よろしくお願いします。このピンク色のマイクが気になるんですけど、食べれるんですか?
先生それは多分食べれないですね。
それ食べれないですね。
先生が食べそうになっているところのスクショ後で撮っておきますね。
でですね、A面B面でもいっぱいお話ししていただいたんですけれども、ちょっとね、いわゆる楽屋トークという形で今回また聞ければと思うんですけれども、
簡単に私から先生の紹介させていただきますと、駒沢大学仏教学部、そうですよね、駒沢大学って仏教学部っていうのがあるんですよね、先生ね。
仏教学部の教授、先生であらせられて、かつですね、その駒沢大学の敷地の中にあります、禅文化歴史博物館ということで、
禅の世界、祖都宗でしたっけ?
祖都宗ですね。
そちらにまつわるものというのを展示している博物館の館長さんでもいらっしゃるということでですね、
伊藤ぽいどはですね、実は生配信でご一緒したときにですね、先生から早稲田のコーヒーをね、お土産でもらったことがあるんですよと、
もうそれでね、もうたいそう嬉しくてですね、私はいたるところでね、いいでしょ、村松先生にもらったんだっていう話を死ぬほどしまくった思い出がございます。
はい。
私も伊藤さんからコーヒーいただいてますよね。
もうね、それが嬉しすぎて、いつか何か村松先生に何か贈るときに絶対に入れようって言って入れさせていただきました。
今回は。
コーヒー掛け合いですね。
多起業じゃないんですから先生、そんななんかザバーザバーみたいなさ。
先生は本を衆映写真賞から出しているということでですね、ぜひ物像鑑賞入門という本があるので、それを読んでいただきたいんですけれども、
来年の2025年の1月に趣味時のあれですよね、写真集と言いますか、
6というかビニランと言いますか、そちらの最新刊、学本みたいな形、まとめ本みたいな感じも予定しているということで、ぜひ皆さんレッツチェック購入という感じなんですけれども、
ちょっとですね、実はクリエイターとしての先生にお話を今回聞きたくてですね、どういうことかというとめちゃくちゃ先生文章を書きまくる仕事じゃないですか、言ってしまえば。
美術を例えば書くっていうふうになると、それこそ美大であったりとかまた文化史、あとはいわゆる博物館学みたいなものとかでね、美術をどう書くのかっていうので、
ある種結構大学とかでも教える、例えば比較をしようとか、歴史をなぞろうとか、作者を考えようとか、一貫性があるのか、その構成は明確性はとか、あとは磨きをかけるときのアプローチはどうだったのかとか、
より書き方、より写実的なのか、理想化をしているのかとか、いろいろあると思うんですよ。
ただ仏教っていうふうになると西洋美術ほどそこまである種書き下す形で書くっていうのはあんまりない印象がありまして、正直なところやっぱり。
まあやっぱり尊いものというか手を合わせるものでございますからね。ただそういった中でめちゃくちゃ文章を書いてる先生にお伺いしたいのが、
どういう感覚でいわゆる一般の人に対してその仏像の見方とかお寺のこと、仏教美術のことを書いているのかってどういうことを考えながら意識しながら気持ちで書いているのかっていうのをちょっと聞いてみたいなと思いまして、
たとえば文章を書くときに一番大事にしていることって何ですか。
一番大事にしていることは、自分が言いたいことが伝わるようにってことですけれども、分かりやすくってことですけれどもね、難しく書くのって簡単じゃないですか。
まあ確かにいっぱい情報を書けばできますからね。
なるべくなるべく分かりやすくするっていうことですよね。なかなか自分が思っていることを伝えるって難しいですよね。
難しい。
それをどういう言葉で伝えればいいのかっていうのを常に考えますよね。
それこそ臨場感じゃないですけれども、自分がお寺で見た仏像その時の感動というか感想というか理解をそのまま伝えたいと思うんですけども、なかなかそれって難しいですけどもね。
自分の見た感覚をできれば伝えて、それを押し寄りするってわけじゃなくて、こんな感じ方もできるんですよってことを伝えたいって言うんでしょうかね。
なるほど。
やっぱりあれですね、例えば仏像の情報であったりとか事実ですよね、ファクト的なところっていうのを説明的に書く、それこそ箇条書きでもうそれこそ図鑑のように書くっていうのはできるんですけど、
先生が結構書かれてる文章っていうのは、かなり先生自身の感じ取った気持ちみたいなものをいかに皆さんにも共有していただけるかみたいなところの働きかけをすごく文章でやっているなっていう印象があって、これ相当難しい。
例えば美術鑑賞みたいなものとか、あとは気持ち、抽象的な気持ちとかって、前提の知識があった上で理解できること、でもそれを超えた感覚の話みたいなのもあるじゃないですか。
知識、情報ではなくて感性の話になると思うんですけども、そこってやっぱり違うものだよなとか、分けて書こうとかそういうのって意識されたりします?
そうですね。なるべく一般論を書かなきゃいけないんだと思うんですけども、客観的なことをですね。だけどどうしても主観的なことが入ってきますので、その主観と客観の攻め合いみたいな感じありますよね。
仏像を見て綺麗だと思う感覚があったとしても、他の人が見てそれ綺麗だと思うかどうかわからないですよね。だからなんて言うんでしょうかね、そこのなんで自分が綺麗だと思ったのかっていうことをちゃんと解き明かしていかないと理解してもらえませんからね。
で実はこの仏像怖く見えるけれども綺麗に可愛く見えるっていうところがあるんだよっていう部分を皆さんも感じ取ってくださいっていうようなことですかね。
ちなみにじゃあこれはみんなにも紹介しやすいなって仏像と、これはちょっとクロート向けというかある程度わかってる人だからこそ感じられるやつだとかってやっぱりあったりするんですか?
例えばですけれども、京都の神戸寺の薬師っていうのは怖い顔してるんですね。わけの清丸が道教っていうお坊さんの音量を覆そうとして作ったと言われてるんですけども、だから怖い顔してるんですよね。
だけど音量を覆すために作った仏像だから怖い顔をしている。だけどその怖さっていうのは仏教の場合ね慈悲の怖さっていうふうに考えるので、怒りたくて怒ってるわけじゃなくて、あなたはその悪いことをしてしまったことに気づいてないから私は怒ってるんだよっていうところ。
はいはいはい。 だから神戸寺の薬師の像を見ると怖い顔してるんですけども、道教に対峙してる時に怖い顔してるわけであって、道教がもしその前からいなくなったら実はその怖い顔してる薬師が実はふっと優しい顔になる可能性があるんですよね。
面白い。 とかいうことをちょっと妄想しながら見ると面白いかもしれない。
やっぱりシーンなんですね。場面なんですね。 シーンですよね。極端なことで言うとある仏像が説法してたりとか何かアクションを起こす時のある一瞬を作者は捉えてたぶん掘っていると思いますんで。
モットさんが絵を描いたりとか、なんかすることあると思うんですけどね。多分どうなんでしょうかね。その一瞬、何か語りかける時の一瞬を描いているとかっていうことは。
あります。やっぱ仏像とかお寺とかお寺の敷地とかで空間の中に人が入るっていうこと。そしてその空間によってその入った人がある種変容させられてしまうことっていうこと自体に私の作風としてものすごく興味があって。
例えばそれはですねインターネットのサイトとかあとは例えばデザインとかの話とかあとはお店の中の椅子の配置とかのデザインとかの話でよく言われるカタカナの言葉でアーキテクチャー構造物のアーキテクチャーっていう言葉があってマクドナルドの椅子が硬いとそして高いとお客の回転率が高くなるっていうのはあるんですよ。
そうすると売り上げが上がる。あとインターネットのボタン、サイトのホームページのボタンをカーソルを合わせた時にミヨンってアニメーションするようにするとなんかちょっと気持ちよくてクリック率が上がるっていうのがあるんですよ。
ミヨンっていうところに人が無意識に誘導させられてしまうんですよね。だから見せたいものを見せたりとか売りたいものを売ったりとかって案に人を誘導したり変容させたりあとは今のちょっと悪者っぽい言い方でしたけども迷わないように導いてあげるっていうようなことを実は平面的な空間という中で行っていると私は思っている。
そこでも例えばそれが作品物語とかだったとしてもやっぱりその瞬間の空間芸術としてうわっていうふうに感動しやすくしてあげるっていうガイドってどうしてもやっぱ必要になってくるんですよね。
そのやっぱり空間芸術の話になってくるとやっぱ時間とビジュアルと音そしてあと空気感あとは何よりもそこに人が行くまでの前振りっすよね言ってしまえば。がめちゃくちゃ重要になってくると私はどう考えてもそれは寺だろって思うんですよ。
明らかに寺すぎると。どう考えても寺空間で設計されたこのものというのは絶対に創作において隠れるという感覚があるんですよ。ずっとずっと絶対に参考にできると思っていて。
ただ調べ学習がすごい難しいっていうめちゃくちゃ難しいそのお寺の建築物建築の話とかになってくると技術の話になってしまう。木をこうやって組みますとか常に一回ぶち壊しますとかそういう宗教空間シーンの再現っていうところをめちゃくちゃ語り尽くしたというかその解体新書的に解剖して語ってくれるような本や授業にまだ
出会えてなくてですね私が。ずっとそれを求めてるっていうのがあるんですよ。なので先ほど寺田さんの方で質問させていただいた内容は実はそういうのが知りたい欲望がものすごくあって先生にめっちゃ質問責めにしてたっていうのがあったんですよ。このポッドキャストのリスナーもクリエイターが多いんですよ。実は聞いてる人が。クリエイターとかエンジニアさんが多いんですけれども
なんかそういった作り手の意図みたいなものとか設計表現みたいなものから先生のメインのジャンルって何かこういうポイントあるかもねとか例えばそしたらここ見に行っていくといいと思うとかってありますか。そうですね。なんかねさっきちょっとお話ししたその儀礼空間っていう。儀礼空間。はい。前週のお寺のお堂っていうのは天井が高いんですよね。高い高い高い。で柱が細いんですよね。
それは動き回る儀礼が多いからって言われてるんですね。あの前週は。あの周波によってお坊さんのその儀式っていうのはやっぱ違う。僕は詳しくはわからないんですけども違うみたいなんですね。ですからそういった意味でこの空間表現が違ってくるっていうのはその周波によって違うってこともあるので。なので逆に言えばお坊さんたちってあんま気にしないで多分空間を作ってるんですよね。逆に言えばそういうお坊さんが知りたいような論文って意外となくて普通にそういったことが行われてるんで。
ただ前週の場合天井高くて柱が細くて空間を多くするっていうね。多分そのお坊さんも元々そうなので改めて書かないというか書き留めていないというか他とも比較しないのでなんかそういうので何か発見したいとか見つけたいっていうのであれば自分で見つけた方がいいってわけじゃないですけれどもどうなんでしょうかね。
そうか普通に体育館作るような感覚で作ってるというかこっちの方が使いやすいみたいな。でもそうらしいんですね。動くんですよ確かに相当種のお坊さんなんか法人なんかだとグルグルグルグルその建物の動きながらお経を上げるんですね。そういう時にやっぱ空間が必要ですし何か空間表現っていうものを発見したいっていうことであったらいろんなお寺に行かれて自分気づかれるといいかもしれないですよね。
と思いますね。1000年前のもの、何百年前のものが残るっていうのは奇跡みたいなもんですよね。
しかも実を言うと前回ですね、古生物学者の千葉大の泉先生とお話をさせていただいて、泉先生の専門はいわゆる化石なんですよ。
面白そう。 うんちの化石、植生の後に排泄したものが化石になるって言って、生きていた後と書いて生根の化石っていうふうに書きますと、お土産にサメだったかなのうんちの化石をもらったんですよ実は。
2600万年前って書いてあったんですよ。ちょっと待ってくれと。あまりにも昔すぎると。で震えていたんですけれども、でもそれは自然の中で生き残ってきたあるものじゃないですか。
でも仏像とかって自然のものじゃなくて人間が作ってるじゃないですか。人間が作ったものってちょっと壊れやすいじゃないですか。形を一回変えてるからダメージを与えてるので。
それが今の時代まで残ってるってビビるなって思いつつ、ワンチャン今は残ってるけどもうあと500年ぐらいしたら朽ちちゃうんじゃないかっていう気持ちにもなるんですよ。
なんか先生が今の専門でやられてて、やばい壊れそうみたいなとか、これまずいんだけどマジでみたいな、そういうものってやっぱあるんですか今も。
例えば国宝や重要文化財に指定されて知られている仏像っていうのはちゃんと守られているので、今すぐ何か壊れるとかね100年後に壊れるってことは想像できないですけどもね。
指定文化財になっていないいい仏像ってたくさんあると思うんですけども、つまり今知らないものですよね。そういったものがちゃんと守られていかなきゃいけないなっていう気がしますよね。
だって最近もニュースとかで14、本当に歴史的に証拠になるような手紙みたいなものが段ボールで捨てられそうになったところをなんとか救助しました。危ね危ねみたいな。
古文字みたいな。そうそうそう見たんですけど、仏教ジャンルでも結構あるんですか。
あると思いますね。お寺さんに行って、お寺さんの住まいの方に行って、床の間かなんかに結構古そうな室町とか鎌倉に行くのかなっていうのがあったりするんですよ。
で、これどうしたんですかって聞くと、いやお団子さんがね、もういらなくなったからお寺に寄付するって言ってもらったって言うんですよ。
だからね、我々が知らないような本当に立派なお像って、もしかしたら一般のうちの方の中に眠ってる可能性があるんですよね。
うおー。
で、もしかしたらそれだって重要文化財とかね、将来国庫になるかもしれないものがあったりするんですけども、だからまあでもそこまできたらもうしょうがないっていうかね。
偶然と必然の話しましたけども、そのなくなるも必然だし、残っていくのも必然だしっていうふうに考えた方が理解しやすいっていうか。
うん、そうっすよね。
世代交代のタイミング結構来てると思っていて、実際言うと例えば家の問題、お預かしながら意図っぽいと私ですね、かなりボロい小民家にアトリーを構えておりましてですね。
もうこの寒さに震えてめちゃくちゃキャンプみたいな格好してパソコンの前でいろいろな制作してるんですけれども、
おうち小民家みたいなものが、もう相続税が税金がやばくて、もうとにかくみんな手放したいと思っていると。
で、もう早くペシャって潰して、もうさらちにしてやりたい。
で、今まさに日本が結構そういう感じになっていて、
ジャスト意図っぽいと世代、もしくはちょい上の世代の方が、おじいちゃんおばあちゃんが亡くなるタイミングとかで、
この家の蔵どうしよう問題っていうのが、友達とかもめちゃめちゃ聞くんですよ。
本当に、めちゃめちゃ周りで同じ問題が発生していて、実家引き払うか田舎問題、蔵どうすんの問題、この土地放置してたけどどうすんの問題であって、
友達にお寺の息子さんがいらっしゃるんですけれども、お寺を継ぐのか継がないのかとか、
このお寺という空間をどうするのか、例えば地域の中の憩いの場だったりとか、それこそお墓であったりとか、いろいろ役割ってあるじゃないですか、お寺さんっていうのが。
それが世代交代のタイミングで、一気にインターネットが発展してですね、価値観がめちゃくちゃ変わってきてるっていうのもあるので、
どうしたもんかっていう問題が、たぶん10年ぐらいでめちゃくちゃ発生するだろうなっていう感覚しかなくって、やっぱり同世代の問題なので、こういうのをどうにか救おうみたいなとか、なんかやばいから回収しようみたいな、そういうアプローチって先生のジャンルであるんですか。
そうですね、やっぱり世代交代で、例えば一般の人が持っていた重要文化財給の美術品物造だけじゃなくても、そういったものが世代交代になると、そういった言葉を変えれば古美術っていうんでしょうかね。
古美術、はい。
古美術っていうのは、人によってやっぱ価値観違いますからね。じいちゃんおばあちゃんお父さんお母さん持ってた時にはものすごく大切にしたけども、いや自分別にこれ見て大切と思わないよみたいな、あり得ますんでね。
そうするとそれがどういうふうに流れていっちゃうのかとか、極端なこと言うと、初代ゴミになりかねないわけですよね。そういったものって世の中たくさんあると思うんですけれども。
だからそういった意味ではね、先ほどね、トボットさんがおっしゃった何百年も一千年も残るものっていうのはすごいと思いますよね。
その残る理由の一つはやっぱ信仰だと思うんですよね。
信仰か。
だから信仰があるものは残るんでしょうかね。
信仰があるも残る。今の時代すごいデジタル化が進んでいるので、データとしての形として残すっていうようなアプローチ。
例えば仏像スキャンして3Dモデルにして地域の博物館のバーチャル博物館みたいなの作りますみたいな、そういったプロジェクトにお声掛けいただくことって伊藤ポイラーめちゃくちゃ多いんですよ、実は。
とにかく3Dにするとかアーカイブをデータに残すとかがめちゃくちゃ多い。
ただ一方で、なぜ残すかっていうと、実物を持っておいてもちょっと展示しても見に来ないしとか、でも何か取っておかなきゃいけないしとか、
いろんな課題から多分そういうふうな補助金が降りてっていう話になってくると思うんですけど、
物というものに対しての価値観がものすごいスピードで、特に一回コロナを挟んでしまったせいでですね、やっぱりリモートでよくねみたいなのをみんな分かってしまって、
実際に足を運ぶこととか、実際に目で見る、触れることはかなわなくとも、何か同じ空気を吸うじゃないですけどっていうのが、
何かこうインストールするのが難しいような手触りを仕事として感じていて、
なので先生が書かれた本とかの実際に行ってみて、実際に味わってみることで分かるものがあるっていうのは、非常にその共感を感じるというか、
なんというかこういうことなんだよバン!みたいな気持ちに結構なるんですね。
ちなみにどうですか先生がこう番組とかいろんな執筆活動とかを通してですね、
昔と今の子って伝わり方の感触変わったなとかそういうのってあります?何か価値観変わってるなこれとか。
やっぱりインターネットがやっぱり発達して、例えば仏像の話して、まあ人によるんだと思いますけども、今もうネットで見れちゃいますよね。
なんとか見れちゃいますよね。それで満足しちゃう子も多分多いと思うんですよ。
でも実際にお寺で行って仏像を見る方がもう断然その感覚が違いますしね感動も違いますしね、見えるものが違うと思うんで、だからそこですかね大きく違うんですね。やっぱりネット社会っていうのは大きいと思いますね。
インスタで撮れるのってあの正方形のサムネイルでこう並ぶんですけれどもやっぱり、そうなると写真の中に写す主題、いわゆる仏像1個アップで写すっていう形にどうしてもなっちゃうんだよ。
仏像を中心に撮ります。で、周りの空間は多分見切れている。やっぱり人間って顔のものにすごい注目が行くのでですね、実はホームページとかの世界でも顔を大きく載せるとそこにめちゃくちゃ人間の視線が集まるんですよ。
なのでクリックしてほしいところの隣に顔を置いたりする。それと同じようなことで仏像を撮る写真というのがどんどんアップ化しているっていうのをいとぽいは感じていてですね、すっごいアップになってるっていう。でも仏像、例えば如来像の柔らかな表情がやっぱいいよねとかアルカイックスマイルだよねとかそういういいところもあるんですけれども
空間の中の仏像の写真が少なくなっているなっていうのをすごく感じるんですよね。で、もちろんこれは観光から見たときの主役をわかりやすく高解像度で写して確認しに行くっていうようなね、あと見やすいようにっていうのももちろんあると思うんですけど、これはコロナ禍以降のインターネットの表現として明確に変わったなというより引きの写真ではなくアップの写真がめっちゃ多い。
仏像系、お寺系だとすごく感じているところですね。特にお寺の人がアップでとにかく撮るんですよ。写真が上手いんですよ。もちろんもみじが綺麗なお寺とかは広角のカメラでやっぱり敷地内を写したりするんですけれども、とにかくアップで斜めでかっこよく撮るみたいなのを結構お寺の方もやられるので
トリビングされた時の仏像の見え方っていうのは、空間の中のシーンとはまたちょっと違う解釈が入っている。ある種それも一つの作品になっているっていうことがあるので、なんか面白いなっていうのを実は感じていて。ちなみに先生趣味時とかでご案内する時とかっていうのは、やっぱりいろんなアングルで撮ってもらおうとかって意識されたりしてました?
側面を撮ってもらいたいなっていうふうに。 面白い。側面。 側面。やっぱり正面だけじゃなくて側面感っていうのが時代性が出たりするので。ただ趣味時の場合はあんまりマニアックなことを言うと、それなかなか一般の人たちに通じないっていうんで、初級講座的なお話しかしてませんけれども、テキストを作ってもらうときなんかは全く側面を撮ってもらうとか。
テキストは番組とは同じような構成になってますけれども、全く番組の動画というか、あるとは違いますからね。その時にちょっと専門的な撮り方をしてもらうとか。 うわー面白いな。でもそういう伝え方も試行錯誤するというのがもう本当に先生の本領発揮というか。