00:06
おはようございます、なっちゃのです。
えっと、ベビーがまだ、今8時半なんですけど、起きてこないんですよね。
これって起こすべきなんですかね?
なんか最近、今まで夜の7時から8時ぐらいの間に寝てたんですけど、
ここ3、4日で突然10時ぐらいにしか寝なくなっちゃって、
もうなんか寝かしつけも1、2時間やって、なんかもう超ストレス溜まって、
なんかもう、ベビーにもういい!とか言いながら、
寝かしつけを諦めて、10時ぐらいになんかやっと寝るみたいなことをしてるんですけど、
なんか遅ね遅起になっちゃいましたね。
これはそういうお年頃なのでしょうか?
ちょっと原因がわかんないというか、なんかあえてそうしてたわけでももちろんないんですけど、
ちょっとそういうお年頃だということで、ちょっと様子見ようと思います。
ということで、私もベビーに甘んじてちょっと遅起になってしまいました。
で、今さっきですね、顔洗って化粧水つけてとかってやってて、
もうこれずっと、どれぐらい?2年ぐらい?思ってるんですけど、
30とかになって、顔のシミがすごい気になるんですよね。
遠目というか、人と他人と接するぐらいの距離感だったら全然というか、
別にさほど気にならないし、お化粧とかしてしまえばなおそんなには気にならないんですけど、
ぐぐぐっと鏡に近寄ってみると、ふわーっていっぱい浮いてるんですよね。
わーこれ気持ち悪いなーってずっと思ってたんですけど、今も思い続けてます。
で、シミ取りレーザーやりたいとか、今いろんな美容医療があるじゃないですか。
そういうのやってみたいなとか思うんですけど、
こうやって選択肢が身近になくても選択肢があることって救いなのかな、
それとも絶望なのかなっていうことをちょっと思ってしまったわけなんですよね。
美容医療ぐらいだと、まあまあ別にシミ取ればいいじゃんお金あるならっていうぐらいだと思うんですけど、
例えば、例えばというか、そういうことも身近に選択肢がある分諦められなくなってますよね。
そんなに興味なくても徐々にシミが濃くなっていく様を見ている様子がストレスとか、
いつまで私はシミを気にして生きてるんだろう、こんなことならやろうかなとかって思っていくんですよね。
でもそれって絶対それが分からないですけど、私の両親世代とかだったらそんなこと思わずに、
シミできちゃったなしょうがないかぐらいの感じだったと思うんですよ。
03:00
っていうことを思うと、身近に選択肢があることってすごく残酷だなって。
でも気になっちゃえば綺麗にもできるんだからそれは救いだなとも思うんですよ。
で、病院用ぐらいだったらそんな軽めの話で済むんですけど、
なんかガチの医療、本当に命がかかっている医療でもそれが言えるなって思うんですよね。
まあだからそれこそMH療がどうなのかっていう話もそうなんですけど、
なんかちょっと思ってしまうところがあって、
これよく私夫とも喋るんですけど、私も夫も母親を亡くしているんですけど、
私の場合は本当に朝起きたら突然亡くなってたっていうことなので、
その時の絶望たるやという感じですけど、
だからこうしてればよかったみたいなことってさほどないんですよね。
家族にそんなに選択権がなかったというかなんですよ。
でも旦那の場合はお母さんが病気でどうしますかっていう話を
医者に迫られてしてるらしいんですよね。
で、その時はお母さんのことだったので、
お母さんの旦那さん、我々から見ればお父さんに一番の選択権があるというか、
最良があったので、
お母さんとしてはもう延命治療とかやめてほしいっていうことだったらしいんですけど、
もうお父さんはそうしたいっていう、
もうどれだけ負担がかかっても近くにいてくれた方がいいっていうことで、
そういうふうに思ったらしいんですよね。
結果的にそういうことを迫られた場面はあったものの、
そこは一時的に復活して、
最終的には私の母と同じように選択権なく、
ある突然朝亡くなってたっていうことだったんですけど、
その人が亡くなるも生かすも、
ずっと選択に関与したっていう、
どちらを選んでもその選択に関与したっていうことを
思っていくのってすごくしんどいですよねって思うと、
選択肢があることが、
希望よりも私は絶望の方があるなっていうふうに感じちゃうんですよね。
こんなこと本当になんていうか、
私が語るべきじゃないという話はそれはそうなんですけど、
鏡のシミを見るたびにちょっとこのことを思ってしまうので、
別にそう思ったっていうだけで、
06:03
何の厚みもないんですけど、
そんなふうに思ってしまいます。
選択肢って幸福に欠かせないものみたいになってますけど、
本当に両面ありますよねって思うんですよ。
だからそう考えると、
収穫しておこうってなりますよね。
この緊迫した今どうしますかっていうときに決めた決断なんて絶対信頼できないんですよ。
絶対信頼できないから、
こういう何もない日常のときに自分はどうしたいかって考えるだけですよね。
それで言うと、私は保健所の裏にドナーのこととかはもう署名していますし、
そこは例えば私が過死状態とかになって、
夫がどんなきつこうがそこはそうだなって思っているし、
そうなので、
自分の役に立たない心臓だけ脈打っている体なのだったら、
まだ助かるはずの、元気になるはずの人のもとに行ってほしいなというふうに思うわけなんですよね。
ちょっと今日はしみから途方もない話をしてしまいました。
私みたいなあんまりちゃんと考えられない系の人間からしたら、
もう突然亡くなったとかっていう選択権がない方が、
そのときはとても苦しいかもしれないけど、
いつしかそういうことでしかなかったんだなみたいなふうに都合よく解釈しだすので、
もうそういうことの方が諦めがつくんじゃないかなっていうふうに思ってしまう次第です。
ということで、中身がないですね。
垂れ流します。それではまた。