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2024-04-07 14:33

【学びの棚卸し】水俣病が教えてくれた正直でいること

私にとってライターになることは、
人の痛みに触れる機会を与えてもらうことと同じ意味を持ちます🙇‍♀️

これは左翼味が強い…?ですか…?
フラットに喋れているでしょうか?泣

#水俣病
#チッソ
#クソチッソ
#春木良且
#中村淳彦
#悪魔の傾聴ライティング
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おはようございます、なっちゃのです。先日、なぜ私が人の痛みに触れるようなことをテーマに書きたいと思ったかという話をさせてもらいました。
私は、公害病ですね、水俣病とか痛い痛い病とか、公害を専門にしてらした教授のゼミに入っていました。
その教授は、直接人と話すこととか、現地に行くこととか、フィールドワークと文献学習と両方を大事にされていて、
その一つ一つをですね、すごく真摯に向き合っている姿をすごく間近で見ていましたということをざっくりお話ししたことがあったんですけど、
それらがどういう学びだったかというのを自分の中で考えたいなというふうに思ったのと、
ボイシーパーソナリティの春木教授先生が、テクノロジーの発展と未来の幸せ比例するのかみたいな話をされていたので、ちょっとこの話をしてみようと思いました。
今日はですね、この多くの学びの中でも、大学時代の学びの中でも軸と柱みたいになったミナマタ病についてしゃべっていこうと思います。
ミナマタ病って公害問題としては、名前くらいは知ってるけど中身は忘れてしまったみたいな方の方が多いんじゃないかなっていうふうに勝手に思っているので、ちょっと少し説明させてください。
ミナマタ病をはじめとする四大公害病っていうのは、高度経済成長の裏側として語られることが多いんですけど、
窒素っていう企業がありまして、ミナマタ市にですね。窒素という企業がプラスチックを柔らかくする塩化ビニール、塩ビですね。
ちょっとこれは科学とか化学が私は全くわからないので、この辺の話ってダメダメなんですけど、その塩ビ的なものを窒素っていう企業が製造してたんですね。
その塩ビの原料となるものを作る際に水銀を使ってたんです。
その必要な物質、アセトアルイデヒドっていうんですけど、必要な物質だけを取り出して水銀を含んだそれ以外の不要になったものは全部そのまま海に垂れ流してたんですね。
それが魚の体に入って、当時熊本県ミナマタ市のミナマタ湾とか、シラヌイ海とか漁業が盛んなわけなんですよね。
その海の近くに住む漁師たちっていうのは、大地産業の多くが壮大あるように基本的には貧乏貧しいんですよ。
その漁師たちは魚が主食で、おやつも魚で、海とともに生きているみたいな生活レベルをしていて、
水銀が垂れ流された水銀が魚の体の中に入って、その水銀を含んだ魚をこれまでのように食していったらミナマタ病っていうのが発症されたっていうのが、
この公害問題のミナマタ病っていう病の大悪の説明なんですけど、
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ここからは写真とかドキュメンタリーとかで見た方もいらっしゃるかもしれないんですけど、
まず魚をふらふら歩いている猫が食べるじゃないですか。
なので猫に症状が最初出るんですね。
体が激しく痙攣を起こして、痙攣って言ったってピクピクみたいなものじゃなくて、
体ごと飛び割ってしまうような痙攣が出るわけなんですよ。
お泥猫とか言われて、狂ってかまどに突っ込んで恐ろしいごたって話とかが、証言とかがあるくらい当時ニュースになったりしてるんですよね。
その猫が発症した後に人間も出てくるんです。
人間も脳の神経が壊されて歩けないとか喋れないとか視界が狭くなったとか指先が動かないとか運動神経がめちゃめちゃになるんですよね。
昨日まで健康にガンガン寮してた人がいきなりそんな状態になってしまうんです。
猫と同じように体が飛び上がってしまうほどの痙攣が出てしまって、これは劇場型ミナマタ病とかって言われたりするんですけど、
でもそれが発症している当時って原因がわかんないんですよね。
なんか奇病が流行ってる、奇病が流行ってる、奇病が流行ってるとか言って、魚もバタバタ死んでて、魚もやばいかもみたいな雰囲気みたいなのがあったらしいんですけど、
それでも海と共に生きている寮民たちなので、これまでの生活を続けるからどんどんどんどん病が広がってくるんですよね。
公式にミナマタ病が確認されるっていうか、ミナマタ病として症例が認められて、その半年後、ようやくその半年もかかって、
窒素の向上排水なんじゃないかって原因が疑われ始めるわけなんですよ。
これは結果的に正解だったんですね。窒素の向上排水なんですよ。
半年後くらいにそれが疑われ始めて、でも証明できないわけなんですね。
それで変わらずどんどん創業していくわけですよ。創業すればするほどどんどん排水を流し続けて、
それで最初に発症してから3年後、3年後ですよ。3年後にようやく水銀だって特定されるわけなんですよね。
でもこの窒素っていう企業は水銀だって特定されただけで、なんでうちらが悪いってことになるんですかみたいな感じで、
ずっと認めないわけですよ。この間に人が何人も何人も何人も何人も亡くなってるんですね。
で、認めない証拠に被害家族には医者料じゃないんですよ。自分悪くないから。
医者料じゃなくてお見舞い金、見舞い金っていうのを支払うっていうことはやり始めるんですね。
で、さらにその見舞い金っていうのは手切金みたいなもので、これ以上騒ぐなとか書いてあるわけですよ。
もうこれを受け取ったら絶対騒がないでくださいみたいな、で印鑑押すみたいなことなんですよね。
でももう元々貧しい生活を送っている人たちなので魚を食べていけないとどうしたらいいかわからない。
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で、そういうお金を受け取ってしまうんですよね。っていうすごい悪質なやり口だったんですけど、
亡くなっていない方でも重い障害を負って一生過ごすとかってそういうことになってしまうわけなんですよ。
で、水銀の恐ろしいところは妊婦さんも胎盤を通して赤ちゃんに行っちゃうんですよね。
そうして障害を持って生まれてくるっていうことがあるんですけど、
胎児性ミナワタ病って言われていて、だいたいミナワタ病が認め、公式に確認されているのが、
ちょっと待ってくださいね、今あの年表を見るんですけど、
1956年にあの第1例目、症例の第1例目が出ているんですけど、
1956年って言うと今から68年前ですね。
なのでその第1号の方は別に胎児性ミナワタ病というか妊婦さんとかではなかったですけど、
その時点で胎児性ミナワタ病として生まれて来られている方は68歳で今も生きていらっしゃるわけなんですよね。
胎児性ミナワタ病の方今もいらっしゃいます。
ということで、ずっと重い障害を負って一生過ごすっていうことになってしまうんですけど、
この胎児性ミナワタ病で有名な方がいらっしゃるんですけど、
その方はもう亡くなられているんですけど、ずっと寝たきりなんですよね。
生まれた時からずっと寝たきりで、でも20歳の成人式のお祝いができるんですよ。
そのお祝いで晴れ着を着てきている写真という有名な写真があるんですけど、
宝の子供って書いて宝子って言われて、
そのお父さんの顔なんかも一緒に写っててすごく幸せそうな笑顔なんですよねっていう有名な写真があるんですけど、
なぜ宝子と呼ばれているかって、お母さんつまり母体だった人はミナワタ病が軽症だったらしいんですよね。
その宝子って呼ばれている方に妹とか弟が5人ぐらいいるんですけど、
そういう人たちはみんなミナワタ病じゃないんですよ。
だからこの子が家族の精銀を吸い取った宝子でしたいっていう風にお母さんは話されているっていう話もあるんですよね。
ちょっと話が逸れちゃったんですけど、ミナワタ病は最初の衝撃と同じぐらい、
その後がずっとずっと報われない。
それは窒素が認めないっていうことによることが大きいんですけど、報われない公害なんですよね。
窒素っていうことだけじゃなくて、ミナワタ病をどうやって認定するかっていうことの基準とかもすごく難しくて、
例えばどこのエリアにその時住んでいたかとか、そういうことによって隣の市だったら認められないんですかとか、
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隣の市すごく狭間に住んでるんですとか、そういうことの線引きっていうのがすごく残酷ですよね。
それによってお金を出すか出さないかみたいな線引きがなってしまうということで、
今も全然ミナワタ病と終わっていなくて、そのミナワタ病と認定させる裁判というのが今まだあるんですよね。
本当に勝手に端折りながら紹介すると、そういう公害問題というか事件があって、そういう勉強していました。
年に1回必ず夏にゼミのみんなでミナワタに行って、それまでも1年間ミナワタ病のことを勉強しているわけなんですよね。
勉強ってどんなことをしているかというと、文献とかドキュメンタリーとか見て、何が気になったとか一人一人発表するんですよ。
なぜそこが気になったのかとか、それに対してどう思ったのかとか、もう一人1時間とかかけて丁寧にやっていくんですよね。
ゼミは6時間とか平気であって、あの時本当にちゃんと頭使えてたらと思うんですけど、おばかちゃんの限界だったので、
ちゃんと議論とかできなかった、もう本当にしょうがないんですけど、そういうことを大学でやっていて、フィールドに出てみたいなことをやっていました。
こういう事件なので、一見加害企業と被害者っていう、そういう構図なんですけど、
窒素っていう企業は、その時大きく日本の高度経済成長とか、その時の生活っていうのに大きな発展に寄与していて、今こんなにプラスチックが便利なのには少なからず影響していると思うんですよ。
南多市にも工場ができたからこそ、南多市が潤ったっていう側面があるわけなんですよね。
でもそこで犠牲になったっていうのが、寮民たちっていう窒素によって恩恵がほぼあまり関係がない寮民たちが、苦しまざるを得なくなっちゃうんですよね。
すごく印象深い話っていうか言葉があるんですけど、この南多病に尽力した原田政澄先生っていうお医者様の方がいらっしゃるんですけど、この方が語った言葉でですね、南多病があったから差別があったのではなく、
差別があるところに公害が起きるんだっていう話をされてるんですよね。なんかすごい考えさせられるなって思っていて、
発展させたいことばかりに目が行って、そうではない、つまり差別のあるところはトントン切り捨てられてしまうんですよね。
福島原発とかも同じ構造があるって言ってる人たくさんいますけど、そういう側面なのかなというふうに思っています。
学生の時はですね、このクソ窒素みたいな感じで思ってたんで、クソはクソなんですけど、疑われた時点でやめるべきだったとか、せめて原因してからは本当にやめるべきだったとか、
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でもそれだけじゃないんですよね。きっとその時の経済の発展は人を殺すことを容認してたっていうことなんじゃないかなというふうに思います。
被害者ばっかりが苦しい、ばっかりだったんですよね。本当に報われない。被害を受けて差別されて、なぜか被害者が差別されて孤独になくなっていくみたいな。
もちろん死人を出すなんて、もちろんそんなつもりはなくても、発展の犠牲は必ずあるっていうことを真摯に受け止められなかったのが、
みなまた病をここまで大きくしてしまったのかなというふうに思うんですけど、
私はフィールドワークですね、被害者のご家族とかに話を聞いていて、ずっとずっと忘れられないのが、
学生たちに話してくれるメッセージというのが、正直でいてくださいということをおっしゃられるんですよね。
その人が言うには、例えば交通事故を起こしてしまったとして、やってしまったって一番最初に思ったら、それが正直な気持ちなんですよと。
その後は、でもあっちも悪かったかもとか、あっちだって何かよそ見してたよねとか、いろんなことを考えて自分の感情をねじ曲げて保身するなっていうことを言いたいんですよね。
これは窒素の対応のことを教訓みたいにされてるんじゃないかなというふうに思ったんですけど、窒素も絶対やばいですよって思ったり言った人絶対いたと思うんですよね。
でも認めたら殺人起業になってしまうわけなんですよ。そうやってずるずるずるずる認められなかった結果、どんどんどんどん殺人をしていくことになってしまうんですよね。
という話が何年経ってもすごく印象的で、私なんかまだまだうまくできないんですけど、ミナマタ病の勉強っていうのはその時代の時代背景なんかとともに、物事をいろんな目線で見ることを教えてくれたし、
人として大切なことを教えてくれた後悔問題だなっていうふうに思っています。なんか偉そうなつもりはないんですけど、ちょっとそういうことに詳しい人が聞いたらと思うとちょっと偉そうに恥ずかしいですね。
どんな学びだったかっていうのを自分の記録としても喋っておきたかったので喋ってみました。聞いてくれてありがとうございます。それではまた。
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