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寝落ちの本ポッドキャスト、こんばんは、Naotaroです。 このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、 それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。 ご意見、ご感想、ご依頼は公式Xマでどうぞ。
寝落ちの本で検索してください。 さて、今日は太宰治の畜犬談というお話を読もうかと思います。
家畜の畜に犬で畜犬談ですね。 いかに野蛮で恐ろしいかという犬がね。
お方って実際は結構可愛がってたぞという話と、ツンデレな話だと聞いてますけども。
事実を交えたフィクションみたいな風にも聞いているけど、どうでしょうか。
聞いてみないとわかんないな。読んでみないとわかんないな。 それでは参ります。畜犬談。
私は犬については自信がある。 いつの日か必ず食いつかれるであろうという自信である。
私はきっと噛まれるに違いない。 自信があるのである。
よくぞ今日まで食いつかれもせず、無事に過ごしてきたものだと不思議な気さえしているのである。
諸君、犬は猛獣である。 馬を倒し、たまさかには獅子と戦ってさえこれを征服するとか言うではないか。
さまわりなんと私は一人寂しく主行しているのだ。 あの犬の鋭い牙を見るが良い。
ただものではない。 今はあのように街路で無心の風雲を装い、
獣に足らぬもののごとく自ら卑下してゴミ箱を覗き回ったりなどしてみせているが、 元々馬を倒すほどの猛獣である。
いつ何時怒り狂い、その本性を暴露するかわかったものではない。 犬は必ず鎖に固く縛り付けておくべきである。
少しの油断もあってはならぬ。 世の多くの飼い主は、自ら恐ろしき猛獣を養い、
これに日々わずかの残版を与えているという理由だけにて、 全くこの猛獣に心を許し、
エスやエスや、などと気楽に呼んで、したながら家族の一員のごとく身辺に近づかしめ、 3歳のわがまな子をして、その猛獣の耳をぐいと引っ張らせて大笑いしている図に至っては、
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戦慄、目を覆わざるを得ないのである。 不意にワンと言って食いついたらどうする気だろう。気をつけなければならぬ。
飼い主でさえ噛みつかれぬとは保証できがたい猛獣を。 飼い主だから絶対に食いつかれぬということは、
愚かな気のいい迷信に過ぎない。 あの恐ろしい牙のある異常を必ず噛む。
決して噛まないということは科学的に証明できるはずはないのである。 その猛獣を話題にして往来をうろうろ徘徊させておくとはどんなものであろうか。
昨年の晩週、私の友人がついにこれの被害を受けた。 痛ましい犠牲者である。
友人の話によると、友人は何もせず横帳を懐でしてぶらぶら歩いていると、犬が道路上にちゃんと座っていた。
友人はやはり何もせず、その犬の肩わらを通った。 犬はその時、嫌な横目を使ったという。
何事もなく通り過ぎた。途端、ワンと言って右の足に食いついたという。 災難である。一瞬のことである。
友人は呆然自筆したという。 ややあって悔し涙が湧いて出た。
さもありなんと私はやはり寂しく思考している。 そうなってしまったら本当にどうしようもないではないか。
友人は痛む足を引きずって病院へ行き、手当を受けた。 それから21日間病院へ通ったのである。
3週間である。 足の傷が治っても体内に共水病という忌まわしい病気の毒があるいは注入されてあるかもしれ
ぬという懸念から、その暴毒の注射をしてもらわなければならぬのである。
飼い主に談判するなど、その友人の弱気をもってしてはとてもできぬことである。 じっとこらえて、己の不運にため息ついているだけなのである。
しかも注射台など決して安いものではなく、そのような余分の蓄えは失礼ながら友人にあるはずもなく、
いずれは苦しい算段をしたに違いないので、とにかくこれはひどい災難である。 大災難である。
またうっかり注射でも怠ろうものなら、共水病といって発熱・脳乱の苦しみあって、 果ては顔が犬に似てきてよずんばいになり、
ただわんわんとほゆるばかりだという、そんな精算な病気になるかもしれないということなのである。
狂犬病のことですかね。 注射を受けながらの友人の憂慮・不安はどんなだったろう。
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友人は苦労人で、ちゃんとできた人であるから、醜く取りみ出すこともなく、 3・7・21日病院に通い、
注射を受けて今は元気に立ち働いているが、 もしこれが私だったらその犬、生かしておかないだろう。
私は人の3倍も4倍も復讐心の強い男なのであるから、 またそうなると人の5倍も6倍も残忍性を発揮してしまう男なのであるから、
立ちどころにその犬の頭蓋骨をめちゃめちゃに粉砕し、 目玉をくり抜き、ぐしゃぐしゃに噛んでベッド吐き捨て、
それでも足りずに近所近辺の飼い犬ことごとく毒殺してしまうであろう。 こちらが何もせぬのに突然わんと言って噛みつくとは何という無礼、
凶暴の仕草であろう。 いかに畜生といえども許しがたい。
畜生不憫のゆえをもって人はこれを甘やかしているからいけないのだ。
容赦なく滑稽に処すべきである。 昨週友人の遭難を聞いて私の知見に対する日頃の憎悪はその極点に達した。
青い炎が燃え上がるほどの思い詰めたる憎悪である。 今年の正月山梨県甲府の町外れに8条3条1条という草案を借り、
こっそり隠れるように住み込み、下手な小説悪せく書き進めていたのであるが、この甲府の町、どこへ行っても犬がいる。
おびただしいのである。 往来にあるいは佇み、あるいは長々と寝そべり、あるいは疾苦し、
あるいは牙をひからせて吠えたて、ちょっとした空き地でもあると必ずそこは野犬の巣のごとく、
君ずほぐれつ格闘の稽古にふけり、夜など無人の街路を風のごとく、野党のごとくぞろぞろ大群をなして獣王に駆け回っている。
甲府の家ごと家ごと、少なくとも2匹くらいずつ養っているのではないかと思われるほどにおびただしい数である。
山梨県はもともと貝犬の産地として知られているようであるが、街頭で見かける犬の姿は決してそんな純血種のものではない。
中にむく犬が最も多い。とるところなき浅はかな蛇犬ばかりである。
もとより私は畜犬に対しては含むところがあり、また友人の遭難以来一層犬王の念を増し、
軽快おさおさ怠るものではなかったのであるが、こんなに犬がうよよいて床の横帳にでも徴糧し、あるいはトグロを撒いて悠然と寝ているのでは、とても用心しきれるものではなかった。
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私は実に苦心をした。 できることならスネ当て、コテ当て、兜をかぶって街を歩きたく思ったのである。
けれどもそのような姿はいかにも異様であり、風紀上から言っても決して許されるものではないのだから、私は別の手段を取らなければならぬ。
私は真面目に真剣に対策を考えた。 私はまず犬の心理を研究した。
人間については私もいささか心得があり、 たまには的確に
誤かず指定できたことなどもあったのであるが、犬の心理はなかなか難しい。 人の言葉が犬と人との感情交流にどれだけ役立つものか、
それが第一の難問である。 言葉が役に立たぬとすれば、お互いの素振り、表情を読み取るより他にない。
尻尾の動きなどは重大である。 けれどもこの尻尾の動きも、注意して見ているとなかなかに複雑で容易に読み切れるものではない。
私はほとんど絶望した。そうして、はなはな切烈な、 無能極まる一方を暗出した。
哀れな給与の一策である。 私はとにかく犬に出会うと、満面に微笑をたたえて、
いささかも外心のないことを示すことにした。 夜はその微笑が見えないかもしれないから、
無邪気に動揺を口ずさみ、優しい人間であることを知らせようと努めた。 これらは多少効果があったような気がする。
犬は私には未だ飛びかかってこない。 けれどもあくまで油断は禁物である。
犬のそばを通るときは、どんなに恐ろしくても絶対に恥じってはならぬ。 にこにこ癒やしい追悲笑いを浮かべて、無心相に首を振り、ゆっくりゆっくり、
内心、背中に毛虫が十匹張っているような窒息せんばかりの狼にやられながらも、 ゆっくりゆっくり通るのである。
つくづく自身のひっくつが嫌になる。 泣きたいほどの自己嫌悪を覚えるのであるが、これを行わないとたちまち噛みつかれるような気がして、
私はあらゆる犬に哀れな挨拶を試みる。 髪をあまり長く伸ばしていると、あるいはウロンのものとして吠えられるかもしれないから、
あれほど嫌だった床屋へも征出して行くことにした。 ステッキなど持って歩くと、犬の方で威嚇の武器と勘違いして反抗心を起こすようなことがあってはならぬから、
ステッキは永遠に廃棄することにした。 犬の心理をはかりかねて、ただ行き当りばったり、
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むやみやたらにご機嫌とっているうちに、ここに意外の現象が現れた。 私は犬に好かれてしまったのである。
往復ってぞろぞろ後についてくる。 私は時短打訓だ。
実に皮肉である。 かねかね私の心よからず重い、また最近に至っては憎悪の極点にまで達している。
その等の知見に好かれるくらいならば、 いっそ私はラクダに慕われたいほどである。
どんなに悪女でも、 疲れて気持ちの悪いはずはないというのは、それは千百の想定である。
プライドが、虫がどうしてもそれを許容できない場合がある。 勘にならぬのである。私は犬を嫌いなのである。
早くからその凶暴の猛獣性を感破し、心よからず思っているのである。
たかたか日に一度や二度の惨犯の盗用に預からんがために、 友を売り妻を離別し、己の身一つ家の軒下に横たえ、忠義顔してかつての友に吠え、
兄弟夫婦をもけろりと忘却し、 ただひたすらに飼い主の顔色をうかがい、
あゆつい焦点として恥じず、ぶたれても、キャンといい尻尾巻いて並行して見せて、過人をあらわせ、 その精神の卑劣、臭快、犬畜生とは欲もいった。
日に十里を楽々と奏波し得る賢客を有し、 獅子をも倒す発光鋭利の牙を持ちながら、
蘭太部来への腐り果てた癒しい根性をはばからず発揮し、 一片の狂児なく、手もなく人間界に屈服し、礼俗し、
道俗互いに敵視して顔つき合わせると吠え合い、噛み合い、 以って人間の御機嫌を取り結ぼうと努めている。
雀を見よ。 何一つ武器を持たぬ最弱の賞金ながら、自由を確保し、 人間界とは全く別っ子の勝者界を営み、
同類、愛、親しみ、 近前日々の貧しい生活を歌い楽しんでいるではないか。
思えば思うほど犬は不潔だ。犬は嫌だ。 なんだか自分に似ているところさえあるような気がして、いよいよ嫌だ。
たまらないのである。 その犬が私を特に好んで、大振って親愛の情を表明してくるに及んでは、 狼狽とも無念とも何とも言いようがない。
あまりに犬の猛獣性を異形し、かいかぶり、 切度もなく微笑を撒き散らして歩いたゆえ、犬はかえって至高を得たものと誤解し、
私を苦味しやすしと見てとって、このような情けない結果に立ち至ったのであろうが、 何事によらずものには切度が大切である。私は未だにどうも切度を知らぬ。
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早春のこと。 夕食の少し前に、私はすぐ近くの49連隊の練兵場へ散歩に出て、
兄さんの犬が私の後についてきて、今にもかかとをがぶりとやられはせぬかと生きた気もせず。 けれども毎度のことであり、
観念して無心平静をよそ多い。 パッとダッとのごとく逃げたい衝動を懸命に抑え抑え、ぶらりぶらり歩いた。
犬は私についてきながら、みちみちお互いに喧嘩などを始めて、 私はわざと振り返って見もせず、知らぬふりして歩いているのだが、内心実に平行であった。
ピストルでもあったなら、躊躇せずドカンドカンと射殺してしまいたい気持ちであった。 犬は私にそのような下面にお菩薩、
内心には野舎的な感念の外心があるとも知らず、どこまでもついてくる。 練兵場をぐるりと一回りして、私はやはり犬に慕われながら帰都に着いた。
家へ帰り着くまでには背後の犬もどこかへうんさん無償しているのが、これまでのしきたりであったのだが、 その日に限ってひどく執拗でなれなれしいのが一匹いた、真っ黒の見る影もない小犬である。
ずいぶん小さい。胴の長さは5寸の感じである。 けれども小さいからといって油断はできない。
歯はすでにちゃんと生えそろっているはずである。 噛まれたら病院に3・7・21日間通わなければならぬ。
それにこのような幼少なものには常識がないから、従って気まぐれである。 一層用心をしなければならぬ。
小犬は後ろになり先になり、私の顔を振り仰ぎ、ヨタヨタ走ってとうとう私の家の玄関までついてきた。
「おい、変なものがついてきたよ。」
「おや、かわいい。」
「かわいいもんか。追っ払ってくれ。手荒くすると食いつくぜ。 お菓子でもやって。」
例の軟弱外交である。 小犬はたちまち私の内心、威風の情を見抜き、それにつけ込み、ずうずうしくもそれからずるずる私の家に住み込んでしまった。
そうしてこの犬は3月、4月、5月、6、7、8、 そろそろ秋風吹き始めてきた現在に至るまで、私の家にいるのである。
私はこの犬にはいく度泣かされたかわからない。 どうにも始末ができないのである。
私は仕方なくこの犬をポチなどと呼んでいるのであるが、半年も共に住んでいながら、いまだに私はこのポチを一家のものとは思えない。
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他人の気がするのである。 しっくりゆかない。不和である。
お互い心理の読み合いに火花を散らして戦っている。 そうしてお互いどうしても釈然と笑い合うことができないのである。
はじめこの家にやってきた頃はまだ子供で、地べたの蟻を不審そうに観察したり、我慢を恐れて悲鳴をあげたり、その様には私も思わず失笑することがあって憎いやつであるが、
これも神様の御心によってこの家へ迷い込んでくることになったのかもしれぬと、縁の下に寝床を作ってやったし、
食い物も乳幼児向きに柔らかく煮て与えてやったし、飲み取り粉など体にふりかけてやったものだ。
けれども一月経つともう行けない。 そろそろ妥協の本領を発揮してきた。いやし、もともとこの犬は練兵場の隅に捨てられてあったものに違いない。
私のあの散歩の気と、私にまつわりつくようにしてついてきて、その時は見る影もなく痩せこけて毛も抜けていて、お尻の部分はほとんど全部剥げていた。
私だからこそこれに貸しを与え、お粥を作り、荒い言葉一つかけるではなし、腫れ物に触るように低調にもてなしてあげたのだ。
他の人だったら足気にして追い散らしてしまったに違いない。 私のそんな親切なもてなしも、何実は犬に対する愛情からではなく、犬に対する先天的な憎悪と恐怖から発した老快な駆け引きに過ぎないのであるが、けれども私のおかげでこのポチは、毛並みを整い、どうやら一人前の男の犬に成長することを得たのではないか。
私は恩をうるきは妄当ないけれども、少しは私たちにも何か楽しみを与えてくれても良さそうに思われるのであるが、やはり捨て犬はダメなものである。
大飯食って食後の運動のつもりであろうか。 下駄をおもちゃにして無惨に噛み破り、庭に干してある洗濯物をいらぬせばして引きずりおろし泥まみれにする。
こういう冗談はしないでおくれ。実に困るんだ。 誰が君にこんなことをしてくれと頼みましたか。
と私は、家に針を含んだ言葉を精一杯優しく嫌味を聞かせて言ってやることもあるのだが、犬はきょろりと目を動かし、嫌味を言い聞かせているは当の私にじゃれかかる。
なんという甘ったれた精神であろう。 私はこの犬の鉄面皮には密かに呆れ、これを軽蔑さえしたのである。
長鶴に及んで、いよいよこの犬の無能が暴露された。 第一、形が良くない。
幼少の頃は、もう少し形の均一性も取れていて、あるいは優れた血が混じっているのかもしれぬと思わせるところもあったのであるが、
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それは真っ赤な偽りであった。 胴だけがニョキニョキ長く伸びて、手足が著しく短い。
亀のようである。見られたものではなかった。 そのような醜い形をして、私が外出すれば必ず影のごとくちゃんと私に付き従い、
少年少女までが、「やあ、ヘンテコな犬じゃ。」と指さして笑うこともあり、 多少見栄ぼうの私は、いくら澄まして歩いても何にもならなくなるのである。
いっそ他人の振りをしようと早足に歩いてみても、ポチは私の側を離れず、私の顔を振り仰ぎ振り仰ぎ、後になり先になり、
かれみつくようにしてついてくるのだから、どうしたって二人は他人のようには見えない。 気心のあった種族としか見えない。
おかげで私は外出の旅ごとにずいぶん暗い憂鬱な気持ちにさせられた。 いい修行になったのである。
ただそうしてついて歩いていた頃はまだ良かった。 そのうちにいよいよ隠してあった猛獣の本性を暴露してきた。
喧嘩格闘を好むようになったのである。 私のお供をして町を歩いて行き交う犬、行き交う犬、
すべてに挨拶して通るのである。 つまり片っ端から喧嘩して通るのである。
ポチは足も短く、若年でありながら喧嘩は相当強いようである。 飽き死の犬の巣に踏み込んで、一時に5匹の犬を相手に戦った時はさすがに危うく見えたが、
それでも巧みに身を交わして難を避けた。 非常な自信を持ってどんな犬にでも飛びかかって行く。
たまには勢い負けして吠えながらじりじり退却することもある。 声が悲鳴に近くなり、
真っ黒い顔が青黒くなってくる。 一度子牛のようなシェパードに飛びかかって行って、あの時は私が多くなった。
果たしてひとたまりもなかった。 前足でコロコロポチをおもちゃにして本気に付き合ってくれなかったので、ポチも命が助かった。
犬は一度あんな酷い目に遭うと、大変育児がなくなるものらしい。 ポチはそれからは目に見えて喧嘩を避けるようになった。
それに私は喧嘩を好まず。 いな、好まぬどころではない。
往来で野獣の組打ちを放置し許容しているなどは文明国の秩序と信じているので、
かの耳をろうせんばかりのケンケンゴーゴー、キャンキャンの犬の野蛮の喚き声には、殺してもなお飽きたらない憤怒と憎悪を感じているのである。
私はポチを愛してはいない。 恐れ、憎んでこそいるが、ミジンも愛してはいない。
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死んでくれたらいいと思っている。 私にのこのこついてきて、何かそれが飼われているものの義務とでも思っているのか。
道で会う犬会う犬、必ず生産に吠え合って、主人としての私は、その時どんなに恐怖に罠なき震えていることか。
自動車呼び止めて、それに乗ってドアをバタンと閉じ、一目散に逃げ去りたい気持ちなのである。
犬同士の組打ちで終わるべきものならまだしも、もし敵の犬が血迷って、ポチの主人の私に飛びかかってくるようなことがあったらどうする。
ないとは言わせぬ。血に飢えたる猛獣である。 何をするかわかったものでない。
私は無骨らしく噛み裂かれ、三七二十一日間病院に通わなければならぬ。 犬の喧嘩は地獄である。私は機会あることにポチに言い聞かせた。
喧嘩してはいけないよ。喧嘩するなら僕からはるか離れたところでしてもらいたい。 僕はお前を好いてはいないんだ。
少しポチにもわかるらしいのである。 そう言われると多少しょうげる。
いよいよ私は犬を薄気味悪いものに思った。 その私の繰り返し繰り返し言った忠告がこう襲うしたのか。
あるいは、かのシェパードとの一戦にぶざまな惨敗を喫したせいか、 ポチは卑屈なほど乳弱な態度を取り始めた。
私と一緒に道を歩いて他の犬がポチに吠えかかるとポチは、 あー嫌だ嫌だ野蛮ですねー
と言わんばかり。 ひたすら私の気に入られようと上品ぶってぶるっと胴ぶるいさせたり、相手の犬を仕方のない奴だねー
と、さもさも憐れむように流し目で見て、そうして私の顔色をうかがい、 ヘッヘッヘッと癒やしい吹衣装を笑いするかのごとく、その様子の嫌らしいったらなかった。
ひとつもいいところがないじゃないか、こいつは。 人の顔色ばかりうかがっていやがる。
あなたがあまり変に構うころですよ。 他内は初めからポチに無関心であった。
洗濯物など汚されたときはブツブツ言うが、 あとはケロリとしてポチポチと呼んで飯を食わせたりなどしている。
性格が破産しちゃったんじゃないかしら。 と、笑っている。
飼い主にできたというわけかね。 私はいよいよ苦々しく思った。
7月に入って異変が起こった。 私たちはやっと東京の三鷹村に、
建築祭中の小さい家を見つけることができて、それの完成し次第、 1ヶ月24円寝かしてもらえるように、
27:00
家主と契約の証書交わして、そろそろ移転の支度を始めた。 家が出来上がると、家主から即発で通知が来ることになっていたのである。
ポチはもちろん捨てて行かれることになっていたのである。 連れて行ったっていいのに。
家内はやはりポチをあまり問題にしていない。 どちらでもいいのである。
ダメだ。僕は可愛いから養っているんじゃないんだよ。 犬に復讐されるのが怖いから、仕方なくそっとしておいてやっているのだ。
わからんかね。 でもちょっとポチが見えなくなると、ポチはどこへ行ったろう、どこへ行ったろうと大騒ぎじゃないの。
いなくなると、一層薄気味が悪いからさ。 僕に隠れて、密かに同志を救護をしているのかもわからない。
あいつは僕に軽蔑されていることを知っているんだ。 復讐心が強いそうだからな、犬は。
今こそ絶好の機会であると思っていた。 この犬をこのまま忘れたふりして、ここへ置いて、さっさと汽車に乗って東京へ行ってしまえば、
まさか犬も笹子峠を越えて三鷹村まで追いかけてくることはなかろう。
私たちはポチを捨てたのではない。 全くうっかりして連れて行くことを忘れたのである。
罪にはならない。 まだポチに恨まれる筋合いもない。復讐されるわけはない。
大丈夫だろうね、置いていっても。 飢え死にするようなことはないだろうね。
飼料のたたりということもあるからね。 うーん、もともと捨て犬だったんですもの。
家内も少し不安になった様子である。 そうだね、飢え死にすることはないだろう。
なんとかうまくやって行くだろう。 あんな犬東京へ連れて行ったんじゃ、僕は友人に対して恥ずかしいんだ。
動画長すぎる。みっともないね。 ポチはやはり置いて行かれることに確定した。
するとここに異変が起こった。 ポチが皮膚病にやられちゃった。これがまたひどいのである。
さすがに敬意をはばかるが惨状、目を背けしむるものがあったのである。 折からの怨烈とともに、ただならぬ悪臭を放つようになった。
今度は家内が参ってしまった。 ご近所に悪いわ。殺して下さい。
女はこうなると男よりも冷酷で、度胸がいい。 殺すのか。
私はぎょっとした。 もう少しの我慢じゃないか。
私たちは三鷹の矢主から速達を一心に待っていた。 7月末にはできるでしょうという矢主の言葉であったのだが、7月もそろそろおしまいになりかけて、
今日か明日かと引っ越しの荷物もまとめてしまって待機したのであったが、 なかなか通知が来ないのである。
30:01
問い合わせの手紙を出したりなどしているときにポチの皮膚病が始まったのである。 見れば見るほど賛美の極である。
ポチも今はさすがに己の醜い姿を恥じている様子で、 とかく暗闇の場所を好むようになり、
たまに玄関の日当りのいい敷石の上でぐったり寝そべっていることがあっても、 私がそれを見つけて、
わあひでえなあ、と罵倒すると急いで立ち上がって首を垂れ、 平行したようにこそこそ円の下に潜り込んでしまうのである。
それでも私が外出するときには、どこからともなく足音を忍ばせて出てきて、 私について来ようとする。
こんな化け物みたいなものについて来られてたまるものか、とその都度、 私は黙ってポチを見つめてやる。
あざけりの笑いを光学にまざまざと浮かべて何歩でもポチを見つめてやる。 これは大変効き目があった。
ポチは己の醜い姿にはっと思い当たる様子で首を垂れ、 潮潮どこかへ姿を隠す。
とっても我慢ができないの。私までむずがやくなって。 家内は時々私に相談する。
なるべく見ないように勤めているんだけれど、一度見ちゃったらもうだめねえ、 夢の中にまで出てくるんだもの。
まあもう少しの我慢だ。 我慢するより他ないと思った。
たとえ病んでいるとは言っても相手は一種の猛獣である。 下手に触ったら噛みつかれる。
明日にでも三鷹から返事が来るだろう。 引っ越してしまったらそれっきりじゃないか。
三鷹の矢主から返事が来た。 読んでがっかりした。
雨が降り続いて壁が乾かず、また人でも不足で完成までにはもう10日ぐらいかかる見込み、 というのであった。
うんざりした。 ポチから逃れるためだけでも早く引っ越してしまいたかったのだ。
私は変な焦燥感で仕事も手につかず、雑誌を読んだり酒を飲んだりした。 ポチの皮膚病は一日一日ひどくなっていって、私の皮膚もなんだかしきりに痒くなってきた。
深夜、郊外でポチがバタバタバタかゆさに身悶えしている物音に幾度ぞっとさすられたかわからない。 たまらない気がした。
いっそ一思いにと凶暴な発作に駆られることもしばしばあった。 矢主からはさらに20日待てと手紙が来て、私のごちゃごちゃの不満が
たちまち手近のポチに結びついて、こいつがあるためにこのように諸事円滑に進まないのだとも、 何もかも悪いことは皆ポチのせいみたいに考えられ、奇妙にポチを呪詛し、ある夜、私の寝巻に犬の呑みが伝播されてあることを発見するに及んで、
33:02
ついにそれまで耐えに耐えてきた怒りが爆発し、私はひそかに重大の決意をした。 殺そうと思ったのである。
相手は恐るべき猛獣である。 常の私だったら、こんな乱暴な決意は逆立ちしたって成し得なかったところのものであったが、
盆地特有の黒書で少し変になっていた矢先であったし、 また毎日何もせず、ただポカンと矢主からの速達を待っていて、死ぬほど退屈な日々を送って、
むしゃくしゃイライラ、おまけに不眠も手伝って発狂状態であったのだからたまらない。 その犬の呑みを発見した夜、直ちに家内をして牛肉の大変を買いに走らせ、
私は薬屋に行き、ある種の薬品を少量買い求めた。これで用意はできた。 家内は少なからず興奮していた。
私たち鬼夫婦はその夜、吸収して小声で相談した。 明くる朝、四時に私は起きた。
目覚まし時計をかけておいたのであるが、それの鳴り出さぬうちに目が覚めてしまった。 しらじらと開けていた。
肌寒いほどであった。私は竹の秘宝を下げて外へ出た。 おしまいまで見てないで、すぐにお帰りになると言わ。
家内は玄関の敷台に立って見送り、落ち着いていた。 心空いている。
「ポチ、来い。」ポチは大を振って縁の下から出てきた。 「来い、来い。」
私はさっさと歩き出した。 今日はあんな意地悪くポチの姿を見つめるようなことはしないので、ポチも自身の醜さを忘れて、
いそいそ私についてきた。霧が深い。 町はひっそり眠っている。
私は練兵場へ急いだ。 途中恐ろしく大きい赤毛の犬がポチに向かって猛烈に吠え立てた。
ポチは礼によって上品ぶった態度を示し、「何を騒いでいるのかね。」 とでもいいだけな別種を、ちらとその赤毛の犬にくれただけで、さっさとその面前を通過した。
赤毛は卑劣である。 無法にもポチの背後から風のごとく襲いかかり、ポチの寂しげな高眼を狙った。
ポチはとっさにくるりと向き直ったが、ちょっと躊躇し、私の顔色をそっとうかがった。
「やれ。」 私は大声で命令した。
赤毛は卑怯だ。思う存分やれ。 許しが出たのでポチはブルンと一つ大きく胴振るいして弾丸のごとく赤犬の懐に飛び込んだ。
たちまちけんけん豪豪。二匹は一つの手まりみたいになって格闘した。 赤毛はポチの前ほども大きい頭体をしていたがダメであった。
36:03
ほどなくキャンキャン悲鳴をあげて敗退した。 おまけにポチの皮膚病まで移されたかもわからない。
バカなやつだ。 喧嘩が終わって私はほっとした。
文字通り手に汗して眺めていたのである。 一時は二匹の犬の格闘に巻き込まれて、私も共に死ぬような気さえしていた。
俺は噛み殺されたっていいんだ。 ポチよ思う存分喧嘩をしろと異様に力んでいたのであった。
ポチは逃げて行く赤毛を少し追いかけ立ち止まって私の顔色をちらっとうかがい 急にしょげて首を垂れ
すごすご私の方へ引き返してきた。 よし強いぞ。
褒めてやって私は歩き出し橋をカタカタ渡ってここはもう練兵場である。
昔ポチはこの練兵場に捨てられた。 だから今この練兵場へ帰ってきたのだ。お前のふるさとで死ぬが良い。
私は立ち止まりぼとりと牛肉の大変を私の足元へ落としてポチ食え。 私はポチを見たくなかった。
ぼんやりそこに立ったまま
ポチ食え。 足元でペチャペチャ食べている音がする。
一分経たないうちに死ぬはずだ。私は猫背になってノロノロ歩いた。霧が深い。 ほんの近くの山がぼんやり黒く見えるだけだ。
南アレプス連邦も富士山も何も見えない。 朝露で下駄がびしょ濡れである。
私は一層ひどい猫背になってノロノロ木とについた。 橋を渡り中学校の前まで来て振り向くとポチがちゃんといた。
面目投げに首を垂れ私の視線をそっとそらした。 私ももう大人である。いたずらな感傷はなかった。すぐ事態を察知した。
薬品が効かなかったのだ。 うなずいてもうすでに私は
白紙還元である。 家へ帰って
ダメだよ薬が効かないのだ。許してやろうよ。 あいつには罪がなかったんだぜ。
芸術家はもともと弱い者の味方だったはずなんだ。 私は途中で考えてきたことをそのまま言ってみた。
弱者の友なんだ。 芸術家にとってこれが出発でまた最高の目的なんだ。
こんな単純なこと僕は忘れていた。 僕だけじゃない。みんなが忘れているんだ。
39:04
僕はポチを東京へ連れて行こうと思うよ。 友がもしポチの格好を笑ったらぶん殴ってやる。
卵あるかい? ええ。
家内は浮かぬ顔をしていた。 ポチにやれ。2つあるなら2つやれ。
お前も我慢しろ。皮膚病なんてものはすぐ治るよ。
家内はやはり浮かぬ顔をしていた。 1972年発行。周永写。日本文学全集70。
太宰治集。より読み終わりです。 なんか聞いてたハッピーなツンデレ話と違うな。
暗いな。
この後ポチはどうなったんでしょうね。 ちゃんと東京の三鷹まで連れて行ってもらえたんでしょうか。
フィクションも混ざっているとか聞いたような。 聞いてたのでどこまであるのかわかりませんが。
幸せになっているといいですね。 といったところで今日のところはこの辺でまた次回お会いしましょう。
おやすみなさい。