2022-08-01 44:21

【641GMV】家族欲が満たされないと人は神経症になる?

エピソードをシェアする

Share on X Share on Facebook Share on Threads
やっとフロイトが面白く読めるようになった
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
テイク2です。
さっき、グッドモーニングバイブスと言ってしまったので、その瞬間に止めて撮り直しました。
これね、最初はグッドモーニングバイブスで始まっていた番組だったので、
それがボイスに変えたのはですね、グッドバイブスの話ばかりするとネタが簡単に尽きるという当たり前の話に気がついたから、
倉園さんとも相談して変えたんですけれども、
頭文字変えるのめんどくさかったので、ボイスにすればいいんだと閃いてGMVは変えずに来ているわけですが、
自分でも紛らわしいので間違うんですよね、わりと頻繁に。
そういうことがあります。
昨日、橘武さんとクロストークが終わって、いろいろ勉強になりました。
しばらくこのコース続けていきたいなと思っているんだけど、
私は一体どっちで行くかという問題がずっとありますね。
ネタがね、時間管理系で行くのか、情報発信系で行くのか、あるいはまた違う話をするのかといったところがちょっとあるなと思いながら、
それをこれから橘さんと検討していきたいと思っております。
おかげさまでですね、タスクその管理の本のほうが今好調でして、
4度目のアマゾン品切れになっています。
昔は書店さんで回るとかもいろいろやってたりも頑張ってたんですけど、
書店さんの売れ行きって著者には全く見えないんですね。
文字通りのブラックボックスって感じで、出版社さんは多分逐一把握されているんですけど、
私には見えてこないので、アマゾン一遍倒になるしかないと。
こういうのがですね、書店さんにとっての余計なストレスをますます増す形になっていて申し訳ないとは思うんだけど、
やれることが何もないわけですよ。
アマゾンについてはやれることが立派にあるとは言いませんが、いくらかはあるんですよね。
こういういろんな要素がですね、アマゾンに有利に働くようになってますよね。
ということを誰に向かって訴えているのかわかんないんですけど、
いろんなところがあるよという話は、これはですね、一人一人の著者がやるという意味では大したことはないと思うんですよ。
全く動かない本を著者の力で動かすということになってくると、どれほどのインフルエンサーでないと難しいんですね。
しかもこれは昨日まさにクロストークでも話したことなんですが、著者の立場とネットの情勢というものは違いますし、
03:04
今は著者と、これ先日クラゾノさんでもお話しした記憶があるんですが、
著者の傾向とネットのインフルエンサーというものの乖離がですね、また激しくなってきたんですね。
2010年より前は割と著者とインフルエンサーというのが近い形になっていて、
その筆頭に勝間和夫さんという方がいらっしゃった感じなんですけど、もっと上もいたかもしれないけど、
彼女も相当トップクラスにいましたよね。ネットでも影響力があって、著者でもある。
だからネットで本が売れば、本が書店でもなぜか売れちゃう。
でも今はですね、やっぱり動画主流主体、主流ですから、インターネットの影響力というものがYouTubeとかTikTokとかに大幅に移っているので、
彼らはもはや著者じゃないんですよね。例えばゲームをやる人だったり、格闘家だったり、ダンスを踊ってたり、
それらの人たちは本を売る必要なんてないわけですよ。出す方はいらっしゃると思うんだけど、大して本を売る必要ってないわけですよね。
だからまた著者とインターネットで影響力を持つ人というのが乖離しているんですね。
それは何が言いたいかというと、つまり、著者は人に本を売ってもらうより他ない。
けれどもインターネットのつながりの方が、著者という人は多分ですね、家の中でこもって本ばかり書いてるんで、
外に行ったって結局ネットカフェみたいなところに行って本書いてるんで、外に行くイコール人脈が広いってわけじゃないんですよね。
どうしても総合的に言うと内向きの人ばっかりなので、人とつながるとなるとやっぱりネットを介さないと難しいわけなんですよね。
そうなってくると、外で売る手段がそもそもなく、書店さんというのは必ずしも著者が書店巡りとかをすることを全ての書店さんが喜ぶわけではないんですよ。
結構すごく拒絶されるというケースも、私も経験上あるんですよ。こういう経験は絵がたいのでしておく価値はあるんですけどね。
すっごく歓迎してくださるところと、ほとんどけんもほろろという場合とあるんですよ。
で、これも大きな差を生むだろうなやっぱりと思うんですよね。著者の世界って狭いですからね。
まあでもしょうがないです。来られて嬉しいわけじゃないというお気持ちも十分わかります。
あらゆる著者が来たら実に困ったことになりますよね。
でもAmazonはいいんですよ。あらゆる著者がそこにアクセスを求めても、何ら困ったことにはならないんですね。
ここが怖いと思うんですよね。
今も本とか80万点とか言っちゃうわけじゃないですか、データベースに載ったものだけでも。
多分もうそんな数では進まなくて、優に数百万点を実際には突破している、ただデータベースが追いつかないという程度の問題でしかなく、今後これも毎年毎年増えていくわけですよね。
06:06
今後はデータベースに載るわけですから。
ということは売りたいという著者は山のようにいるわけですね。
その売りたいという著者がみんなAmazonを本屋さんより優先しないわけにはいかない現実がある。
あともう一つAmazonだけじゃないですよね、ネット書店は。
私も今Amazonさんが品切れになったら楽天ブックスさんとかヨドバシさんをお勧めするけど、そっちは一向に動かないんですよ。
でも楽天ブックスさんの方は50冊だったのが30台に一旦になったから、なんか結構今回の動いてるかもって私が思ってしまう。
はっきり言ってあそこが動いたの僕見たことなかったんですよ、自分の本では。
それこそレビューもついてませんしね。
そういうところがすら動くっていう事態に喜びはあるんだけど、Amazonに本が戻ってくると一向にまた動かなくなるわけですね。
つまり誘導するならAmazonしかないというのが一応今の現実でして、それが切れてやっと他のネットブックスさんに行くけれども書店に行くということは考えられないわけです。
どうやったって書店に誘導する力は我々にはない。
Amazonに誘導する力はものすごく魅力だけどみんなある。
そのものすごく魅力かける、例えば10万人とかになった時、その差は大きいだろうなって思うんですよ。
結局また本というものはですね、生鮮食料品とは違って書店で買ってもAmazonで買っても全く同じ商品が全く同じ値段で届いちゃうんですね。
これ再販制の話なんですけれども、とはいえ値下げができたらAmazonが一番値下げができるに決まってるんで。
やっぱりどうやってもうまくいかないようにある意味リアル書店さんで、この話これを心の底からいいことだと思っている人はそんなに多くないと思うんですよね。
特に私の世代の著者は本屋さんって多分相当お世話になっていて、街の本屋さんってやつね。
しかもそれしかなかったわけですからね、昔は。
だからこれが間違いなく手放しでいいことだと思っている著者さんって少ないとは思うんだけど、
でも現実に自分の本が出た時に何をするかというと、Amazonが有利になるように最大限働くってことに結果としてなってるんですよね。
これが仕組み作りってやつだなっていうふうに思います。
なんかもう、豊臣秀吉の小田原城攻めを思い出すんですよ。
どうやっても小田原が勝てるようにはなってないんですね。
あの話の中にはいろいろとあって、たぶん反乱美肌で小田原勢にあの話を読むと心の底では応援したくなるという人はいっぱいいると思うんですけど、
絶対勝てないようにできてるんですね。
ああいう必勝感がAmazon側に今あるなっていうのをすごく感じます。
09:06
そもそもAmazonって別に本売らなくてもいいわけですからね。
それこそアンカーの充電とか何とかの配線とか、他で手に入らないようなものを、
他でっていうのはつまり、そこら辺のスーパーとかに行ったってどうやったって買えないようなものを買うためにAmazon使われてるから、
本たぶん売れなくてもあそこは全然いけちゃうんで、
だからもう本屋さんで本を買わせようというその無理矢理な動線づけっていうのは、
よっぽど何かを閃かない限りは相当難しいんじゃないだろうかっていう感じが本出すたびに実感させられます。
これは本を買ってるときはなんとなく町の本屋さんを応援する人たちはきっと頑張って町の本屋で買うとか、
町の本屋で見つけたものをAmazon検索して注文はしないとかそういう心がけはあると思うんですけど、
それはある意味、ペットボトルを今日控えておけば地球環境に優しくなれるだろうぐらいに、
その種の満足ではこの場合もう機能しなくなるんじゃないかっていう話に似てるなって感じがします。
わからないんですけどね、結局何が起こるかなんてことは。
思いもかけないことがこの世の中に起こりますから。
というわけで10分ぐらい話しちゃってるんですけど、
すでに一応ありがたくAmazonでは動いております。
あとのことは僕にはわかんない。
これも大きいですよね。
他の数字は僕には見えないようになってるわけだから、
そっちの努力をするってことは実際できないわけですよね。
何でしたっけ、POSシステムでしたっけ。
あれもすごいなとは思うんだけど、僕の手元にはないものなんですよね。
昔すごい売れたときは随時、ほとんどリアルタイムは言わないけど、
数時間おきに書店さん送ってくださるっていうこともあったんですけど、
それも微妙ですよね。
そんな人力で送っていただいても申し訳ないですし。
そんなことが意識しつつ今ではAmazonさんに誘導しちゃうなと。
どこで買っていただいても著者はありがたいので、
だったらAmazonになってしまうんですよね。
売っていかないと、本当に僕みたいに本で生きていると思われてるぐらいになっちゃってる人間は
大変ありがたいことである一方、
意図してそうなったっていうことは違うので、
ある意味一連卓色感があって、
こういう運命に乗っかっていかなければならないということはないけれども、
12:00
行くのがどうだろうというところもあります。
その話ではなくて、そろそろ本題に入るんだけども、
競争っていう話が、競争というキーワードを考えてみたんですよ。
今、新しく考えたって話ではないですけどね。
私は精神分析というものはグッドバイブスで理解した人間なんですね。
これは非常に変な話ですけれども、
どう考えてもそうなんですよね。
先日これを聞いてわかったんだ。
フロイトの本をペラペラっと読んでよくわからなかった。
よくわからないんですよね。
なぜよくわからないんだろうって私も改めて考えてみたんですよ。
僕も長らく本当に最初に読んだのは多分8歳とか7歳なんだけど、
もちろんわからなくて、
それからただ延々いろんなタイミングではチャレンジしてはよくわからなくて、
よくわかったように思っていた大学時代も今から考えるとよくわかってなくて、
留学時代は精神分析については一通り習うんだけど、
結局あの時すらよくわかってなくて、
わかってなかったんですね。
わかったなって思ったのは、
倉園さんにグッドバイブスの話を聞いてからですよ。
しかも倉園さんとお会いしたという時には、
昔iPhoneで仕事術みたいな本を書かれてた。
これはタイトル的に正しくないと思うんですけど、
そういう仕事術の本を書かれていた時代にも話し込んでみたことがある。
倉園さんとお話ししたことがあって、
その時には全然精神分析についてはよくわからなくて、
全然精神分析ということがわかるようにはならなかったわけですね。
同じ人に会っても同じように話し込めば
わかるようになるってものでもなかったんだけど、
読むのがわかるような気がしてたんですよ、昔から。
かわいはやんさんの本を読んだのは、
その前に加藤定三さんかもしれないですね。
10歳、11歳だったと思う。
12歳ぐらいだったかもしれませんね。
その頃に読んで、わかったと思ったし、
今思ってもその時の読み方が大きく外れているとは思わないんですね。
かわいはやんさんの本は今読み直してみると、
すごい精神分析だわっていう、
フロイトがわからなくてこれがわかるっていうのはダメだわって思ったんだけど、
でもやっぱり今読んでみて、
昔そんなに外してたとは思わないんですよ。
だけどもフロイトはわからなかったんですよ。
で、今から考えてみると、
なんでこんなにわからなかったんだろうと、
いろんなことがあるんだけど、
やっぱりですね、わかるためには、
こういう枠組みで見るしかないんだっていう枠組みが必要で、
それが見えていないとですね、
15:00
話が難しくないはずなのにわからんっていうことが起こるんですね。
全てが性で説明されるのはナンセンスだとかいろんな意見があるんだけど、
いわばですね、わかりにくい話に対して人は肌を立てるので、
まず批判的に見ちゃうんですね。
批判的にフロイトを見てしまったら、
それは突っ込みどころ満載ですよ。
ただこれはですね、
もし頭から批判的にタスクシュートを見ていただいたら、
それは突っ込もうと思えばいくらでも突っ込めますよ。
同じように、それこそグラゾン圭三さんのグッドバイブスだって、
最初からあれを批判的にのみ見るぞと思って、
観点として自分がケチをつけたいと思うところを
くまなく突っ込もうと思って読めば、
それはできると思うんですよね。
ということは、フロイトは不利ですよ。
そもそも間違ってることはいっぱいありますもん、
あの人の考え方には。
でもそれは、あんまり大した問題ではないと思うんですね。
これですね、先日もグラゾンさんとお話しして、
この熱中症の止まるまで待つかどうか考えてるんですけど、
止めるの待ちたくないんですよね。
というわけで、このままやっちゃうんですけど、
ここ聞き苦しかったら申し訳ないです。
でも、私のポッドキャストは、
数日聞いていただくと多分、
ほぼ同じ話を何回もするので、
あんまりここを聞き逃したからダメだ、
みたいなことはないと思うので。
でもちょっと、こっちだけ閉めますかね。
こっちだけ閉めても聞こえてくるんですけどね。
繰り返さなくてもいいと思うんですけどね、これね。
フロイトってのはですね、
ヒステリーから入ってるわけですね。
で、ヒステリーとは何かってやりだすと
わからなくなりやすいので、
バチッといきなり考える上で、
なぜ僕がクラゾノさんの本を読むことで
フロイトが理解できるようになったかというと、
これは家族愛と言うべきものを
フロイトが性愛と呼んだことが
そもそも私の分かりにくさに起因してる。
だけど家族愛と言っちゃダメなんだけど、
多分違うものをイメージされるし、
そういう生ぬるいものじゃないですかね、
フロイトの発想っていうのは。
家族を作りたいという発想なんだと思うんですよ。
根本的には、あれは。
そう考えるとわかりやすいと思います。
家族を作りたいという欲望が
何らかの形でうまく機能しない時に
精神症や神経症を露呈するという
そういう枠組みで考えるのがいいと思うんですね。
18:02
今日この話はしませんが、
その時、たまたまフロイトがわからなかったって話を聞いた時に
同性愛って言葉が出てきたんですよ。
これはキーワードの一つなんです。
家族を作りたいという欲求にとっての
同性愛とはどう位置づけられるべきかって考えるべきなんですよ。
そう考えていくことで、
彼が何を言わんとしてるのかが
かなり見えやすくなるんですね。
間違いはあるんですよね。
だからいっそ困るんだけど、忘れちゃいけないのは
1900年代初頭に彼が考えたことだから
そんなに簡単な話じゃないっていうことなんですね。
彼自身にとって
家族を作りたい欲求って
どういうことかというと
それは性欲なのか
性欲は当然含むんですけれどもね
家族を作りたい欲求って
他の動物にも普通にあるじゃないですか。
哺乳類ですよ、一般的には。
でもペンギンとか
以前も何度かペンギンの
そういう生物ドキュメンタリーというのを見たんですけれども
すごい家ですよね。
家族愛に満ちていて。
卵ならずっとその場で温めるとか
なんか、なんですかね
鳩場みたいな、鳩場はちょっと違うな。
駅の中で人が雑踏の中で
誰かと出会うとか別れるとかいう
白黒の昔の映画ってよく見かけるんですけど
あれを連想するくらい
南蛮場というですね
ビキナのかな、ペンギンが
お父さんとお母さんと再会する
そういうある種の感動シーンがあるわけですよ。
そこにお母さんがいつまでも来ない
子供とかも出てきて
すごい悲惨なものがあるんですよ。
全部この悲惨とか感動とか言ってるのは
人間の物の見方を投影してるんだけども
でもそこに家族感
家族的なものがあるわけじゃないですか。
家族となぜ言わないかというと
彼らは家族という言葉を
使ってないはずだからんですよ、ペンギンはね。
ペンギンには家族という概念も
言葉もないわけですよ。
ただその原型みたいなものが
もっと生々しくそこにはある
ああいう本能を
人間もおそらく持ってるんだけれども
でも人間は家族って言葉を
知ってしまってるから
家族を持ちたいとかって表現を
取っちゃうじゃないですか。
つまり、ああいう生々しい要求
そのまんまでは人間は生きてないわけですよね。
ペンギンみんな裸ですからね。
あれ全部人間が裸でああやってるって
考えたら全然違うじゃないですか。
でも人間だって絶対に
そういう時代はあったはずですよね。
今はそうじゃないのが当たり前
みたいな顔をしているんで
だからフロイトに言わせると
人間は本能では生きられない
っていう言い方をするんですけれども
でも本能みたいなものは
てか本能は持ってはいるわけですよね。
本能そのままでは
生きられないんだけれども
あるわけですよね。中でもフロイトが
非常に重視したのが
家族を作りたいという本能なわけですよね。
きっと私が思う。
21:00
でもそれがいろんな形で
挫折させられますよね。
私別というのは最大ですね。
私別。
そういう時に神経症というものだと
無縁ではもはやいられないんですよ。
人は。
家族を作りたいという
家族をなんていうんですかね
個体である我々には家族を作れ
という命令が絶大なので
これを拒否するとか
何らかの
文化的な事情でできないとか
例えば持てないとかね。
持てないがフロイトに接近するのは
こういう事情なんですね。あるいは
タイミングを一するとか
いろんなケースがあります。
全て文化的
つまり人間のルールの
枠組みの問題ですよね。
もっと簡単に言うと
家族欲じゃなくて挨拶欲だったら
非常に分かりやすいんですよ。
本能丸出しでは我々は
それできないじゃないですか。
文化的ルールにがっちり固められてるじゃないですか。
男性と女性は
違うところでしなきゃいけないという
ルールがありますよね。しかも場所も決められている。
非常に難しい
話なんですよ。これを犬に
絶対やれって言われたら
相当頑張らないといけないわけですよね。
犬はオスとメスでは
別れてやるとかないと思うんですよ。
これは人間が作った
ルールに我々が本能
のものをですね。文化の
服を
高速着を着せる
って言ったのはフロイトじゃないかな。
そういうのがあります。
中でもややこしくなりやすいのが
家族。家族欲みたいなもの。
そういうものを
満たすというのが文化的
状況の条件の中でやるってのは
なかなか難しいんですね。
しかも
しょっちゅうこれが
難しくなるようなシーンをある意味
作り出している面もあるわけです。
例えば学校で
イケメンの男の先生と
結構
そういう気持ちになりやすい
女の子が
同じところに長い期間
しかも同じ目標を持ったり
しちゃう。
こういう事態をわざわざ招いておいて
でもそれは文化的に絶対ダメだからね
平気でそういうことを言っておけば
この家族欲というものが
うまくコントロールできるかのような
そういう
建前になってるわけですね。
でもこの建前が
破られることは実際頻繁に起こりますよね。
頻繁に起こってますよね。
多分今この瞬間に起きても
別に不思議はないですよね。
世界中でっていう風に
言えば絶対起きてると考える方が
妥当ですよね。
でもそれは家族を作りたいという
欲求であって、それも
文化的にそうは認められなくて
性欲だってことにされてしまうんですけど
しかも大人の側の性欲を
なんとかするのが当然だって
当然じゃ当然なんですが
そういうことになってますよね。
だからある意味
火遊びをしてるわけですよ。
絶対そういうことを起こしたくないならば
今ありますよね。男子校とか女子校とか
そういう風にして
24:00
そこの先生も全部同性にしておけばいいわけですよね。
ここで同性愛という問題が
しかし出てくるはずなんですよね。
家族欲は極めて大ですからね。
じゃあ同性愛って
なんなんだって話は
今日はしないです。
多分このキャストでも
永遠にしない気がします。
非常に今取り扱うのが困難になっているので
精神分析から
扱っているというのが
1万人の前で言われれば
必ず炎上します。
そういう話なんですよ。
フロイトは
家族欲というものが
そうは言っても
満たせないというケースは
頻繁にあり
一見満たしているように見えても
その中では
すっごい人間は無理をしなければならない
シチュエーションが多々発生する。
中の一つが
ヒステリーですよね。
今でもだと私は思うんですが
当時
複雑な問題というか
頻繁にある
ありふれた問題になっちゃってたのが
これだったわけです。
これは食欲とか
体が痛いとかいう話とは
全く違って
家族欲を満たしたい欲求なので
決して身体に
直接
何かの症状に思って
現れるはずがないんですよ。
だって体の外に原因があるわけですもん。
体の外に原因があるのに
身体症状として
現れる。これを心身症
というわけですよ。
心が病気を作り出すって言うんだけど
心がって言った時だと
心がとただ言っちゃうと
その人の体の中にあるような感じがするでしょう。
心って今脳って言うから脳って
体の中にあるじゃないですか。
そういう感じがしちゃうんですけど
そのことにそうではありますが
原因は
家族にあるケースが多かったわけですよ。
だからフロイトが評判が悪いのは
全部家族が悪いのかっていう
話になるんだけど
その意見も食い違ってるんですよね。
大事なのは
家族欲を僕らが持ってる
ってことなんですよ。
持ってて不思議はないじゃないですか。
だって類人猿とかシンパンジーとか
霊長類とか
ペンギンとかキリンとかも
みんな持ってるんですよ。
多分皆さんが想像されてるよりも
はるかに
キリンの家族のありよう
って言うのは人間のそれそっくりです。
私すっごい
微妙な気分になったんですけど
オリラかなんかのオリを見て
完全に人間の家族だ
って感じがしました。
お母さんとお父さんと子供二人と
そしてそれがオリの中に
全然悪いことしてないのに
一家揃ってオリの中で
生活してるんですよ。
ものすごい老爺感があるオリだったんですよ。
これは
ひどいわって
直感的にはそう感じましたね。
で、あれと全く同じものが
僕らの中にあっても
何にも不思議はないですよね。
僕らは服を着ていて
27:00
家族という言葉を使います。
たったそれだけですね。
でもこの違いは非常に重要な違いを
多分生むんですよね。
あの
チンパンジーとか霊長類は
本能であれをやってますが
僕らは決して本能ではそれはできないんですよ。
例えば
喧嘩するとかいうのも
夫婦喧嘩とかいう表現を使っちゃうんですよね。
あるいは離婚とかいう言葉や
概念も必要とするわけですね。
そういうものとの
折り合いがつかなくなっていく。
別に不思議な話じゃないと思うんですよ。
つかなくなっていきますよ。
いろんな
それこそ情緒なんですけど
常念がそこに
渦巻くしかないですよね。
絶対に。
良いだ悪いだ言っても
良い悪いだけでは
自分の気持ちを収められない
いろんな事件が
起こるはずなんですよね。
そもそも
その家族を作れないという
苦しみも人間には発生する。
もちろんそれは
霊長類だって一般にあると思うんだけど
とにかくあるわけですよね。
それが身体症状として
現れた時、しかし
体はどこも悪くないとなった時に
心の病気だ
っていう話をしているんですよ。
それをどういう
位置づけで
起きた時に
どんなケースとして現れてくるのかを
実際に患者さんを
見たケースだけを
ある意味、元出にしながら
理屈を
組み立てていったんですね。
それが精神分析
というやつなんですよ。
精神分析はただ理論を
組み立てるだけじゃダメで。
実際にはカウンセリングの方が
主体ですから直さなきゃならない。
直さなきゃならないとなった時に
何を
考えたかというと
おそらくこれは間違いないと思うんですけど
そこに
人工的な家族を
作るんですね。
私は
顔色の本の
表紙の女の子を書いてくださった
永田花美さんという方の漫画が
好きでよく読むんですが
彼女がカウンセリングに行って
そんなの話を聞いてくれないでいいから
抱きしめてくれっていう風に
いつも悩んでいらっしゃる。
あれは本当に精神分析
なんですよ。
抱きしめちゃダメなんですね。
そこに疑似家族を
人工的に作るわけです。
だって家族欲が
こじれてるわけですから。
家族欲がうまく満たされていないというのが
そもそもの問題として
やってきた方だから
そこで家族欲
というものを満たすんですよ。
そのために
疑似家族をそこで作る。
おそらく
だからこそ
フロイトが精神分析家が
お父さんになってみたり
お母さんになってみたりするわけです。
あるいは必要に応じて
30:00
フロイトの子を子供になってみたり
娘になってみたりする。
だからドイタキオが
精神分析は演劇だって言ったわけですよね。
そんなのいいから抱きしめてくれ
っていうのはダメなんですよ。
というかダメではないですよね。
この気持ちを持っているってことが大事なんです。
で、一番最初に戻ると
一番最初は赤ちゃんと母親ですね。
ここに戻るわけです。
必要であればね。
とにかく抱きしめてほしいのは
赤ちゃんに近いじゃないですか。
これを対抗と言うんですね。
対抗は我々にとって非常に大事なものなんですよ。
家族欲の
家族欲が
原始的に表現されるほど
対抗が進むはずですよね。
僕らいくらなんだって
チンパンジーには戻らないじゃないですか。
言葉を完全に忘れたりはしませんよね。
とにかく一番最初に戻ったとき
何が必要かというと
その抱きしめてくれですよ。
ホールディングですよね。
その感覚を僕らは
培わなければいけないんですね。
抱きしめてもらったら
どんなに安心するかというのを
実際に抱きしめてもらわないと
困るわけです。
だから
ホールディングされているというか
抱え込んでもらっているという
感じを
感じまでそこで
実現できるようになっていくのが
理想的なんでしょうか。
もう一つが
解釈ですよ。
とにかく
いろんな苦しみがあるわけです。
家族欲を満たせないという苦しみですよね。
自立というのも
フロイトに言わせると
家族を作るという意味になるので
だから性欲なんですけどね。
そこで非常に大事になってくるのが。
とにかく
家族を作ろうと
あるいは家族の良さを知ろうと
言ったときに
何かこじれたことがあると。
お母さんは何もしてくれなかったと。
何もしてくれないと言っても
生きている以上は
やっぱり何かはしてくれてるんですけどね。
そのときに
お母さんは何もしてくれなかったと
表現をしたときに
例の
この番組で言うところの
そこにニードというものがあるわけですね。
本当に言いたいことはそういうことではないんですよ。
水を飲ませてくれればよかったのかと言うと
そうではないはずです。
水は飲ませてくれたでしょうから。
何にもしてくれなかったと言っても
服も着させてくれなかったというわけじゃなかったでしょうから。
そういう家もないわけじゃないんでしょうけど。
いずれにしても
お母さんは
そのときに
あなたはこういう気持ちなんですねと
言ってくれるんですよ。
これはつまり
あなたは何を欲しがっているのねと言ってくれている
お母さんの立場なんですよ。
赤ちゃんは
言葉が使えないから泣く。
水が欲しくても泣く。
眠くても泣く。
とにかく何を言いたいのかがわからないから
自分でも何かを言うことはできない。
それと同じような状態に
33:00
家族欲を満たせなくなってくると
泣くのと同じなんですよ。
お母さんは何もしてくれなかったというのは
何かを代わりにしてほしい
って話をしているわけじゃなくて
泣いているんですね。
そのに対して
あなたはこういう気持ちなんですねと
言えるってことは
お母さんがそこに現れたってことなんです。
患者にとってはですね。
そういう体験をすることが
ここでは必須なんです。
これを繰り返していくうちに
だんだんそういうものが
わかってくるってことなんですよ。
なぜなら人間には家族欲があるから
家族欲を満たすということが
どういうことなのかがわかってくる。
必ずしも
精神分析家がどれほど優秀でも
どりたけおさんほどの人でも
正しいことを言うとは限らない。
そうですよね。
お母さんが常に正しいことを
やってくれるわけじゃないですよね。
だからお母さんが何もしてくれない
ということを訴えなければならないときは
やってくるわけですよね。
あるいはお母さんは
トンチンカンなことばかりしてくる。
よくあるじゃないですか。
今一番悩んでいるのは恋愛のことなのに
勉強しろ勉強しろと言ってくる。
そういうものですよね。
それは家族欲を満たすということの中に
入っているじゃないですか。
恋愛で悩んでいるからといって
たちまち正しい恋愛相談を
常にしてくれるお母さんっていうのは
ほぼ期待できないと思うんですよ。
それは家族欲を満たす
ということとは違うんですよね。
家族欲を満たせないという
ドーラのような非常に厳しい環境にある
女の子が出てくるわけです。
お父さんは
ドーラが大好きなんだけれども
でも
家庭教師の奥さんと
不倫をする。そっちの方が大事なんですよ。
ドーラはそれを何としても
やめさせたいんだけど
お父さんのやってくることといったら
じゃあその家庭教師をお前の相手にしてやろうと。
やってくるわけです。
その家庭教師はドーラを
当たり前のように口説くと。
そしてドーラは
この全体の気色悪さの中で
腹が立って
いきなり
転換が起こったりすると。
でも本人は
なんで自分が転換を起こしているのか
というのが正確に分かっているわけじゃないわけです。
お母さんが言ってあげるべきことというのは
つまりフロイトが言ったことというのは
あなたは今こういう気持ちでいるんですね。
これが解釈ですよね。
ドーラは
転換という形でニードを示したわけです。
とにかく私には何かが必要なんだと。
お父さんが別れろってことなんだよ。
とにかく必要なんだと。
で、あなたはこれが必要なんですよ
ということを言ってあげる
というのがお母さん役なわけですよ。
フロイトがやった役なんですね。
で、その時フロイトが言ったのは
あなたはそうやってお父さんを別れさせては
ダメですと。
全然望んだこととは違うこと
平気で言うわけですよ。
でももしそういうことをしちゃうと
あなたは何か嫌なことがあるたびに
転換が起こるようになるからね
という話をしたわけですよね。
36:00
これが精神分析というものなんですよね。
完全に家族がこじれている
というところから話はスタートしていて
家族がこじれていることが原因で
その人の身体障害の
異常が起こっているんだから
身体を調べて悪いところが出てくるはずないですよね。
そして心を調べるというのも
おかしな話ですよね。
ある意味では。
ドーラの心の中が原因とは
言えないじゃないですか。
これは家族の中に
その原因があるわけです。
ただし、ドーラの心が
身体に症状を汚すことも確かですよね。
この場合の心がというのの中に
クラズノさんが
最近は心象とおっしゃるらしいんですけど
僕はイリュージョンと
ここは言っておきますが
お父さんが別れてくれたら
どんなにいい家族ができあがるだろうという
ドーラが考える家族欲というものを
満たしたいという
その気持ちの中に
性欲のようなものが含まれているのは
当然ですね。
当然じゃないですか。
ないとは考えられないです。
家族欲だったから。
その家族欲というものが
どんなに小儀礼で
美しいイメージに彩られてようと
なんだろうと
イリュージョンであることはまた間違いないですよね。
現実は全然そうじゃないわけですから。
ドーラの
思った通りの現実がどれほど
社会常識的とか
良心既定に
かなった話であろうとも
結局そのために
必ずしも
しかもドーラのお母さんがしのごの言ってるわけでもないのに
ドーラの願望を満たすために
お父さんが
愛人と別れるということを
あの時代ですからね。
そうであることも忘れちゃいけないんですよ。
とにかく
そういう現実を
今ある現実に塗り替えたいという
欲求を
しかもそういう権力もない女の子が
持っても心身傷を起こす
のが赤の山なわけです。
これを
でも言われたところで
納得しないじゃないですか。
でも私は納得できないんだということになるでしょう。
こうして
自分が病気であることを
選んでいるんだと。
ここで選んでいるというのは
非常に過酷なようですけれども
でも選んでいることは間違いないんだと。
これを多分フロイトがですね
快楽原則を超えて
現実原則というもので
人は生きるしかないんだと
言ったわけですよね。
でも現実原則で生きられないとき
我々はヒステリーのような症状を
そこに引き起こすしかないんだと。
それが嫌ならば
現実というものを
受け入れて
自分なりの家族というものを作るように
努力していくほうがないと。
お父さんをコントロールする
というやり方で
それを実現しようとしても
多分うまくいかないし
ましてそのコントロールがうまくいかないからといって
自分が病気になるという手法を取ると
つまりそれが精神病に
接近することになりますよと
言ってドーラは
39:00
フロイトを拒絶したわけですね。
そうして多分
この話が終わってしまったとは言っても
それによってフロイトは
なるほどこうやって
患者さんは
先生を拒否する
つまり反抗期の子供みたいに
自分を親にして
その親に怒りをぶつける
本当はお父さんに怒っているんだけど
そのお父さんに向ける怒りを
有効じゃなかったからフロイトに向けると
不毛ですけれども
これを転移というわけですよね。
この辺のことが
要するに
一つ意識というのを
私は家族欲というのに
一旦置き換える形で
それはそうしようと
思ったわけじゃないですよ。
フロイトを読み直すうちに
倉野さんが言っていたようなことが
いっぱい出てくる上に
結局家族は
バラバラ意識というもので
みんながお互いの
ことを恐れるようになると
この種の問題が
自然的に引き起こされるということを
彼はしつこく言っていたのが
なんとなく見えたんですよ。
そこから早かったということですね。
家族が一つというのは
分かりやすいじゃないですか。
これも所詮概念的だとか
奇麗事だというのは分かるんだけど
とにかく分かりやすいじゃないですか。
実態はそうはなかなかならないというのも
僕らみんな知っているわけじゃないですか。
家族って結構バラバラなものだと。
バラバラだって
うまくいってるじゃないかと言われればそうなんだけど
でもバラバラな上に
お互いがお互いのことに対して
変に牽制したり
一部攻撃したりすると
こういうドーラのようなことが起こるわけですよ。
そのことを
フロイトは性欲って
言ってるわけですよ。
結局のところドーラのお父さんは
この家族欲を満たしきれないから
愛人を作ってるわけでしょ。
それは疑似家族を外に作るということですよね。
彼の
イメージする家族欲というものを
乱すところの
うまくいかなさが
そういう問題を引き起こすんです。
そうすると作った家族の中に
わざわざ火種を増やすような結果になって
ドーラみたいな問題が起きると。
家族欲のこじれっていうのは
非常に僕らにとって
難しい問題。
でもなんでそういうことに人間の場になっちゃうかと言うと
本能だけでは
生きられないからなんですよ。
本能の赴くままに生きていれば
多分こういう風には
なりにくいんですよね。
なぜペンギンは
一歩一歩で
卵のことを覚えても
おけないような脳しか持ってないのに
卵のことは決して忘れずに
ああいう感動の再開、人間から見れば
感動の再開みたいなことが
できるのかと言うと
それは本能で動いているからなんですね。
不倫とか愉快には
ないんですよ、彼らの中には。
本能っていうのは非常に
ルールが原則で
それに縛られているという
意識すらないですけれども
アリってそうじゃないですか。
整然としてますよね。本能のままに。
42:00
本能のままにというのはしっちゃかめっちゃか
ってことには決してならないんですよね。
我々の方がある意味
しっちゃかめっちゃかになりやすいんですけど
それは本能のままに生きられないからなんですね。
そういう
話をですね、残念ながら
冒頭で取り上げた
競争という本当はキーワードの中で
使うつもりだったんですけど
全然違うここに話しちゃうし
競争はですね、最後に
ちょっとだけ
申し訳ないんで喋っておきますと
競争というのは結局ドーラは
お母さんと競争しているわけです。
ヒステリーには
この種の側面が必ずあります。
お父さんに気に入られたいという理由で
お母さんなり
兄弟なりと
私の方を可愛がってくださいよ
って言ってるわけですよ。
これがヒステリーなんです。
自分を競争させているわけですね。
この種の競争が
つまり家族の問題
最初はそういう形で出る。
だってちっちゃいちっちゃい時に
そういう競争意欲が
芽生えた時、まだ嫉妬なんてことは
知らないじゃないですか。3歳4歳
5歳6歳、知ってるかもしれないけど
分かってはいないですよね。でもそういう気持ちはある。
いつもそうなんですよ。
本能はある。おそらく嫉妬という
本能は霊長類は絶対ある
と思います。ただそういう概念はない。
そして私たちは
そういうのを平気で投影する。
例えば会社であるいは
学校で。私は
聞いたことがあります。
女子高生か中学生か
他の同級生の
女の子に負けたくないから
先生と関係をする
っていう話を聞いたことがあります。
不思議なことじゃないですよ。
その人にとっては
先生はお父さんなんですよ。
はっきり言えば同性だってお父さんに
見えることはありますよね。
あり得ると全然思うんですよ。
同級生は
兄弟ですよ。
それもおかしな話かもしれないけど、我々の
家族欲というのはそれだけ強烈だ
っていうことですよね。すぐ
そういうのを投影させてしまう。
いるじゃないですか。
保健室の先生を
お母さん役にしちゃうという。
全然不思議な話じゃないですよね。
そこら中でやってることです。
実際それに応えてしまう保健室の
先生だってきっといらっしゃると思うんですよ。
子供のような
気がするとかね。
44:21

コメント

スクロール