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2020-12-01 33:15

【GMV 264】イリュージョンの破壊的な力

私たちが苦しむのはただ、ひとえにイリュージョンだけ
00:04
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
12月になったんですけれども、最近もう過去の何年前の日記を振り返るとかは全然やらなくなっちゃったんですが、
12月1日、たまたま12月1日去年のを見てみたんですよ。
そしたら驚くほど全く何にも違っていなくてですね、
逆につくづくグッドバイブスってすごいなと思いました。
何やるにも楽になってるんですけれども、やってることが全く変わってない。
コロナなかった、でもコロナはすでに少し騒ぎがありましたよね。
そうは言ってもまだ外出てたんで、タスクカフェみたいなのにリアルで渋谷とかまで行っていて、
ずいぶん昔のことのように思うのが不思議なんですけれども、
行ってたわけですよね、外に。
他にもセミナーとか行ってたけど、それぐらいしか違いがなくて、
他のやってることは全く同じような感じで。
あとそうだ、今年に入ってからメダカを家の中の水槽で買うようにしたんで、
少し朝のメダカへの世話が楽になってるという違いはありますが、
それぐらいしか違いが考えつかないほど違いのない生活なんですよね。
なのにこんなにこれでいいんだろうかぐらい楽しくやれているんですが、
グッドバイブスと直結してはいないけどかなり近いものとして、
掛け上げ塾というのがあるんですよ。
ちょっと値段は張っちゃうんですけど、
これをぜひ物を描いている全ての人にはお勧めしたいんですよね、塾を。
私これでだいぶ描くのが楽しくなっているんですよ。
だからやっぱりそこが大きいと思うんですよね。
仕事の中では描くことの比重がどうしてもでかいんで、
やること何も変わらないんだったらはですね、
描くことが楽になるとか楽しくなるというのは非常にいいんですよ。
もう全く嫌な部分がなくなっちゃったんですよね。
いくらでも描いていられるという感じに近いわけです。
ずっと座ってるのあれなんで、そういう意味で少し休みますけど、
描くことそれ自体は全くいかない意味でも苦痛じゃなくなったのが、
やっぱり自分の生活の中では大変でかいなと思うんですね。
どうしても過去はイリュージョンなんですけど、
これを10年前に知っていれば、
10年前に描いていた文章量は今の日じゃないですからね。
あの頃はそこそこおかげさまでベストセラーとかもあったんで、
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仕事が山のようにあったんですけど、
今はもうそこから比べると多分3分の1から10分の1の間みたいなところにあるんで、
結構ざっくりですけれども、文章量って揺れるんですよね。
仕事引き受けるように比例はしないんで、時期によっても結構違うんで。
それでも今の3倍描いていて、
しかもあの当時の描き方だと辛かったと思うんですよ。
だから描き上げ塾に入っていただくと、
グッドワイブスを完璧に100%飲み込まずともこの効果を得られると思いますんで、
よろしければ、ここを聞いている方からお申し込みがあるかどうかは分からないですけれどもね。
つまり物を描いて整形立てているとか、物を描きたいと思っている方がこれを聞いているかどうかは大変微妙なところだと思うんですけど、
でもじわじわと視聴者数おかげさまで増えているので、
もしよかったら、
描き上げ塾。
ノープランライティングですね。
ノープランがやっぱり大事なんですよね。
もっと言うと、恐怖をゼロにして描くっていうのが本当に大事なんですよね。
ゼロか100ぐらいに思っていただいた方がいいと思うんですよ。
以前の自分はそんなに恐怖心満載で描いていたつもりはないんですけど、
100ですよね、あの描き方では。
もうそれをゼロにして描くっていうのが大きいんですよね。
あとは描く速度とか文章量とかですね、早くはなるんだけど、
大した話ではないんですよ。
僕は別に遅かったというわけではないと思っているので、
速度が問題だったわけでは決してないんですよね。
3倍描いていたわけですからね。
そんな感じでよろしければ、
恐怖心とプランゼロで描くというのを今日はお勧めして、
その恐怖の話をしたいんですけど、
つまりそれはイリュージョンなんですけど、
私たちはですね、描き上げ塾でも思ったことなんですが、
今物を描いていても思うんですけど、
つくづくイリュージョンというものを甘く見ていると思うんですね。
私の出した読むセラピー1でも、
あれイリュージョン編なんで詳しく描いたんですけれども、
イリュージョンは大変な破壊力を持っているなと思うんですね。
みんなそのことは知っているはずなんだけど、
割と軽く考えちゃうんですよね。
私も軽く考えるんですよ。
つい先日もライフエンジンというオンラインコミュニティで、
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10名ほどの間で喋らせていただいたんですけど、
ある方からのご質問で、
恐怖というのはたとえ自分の中で想像をたくましくしちゃうことがあるにしても、
向こうから来るのではないかというお話が極めて最も疑問が飛んだんですね。
どうしてもここに来るなって本当に思ったんですけどね。
嫌味を言う人が向こうから来るから、
その人が嫌いだという感情が自分の中で次に湧くというのが妥当な順番。
それはですね、そう感じるのは最もだと思うんですよね。
そういうふうに捉えるのが常識かもしれない。
でもですね、やっぱり虫がいいかな。
虫やめにしておこうと思ったんですけれども、虫がいいですよね。
不生児でGとかって言うじゃないですか。
今冬ですから大して困らないと思うんですけど。
見えてる見え方が人によって全然違いますよね。
例えば私はGとかにする必要性を1ミリたりとも認められないんですよ。
まあはっきり言って目の前にいても怖くなんかないですよ。
怖い生き物じゃないんでね。
スズメウアチとかじゃないんで。
でもこの言動は受け入れられないんではないですか。
これに恐怖をしている。
Gがいるという部屋では寝られないとか言う人。
友達の家に泊めてもらうという人はそこにいる可能性は十分あると思いますけど。
まあとにかく目の前にいてはいけないわけじゃないですか。
それは自分の中にしかないんですよね。
そのような恐ろしいものは。
これがイリュージョンというものの力だと思うんですよ。
力があるんですよね。イリュージョンには。
逆に言うと力しかないかもしれませんよね。
要はそれが本来そうである見え方ではない見方をしていると。
言い方がややこしいんですけれども。
そういうことだと思うんですよ。
だから伏せ字にまでするわけじゃないですか。
字で、言葉でそれを見たところでですね。
四文字でカタカナだろうとひらがなだろうと漢字で書く人はいないと思うんですけど。
見たからといって何が傷つくはずがないですよね。
もしその言葉なり、それこそビジュアルなりに本当に人を傷つける力があるのであれば。
図鑑を描いている人は即死ですよね。
みんなすぐ死んじゃいますよ。
どう考えたって字とかの日ではないですよね。
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書く人は頭がおかしいと人によっては思うんでしょうけども。
書く人の頭がおかしくないのは精神回答の科学者が絶対受け合ってくれます。
書く人は正常ですよ。
どちらかというなら、字ってしなきゃいけない方が若干気が狂っていますよ。
これは禁止用語ですけどね。
精神的な正常位置から少しずれています。
それはフォビアに近づいていますからね。恐怖症に近づいているので。
そうは言ったって別に狂っちゃいません。正常です。
それはフォビアに近いところまで来ていると思いますけど、フォビアじゃないし正常ですよ。
頭はまともな状態ですよ。そういう言い方をするならば。
これがイリュージョンの力であって、要するに一人一人違うものを見ているわけなんだけど、
字にしなきゃいけないということは、自分にブレーキをかけなければいけないということじゃないですか。
そいつに近づくのはもってのほかなので、自分がそいつにウカウカと間違ってでも、
あるいは寝込みを襲われ…寝込みを襲いませんけどね、あれは。
ないようにしなければいけないわけですよ。
自分で自分に名をつけているような感じなんですね。
言ってみれば恐怖神経症というのはすべてある程度そういうものであって、
自分で自分に名をつけているようなものだと思うんですね。
そういうことをすれば、その分自分は縛られるわけなので、
その分力を発揮するのは困難に一つになりますよね。
これを私は軽く考えているんですよ、私たちはみんな。
だから平気で人を嫌いになってしまうんですね。
Gを嫌いになるのはいいじゃないですか。
何とでもなりますからね、結局。
だから正常の範囲内なんですよ、Gを嫌っても別に。
大抵の場合は。
これが世の中のすべての罪菌を嫌うとか恐怖するとかいうことになると、
正常の範囲内では生活ができなくなりますよね。
だって目に見えませんからどこにあるかわかんない。
Gは所詮対応しやすいわけですよ。
だから実はそれに対する恐怖症に近いことになっても、
実質的な恐怖症にはならずに済むし、
結局これは社会生活というものがどの程度機能するかというふうに
精神症って測りますから、神経症であっても同じですから。
ということはどういうことかというと、
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生きすぎれば機能しなくなるわけじゃないですか。
生きすぎれば機能しなくなるというのは、
自分をその分、自分のある種の機能を停止させるということになりますよね。
つまり何かを嫌うということは、
自分の機能を一つオフにするということを意味するはずなんですね。
だから私はこれをセーフモードに近いとか言うんですよ。
分裂はセーフモードに近いと。
分裂というのは分離が生み出すものなので、
これはニワトリ単語ですね。
分裂は分離が生み出すものでもあるし、
分離は分裂が生み出すものでもあると思うんですね。
この場合分裂というのは自分の方の問題。
分離と言っているのは自分と他者の問題。
どっちでもこれは必ず同時に起こっちゃうので。
だってGがそうじゃないですか。
出なければ意味がないですよね。
Gはすごい怖いが平気で触れるとかおかしいじゃないですか。
私ですら平気で触るのはちょっとどうかと思うぐらいなんで。
触れないようにするために嫌いになるわけじゃないですか。
逆だと皆さん思うんでしょうけれども、
逆だということになってしまうと、
ゴキブリとは悪であるから
人類はそれに触れてはいけないってことになるわけですよ。
ところがそういう言い方になってしまうと、
じゃあ触れる人間はどうなんだってことになるわけですよね。
生理的に受け付けないというのは嘘だということですよね。
生理だということで説明できるならば、
人体ということにゴキブリに触れるということができないとかって書いてある。
それが定義になっていなきゃいけないわけですよね。
誰もできないっていう。
でもできる人がいるじゃないですか、明らかに。
ということは生理で決定されることじゃないんですよね。
本能という言葉も皆さん非常に日常用語として使われるんですけど、
本能というのは全ての人類に共通して備わっていないと本能じゃないと思うので、
これは本能で決定されてないんですよ。
Gに触れられないというのは本能じゃないですよね。
生理でもない。
じゃあなんだということになると、
意識的にそういう決定をしてるんですよね、結局どこかで。
やっぱりマイケル・バリントという人は偉い人だなと思うんですけど、
ここはオクノフィリアとフィロバットの世界に近い。
でもフィロバットはいないからな。
ゴキブリが大好きでしょうがないって人はあんまりいないと思うんで。
でもジェットコースターですよね。
あれに乗れないのは生理的反応じゃないですよね。
生理的嫌悪感ではない。
そういう感じが私なんかはしちゃうんですけど、乗れない組なので。
本能でもないです。
本能でないのは自分でも分かります。
乗った途端に死ぬとか絶対ないと思うんで、本能ではないんですよね。
乗った途端に人間というものは死ぬんであれば、
あれが開発されてるはずはないですからね。
だから結局バリントが言った通り、
ある種の物事に対しては人類はパッと分かれちゃうんですよね。
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それ大好き組とそれ大嫌い組。
字はちょっと違いますね。
それ大嫌い組とそれ耐えられる組かな。
そのぐらいの差でしかないですね。
もちろんあれですよ。
バリントが言ったこと、精神物理学家ですけどバリントが言ったことは、
これは恋愛とか性愛に関係してるんですよ。
そうですよね。
恋愛や性愛、セックスでもいいですよ。
大嫌いな人と大好きな人にパカッと分かれるじゃないですか。
それニュートラルだな、どっちとも言えないなっていう人も
いなくはないかもしれないけど、多数派ではないと思うんですよね。
ある種の物に対する評価がこういうふうにパカッと分かれるというのは、
まさにそこにイリュージョンが強烈に働いているに決まってるわけですよ。
大好きな人だって分かってますよね。
セックスはイリュージョンだと。
あれ実体を伴っていないと私は思うんですよ。
人が見てるものはあれ全部イリュージョンに限りなく近い。
あれでイリュージョンだって指摘するのは非常に簡単じゃないですか。
そこに人が見てるのはイリュージョンです。
そうに決まってると思うんですよね。
お化け屋敷とかホラー映画もそうですよ。
あれまさにイリュージョンじゃないですか。
ボコボコゾンビが出てきたりする現実とかって絶対ないと思うんですよね。
あれ見てすっごい気嫌いする人とやけにあれを繰り返し見たがる人といるんだけど
ああいうところにイリュージョンって働いてると思う。
そしてそれは非常に強烈に働いてますよね。
だから生産業ってあんなにこのコロナの後時世でもあんなに力を発揮してるわけですよ。
力があるイリュージョン。
人を引きつけるあるいは人を遠ざける力があるわけですよね。
これを僕らは軽く考えてるんですよ、思いのほか。
多分それもイリュージョンだからなんですね。
現実じゃないってどっか知ってるもんだから軽く考えちゃうんですよね。
だから嫌味な同僚とかいうものを作り出してしまうんですよ。
後々自分が非常に面倒くさい目にあるということになるんだけれども作ってしまうんですね。
遊園地に行きました。
お化け屋敷には入れません。ジェットコースターに戻れません。
その人不自由ですよね。
これがイリュージョンの力なんですよね。
イリュージョンだということは当人も多少とも分かってるんだけど振り切れない。
振り切れないからどうしてもお化け屋敷には入れないし、
ジェットコースターにも乗れないし、
字が出た部屋にはいられなくなるし、
そもそも字と書いてあるものは読めなくなるし、
私の知ってる人で何人か言うんですよね。
殺虫剤に絵を描くのをやめてほしいと。
殺虫剤に触れなくなると。
なるほどなと私も思ったんですよね。
なんであの絵あんなにリアリティ満載にして描いちゃうのか、
よく分かんないなと思うんですけど、
私からするとそれはもうギャグでしかないから、
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やっぱり絵が描いてあるから触れないというのはどういう意味なのかという感じなので、
そしたら汚いものが描いてある絵は一切触れられないということになりかねないじゃないですか。
100%イリュージョンですよね。絵だから。
でも私たちはこういう心性を持っていて、
イリュージョンに振り回される生き物なんだけど、
それにしてはイリュージョンの扱いが軽々しいわけですよ。
すぐ嫌いな人、すぐ苦手な人、すぐ怖い人を作ってしまう。
そうすることによって被害を被るのは唯一自分だけなんですけれども、
そうすることで自分が守れるというふうに思うわけですね。
倉園圭三さんが何度も指摘しているところで言えば、
自分が守れるという誤解を抱くわけです。
地位に近づかない。ジェットコースターに乗らない。
お化け屋敷には入らない。嫌味な同僚とは距離を置く。
守れているような感じがするのも面白いですよね。
全然守れていないんだけど。
お化け屋敷に入らないことによって何から自分を守っているつもりなのだろう。
私もそうなんですよね。
実は何からも自分を守っていなく、ただ自分を不自由にしているだけなんですが、
守っているというイリュージョンがここに強烈に働いていて、
イリュージョンには力があるというか、力を発揮してしまう。
それを一番、ものすごく劇的な形で体現してくれたのが、
イヴ・ホワイトなんですよ。
彼女はエイブ・ブラックを抑え込むことが、つまり性的なものに興味を持ったり、
下品なことを言ったり、夫と離婚したりすることを考えもしない自分にすることが、
自分を守ってくれると考えたわけですよね。
まあ、お母さんがそう言うんだからっていうことなんだけれども、
特に3番目ですよね。離婚をするとか、
あと、娘を愛さない自分を完璧に抑圧するということですね。
たぶん娘のことを愛していないような人間は、
ろくな死に方をしないみたいな教えとか、あるいは、
ろくな大人に娘がならないとか、
今だって私、親になると実にそういう本をいっぱい読みます。
ああいうイリュージョンを書く人は、やっぱり気軽なんですよ。
子供を愛していないと、愛してさえいれば大丈夫みたいな。
あの裏側には、つまり愛することさえをしないと、
21:00
犯罪者とかになっても知らないよっていう、
どうしてもそういう影が出てくるじゃないですか。
そうは書いてないけれど、でもそう書きかねないところもありますよね。
だからブラックが言うわけですよ。
あの子は私の子じゃないし、
そんな子は私は好きでもなんでもないっていうことになるわけですよね。
好きじゃなきゃいけないとなれば、そういうことになる部分が出てきますよね、どうしたって。
だから、いいイリュージョンっていうのも怖いんですよね。
まさにこう、フィロバットと奥のフィルなんですね。
奥のフィルは怖いんですよ。
大好きなものがあるということは、
反対側に大嫌いなものがあるということを多少とも意味するし、
大好きなものに近づこうとすることは、
この話はどうしても先日のイベントでは、
はっきりとみんなに納得する格好では、
しゃべりきれてないなという気はするんですけど、
距離を、自分の気持ちのいい人と付き合うっていう戦略は、
私はリスクが大きいとは思うんですよね。
それがいけないというほどのことではないんですけれども、
年来にもよりますしね。
でも、これをやるということは、
もうほとんど同時に、
嫌な人とは距離を置くということを意味するじゃないですか。
これによって起こることというのは、
つまり、お化け屋敷には入らない戦略なんですよ。
それによって、たぶん自分を守る部分は一つも増えず、
ただ自分の行動環境を狭めるという結果にしかならないんですね。
これ、よーく考えて言われてみるとそうなんだけど、
どうしてもそういう感じがしないのが面白いんですよね。
Gも同じなんですよ。
嫌うことによって、近づかない自分になれるから、
自分は守られる気がするわけでしょう。
もちろん、距離を置くわけですよ。
なぜなら、おぞましいですから。
間違ってそれを近づいて、触ってしまう自分とかが出てきたら、
つまりこれは自分が怖がっているのであって、
Gが怖いわけではないということですよね。
現実には、私のようにそれについて書くことも、
写真を撮ることも、動画を撮ることも、
それを見ることもできるような人間は、
別にGによっていかなる機会を加えられることも現実には起こらないし、
わざわざ近づいていって、それを勝ったりするということもしないわけですよ。
何かそれを大文字のGに変えることによって、
自分を守れると考えるというのは、何かに対する誤解があるわけですね。
私のような人間は、Gと一緒に寝てるんじゃねえかぐらいに、
そういうふうに思っているわけではないと思うんですけどね。
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でも結局のところ、近づいてしまう自分を戒めるという戦略って、
そういう意味だと思うんですよね。
だからこう、自分に害を与える人や、自分を育つにあたって扱う人とは距離を置く、
それは決して良くないことではないんですっていう話が、そこら中でわかりとると思うんですよ。
あれ、僕はGという戦略と全く同じように見えます。
で、このパワーですよね。イリュージョンのパワー。
なぜあの虫が、あの程度の虫がそんなに怖いのか。
そのイリュージョンのその凄さ、その気持ち悪さとか、連想させているもの。
それが自分の中にあるっていうことなんですよね。
私はそこがやっぱり一番興味深い部分だと思うんです。
外にいるのは本当になんてことはないものですよ。
本当に。どうでもいいようなものです。
葉っぱと変わらないですよ。
そんなにそれが凄いものに見えるのは、自分の想像力なんですけれども、
何を見ているのかということですよね。
ホラーに近いんだけれども、ホラーって何なんですかね。
私はあれは、その人が持っている最悪、最強の凶暴の凶ね。
最悪、最強のイメージっていうものだと思います。
それを虫にかぶせているから、虫にとっては随分な話だと思うんですけどね。
何にもしてなくてもそれをかぶせられるという。
最悪、最強のイメージ。
私はそれは、それ自体を問題にする方がよっぽど有意義だと思います。
その持っているイリュージョンの強烈さこそが自分の中にあり、
かつ多分、いざとなれば自分を苦しめうるパワーなんだと思うんですよね。
爺なんかは、いざとなったら自分を苦しめうるような力がどこにもないですからね、あんなものには。
それそっくりのおもちゃと何も変わらないんで。
人生に決定的な何かをもたらすとか、
その人を絶望させて死にいたらしむとか、
不可能なんで、そんな能力は全くどこにもないんで。
針さえないですからね。
でも怖いというのは、その怖いというのは自分の持っている力なんですよね。
その力の方がよっぽど怖いと思います。
多分ですけど私は、死というものにまつわる、死より殺かな、殺すということにまつわる、
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極めて凶悪なイメージというものの凝縮されているようなものがその辺にあるんだろうと思います。
もう具体的にこういうものでしたら言えないですよね。
一番わかりやすいものは多分ホラーですよ。
あのイメージ、あれ現実にないですよね。私はああいう現実を見たことがない。
なんかこう泥っとしたゾンビみたいなのが歩いているとか、
正直あれを見ていると笑ってしまうんですよ。すごくこっけえじゃないですか、あれ。
リアルにああであるということは決して起こらない。
寺とか住んでいるとよくわかりますよね。
ぼこぼこその辺からなんかが出てきて、言ってないですよ。
特にああいうなんか人間みたいなのがね、そこら辺から出てきたりは決してしないです。
なんですけども、これはもう幻想なんでしょうがないんですよね。
幻想であるんだけれども、そういうものを脳じゃないですか、作り出しているのはある意味。
脳が多分変動体の力をかけて、強烈な何かを自分で作っている。
これがですね、その人を本当の意味で苦しめ得ると思うんですよね。
読むセラピーで書きたかったのは、つまりはそういうことなんですよ。
二三の事例がそういう専門みたいな、そういうホラーっぽいですよ、ある意味では。
実例なんですけれども、そういう話があって。
やっぱり当人をとことん苦しめるのはイリュージョンなんですよね。
で、これを一番冒頭のCMっぽく言いましたけど、書き上げ塾で私が書くことから一切除去したものなんですよ。
いらないですよね、絶対にホラーは。
これを書くことでみんなから笑い者にされるホラーとか、かなりの人が普通に持ってますよね。
普通に持っている。だからそれに対する防衛的な書き方をどうしてもしちゃうし、書けたとしても書けなくもなります。
いらないんですよね。これを持っていることによって、ある種のことを書かなくなるわけじゃないですか。
Gと同じですよね。そのようなことをしでかす自分。Gについてを伸ばす自分。
そんなことしませんよ、私だって。そんなことしないんだけども。
そういう自分を忌ましめることによって自分を守れると思うわけじゃないですか。
同じなんですよ。ある種の文章を書いてしまう自分。
うかつに、そうすることによってみんなの笑い者になるという、そういう危険から自分を守ってくれる。
そのコストが見合うと思っちゃうんですよね。見合わない。全く。全然。
そんなことが起きたとしても、起きないんですけど、起きないんですよ。そんなことは起きないんですね。
起きない方がいいっていうことさえも嘘なんですよ。
例えばGでも何でもいいですよ。虫。ほんのちっちゃな虫の場合もあるじゃないですか。
芋虫とかね。まさに無害なやつ。
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触れもしない自分は守られてるって思うわけじゃないですか。
で、触れる私に外に追い出してもらうわけですよ。
そういうことをみんなしてますよね。触れる人を、触れるようである自分はおぞましいから、触れなく自分を縛る。
それによって守れるって言うんだけど、でも触ることのできる人に外に出してもらうわけじゃないですか。
守ってるのは何なのかっていう話なんですよ。触れもしない自分は自分を守れてないんですよね。
触れる人が守ってくれてるわけですよ。それもイリュージョンですけどね。
だから、触れなく自分で自分をすることは自分を守ってることにはならないし、文章を書くことも同じなんですよね。
平気で書ける人のおかげで書けないと思ってる自分は実は守られているに過ぎないと思うんですよ。
そういう構造がここにはきっとあるはずです。
なんだけれども、迂闊に手を出さないということによって守れるというふうに考えると、
一つ一つ自分がそれを扱うときは迂闊なんですよ。
字を嫌うようにしよう。すぐやるんですよね。
ついでにこの虫とこの虫とこの虫も嫌うようにしようということもやるんですよね。
字が書いてあるのも読まないようにして、絵が書いてあるのも触れないようにする。
非常にそこをやるときは楽なんですよね。安易というか。
そうすることによって大変困ることになるはずなんですよ。
これを僕らは虫はいいと思います。文章もまあいいと思います。
別に書かなくても普通に生きていけますからね。
でもこれを人でやるのはやめたほうがいいと思うんですよね。
これを人でやるということは最終的には引きこもるということにしかなり得ないんじゃないかと思いますね。
それをやるときに具体的な人でやってしまうということは出会う人でやるということになりますよね。
出会う人でやるということは出会わない人は出会わないわけだから
関係ないですよね。
出会う人でこれをやるということはめちゃくちゃ自分の人生を厳しくするような気がするわけです。
それって結局自分が常に出会う人といることはホラー映画であるということになってしまうじゃないですか。
そこまで極端ではないかもしれないけど
でも私の知っている困るという傾向の人がおっしゃることは
つまり他人というのは異謀であるという感じがするんですよ。
この表現を使ったアメリカ人の友達がすごく昔いたんですよ。
他人というのは最初わからなかったんですよ。異謀である。
他人が異謀ってどういう意味だろうと思ったんですけど
自のまんまなんですよね。自のまんまだとむしろ理解しにくいです。
自悪であるというか悪魔の化身のようなものだ。
33:03
やっぱりそれは出会う人は全て悪魔の化身だって大変つらいと思うんですよね。
これがイリュージョンのパワーなんじゃないでしょうか。
33:15

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