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おはようございます。働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト、第1089回はライブ回としてみました。久しぶりで、本当に久しぶりです。
今これを聞いている不思議な気持ちになっている人もいらっしゃるかもしれない。いらっしゃらないことになってますけど。
これ、抜き打ちっておかしいよね。テストやってるわけじゃないから。突然初めて見た、みたいな感じですね。
たまたま聞いていたら、なんだこれはと思っていただければいいかなと思います。しかも今日は短めに切り上げようと思っております。
今日の日付を言っておきますね。11月14日。埼玉県民の日だったと思いますね。木曜日、朝の7時23分です。
こういうふうにバックグラウンドミュージックも聞こえてくるんですね。これ後ほど多分録画の方を公開するとしますので、
別にライブで聞いていただけてなくても残念があることは何にもありません。気分なんでね。時々やるよっていうことです。
お礼とお知らせがありまして、タスクシュート手帳がありがたいことに無事完売いたしました。
実はね、おめでとうございますって言いそうになるんですよ。お前当事者だろって感じなんだけど、あまりにもこれはいろんな方に手伝っていただいて、私がやってることがとても少ないので、
タスクシュート手帳の完売はおめでとうございますって言いたくなるんですけど、そうじゃないですね。私はありがとうございますという方の立場ですね。
ありがとうございます。
完売、ちょっと想像しなかったです。ほとんど1日ちょっとで完売して、これは実はすごく大人気なんじゃんということが判明いたしまして、ちょっと驚きでした。
タスクシュート手帳を入手されるのは残念ながら間に合いませんが、だってもう今日14日ですもんね。17日にはタスクシュート手帳術の会を開催します。
でもね、これ着ておいていただいて、サンプルをご覧になってですね、こういうのが自分の手元に届くんだなというふうにこの会を使っていただいてもいいと思いますし、
第2弾は当然、こんなに早く完売した以上なるべく早く第2弾を企画いたしますのでですね、しかもそれは少しは変えますから、ぜひそのフィードバックのためにも17日にご来場いただけるとありがたいです。
オンラインでも参加できます。今ライブで聞いてくださっている方が1人はいらっしゃるので、もしよろしければ、このコメントは全体に公開されてしまいますけれども、
全体に公開されてみたところで、最大多分30人の目に触れるかどうかなんで、気にせずにですね、コメントなりご質問なりいただければ、私も対応させていただきます。
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ただそれが対応できるような、つまり私これの使い方がまだよくわかっておりませんからね、対応できればやります。
今日はですね、もう本当に短く切り上げようということで、私は構図家っていうんですかね、ディレクタンティストだよっていう話をちょっとさせていただこうと思っております。
つまり精神分析家じゃないですよ。最近ですね、ブレヒト、劇作家ですね。私もブレヒトの作品って2,3作上映で見たのは1つだけあったと思うんですけど、すべてをほぼ忘れてしまったんですけど。
大学時代ですね、私DHロレンスゼミ、チャタレ夫人の恋人を描いた人のゼミにいたので、どういう経歴だよって思われるかもしれませんけどね、そういう人間でしたから。
お好みケーゴさんがDHロレンスを大学時代に愛好されてたということで、やっぱ精神分析ってそういうところあるよなとは思いますけども、まあまあそんなようなことです。
でも私は分析家ではない、臨床心理師でもない、公認心理師でもない、それらを目指す気もない。それどころかですね、心理師的なものは何も持ってないです。
唯一持っているのは大学の心理学士というやつですね。それはただ心理学部でだってだけです。
ちなみに日本で出ている大学は英語学部ですね。英語学科か。でもあれは外国語学部ですね。
まあそんなところを出てきている。めちゃ人文系で、しかも何の資格もないです。
僕の持っている資格と言ったらですね、若干多分取ってたと思ったんだけど、もう記憶が定かでない上に、ライセンスすら失ってしまった。
つまりライセンス証を捨てたっていうか、なくしたんで。もう分かんないスキーの2級とかいうやつと、多分どっか探せばきっと見つかる英研の2級。
まあこれ資格と言えるのか、それって感じの。これしかないですから、本当に。
無資格で生きていけるよということを、実証したくて生きているような、いやそんなことは別に実証したくはないんだけど、実証して生きていますと。
これは言えるようなと思うんですよね。無資格でも人は生きていけます。何なら家族も養います。
まあそれはラッキーとかありますよ。でもそんなこと言ったら人生ラッキーとかありますからね。
だからめちゃラッキーと思っていただいてもいいです。ラッキーを売りにしているような人間。別にラッキーを売りにしているわけじゃないですけどね。
そんなにくじとか引いてもまず外れるんで、そんなに幸運とは思えないですけど、まあまあ無資格で生きてきました。
だから、講座家、ディレクタンティストなんですよ。私対象関係論とか言ってますけど、対象関係論についてしゃべる何の資格もないですよ。
これは非常に大事なことだと何度も僕言ってるんですけど、なんかね、ここでブレッドの威嚇効果って何か関係があるらしいんですよね。
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これは参加者さんに指摘いただいて、ああそういうもんかと思いながらちょっと考えてたんだけど、厳密にどういうものなのかというのが、
つまりこのことと私とかどう関係づくのかというのがパチッとはまらないんですけれども、なんかこうそういう観点もあるかと。
どういう観点もあるんですけどね、別に。ただ資格がなくて好きなこと喋ってるだけっていう意味ですから。極端に言うと私の生き方っていうのね。
ただそれでも生きられますよっていう。これは良いと思うんですよね。だって資格を取らなきゃ生きられないよりは楽じゃないですか、この方が。
正しく生きなければいけないよりも楽じゃないですか、この方が。まだお前50年だろって言われるかもしれないですけど、50年ですからね。
あと今日明日にもバタッと死にそうな気配は今のところないんで、多分なんとかなるんだって言っていいと思うんですよ。
30代の時はちょっとまだはばかられたんですよ。なんか38でバタッと死にましたってことになると、やっぱああいう生き方ダメなんだよって言われるかもしれないけど、
50過ぎれば良しとしていいんじゃないかなと。あとはなるべく長生きしようぐらいな目標を持ってるんですね。このままなるべく長生きしようと。
何者にもならず、何の資格も持たず、なるべく長生きしようと。それでもギリギリでしたっていうのもちょっと良くないじゃないですか。
どこに住居構えてるのかもわかんないけど、とにかく歳子とも離れ離れになってギリギリ、何とか何とか長生きだけはできましたっていうのは多分みんな納得されないと思うんで。
すごく平凡に暮らしました。これは良いと思うんですよね。勝ち組ではないんだけど、勝ち組の定義がわかんないんですけどね、僕にはね。
何とかなりますっていうことを示せればいいんじゃないかと。やることは時々でどんどん変化してしまえばいいんだと思うんですよ。要するに何とか何とかやりきれればそれでいいんじゃないかなって感じがするんですよね。
その割にやってることが10年1日のごとくタスクシュートだったりもしますけど、それはたまたまなんですよ。今だってタスクシュート手帳とかかつて考えもしなかったものを、
僕はほとんど何もしてないんですけど、そういうものでやってるわけですから、何とかなる、何とかしようと思っていれば多分何とかなるみたいな、そういうふうに言い続けていきたいと。
信用できないという人もいっぱいいらっしゃると思うんですけど、それを信用していただくために。だって信用した方が楽ですから、私いっぱい資格取って損しましたってことは別にないと思うんですよね。
その分何かいいことがあるかもしれないじゃないですか。ないんですけどね。精神分析についても私は無資格。カウンセリングについても私は無資格。
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で、タスクシュートはね、これは今僕らの方で資格を発行してるんで、僕自身はその資格を持ってない。この話もね、意外と面白いんですよね。
意外と笑えないところで、ヒットラー最後の12日間という映画が、これは多分かなりいい映画だったんで、僕見たんですけどね、その中でね、あの人最後に女優さんと結婚するじゃないですか。有名な女優さんとね。
あの時、結婚式の時にね、出世証明書っていうのが、とんでもないですよね。でもナチズムのドイツでは、あれをやったのはヒットラーですかっているんですよ。なんとかアリア人の証明書みたいな。
で、ヒットラーに提示を求めるという、非常に笑えないシーンがあって、ヒットラーがそれにちょっと戸惑うんですね。持ってないというような話なんだと思うんですよ。
発行者はね、発行する資格証を持ってないんですよね。ソロイトは精神分析科の認定書を出した人ですけど、彼はたぶん生涯それ持ってないですよね。
自分に第一号法を与えるって考え方もあると思うんだけど、家元制度ってそうなんですよね。発行者は資格を持たないみたいなね、不思議な現象が起きるわけですよ。
不思議じゃないっちゃ不思議じゃないんですけど、これって面白い話ですよね。こういうめちゃくちゃカチッとしたエディプスの世界では、お父さんは自分が最も最初の正しいお父さんであることを証明できない。人には証明させるくせにね。
こういう盲点っていうのが僕は非常に好きなところがあるんですね。で、私はそういう盲点じゃないですよ。私はただ組織の中に認定されない人間なんですよ。
そういう人間って絶対いるじゃないですか。昔の明治政府の言葉で言うと、末延わぬ民ですよね。
あれは天皇陛下があなた日本人よっていうことを証明するって言葉にすごいこだわった時代があったわけですよね。もっと古代なんだったんですよね。
末延い、末延うなんて言葉は非常に古典的な和語なんで、まさにそういう話だと思うんですけど。
末延う、末延わない。私は末延えない人間なんですよね、たぶん。こういう人間が理事にいるっていう境界を私は面白いと思っているんですよ。末延えない。組織で働けないんですよ。
要するにお父さんの言うことを聞けないと言ったらいいと思うんですよ。
そういう人間は自分がお父さんになるか、末延うことができず、暴露してしまうか、風天の虎さんみたいなもんでね、あの人お父さんなんだけどね。
お父さんっぽい人間なんだけど、実はお父さんにはなれないんですよね、ああいう人はね。末延えないんですよ、あれは。
みんなに非常に、少なくとも低く見られる。でもその低く見られるところに自分の生き方があるみたいなね、そういう感じなんですよね。
僕もこれは本当、つくづく思います。この話をいつまでもしているとしょうがないので、今日はちょこっと話をしておしまいにするんですけど、
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私が最近言っている二者心理、二者心理っていうのはですね、物を現象学的に見ましょうってことなんですよ。
この世に客観はないと。これは僕の信念みたいなもんで、分かんないですけど、でも僕はこの世に客観はないと思っているんですね。
僕から見える風景しか、私には絶対見えないというふうに信じてるんですよ。
だから、それこそ本当のことは分からないんだけど、本当のことが分からないかどうかも本当は分からないっていうふうに言いたいわけ。
現象学っていう考え方が哲学にはありまして、目の前に見えているこういう時、なぜかリンゴなんですけど、リンゴは本当にリンゴかどうかは証明は可能だと。
ものすごくよく作られた合成リンゴっていう言葉があるんだけど、だけどそれって結局リンゴじゃんって思うんですけどね。
でもものすごくよく作られた合成リンゴはリンゴじゃないんですよ。
そんなことしなくても、すっごい上手く作った粘土細工のリンゴってどう見てもリンゴなんで、見ただけじゃ絶対騙されますけどね。
でもまあ騙されてるわ、それはね。あくまでも。
で、僕その話に夢を持ってきます。夢の中で見るリンゴはもうリンゴだって信じてるじゃないですか。
で、それがリンゴじゃないことが分かった時は夢から覚めちゃうんで。夢ってのはそういうもんなんで。
つまり僕らはクオリアいう話もそうなんですけども、現象学的には自分が信じたものを現実だと受け止めてしまわざるを得ないみたいな言い方になると。
僕はそういうもんだと思うんですよ。
ただ、でも我々は多分、多分なんですよね。
多分現実に生きているから、多分現実の要求に多分従わなきゃいけないんですよ。
多分ね。で、こういう観点を取る限り、ある人のことを客観的にあの人はこういう人だっていうことは言えなくなるんですよ。
あの人は自己愛が強いとかってそういう人だ、自己愛性の人だっていうのはおかしいわけですよ。
あの人は自己愛性が強いと今この瞬間には私の目には映ってるっていうこと以上のことは言えないんですよ。
常にそうなんですよ。で、これってなんか普通だって考えられるかもしれないけど、ここにすっごく抵抗が発生するはずなんですよね。
例えば、いや私はひどい親に育てられたんだって言うじゃないですか。
これは、私はこれに対してあなたはひどい親に育てられたと今思っているっていう言い方をすると、相手の人は傷つくから言えない。
こういう問題があるはずなんですよ。伝承学的に人とやりとりしようとするとですね。
ここに転移的なものって絶対出てくると思うんですよね。
これを言うと、これを言った人は毒親の見方をしている人に見えてくるはずなんですよ。
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まあ見えてこないように気をつけられるかもしれないけど、見えてくるようになっていく、そういう力が働き始めると。
ここから僕らは逃れることはできない。
つまり、相手の人の主観的な見え方から、僕らはそこに登場してしまった瞬間にもう逃れることはできないんですよ。
だから過去の人物とか漫画の中の人物についての人格解析するとかいうのはルール違反で、ちょっと嘘臭くなっていくわけだと思うんですよ。
まあそういうことをやりますけどね、でもね。
だって小野稲恵子さんだって精神分析的に映画批評するぜみたいなことをやってるんで、あれまさにこういう観点を取れば厳密にアウトじゃないですか。
まあでも小野稲恵子さんは精神分析学会の会長だったぐらいの人だからね、そういうのはいいのかもしれない。
でもそれって自己愛っぽいよねっていう感じもしますよね。
でもまあ僕ごときがそこにくちばしを挟む理由はないわけですよ。
なぜなら私はディレクタンチストだから、何の資格もないから、分析家ですらないから、ペーペーですらないから。
でも逆にね、ペーペーですらないから何言ってもいいんですよ。
これも僕のポジションなんですよね。
だから僕ごときが小野稲恵子さんにケチをつけることは全然できる。
これがそこら辺なんですよ。そこら辺の人の点なんですよ。
そう僕は思ってるんです。
思うだけなら自由ですからね、こういうことってね。
その言い方は非常にずるくなってしまうんだけれども、
でもだからちゃんとしたものとして受け入れられることはないっていうところが、
ちゃんとしてなくていいっていう特権と表裏一体だと思うんですよね。
考えてみればですね、プロイトが精神分析カドアという証明書を持ってたのか持ってないのか知りませんが、
持ってなかったとして、それは当然なんですよ。
なぜならばあれは公認されたものではないんで、勝手にプロイトが始めたもの。
現にナチストイーズでは彼は単なるお尋ね者になっちゃったじゃないですか。
ひどい話ですけど、でもやっぱり公認はされなかったんですよ。
彼はついに国家にはね、公的には。
公的に公認するってことは常に権力ってものが絡むわけで、
権力ってのはつまりお父さんだってことですよね。
あの時代のお父さん中のお父さんはヒットラーなんで、国父とか言ってましたもんね。
だからそういうことになっちゃうんで、こういうところから抜け出たいという意識を、
その辺の話ってジャック・デリーだって人がすごく、ある意味哲学的に追求した感が私には感じられるんですけどね。
でもそれも非常に講座家的な物言いなんで、ここを僕はいつも言いたいわけ。
僕は常に講座家だから間違ったこと好き勝手言うぜみたいな、好き勝手にやるぜみたいなところがあるんですよ。
こういうものだと思ってこれを聞いて欲しいんですよ。
これは正しい公的には絶対認められないというポジションの人が、好き勝手に喋ってるものをあなたはわざわざ聞いてますっていう、そういうポジションですね。
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このポジションを取ることの意味ってのが、つまり日常生活なり会社に行った時なり、
自分が好きにものを考えたり言えたりするというポジションを確保するために、
そのためには人にその自由を常に与えておくということが大事なんですよ。
大概の人はこれが嫌だと僕は思うんですよね。
だって、親が子供を好きに扱っていいはずがない世界に僕ら一方で生きているわけじゃないですか。
当然ダメですよね、それはね。
でも当然ダメだというのは公的に認められている話なんですよ。
ここが怖いところなんですよ、僕らからすると。
僕らみんなからして怖いところだと僕は思うんですよね。
これには逆らえないイーブンって世の中にはあるわけですね。
最近はハラスメント系のことっていうのは全部そうなりつつありますけど、
このイーブンには逆らえない。
こういう人を傷つけてはいけないというのがあって、
でもそれをやり始めればやり始めるほど僕らは自由を失っていくんですよ。
好き勝手にやるぜっていうのが許されなくなっていく。
いっぱいバッシングされてるじゃないですか。
なんか文春とかなんとか法とかでバッシングされてるじゃないですか。
これはすべてそのイーブンには逆らえないというイーブンの奥歩を踏んだからそういうことが起こるわけですよね。
私はこれをカタクナに尻尾は踏むぞって言ってるわけですよ。
危険なんですよね、こういう発想っていうのは多分ね。
ただ尻尾を踏むのもXでやるほどはさすがに僕もナイブじゃないので、
ここでしゃべる。
でもここでライブでしゃべっちゃうみたいな、
そういう危うい端を渡り続けて生きていきたいと思っているわけですね。
だからどこかで爆発するかもしれないんですよ。
でもこの爆発感というものと全く無縁に生きることは私はできないだろうなと思いますね。
どんなに用心して生きていっても、いずれそれは脅迫症的な生き方になってしまうのが生成であって、
やっぱり大手を振ってこういうことをやっていってる方が私としては精神衛生上はいいかな。
精神衛生は私はめちゃくちゃ大事だと思ってますからね。
で、今のような話はすべて異化効果みたいな話なのかもしれないんですけど、
僕が言いたいことはですね、もっともっとこう、
僕の言いたいことはですよ、異化効果とはまた別に、
もっともっとこう、二者心理に二者心理に寄せるという、
つまり私の目から見た、私と親の関係は私の目から見た親でしか絶対ない。
つまり心的現実でしかないってことですね。
こういう観点が二者心理というものに向かっていける道なんじゃないかなと思ってるという話です。
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私の親は、私に霊団だったのかどうかは分からない。
というか、多分そんなことはなかった。
実際、私の親が、私の親が育てたにもかかわらず、
私はこういうふうにラッキーで、私の肉親はそうでなかったっていうのは不思議だって話をかつてしたことなんですけど、
実は不思議じゃないんですよ。
私にとっての親と私の肉親にとっての親は別人なんですよ。
だから、親がどう見えるかということは、私にとってしか私にとっての事実はないわけですよ。
これを、でも、大概他の人にとって同じように認識してほしいって僕らは考えがちじゃないですか。
特に難しい親子関係を持っていた人は、私の親は本当は見た目とは違う人なんだって言いたいわけですよ。
言いたくなるわけ。ひどいことをしていたんだと。
でも他の人にとっては違うっていうことが現実にあり得るんですよ。
他の人にとっても私にとっても同じであるという、それは客観になっちゃうじゃないですか。
そのような事実はこの世の中には、僕はないと思うんですよ。
だからこれを言っていくと、私にとっては父親は不倫した親だが、別の人にとっては不倫してない親だってことになり得る。
でも僕はですね、それはあり得ることなんですよね。
どっちかだろうって言われるかもしれないけど、そうだろうかって思うんですよ。
例えば不倫した奥さんの子供にとってはどうなんだ。
ものすごいひどいかもしれないし、ものすごい大事なのかもしれない。
あるいは両方なのかもしれない。
しかも不倫した後にその人と結婚してるってことになったら一体どうなるんだろうっていうようなことを考えていくと、
やっぱり僕は客観的事実っていうのは、そんなものはないとされる方にコンセンサスが来てますが、
でも客観的事実がないっていうことを突き詰めてしまったら、
世の中のハラスメントとなんとか法はほとんど成り立たなくなるんじゃないかなとは思うんですよね。
でも世の中はハラスメントと何々法は成り立たせてますからね。
つまりそれは世の中に客観があるって信じている方の優性度が決して弱くはないっていうことを意味してる気がするんですよね。
そこは一者心理学だと僕は思うんですよ。
私は、例えばですよ。
例えば親子関係において難しいことがいっぱいあった。
トラウマで私の心はこのように苦しんでいる。
これは完全に一者心理ですよね。
その人の中にある心がその人の現実によってこういう圧力を受けてこういうふうになっている。
でもそのような事実を見に行くためには、私はその人の心の中に入っていかなければならないんですよ。
一緒に夢を見るしかないという言い方をすると、ここに親的現実に共有するってことになってしまいますよね。
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そうすると客観ってものは失われざるを得ない。
大体において既に私がそこに入っちゃいますから。
入ってしまった瞬間にその人の心の状態が変わりますからね。
前はそうだったかもしれないけど、今は変わってしまう。
この今は変わってしまうっていうのをしかし成り立たせないんだったらですね、
カウンセリングなんて多分ほとんど意味なくなっちゃうじゃないですか。
実際ほとんど意味のないカウンセリングって起こりうるじゃないですか。
例えばずっと沈黙してるっていうのは無駄かっていう。
話せば何かが良くなるって言ったら、
10回も20回も沈黙してるというのは無駄だってことになるんですよ。
でもほとんどの時間は沈黙で締められていたみたいな記述っていうのはですね、
先進分析ではしょっちゅう出てくるんですよね。
僕も自分が体験してみて、僕はやっぱりもったいないしそこまでではないんで、
何がどうそこまでではないのか知りませんが、そこまでではないんで、
カウンセリング10沈黙してたってことは1回もないんですよね。
でも僕は沈黙よりも喋った時の方が有効だったとは考えにくいんですよね、
自分自身の経験からしても。
結局それは私と一緒にいた人が、一緒にいる人は私のカウンセラーですけど、
私のカウンセラーと私が同じ空間にいて、
同じようなことを考え始めているということ自体が何かを変えていくからなんですよね。
私の例えば親に育てられた体験を変えていく。
それって変じゃないですか、本当は。
つまり客観というものを言ったら、育て方変わらないだろうってことになりますよね。
一緒にいて黙っているだけで、なぜ親にどう育てられたか変わるかと。
でも私の心の中では、つまり私を取り囲む現実の中では、それは変わっていくんです。
私は心の中に今生きていると思っているので、それは変わっていくんですよ。
私の心が変異をすれば、現実はすべて変わってしまう。
そのような事実が、今のような話は、いわゆる個人主義的な、いわゆる物質文明的な観点を取ると、
ものすごく変な話になってしまうんだけど、
でも私はマトリックスをみんなが見て、しかもあれにだいぶ喝采したということを考えてみると、
私たちが心の中で生きているというこの観点、そして心が変容してしまうという観点。
心が変容すれば、心の中で生きている以上、私たちはどういう現実で生きているかは変化してしまうというのは、
受け入れられるのではないかというふうに今は考えていますね。
ありがとうございました。