2021-04-06 26:59

【GMV 352】怒る時はイリュージョンが「必要」

現実だけでは怒りのモチベーションを維持できない
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
最近、ようやく少し短めにまとめられてきたかなと。
ただ、無理やり20分前後で打ち切っているだけという感じもしますが、
しばらくこれをやっているうちに、そのペースになるんじゃないかという期待も込めて、
短めに少ししています。
ようやくですね、最近。
ここ1、2年ですよね、グッドバイブスというものをして。
はっきりと効果を認識できたことが、
いいことがあったということとはまた別にですね、
病気が治るとかもいいんですが、
そういうのではなく、
これを説明しますから、この話をすればいいんだけど、
ようやくはっきりプロセスが見えてきたことが1個ありまして、
起こるということと、起こられるということについての、
僕は多分ここからスタートしたんだと思うんですよ、グッドバイブスは。
自分の中では。
不安とか、恐怖とか、時間に間に合わないとかですね、
そういうことは、お金の問題もあったんですけど、
最悪なんとか自分でできるって思っていたんだけど、
怒られるだけはですね、どうもダメだなと。
自分でどうにもできていないなというのがありまして、
だからここがやっぱり僕の場合は前入り口、
最初のですね、入り口だったし、
多分1回は絶対にこれについて何か、
本まとめるとかもそうですけど、やることになるだろうなと思ってます。
僕みたいにみんながみんな怒られることなんて気にしてないんですよ、
僕の見たところ、やっぱし。
ただこれをやってみて意外に分かってきたことは、
みんな相当気にしているんだということでもあるんです。
私ほどじゃないかもしれないけど、
気にしてないわけでは決してない。
僕はやっぱり自分が気にしている度合いがひどいと思って、
今はもうひどかったなと思うんですが、
それのわけも分かってきましたが、
多くの人も僕ほどじゃなかったけど、
気にはしているんだということも、
副産物的な発見でした。
怒られるのもそうなんですけど、
怒るということですね。
これをやめているわけですよね。
怒るに限らず、怒りを抱くということそのものをやめるべく、
これは完全にやめられてないですけど内面も覗けばですね。
別にいいじゃないかって話もあるじゃないですか。
それはそれなんですよ。
例えば舐められないためとか、
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いろいろありますよね。
社会でやっていくには怒りも必要だ的な。
この議論を分けるんですよね。
社会の中での文脈と自分の中での文脈に。
分けなくてもいいんですが、グッドバイオスでは。
私は分けているんです、最終的には。
私が怒るのはそれはそれですね。
私が怒るのは一切認められないという。
この一切というのは極論なんですけれども、
かなりギリギリのラインでもですね、
自分の内面でも怒りを感じないというのを意識すると、
何が見えてくるかというと、
まずいくつかあるんですけど、
一番大きいのは怒らなくても済むシーンが100%だったということなんですね。
99%とかではなくて、99%でもいいと思うんですが、
僕のここまでの1,2年に限れば100%だったということなんですよ。
つまり怒るのは無駄だったといえば無駄だったと。
無駄はないというのもありますけど、
それは一旦また置いといてですね。
怒るという必要は多分一切なかったということですね。
もう一つが怒るためにはイリュージョンを絶対に少しは要するということが分かったんですよ。
これが大きいかなと思います。
最近ちょっとイリュージョンの話をしてますが、
確かに私たちはイリュージョンから出られないところがありますけれども、
たまさかに出られるということもあるかなと思いますけど、
基本出にくいところはあります。
何しろイリュージョン、知覚はイリュージョンだと思いますから。
知覚するのでイリュージョンから完全に無縁でいるなんて訳にはいかないんですけど、
私たちはしかしイリュージョンを通して現実に向かおうと通常はしているんですよ。
これが多分正規ってことだと思いますね。
健全と言ってもいいですけども、
イリュージョンを通してなんだけど現実に向かっている感じがあるんですよ。
怒るとこれが逆転するんですよ。
ここの問題がクリアになりました。
怒るためにはイリュージョンを必要とするんですよ。
なるべく現実を無視してイリュージョンに向かわないと怒りって保持できないんですね。
これも100%だと思いますね。
特に人のだと分かりやすいんですよ。
例外がないんですね。
怒るのは最もだというのがつまり怒りと現実の接点なんですね。
で、怒るのは最もだと言える部分はあるんですよ。
怒っている人を見ていると。
多くの場合。
これは100%ではないけど多くの場合。
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この人は最近もちょっとしたことがあったんですけど、
学校でね。
学校のちょっとしたミスがあって、
お母さん方、その登校班は私も行ってるんで怒ってたと。
最もなんですよ。
ほんのちょっとですけどね。
ところがほとんどの場合、怒っている人ほどそうなんですが、
あっさりとその最もなラインを突破しちゃうんですね。
ものすごいあっさりとなんですよ。
まぁまぁこれが当たったのは怒るのに怒っても最もだよねというのが
尺度は一切ないんですけど、
そこのラインを仮に1センチとすると、
もうすぐ1キロ先ぐらいまで行っちゃうんですね、怒りというのは。
このイリュージョンをここの最もなラインから、
その人が現に怒るラインまでの多大な距離を全部イリュージョンで埋めるんですよ。
この方向って私たちが普段生きているときの逆なんです。
私たちは普段生きているときはイリュージョンを見てるんですけども、
イリュージョンを通じて恐らく現実に向かおうというつもりはあるんですよ。
昨日のマトリックスの話が近いと思うんですけどね、
目を覚まそうというのは現実に向かおうということですよね。
夢を見ているだけで全てを良しとするわけにはいかないよねというのはそういうことだと思うんですね。
疑おうというのもそういうことだと思うんですよ。
その方が正気に近い感じがやっぱりするんですよね。
抜け出せないとしてもですね。
ところが腹を立ててしまったときに、
人がやることってこの全く逆になって極力現実は無視してですね、
自分の怒りを最大化するためにどんどんイリュージョンの力を借りるということをやるんですよね。
ちょうどだから夢に向かっていくみたいな感じなんですよ。
人の見ていると本当によくわかるんですけどね。
でも自分のでもわかるようになりました。
ここまでだなと思うラインがあるんですよ。
そこまでだと腹を立てるか立てないかギリギリなんですよね。
相手に向かって攻撃するなんていうのはもうとんでもなくて、
腹を立てていいかどうかのギリギリなんですよ、ここまでだとすると。
お酒は体に良いって話あるじゃないですか。
ただしおチョコ0.5杯までとかそういう話あるじゃないですか。
あれとよく似てるんですよね。
この許容量っていうものがそんなに少ないとなると、
酒を飲むってことにはならないじゃんっていうような、
陽明酒じゃないんだからっていうあれですよね。
おチョコ0.5杯まではビールならいいとかだったところに、
多分少なくとも2缶以上引くじゃないですか。
これなんですよね、怒りというのは。
怒りのここまではもっともと言えるかなというラインで、
とどまらないんだなっていうことです。
つまり現実と対応できている部分っていうのはほんの少ししかなくて。
09:05
現実と対応全くできていない部分まで怒りは突っ走るので、
その感をイリュージョンで埋めるということになっちゃうんですね。
いろんな事例を見てきました。
一つもあんまりお話しするわけにいかないのが多いんですけど。
怒るときの人ってどうしても、
仮定がそこに仮説みたいなもの、推測とか入ってるんですよね。
その仮定や仮説を全部検証するということは、
怒りに際してはできないんですよ。
まず相手を攻撃したいというのもあるし、
ところがだいたい相手の本心がどうであったかとか、
相手がどういうつもりでそれをしたのかとか、
どうしてもそれをそうしたのかとか、
全部検証するべき相手が怒りの対象なので検証できないんですよね。
だからもうそれはないでしょうみたいなことを言っちゃうじゃないですか。
このそれはないなんだけど、
ほとんどの場合、
相手がそういうつもりでやったとか、
そうしないと社会的地位を失うようなことを
指摘したとかいうことはないんですよね。
ほとんどの場合というか、ほぼ全部ないんですね。
ところがそこを強引に膨らませればそうは言えるのかもしれないんですよ。
クレームとかがそうで、
放置しておくとクレームが伸びのように広がって、
自分の仕事の基盤を失うかもしれないとかっていうわけじゃないですか。
ここにイリュージョンの力が、
イリュージョンの力っていうのかな、
イリュージョンそのものを必要とするんですよね。
まだそれ起きてないわけだから。
起きてしまってからでは遅いから、
相手に対して徹底的に怒っておくってことになるんでしょうし、
場合によっては怖くなったから徹底的に謝っておくってことになるんでしょうけど、
同じなんですよね。
そこにイリュージョンを介在させないことには、
その行動を取るモチベーションが保てなくなります。
すごくひどいことが行われようとしているはずなんですよ、必ず。
まだそこまでは行ってないと。
真意を確かめるとかも全部そうなんですけれども、
真意を確かめたいというときも既にですね、
過程が積み上がってきているはずなんです。
こういうことをしようとしているのではないかと。
そうしていては自分が大きな理不尽な不利益を被ると。
全部過程なんですよね。
12:00
この過程をしているときに、
相手を攻撃してその過程的行動、過程的に不利益を止めなければ、
最も少なくとも自分の心が傷つくというふうに考えるんですけど、
だいたいそういうことが、
この議論の難しいところは、
そうとは限らないというのと、
その可能性がゼロなんですけれども、
本人の中では結構高い降参でそれが起きると思っているんですね。
このことの良い例ではないんですけど、
でも怒りが止まるように必ずなった一つのイメージがありまして、
昔ですね、子供の頃、
母が私に書道教室で待ってろと言ったことがあるんですよ。
妹と。
私はちょっと買い物に行ってくるからと。
多分書道教室終わってすぐには来れないだろうけど、
5分から10分で来るから待ってなさいと言われたんだけど、
子供って、私子供だったんですけどね、
アホなので、買い物の場所を知っているもんだから行っちゃうんですよね。
行っちゃったんですよ。
で、すれ違うと。
この光景を怒りの時に必ず思い出すんですが、
つまりですね、
何を考えたかというと、
必ず母はこのルートを通るはずだと。
だいたいそのルートを通るのは知っていたからですね。
このルートを通るはずだと。
だからそのルートを行けばですね、すれ違うことはないだろうと。
でも書道教室から買い物のスーパーまでのルートは、
少なくとも一つじゃないじゃないですか。
4、5個はありますよね。
まず使わないルートもあるけど、4つ、5つはあるわけですよ。
当然のように母と私は想定したルートが違っていたためにすれ違ったわけですね。
なんとなくですね、私は怒るとはこれだと思うんですよ。
怒るに限らずなんですけど、脳内シミュレーション中は全部これだと思うんですね、最近。
待ってればいいところを迎えに行ってしまう。
能動的に。
そうする方が賢い人間であるとでも思っているところがあるんだけど、
つまりそれはそのルートを通る可能性が99%以上だっていうやつなんですけど、
でも現実にはすれ違うことが起こるわけじゃないですか。
つまり100%じゃないっていうのがまず1点と、
現実のルートなんていうのは4、5個で済みますけど、それでもすれ違うわけですよね。
たぶん脳内で空想した相手の行動とかのルートは、
もっと100万通りくらいあるうちの、なぜかですね、
でもこの1通りにことが運ぶ可能性が99.9%くらいだって思うんですよ。
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これがイリュージョンなんだと思うんですけどね。
一番立ちの悪い、しかも質の低いイリュージョンだと思うんですけど、
だって放っておいたらあの人がツイッターとかで自分の悪口をどんどん言うじゃないですか、
そうすると売り上げがっていう、ああいうやつですね。
あれはもう私がスーパーで行こうとした時に、
母はこのルートを通るだろう以上に可能性は低いと思うんですよ。
低いんだけれども高いと思っちゃうんですよね。
というイリュージョンを使わないと。
だからこの悪口を言いそうな人をなだめるために一生懸命謝るか、
そもそもこういうことをしでかさないように今後気をつけるかみたいな、
そういうイリュージョン対応行動みたいなものが出来上がっていくんだと思うんですね。
ただいずれにしてもここ本当に1年半ぐらいではっきりわかってきたのは、
ここで待ってるというのが何とも大事だなということなんですね。
一歩でも動くと、一歩くらいならで止まればいいんですが、
大きくこじれていく。
別に大きくこじれても何とかなりますけど、
大きくこじらすメリットって本当に、
少なくとも現状の私の感覚では全くなくて、
なんと言うべきですかね。
やっぱり迎えに行ってわざわざすれ違っているような、そんな感じなんですね。
全くこう、全く意味のないことをしているというか、
ひどく子供っぽいことをしているというか、そういう感じなんですね。
だから一番ベストというか、多分一択だなと思うのは、
一切想定しないことなんですよね。
この想定をするという、相手がこのルートを通るだろうと考えるということが、
とても無駄なんですよ。
全くそれをする価値がない。
でもこれを私もずっとやってた気がするんです。
妻はこれが前の先日のガラスを割った時も、
こういうとこういうだろうから、こうやってこういう風に処理しておこうみたいな、
それなんですよね。
これがお互いの怒りを増幅していく。
自分の怒りも必ず増幅しますからね。
この架空のやりとりの中で勝手に腹を立て、勝手に被害を受け、
勝手に妄想的な行動をとって、そして相手の怒りを増やすと、
だいたいその結果にしかならないんですよ。
よほど相手ができた人でない限り、これをやっちゃうと、
私はまさにスーパーに迎えに行って、
すれ違って、母に後でこっぴどこ怒られたんですけど、
そういうことを作り出してるんですよ、自分で。
ただ待っておけば、あの怒りは一切発生しなかったわけですよ。
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このただ待ってるということが、私たちは愚かな行動のように思うので、
できなくなってしまうんですね。
ただ待ってれば、ただ待ってるというのが、たぶんその一択なんですよね。
これが自分の怒りや恐怖を保持するために、保持するモチベーションを得るために
イリュージョンを追加しないという一択なので、
脱出に向かうためには、ただそこで待ってればいいんです。
これは非常に貧乳的な表現になっちゃってるんで、
具体例があるといいんですけど、具体例はですね、
具体例が持ち出せないのは、一つは大体がやたらプライベートに関わるケースが多いというのと、
もう一つが、大概は怒った行動しか私たちは事例として手に入らない。
自分が全く怒らずに、ほとんど火がつかなかった場合、それは多分事例として意識に残らないんですね。
それが両方見えるというのは不思議な感じなんですけど、
なぜなら、惨禍を見てないのに、その惨禍になりうる展開が何となくわかる気がする。
それもイリュージョンなんですが、本当にこの一歩を踏み出さないって素晴らしいなと。
これが非常にまた伝えにくいなっていうのを伝えしにくい。
なぜならば、何もしないということによって何も起きないことの素晴らしさって非常に伝えにくいですよね。
火が燃え盛ってるのを沈下するのが素晴らしいのは非常にわかりやすいんですが、
火がつきそうになったところで、いっぱい芝を、そこに薪をバンバン汲めなければ火がつきませんっていうのは、
ちょっとも素晴らしそうな感じがしませんよね、今の話では。
ところがこれをやらないということがどんなに有効かつ楽なことかと。
一瞬ちょっとあるんですよ。
ここで一歩も動かないって厳しいなって感じることがある。
それが大きなイリュージョンなんですけど、一歩も動かないというのはとても大変そうな感じがするんですが、
実は非常に良い結果を招くというか、後々苦い芽に合わないということを確実なものにしていく感じがするんです。
本当にだいぶ昔ですけど、一つ事例を考えついたというか思い出したので、一つだけお話ししますけど。
話しにくいんだな、こういうのってな。
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プライベートに近いものだったんですけれども。
誰だっけな。
言うのも言うのも無理なんですよね。
だから難しいんですけれども。
要するに、私が出そうとしていた本があって、私が書くべきパートがある本があって。
すごく途中すっとばしますけど、要するに長らく長らく僕は一生懸命それを書いていたんですね。
それを放置されていて。
僕が抗議してしまったことがあったんですよ。
端的に言うとそういうことなんですよ。
それなりのみんなで書く一つの大きなプロジェクトで。
それを何か知らないけど、私だけが一生懸命書いていたんですね、最初。
まずこれがですね、後から考えるとなんですけど、恥ずかしかったんですよ、私。
そういうところが私にはあるんですよ。
自分ばっかり突出して仕事をして、なんだか気分よくやっちゃって、
そのプロジェクト自体はみんなが割と放置しているのに、
自分だけが熱くなっていたのが恥ずかしかったんだっていうのがあったんですね。
そのためについ主催の人にきつい調子でメールを送ったということがあって、
はなはな後悔したんですけどね、後で。
この時もそうなんですが、何とでもあるじゃないですか、手段は。
起こるのも最もだというラインはあると思うんですよ。
とはいえ、私の感じからしてもあのメールを出す理由にはそれはならなくて、
どうしてもやっぱりここにはたくさんのイリュージョンを積み上げたんですよ、自分で。
メールを出すために。自分の内心を見れば間違いなくそうだったんですね。
この時はそれほど大したことは起こらなかったけれども、
やんなきゃよかったなとその後つくづく思ったんですよね。
なぜならばメールを送ったことによるメリットは僕は一切手にしてないんですよ。
そのメールを送ったことによって保証のお金を手にするとか、本が出るのが早くなったとか、そういうことは一切起こらなかったんですね。
ただただ僕が留院が下がったかなっていうレベルで、しかも僕の留院は下がってないんですよ、その後後悔しかしなかったから。
要は舐められたくないとかっていう表現を取りますけれども、
僕は舐められたくないとすら厳密に思ったわけじゃないんですよ。恥ずかしかっただけなんですね。
恥ずかしいというのもイリュージョンですが、僕だけが突出して書いたということ自体がイリュージョンですもん。
他に何人も携わっていたし、全ての人に進捗状況を確認することもまして真実のところを確認することはできないですよね。
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はっきり言って進めてない人は隠したりしますから。
そういうありとあらゆることが現実としては可能性としてはあったんだけど、私は自分だけが突出して書いたことにしちゃったんですね。
そうしないと起これないですよね。
だから起こるための材料を集めるんですよ、脳内で。
それって作り出す以外の方法ないですよね。
この時僕はそのイリュージョンと現実の関係、通常はイリュージョンを通じて現実に向かうんだけれども、
逆転させて現実をとことん無視するためにイリュージョンを必死で構築するということをしたんですね。
これをしない限り、多分ネガティブな感じを人にぶつけることはできないんだと思うんですね。
こういうことがここ2年の間に何度か目撃して、つどつど一歩も動いちゃダメだっていう感じ。
一歩動くともう動きすぎてしまうっていう感じを抱くようになりました。
なったんでようやくですね、なぜ私たちが怒る時には独特の自己炎上感というものが必要とするのかと。
なぜ他の人が自分に対してでもいいんですけど、誰かに怒りを向けている時に見ると、
なんかこう、自己巻き上げ感とでも言うんですかね。
必死になっている感じがあるのは何なんだろうというのもなんとなくわかるような気がしてきました。
つまりは自分で自分を転化し続けるということをしているので、消してしまったら大変ですよね。
なんか自分で自分のハシゴを外したみたいな感じになっちゃうんで、それを消せないんだと思うんですね。
特に私が怒った時はそうだったんですけど、相手が大物だったり、大物っていうのも変ですけれども、
偉い人だったり目上だったり、こっちのエネルギーを一定程度は用意しておかなければ維持できないような場合には、
このパターンは酷くなる傾向がある気がします。
相手がこれが自分のことかだったらそんなことをむしろしないので、取り下げるのも割と容易なんですけれども、
相手が自分の子供である場合ですら、実は怒る時には必ずイリュージョンを追加しないとやっぱり無理なんですよね。
現実そのものに即応した怒りって多分ここまでの僕の経験では、
ウェットバイオスを知った以降はゼロかなって思っています。
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