起きるはずだし、先送りも同じで先送りやってる間中ずーっと見張られてるわけで、この重たいタスクってやつが発生するわけですよね。
このタスクをやらないとこの横にいるお父さんに張り倒されるっていう恐怖感、現実にはそれは心の中の存在だから張り倒されはしないんですが、この恐怖感とずーっと戦ってなきゃいけなくて、
たまに先送りの重たいタスクなるものを実行した時だけ、「うん、よしやった!」みたいな感じで言われて何か達成感がある。
これの繰り返しになっちゃうから嫌なわけですよ。このようなスタイル、このようなパターンはですね。
で、このよくやったお父さんの話じゃなくて、このよくやったお父さん、つまり長寿がなんだけど、非常に幼い長寿がなんですけどね。
このポッドキャストでちょいちょい話題にしてきた油風呂に入るっていうのはこれですよね。
こういうお父さんと一体化したい気分というものが、強い人っていうものを連想させるので、そうなるためにも筋トレをしたり、油風呂に入ってみたり、あるいはアイス風呂に入ってみたり、いろいろするわけですよね。
なぜか肉体の強靭さに向かっていくという、それよりも掃除をしましょうって感じなんだけど、そうはならないということですね。
私たちはメンタルの問題としてこれを実は捉えてるんであって、身体の問題として別に捉えてるわけではないので、全然だって油風呂に入れなくても部屋は片付けられるわけですから。
というか部屋が片付けられる人だからって油風呂に入って平気なはずがないんで、そういうことなんだけど、ここはすごく現実的でなくなっているので、頭がですね。
2歳児の世界ですから、空想的世界に急速に入っていっているために、こういう発想を取ることができちゃうと。
で、この長寿がと弱々しい自分というこのペアから脱することを、やっぱり一応目指すわけですよ。3ヶ月チャレンジとかでも一応ね。
非常にこれは平穏な解決策になるんですけど、つまりどっちも自分だから、両方なんて言えばいいんですかね。
長寿がの影響
最近私はこう対照化するっていう言い方にしているんですけどね。どちらかというと精神分析の方によってですね。
長寿がを対照化する長寿がと一体化しちゃおうとしないと、このもう見張ってる状態というものを解除するために、この長寿がというものがそんなに強い存在だという風に考えるのをやめると。
つまりこれに頼らないということですよね。これに頼るということは、自分が要するに弱々しい存在だって認めるような方向に向かっていくんで、当然長寿がどんどん強くなっていくわけですよ。
自分の中でね。そうすると、いつ張ったおされるかビクビクしながら、片付いていない部屋と重たいタスクでいっぱいのリストを見ては、またこれで何か悪いひどいことを言われたり、すごく怒られたりするんじゃないだろうかという劇が無意識の方で進行しだすんで、そしてこれを人に向かって投影するわけですね。
この長寿が自分の心の中で起こっている厳しいお父さんだと考えるというのはですね、だいたいしないんですよ。我々はそういう内戦の仕方をしない。このお父さんが怒っているという風に外の人に向けていくんですよね。向けていくというか、外の人を使ってこの構図を再現して再演していくというべきかな。
一種の劇空間を作り出すわけですね。すごい簡単ですよね。ちょっと自分がミスした時のお客さんにこのお父さんを張ると。だからもう張ったおされるわけですよ。お客さんに。あるいはちょっとミスをした時の同僚の冷たい目にこのお父さんを張ると。非常に簡単。
これは最近私3ヶ月チャレンジでワンワンセッションやっていてすごく思います。すごくこれはポンポンポンポン簡単に起きちゃうんだなと。人の表情がどんどん違っていくんですよ。表情が違っていくはず本当はないので、私が相手の表情の上にどんどん投影しているんですよね。急激にどんどん変わっていくんですよ。
一人8役ぐらいやらせてしまう。で、その時その時で相手の方がおっしゃっている微妙な情緒的な揺れ動きを見てるんですよね。私は。だからこの傾聴って言いますけれども、傾聴というよりは見るってことだなって。ただ見るというのは一点を見るってことじゃないなって思うんですよね。
やっぱりこう、転移、転移空間というのはこういうことなんですよね。転移が起きていく。人の表情がどんどん変わっていく。少し不快なことを言ったかなってなると、もう相手は怒っている人に変わる。そしてしかも、怒っている表情に変わるっていうよりは、怒ってる人に変わる。私の目線と脳がそういうものを作り出していく。
視覚というのは本当にこうですね、なんだろう、僕は粘土細工って言いたくなるんですけど、本当に絵ですね。どんどん描き変えていく。何一つ柔道的じゃないなって感じが、それは極端ですけど言い分として、本当に何一つ柔道的でないなって感じがする。めちゃくちゃ能動的に描いていくんだなという感じがするんですよ。これだもん騙されるよねと思うんですよね。
冷たい目線を送るとか、迷惑そうな目をしているとか、全部僕が作ってるんだけど、それが全然実感できないんですよね。ずーっと相手の顔を変させてもらってるからわかることであって、さぞ僕の顔もどんどん、怪物くんの100面相みたいなもんで、どんどん変わってるんだろうなと思いますね。どんどんどんどん変わってしまう。
そして元には絶対戻んないんで。これは要するにパターンを当てはめているとかではないですから、その都度その都度即興的に作ってるものなので、だから私は写真もメモも撮らないんですよ。写真にそんなもの写るわけないじゃないですか。メモとか写真の問題は客観的であるところなんですよね。
良さもそこにあるんでしょうけれども、良くなさもそこにあって、こういう対人関係というのはまさに力動的なもので、ダイナミックにどんどん変転していくために客観的な証拠というものは役に立たないんですよ。ここで問題になっているのは私の主観なんですよ。100%それなんですよ。相手の主観なんですよ。
さすがに観主観性っていうだけのことはあるんです。主観と主観の間に何かができていってしまう。劇ができていってしまうんですけれども。これが自己愛対象関係そのものなんだなって感じがするんですよ。
そしてこの長寿が当然頑固親父みたいな感じなんで、軽蔑的になる。なんだ、片付けもできないのかみたいな感じで軽蔑的になる。で、それと一体化すると私たちは現実というものをすごく低く見積もり、脱価値化していく。こんな散らかった部屋は誰だみたいな感じで。
バツとしてお前そこで寝ろみたいな感じで。非常にありがちな劇だなってある意味思うんですよね。ただこれは表面的な部分の話なんで、最初は確かに片付けとか先送りとして現れてくるんでしょうけど、それはもっともっと人間関係のいろんな作装した場面で全域に現れているんで、その時に我々は対抗というものを必ず体験しないわけにはいかなくなってくる。要するに用事帰りです。
そして、どちらかというと抑鬱的な自分を防衛しなければいけない。つまり本当に寄るべくなくなってしまったら大変なことになるんで。だって仕事中に2歳児になっちゃったら大変じゃないですか。これを一旦防衛する。そのためにもやっぱり長寿がというものにもっと頼ると。この悪循環が起きがちなんですよね。
もう一つは、すいません、ちょっと飛んじゃいましたね。だから、投影しないっていうのが結論の一つになるんだろうなと思うんですよね。いろんなことを長寿がにとらわれ出したときは怒るし考えちゃうんですけれども、
例えば投影しちゃいますよね。お客さんとかに。何なら散らかってる部屋とかに。そうするとすぐに怒られるとか、ものすごく恐ろしくなるとかいう事態が発生するんですよ。これはとっても怖いんですよ。
なぜならその時の自分はとても頼りない存在になってるから、セットなんで。だけどこれは投影の結果なんで、本当はそんなことは起きてないはずなんですよ。部屋散らかってる時なんて特にそうで、言うほど怖くなったり不安になったり不快になったりする理由がないんですけれども、
この時に僕らは部屋を片付けようとするように思うんですよね。お客さんとのやり取りでも失敗を挽回しようとか、ちゃんとしようとしちゃうと思うんですよね。それってやっぱり長寿がの価値観そのものをまんまる受け入れてるんですよ。
これが実在しないんですよ。だって大抵の場合それは親なんで、親の価値観をまんま受け入れてみたところで、私が自分のミスを挽回できるわけがないじゃないですか。せいぜいそれは社会とか先生とかなんですよ、学校。だいたいそうなんですよね。
自己防衛と自己認識
3ヶ月チャレンジでも時々話題にしていただくことがあるんですけど、私が時間にルーズだって話ですね。この話が出ると私はちょっとワクワクしちゃうんですけれども。
あ、出たって感じはするんだけど、なんて言えばいいんですかね。要するにカウンセリングでも本当に一番取り扱われてるから、教科書に全部載ってるぐらい載っていますから。これがやっぱりね、本当になんでもいいんですけど、結構あるあるな話だとしてもカウンセリングの教科書になんか載ってないんですよ。
だからある程度手探りで頑張るしかないんですね。僕、自己愛対象関係とか病理構造体とかって言って、例えばある人がですね、すごく周りを脱価値化していっていると。その具体的な事例があるってわけじゃないですよ。
それは例えば周りが仕事できないからだっていう話をしている。これぐらいなら藤山直樹さんの本とか読めばあるんで、どういう話でどういう構造でどういうところに総的に防衛があってみたいなのも、一応本読めばある程度知識つけられるんだけど、そういうものばっかりじゃないですよね。
例えばお金の話でお金に万能感を持つみたいな話は、3ヶ月チャレンジでもおなじみなんですけど、結構教科書に出てくるかっていうと、カウンセリングの本とかいくら読んでもね、そんなに簡単には出てこないんですよ。非常にありそうなことだと思うんですけどね。
大きな自分の家を継ぐことに万能空想を抱くっていうような事例は出てきているんですよね。これ近いと思うんですけどね。大金持ちになるというのと大きな自分の家を継ぐというのは同じじゃないけどね。でもまあそういう万能空想に浸ることで周りを見下すっていう感じと、総的に防衛するっていう感じはなるほどわかる感じがしますよね。
これを後は応用していくっていう部分があるわけだけど、でもあの遅刻とか私の時間がちゃんと間に合ってないとかいう話はすごくですね、もう絶対に出てくるんで、これはやっぱり出てきたっていう感じがして、まあ変なワクワク感が生じるんですよね。
で、この時の話がやっぱりそうじゃないですか。私がその相手の人が怖くなるってことが起きるわけですよ。起きたら投影なんですよ。確実に。非常にだってわかりそうな感じがするじゃないですか。いろんな常識が今まで出てきたでしょ。約束を守れない奴は愚図人間だとかね。
そんなんじゃ社会人としてやっていけないぞとかって全部僕の言葉じゃないですよね。聞いた言葉ですよね。だからこれが響いてくるということはまさに投影じゃないですか。まさに転移じゃないですか。ある先生の言い分を。
例えばその先生、佐藤先生って先生がいたのね。うるさいんですよ。しつけという字はいい字で、身に美しいと書くみたいなことを言い出しちゃう先生だったんですよ。結構そういう感じの先生じゃなかったんだけど、こういうのが大好きだったんですよね。
で、佐藤先生がほらスタッキーそんな遅刻とかするから、社会人としてそんなんじゃ通用しないぞみたいなこのまんま言うぐらいの感じなんですよ。でもこれって僕の言葉じゃないですよ。僕は佐藤先生に聞いた言葉じゃないですか。つまりそこの横で佐藤先生が見ている感じが例えばするとするでしょう。それは転移ですよね。完全に。
しかも万能空想ですよね。万能的に佐藤先生をその場に、今なんかどこに生きていらっしゃるんだかもわかんないような、少なくとも僕の知ってる通りの顔であるはずがない。あの頃はもっと若かったから、当然僕小学生でしたからね。こういうことなんですよね。これが転移でないはずがないです。
で、その佐藤先生がリアルに生きていらっしゃったとして真横で見ていたとしても喜ぶかもしれないけど、なんかそのまんまの光景が出来上がるはずないじゃないですか。それを僕は出現させてしまうということをやるわけですよ。で、これは変異だなと。
そしてどうするのって言われるんだけど、僕はそうは思わないんですよね。ここでどうするのって問いは絶対変だって思うんですよ。まさにこれが現実でないという証拠をつかんだってことじゃないですかと言いたいわけですよ。
人はここを前提にしてしまってると僕は思うんですよね。佐藤先生が横でほら佐々木って言われているその嫌な感じをあなた今その感情になりましたねと。これが嫌なんですよ。だから人との約束は絶対に厳守するようにしてるんですと言ったらそうするならば、それは我々は妄想に踊ってるってことじゃないですか。まさに。
だってそんな現実は絶対ないわけだ。絶対にあり得ない現実を想定した上で、勝手にと言ったらいけないかもしれないけど、その空想している妄想的な万能的な世界の上で感情的に気分が悪くなってるわけじゃないですか。この先生を出現させなければおそらく違う感情になるはずですよね。つまりそこに私たちは自分らしさというものを持ってくるべきなんですよ。
言われた通りの時間厳守をするんではなくて、時間厳守をするのはいいですが、自分らしく時間厳守するべきなんですよ。つまり長字画というものはそうやっていろんな姿形をとっては、私の長字画原型みたいなベースにして劇空間を出現させ、その劇の中でこういうふうに振る舞うべきだという振る舞い方を私たちは台本に近いですよね。
これをナラティブとか台本とか言ったりするんでしょうけど、そんなこと言う必要は僕はないと思うんですよね。ここに必要なのは対象関係だけだとある意味思うんですよ。せいぜい可能性空間でいいと思うんですよ。別にこれをナラティブとかシナリオとかそんなものは明確にはないと思うんですよね。
対象関係はまあ本当はないんだろうけど、それでもこれだけはある感じがする。厳密なナラティブはここにはないと思うんですよね。佐々木はこういうふうに振る舞うべきであるみたいなことは書いてないと思って。なんとなく振る舞っちゃいますよね。そしてなんとなく振る舞った振る舞いに引きずられるようになんとなくしょんぼりしてしまう。こういうことをの、なんていうんですかね、尻尾をつかもうと。
これを作ってるのは間違いなく自分だと。だって自分しか知らない人をそこに意もしないのに出現させておいて、そしてそれの言いなりになって嫌な気持ちになってるんだから。全部やめられるじゃないですか。そういうことだというからくりをつかむことさえできれば。
だから私はこうしちゃうんです。どうすればいいんでしょうという問いには答えられない。こうしてしまうんだということがわかればそこまでなんですよね。私が基本的に手伝えるっていうかサポートできるのは多分ここまでができてるかどうかがそもそも怪しいんだけど、少なくともここまではやろうという意識を持ってるわけですよ。
つまり私という人間を使って、この劇空間の登場人物の一人として何面相か知りませんけど、私に変装をさせてそこに出現させ、この出現まで全部やってるのは自分だということが明快に認識されればおそらくそれは消える。
自作自演の認識
明快に認識するということは、全部自作自演であるということを明快に認識するということなので、それは自作自演でないという気持ちとは矛盾するので、自作自演だということを確信すればおそらくすべてが消滅すると思うんですよね。だから怒ってるお客さんがいなくなるわけじゃないんですよ。
でもだからといって、その場合の怒ってるお客さんに対応する対応は、小学生の私であることはやめることができて、45歳とか51歳の私にすることができる。そうすれば私は私らしく対応することができて、小学校だった時の私ほど決して困ることはないし、ちゃんとしなきゃというような雑な対策を越えていくことができると思うんですよね。
だから、そんなに困らないで済むはずだと。フロイトの言った通りなんですよ。あなたは今ものすごく痛ましい状態にあるけれども、それをあなたはありふれた不幸に変えることができるってことなんですよ。
なんせなら出来事自体はありふれてるから。だって遅刻してお客さんが怒りだすなんてことはありふれてるでしょ。世界で何億回も今まで起こってきて、それによって破綻的なことが起きたことってほとんどないはずなんですよね。
ちゃんとそこそこ対処できればそれで十分なはずなんですよ。これに対してものすごい奇妙なステートメントを立ててしまう人っていっぱいいらっしゃるじゃないですか。1秒でも遅れることは許されないとか、よくわかんないことを言い始めるわけですよ。
まるで1秒でも起こると核戦争でも起こるみたいな感覚になっちゃってるんだけど、その感覚ってのはまず間違いなく転移による感覚なんですよね。そこに当然私だけではなく、私が佐藤先生を持ち出すように相手の人も誰かを持ち出して、つまりダブル転移をやってる。
だからこれが転移と逆転移なんですけど、こうして著しく事態をややこしくしてるんだけど、その時やり合ってる私とそのお客さんがしばしば小学生同士の喧嘩みたいになっていくわけですよ。収拾つかなくなるわけですよね。大人が小学生のノリで大喧嘩すると、一歩も違うと殺し合いになりかねない。
それが明らかに現実の状況に対してバランスを大いに欠いてるじゃないですか。しかもそういうのをしばしばテレビの報道で、そういう痛ましい事件がありましたみたいなのを僕らは目にするから、それが1億分の1ぐらいの出来事でしかないというのを全く忘れてですね、文房をすごく小さくしちゃうんですよ。
こういうことは10%ぐらいの可能性で起きるような気がするみたいになってしまう。そんな可能性で、こんな高確率で起きるはずがないんだけど、その辺になってくると、現実を検討する能力が著しく低下しているために、なんだかよくわかんなくなっていると言ってもいいんですけど、そういうぐらいの可能性で起きるような気がするんですよね。
こうして議論が変な方向に行くんですよ。そんなことは起きるはずがない。いや、起きますみたいな話になっちゃうんですよ。そうじゃないんですっていうことなんですよ。そういうことは言ってない。ここでどう対処すればいいかの話もしていないし、どうすれば対処できるのかの話すらできてない。
それどころか、どうすればこの定義が出現しないかということすらあやふやなんだけど、間違いなくでもそれが投影がなければ成立しない空間であるということだけは間違いないと思うんですよね。
なぜならば、加藤先生はいないから。ここにはね。どっかにいるけどね、きっと。でもここにはいない。まして、僕の心の中にいるはずがない。僕の心の中にいるのは長寺がなんですよ。