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寝落ちの本ポッドキャスト。 こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。 タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。 エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。 ご意見、ご感想、ご依頼は公式Xまでどうぞ。
寝落ちの本で検索してください。 さて、今日は
幸田露伴さんの「運命は切り開くもの」という テキストを読もうと思います。
幸田露伴 日本の小説家
江戸、現在の東京神田のあたりに生まれ、幼少期から草造詩、 読本を愛読するだけでなく、拝解や感覚、漢詩を学んだ
代表作に五重の塔、運命などがある。 ということで初めて読みますね。
運命ね。今日もくしくも運命は切り開くものって言ってるから、 運命運命言ってる人なのかもしれませんなぁ。
露伴ってこれ、 岸辺露伴と同じ
字か?同じ字かこれ。 同じ字っぽいなぁ。
ね。
ですよね。日本には2人の露伴がいる。 幸田と岸辺である。
っつってね。 どうでもいいこと言ったな。
よし、ちゃんとやろう。 それでは参ります。運命は切り開くもの。
ここに赤ん坊が生まれたと仮定します。 その赤ん坊が家族の家の何不足ないところに生まれたとします。
さするときはこの赤ん坊は自然に比較的幸福であります。 また、食うや食わずの貧乏の家で、
乳たる者はどこかへ凶老してしまっているような場合のとき、 ただ一人の寂しい生活をしている婦人から生まれたといたします。
しかあるときこの赤ん坊は自然に比較的不幸福であります。
良いこと善事をしたわけでも悪事をしたわけでもなくて、 尊い家、貴家に生まれると、
旧坊の家に生まれるとで、その赤ん坊の運命は大なる差があります。 親がちゃってことですかね。
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この大なる差を赤ん坊のせいにするのは不道理でして、 これは前に定めると書いて前提的運命をその赤ん坊が負うているのです。
また同じ赤ん坊でも器量よく生まれるのも器量悪く生まれるのもあります。
誰も美しく生まれたいと思って生まれた者もなく、 醜く生まれたいと思った者もない。
天然自然に親にあやかり、また先祖にあやかり、 他の者にあやかって生まれるだけのことですが、
美しく生まれた者はその美しく生まれたために、 醜く生まれた者は自然に異なった運命を有するわけになります。
ですからこれは運命前提に違いありません。 定白のように生まれ方が普通でなかったために、 奇妙な運命に絡まれた人もあります。
定白は五性と言って、母の眠っていた間に生まれた、 すなわち眠り山であったという説と、
逆さごで南山であったという説と二つありますが、 とにかく母の気持ちを悪くした生まれ方をした人ですが、
それはもちろんそのエイジがわざと作用にしたわけでも何でもありません。
ところが母はその気持ちの悪かったために、 着手であるに関わらずこれに対して愛が薄くなるのを間抜かれませんでした。
そしてそのために後から生まれた弟の方を愛して、 弟の方へ国を譲りたいような心が母に起こりました。
そこで大変な騒動が起こり、 間抜を動かすようなことができたことが古い歴史にあります。
これらは実に奇妙な運命をその子が生まれる時にもって生まれたもので、 運命前提論を支える一つの稀なる事件です。
稀有なことは議論の力強い材料にはなりませんが、 これのごとき稀有なることをもう出さずとも、誰でも彼でも自分が時を選び、
ところを選び、家を選び、 自分の体質、相互等を選んで生まれたのでないということに思い当たったならば、
自然に運命前提が少なくとも一般は真理であるということを思うでしょう。 運命がないなどということは、何ほどうぬぼれの強い人でも言えないことでしょう。
けれども運命前提は一般だけ真実の事実でして、 全部運命は前提しているものだな、などと思っては、確かにそれは間違いです。
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したがって運命前提説から生まれる運命即知術、 すなわちいろいろの戦国の術などを神聖のもののように思っては、人間たるものの本善の希望、
すなわち高上心という高いものを蹂躙する卑屈の思想に落ちてしまいまして、 花々よろしくない、
すなわちそれは現在相違という過失に陥ります。 人は生きている間は、高上進歩の望みを捨てることはできぬものであります。
これはすなわち端的の現在事実です。 この現在事実に背くことを考えるのは、現在相違というくだらないことです。
前に申しました先生術の如きは、華麗幾多の事例がありましたとて、 なんで今の人がこれを念頭にのぼせましょうか。
諸葛孔明が死んだ時に大きな星が落ちた。 それを見て敵の芝居が、孔明の死を悟って攻め寄せた、などという談は、
軍団では面白いことですが、それはもちろんただお話です。 そんなことが事実ならば、
人はいちいち天の星のいちいちに相応しているわけで、 星の数と人の数と同じでなければならぬことになります。
英雄豪傑は赤い星、 美人歳女は美しい星、
凶悪の人は宝奇星、平凡の人は光星や見えないような星、 おかしな人は弱い星、なんて、
そんな馬鹿げたことがどこにありましょう。 生まれた年月日時によって人の運命が定められてはたまりません。
御邸主が小読みを開いて、 実感十日誌を調べながら散歩に向かって、
ちょうどいい日だぞ。上上吉の日だぞ。 かの子や今日の三時、男の子を産め。早く生きんで産め。
謎と言ったり、 今日は悪日だ。辛抱して明日の朝まで産むな。
謎ということになったら、たまるものではありません。 古い人でも、さすがに道理のわかった人がありまして、
漢の奥住という人が申しておりますが、 秦と張と戦った時、春秋戦国時代ですね。秦の八騎という猛将が、
張の降参の兵卒四十万人を殺してしまったことがある。 その四十万人が皆同じ年月の生まれであったか。
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何様だ。そんなことは思えまい。 してみれば、生れ年月で運命が何様の彼様のというのは当てになるまい。
と論じております。
ルシタニア号の沈没。 千年の大地震。
一時に大勢死んでおります。 それがいちいち、何で生れ年月の因果によりましょう。
二十八宿や七王や九世や、 いずれも当てにする人には当てになるか知りませんが、
当てにならないと思った日には、何で当てになりましょう。 まるで夢見たようなことではありますまいか。
法威によって従来行動の喫強、祝福を申しまするのも、 二千年の前、医療師という兵法家がすでに嘲笑っておりまして、
法学の公秘で戦の勝敗が定まってたまるものかと申しておりますくらいです。 品の古い人でさえその通りです。
今の人が何で断りを見ること、 古の人に及ばぬようなら、くだらぬ考えを持っておられましょうや。
人の双胞骨格も、その当人が自分で定めたものではありませんから、 まず運命前提説が一般だけは是人せられるわけでして、
何様も不美人に生まれついては男子に愛されぬわけで、 醜い夫、主婦に生まれついては婦人の喜ぶところとならぬわけですから、
鏡に対して無善たる人も世に多いわけですが、 幸いにして人間は牛や馬ではありません。
自分で自分を向上させることのできるものですから、 無理に竜美術の施行や美容法研究をせずとも、
こちらに隠るところも蚊に増すこともあれば、 またもって自ら良くするに足る、
道理で、さのみ苦にするには当りません。 例を申せば、無縁君は四駒目でありましたが、
破格の出世を致しました。 小町は美人であったが、外場小町の卑怯に落ちました。
品の大鉄老子の母は非常に四駒目であったと伝えられています。 ギリシャの賢人に修坊の人あったは誰も知っていることです。
諸葛孔明は実に立派な人ですが、その妻を取るにあたっては、 とくと四駒目を選びましたので、
当時小歌を作ってそのことを囃したものがあります。 日本でも毛利のキリンジと言われた一英雄は、わざと孔明の書業を学びました。
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孔明の妻となり、老子の母となっては、 四駒目の母もまた花々高いわけではありませんか。
アルシビアデスは非常の美男子で、有罪の人ですが、 その姉妹をよくしてはおりません。
丹代子友は要望の上がらないので孔子様にさえ軽く見られましたが、 徳を納め道に進んだので、後に至って孔子様も我が失敗であったと
断ぜられたとあります。 美しい、醜いということは、確かにその人に利益不利益を与えますが、 それでさえ必ずしも、利不利を与えるとは限りません。
美人博名という語さえあって、美しいために不利を受けた例は、 歴史にも伝説にも余るほどあります。
仁相家の方では、世俗の美しいというのにはかえってよろしくなく、 世俗が醜いというようにかえってよろしいとするのが花々多いのでありますが、
美衆の論だけにおいてさえ、前に申しました通り、 必ずしも何様の彼様のということは定められるのであります。
それで、2000年の遠い古の順子という学者さえ、 悲壮論を表して、壮望によって運命が定められているという思想を粉砕しているのであります。
単に壮望から申しますれば、 孔子様は陽子というつまらない人によく似ておられたので、人違いをされたくらいですが、
陽子の人隣や運命が、孔子様とは大変な相違であったことに、誰しも異論はありません。 仁相家の説に反対した人は、遠い西へから、春秋の人に何ほどあったか知れません。
よし一歩も二歩も譲って、壮望骨格をもって人の運命が定まっているものとしましたところで、 仁相というものは変わるものでありますから、
仁相がすでに変わる以上は運命もまた変わるわけでして、 してみれば心掛けや諸行、
境遇によって運命もどしどし変わると考えて正当であります。 ここにごくごく長寿の相のある人がいますとしましても、
その人がフグを無安に食べたり、大酒をしたり、 後院をあえてしたりするといたしますれば、
はなはだその後寿であり得るということは危ういのでありまして、 日々その長寿の相は変ずるのでありましょう。
太い蝋燭でも、風吹きの場所におけば早く焼きてしまい、 細い蝋燭でも、風陰におけば長く保つ通りで、
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世間に丈夫な人が早死にし、病弱な人が長寿する例は何ほどもあります。 益に常に病み常に死せずという文句がありますが、実に最多を言うことも世に多い例です。
心掛け次第で仁相が悪く生まれていても良くなりますところが、 実に仁相にとってある程度までは仁相の信じられる理由です。
これは実に仁相の面白いところで、優れた仁相家が的中した判断を成し得るのも、 その変わるところを知っているからでして、
もし仁相が優れたままに全然変化せぬものでしたならば、 仁相論も現在相違になりますから、
成り立たぬものになりますが、相応は変わるものですから、 そこで仁相論は現在相違になりませんで、そして運命前提説を一般だけ全員し、
また後一般は運命はその人の心掛け次第で良くも悪くもなるという、 運命非前提説を伴うことができるのです。
手早く例を申しましょうならば、同じ人でも酒に酔えば、 その酔わぬ時とは仁相はそう言いたします。
酔うても骨格は変わらぬが、一時間か二時間のことで気色は変わってしまいます。 酔うてよろしい相になる人もありますが、十の九までは酔うた相はよろしくありません。
すなわち悪変するのです。 心がその野動を守らないで不動反乱する相になりますから、その相は過失に近づきやすい相になるのであります。
この通りで悪巧みを始めれば悪い相になります。 善行善意を心がけると良い相になります。
されば仏教には不正は美のもとであるというように説いてあります。 真心がすなわち不正の根本でありますが、
真心を始終抱いていますれば、自然にその香りが現れてきまして美しくなる通りであります。 西の賢人の漢中の書に
悪女縁起を盛るという子がありますが、 仕込めが恨みの心を抱いた仁相などはありがたくないものの長情で、いよいよ悪い相になりましょうが、いくら悪女でも
人心を抱いていれば必ず見づらいものではありません。 このゆえに相は心を追って変ずるものでありまして、心がけ次第、
行為次第で相応は変じ、したがって運命も変ずるものであります。 かようなわけで運命は全く前提しているものとすることは嘘であります。
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また全く前提していないと申すのも嘘であります。 一般は前提していると申してよろしい。
しかし一般は心がけ次第、行為次第で良くもなり悪くもなると申してよろしい。
天然自然に定まっているものを先天的運命と申しますならば、 当人の心がけや行為より生ずるのを後天的運命と申しましょう。
事故の終止によって後天的運命を開拓して、あるいは先天的運命を良きが上にも良くし、 あるいは先天的運命の悪いのをも良くしていくのが真の立派な人と申しますので、
歴史の上に後期を残している人のごときは、大抵後天的運命を開拓した人なのであります。
いたずらに運命を論ずるがごときは、政権といえどもご遠慮なさることであります。 まして深く盆栽の意味を持って運命を論じたり、運命を測知しようとするがごときは、
カゲロウという虫が大きな木を動かそうとするに類したもので、はなはだつまらぬことであります。
されば、いかにやるべきかを考えるより、いかになすべきかを考える方が、 我らにとって賢くもあり、正しくもあることである、という言は真実に我らに忠実な教えであります。
1990年発行 作品社 日本の明髄筆96
運 より読み終わりです。
運命論的なものと、先天的な運と、
後天的な運があって、 後天的な運は自分で
なんとかなるよっていう 話をしてくれてましたね。なんかあれだなと思いました。
あとなんか表情に出るとかいうのは、あのなんでしたっけ、体型に出るみたいなやつ。 生活は体型に出るみたいな。
なんかありましたよね。ちょっと調べてきますね。 調べてきました。
性格は顔に出る。性格痛は体型に出る。 本音は仕草に出る。感情は声に出る。
センスは服に出る。美意識は爪に出る。 清潔感は髪に出る。落ち着きの無さは足に出る。
だそうです。なんか最初の3つくらいしか知らなかったけど、 なんか言い得て妙だなという感じがしますよね。
ということで、明日もまた 頑張っていきましょう。
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といったところで、本日のところは この辺で。また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。