1. 【体験者の証言】戦争の記憶(Memories of War)
  2. 【記憶23】秋元武夫さん/Memo..
2018-12-20

【記憶23】秋元武夫さん/Memories23_Takeo Akimoto

【記憶23】秋元武夫さん/Memories23_Takeo Akimoto


00:00
秋元さん、今年で終戦73年ですけど、どうですか?あっという間でした?73年って。終わってから。
長かったね。
長い?
うん。というのは、なぜ長いかというと、帰ってきてから、喉のガンとハイモリンパーセン。
そんなことをやって、3年、4年か寝てたんだよ。帰ってきてから。
福院してから。
それで、27年の9月にやっと、教員の試験を受けて、なんとか生活するようになったんだよね。
だから、その病気の間も長いし、先生になった時もね、普通の先生と違うから。
どんな違いかというと、19歳までは軍人直入、教育直後、先人君などで鍛えられた男でしょ、こっちがね。
20歳から3年半、これはソ連で、共産主義の教育を受けて、こっちは共産主義の頭になってるでしょ。
共産主義と帝国主義の頭が同調してるでしょ。
だけども、戦後日本に来たら、共産主義でもねえ、軍国主義でもねえでしょ、資本主義でしょ。
どういうふうに生活したかわからなかった。
教員試験受けたのはいいけども、受けて失敗したと思ったんですよ。
俺はこんな世の中で教員なんかできないと。とんでもねえ教員になっちゃうからと。
採用になったけれども、やめようかと思った。
だけど長谷川先生なんかにも、やめんじゃねえ、やれって言うんで、やってきたわけなんですけども。
だって教員採用試験の時もさ、俺ぐらい変な答えをした人はいないだと。
高等質問科が3人だいな、真ん中の人が、憲法90を知ってるか知らないって言ってたんだよ。
憲法90がこういうことで、とんでもないと。
昔の軍隊で強い軍隊を作ってさ、それにアメリカに対応すべきだと。
そうしたら3人顔を見合わせちゃって、すぐにもう面接これで終わります。
その間、授業をして、そこまで2分経ったか経たないかで面接終わりだよね。
それでもう終わらないと思って、次の職場を探すにやられていたんだよね。
何日か経ったら封筒が届いたんだ。
03:00
どうせ教育委員会からだから落材を採用だと思って見なかったんですよ。
母親が開けてみろって言って、開けてみたら合格通知なんですよね。
ちょっと待ってよ、合格するわけがないんだけどもって言って、
宛名を見たらY銀部の竹男さんなんだよね。あれやっぱり俺なんだと。
その頃で、また辞令をもらいに行くか行かないか、二の足三の足踏んで、
でもおふくろが先生大好きなんだよね。
もう命もそろそろ亡くなりそうな癌だったからね。
じゃあいいや、一気に成ったことにしようということで、
そうすれば親子お子だろうということになって、辞令をもらってきた。
バレーボールの小物をやれって言うんですよ。
だって昔はね、バレーボールはサッカーだ、野球だ、そういうのが鉄国の競技だった。
だから俺らはやったことないですよ。
バレーボールの練習はみんなやめちゃうんですね。
あの頃は9年生だから、やっとさ9年だけ残ってもらって。
で、練習をしたんだけど、靴は何もできないから、
指導所をどっかから持ってきてこないといけないね。
だってお金ないもんね、学校だって出してくんないから。
安く仕上がるのは高校生だと思って。
ちょうどね、つまり工業の高校がインターハイで優勝してるんだよね。
ちょうど知り合いがあったもんね。
土曜日、日曜日でもいいから、1時間でも30分でもいいから教えてくれと。
頼んだの。
そしたら来てくれて、1回、2回来てくれたんだけども、
そのうちのバレーボールの子どもらが3年、3年ほど、すごく優秀なのがいるんだよね。
運動しなきゃいけないのが。
これがすぐに覚えちゃって、どんどん上手になっていくわけ。
今度は毎日ですよ、練習に。
学校終わってから5時から6時半くらいまで毎日来てくれるんですよ。
だから上手になったことはもちろんだけど、
毎日さ、パンと牛乳、腹ふさぎに食べてもらって帰ったら優勝しちゃったんだよ。
だけどそのお金がね、
俺が7,000円入れられなきゃいけないのに4,000円くらい使っちゃうんだよね。
もちろん生活できればいいんだよね。
でもかないがやっぱり教員やってたから。
それで生活を真似合わせて。
そんなことがきっかけで最初は、
06:03
この野郎、ソ連帰りの赤だって共産主義者ということで不平和を持ってたんだよね。
だからなんともつま弾けされた感じの生活でしょう。
だけどバレー優勝したことで、
一人前の先生のような扱いをしてもらえるようになった。
そんな苦しさってなったから。
だから帰ってきてからの期間が長い。
長い感じでしたね。
帰ってきてからありましたけど、
やっぱり今日その前のソ連の話も出てますけど、
シベリア浴流って僕ら教科書というか、
そういうものとしては学んでるんですけど、
まさに秋元さん体験されてるんで、
本当にその時のお話を聞きたいんですけども、
シベリアの浴流ってもうあれですよね、
いわゆる終戦の後なんですよね。
そっからもう全然、
それこそ僕も習ってるはずだけど頭になくて、
今回いろいろ式を読ませていただいて、
すごく実感があったんですけど、
そもそも終戦のちょうど1年前に入隊されてるんですよね。
その入隊前っていうのは何をされてたんですか。
入隊前は学生だよ。
普通の高校生?
大学。
大学生か。
で、高等学校、今の高等学校じゃない、
昔の高等学校だよな。
だから昔の高等学校、専門学校、師範学校、
この学校に入っていた人が、
特別操縦見習い士官という陸軍の特攻隊員を募集してるわけだよね。
海軍とすれば海軍の予備学生という形で、
特攻隊員を呼ぶ。
だからこの連中は合格すると、
昇降の一歩手前で階級をもらえるんだよ。
死ぬとすぐ昇降になるわけ。
それが分かってるから。
分かってる。死ぬの分かってるから。
早く階級を上げちゃってやって、
死んだら昇降にしてやると。
だけど爆弾かけて出ようと言うなって。
だから学校生活だから、
結局は学校の勉強もしながら、
軍隊を練習というか、訓練というか、
学校教練というか、そういう勉強をしたわけだよね。
それとも昭和19年に入隊で、
しかも入隊したのが特攻隊として入っているような形なんですか?
特攻隊として入っている。
昭和19年だと国が分かっているわけですよね。
危ない時期でしょ。
となるとそれは、
基本的な話なんですけど、
入隊せざるを得ないような状況だったんですか?
その選択肢はあったんですか?入らないというのも。
09:00
入らないという選択肢もあったよ。
しかしさ、そういう風な、
入らないよ、俺は嫌だよという雰囲気というのが、
言えない状態でしょ。
だから、志願とは言うけれども、
一応は強制的なものという形だよね。
その反面、若いから、
日本のために力を尽くそうという考え方をとにかく、
体の半分以上はね、やめたいという考えは
国のために尽くしたいという3分の2ぐらいね、
体の中になるわけよね。
なぜそうなっているかというと、
今は時代が違うからだけれども、
足利が鷹打ちというのは条文でしょ。
楠木正輔が考えるでしょ。
そういう話を聞いているでしょ。
だから、御前後天皇はかわいそうだ、
俺は天皇がいいかも、
楠木正輔の考え方でしょ。
今は足利が鷹打ちは全然違う形になっているけどね。
だから、小さい時から頭が天皇陛下、天皇陛下で育てられていたからね。
ご家族、ご兄弟はどういう構成だったのか。
やはり家族もね、
兵隊にやりたいけれども、やらせたくない。
そういう考えですよ。
もうやりたくないって言って、
一手ん張りで考え方を表明するという時代じゃないもんね。
できなかったからね。
それは家族の中でもみんな本当は行かせたくないし、
行きたくないってあるけど、
家族の中の会話でもそれは出せない。
出せない。
あったかもしれないけど出せない。
ご兄弟は、妹さん、お姉さま、妹さんがいらっしゃる。
姉がいるし、弟もいたし、妹もいたし。
弟さんは出世はされなかったんですね。
いや、これは海軍、工種飛行力は練習生ということで、
土浦に入隊した。
そうだったんですね。
俺より早く入隊しましたよ。
そうなんですね。
俺がその頃大学の生徒だから。
前に弟は工種飛行力は練習生で、
終戦時は静岡にいたのかな。
終戦になってから、中学校の3年の時に行ったから。
帰ってきてからまた高等学校に複学して、
今の宇都宮高等学校がそれを卒業して就職した。
12:04
そうすると入隊時がちょうど19歳とか20歳と。
そうだ、20歳の頃だろうね。
入隊した時はもう覚悟してるわけです。
覚悟してる。
すごい素朴な疑問なんですけど、
入隊してから毎日って夜寝れるんですか。
毎日も怖いとか。
そういう怖いとか毎日そうじゃないよね。
とにかく飛行機に乗るためには覚悟訓練、
早く1年前の覚悟師になりたいという気持ちの方が強かったよね、俺は。
不思議ともちろん覚悟はして死の恐怖はあったにしても、
毎日怯えて寝れないというよりも。
そんなことない。寝られないということはないよね。
疲れてることもあるだろうけれどもさ、
思想的なことで寝られないとかそういうことはないね。
実際入隊していわゆるシベリア行くまでというのはどういう流れだったんですかね。
1年以上あると思いますけど。
昭和24年の7月にマンシュに行ったんですよね。
マンシュもジャムスというマンシュの北の方なんですが、
第10飛行場大隊という大きな飛行場。
2ヶ月ぐらい経って6月か、
今度はハルピンの第57航空竹司令部というところに転属させられたんです。
その航空竹司令部にいたときに、
秋元、お前内地でな、飛行機乗り足りないから帰れというふうなことが来たんだけど、
お前どうする?
だけどマンシュというのは広くて豊かでさ、
日本はその頃はもうひどい目に遭ってるから、
いや、帰らないでいいと。
極端に言えば将来マンシュに家族を連れてきて、
生活しようとまで考えてた状態だから。
俺帰らないから他の人に。
それがきっかけで残っちゃったために、それに連れてかれちゃった。
それが大きな人生の別れ目だったんですね。
そう、人生の別れ目。
これ全部書いてある。そこにも書いてあるかもしれない。
もちろん、配属してます。
そんなふうだね。
それで8月の9日に、将校がジタバでやってるんだよな。
何があったなと思ったら非常復讐があって、起こされて。
それが攻めてきたという情報が入った。
お前武装しろと。
私らも戦闘準備に入った。
8月15日までそれを続けたけど、天皇陛下の玉丸を襲うか。
15:07
これがあってね。
それで一応、俺らも天皇陛下のお話のように、
日本に帰って日本の債権に当たろうというような考え方が強かった。
ところがね、やはり俺らの部隊にも考え方が反対の方がいるわけだよな。
名前はどこかに書いてあるけど、
なんとか少佐。
ごもと。いつもと。
いつもと大尉の前に書いてあるなんとか少佐。
吉田少佐。恩賢派。
吉田少佐が恩賢派。いつもと大尉っていうのはこれが共振派。
吉田少佐はとにかく静かに日本へ帰って。
いつもと大尉は俺が一人になるまでやってさっすがいて。
そうすると俺らの仲間がどっちにするかということになって、
結局いつもと大尉の方に入っちゃったわけよ。
吉田少佐と離れて、
私らは弾薬、武器弾薬、食料、栄養、馬車に乗っけて、
オクチにソ連のL4に向かったわけよ。
ところがヘイラホウという。
ホウというのは村っていうんだからね。
ヘイラホウという一つの部落ね。
ここに来たときにちょっと武器弾薬足りないから、
秋元、お前ら10人ぐらいで、
法展のところの文館屯という小さい衣装があって、
ここから食料、弾薬をまた持っていこうと。
私らはそこへ行って調達して、またヘイラホウに戻ったところが、
いつもと大尉の部隊60人ぐらいだったんだ。
これがもう出発しちゃって、北の方に行っちゃったんだよね。
だから私らはヘイラホウで、
10人で武器弾薬、栄養、皮膚を守って追いつこうと思ったところが、
今度は満塚が、あの連中に念頭使い物持っているやつを襲ってくるわけよ、今度は満塚が。
俺らって武器持っている人って、
せいぜい三八式歩兵術というのが重いから、
それより拳術、軍闘、このぐらいでしょ。
だから戦うったって戦いようがないんだよね。
満塚は何でも持ってくる、棒でも何でも、鋼でも何でも持ってくるから。
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中には西流と言っているかな、でっかい刀。
あんなもの持ってくるし、これはとても何十年も立ち討ちできないと。
ということでしょうがない。みんなで降参すっぺりと白旗掲げてさ。
収容所が満州の鉄道の会社、満鉄の寮。
ここに日本人が収容されている。
じゃあ私らもそこに入ろうということで入ったわけです。
それが捕虜の始まりね。
入ったところが、どこから入っちゃうんだ、女の子が丸棒を縫って顔を黒くして軍服着ているんですね。
どこから同時に入ってきた女性か知らないけれども。
それへん兵が来るたびに、俺らは女の子を隠して、見つからないように面倒見ちゃった。
食べ物も分けてやってね、食べさせてやって。
だけど今度はそれから今度は、
満州の北のほうで国家というところ、そこにも地図があるけれども、
そこに連れて行かれるわけなんですよね。
車輪に乗せられて、一人一人検査されていくでしょ。
だからその女の子がどうされたかは分からない。
その子は満州の。
鉄道学園で俺らが降参して入ってきた収容所の中で、
その女の子は俺らがいた場合にはかばってやったけども、
いなくなった後はどうなったか分からない、全然分からない。
そろそろ分からない。
で、俺らは傘に乗せられた。
傘って言っても、今の傘と違く、今の傘小さいから鉄道のね、前の傘大きかったからね。
だから道から入って、下10人、上10人、下10人、上10人、一つの傘40人入ってから、
いやもう隣でぶつかりっこして逃げるぐらいだから。
アンペラ1枚で、俺らの前にも何十人何百人という兵隊が運ばれたんで、
もうそう汚いんですよね。
それ何月ですか?
それがね、もう9月頃だな。
8月の15日の一周戦になって満鉄に入って、鉄道学園に入って、
それから何ヶ月経ってから9月頃。
この9月ってどうでしょう、暑い?
もうそろそろ寒くなります。
やっぱそうですか。
だけどさ、その傘ってさ、まともに時速何キロで走るんじゃないから、
早かったり遅かったり、止まったのが何十時間も、
21:04
あれは1日も2日も止まってて、
止まらないと2日も2日も止まらないと走ってくからね。
だから10月の末後でしょう、こっから着いたのが。
そんなですか、1ヶ月ぐらい?
うん、で蚊にかけられてるから、トイレにはいけないんだよ。
で、途中で開けてくれるけれども、警戒兵が来たねえんだよ。
万年筒だ、鉛筒だ、何でもいいから持ってるもの取り上げちゃう。
やんないとトイレにもいけない。
そういうふうな生活が1ヶ月近くかかったね、国家に行くまでにね。
それはどこに行くかってのは知らされてるんですか?
わからない。
日本に帰すよということで。
ダモイ。
ダモイということで乗せられた。
でももうそう言われててもそうじゃないっていうのは何かわかってたんですか?
だって南に行くのが北行くんだもん。
それはわかるんですね、北行ってる人が明らかに。
北行くのは太陽でわかるわ。
太陽の光線で、光で。
そんで、これは北危ねえぞ、これは日本に帰れねえぞって、いや帰るんだ。
北行ったって帰れねえわけねえだろ、ウラズボストックの方に行くこともあるわ。
ウラズボストックから日本に帰れる可能性もあるんだと。
そういう説も出てくるわけよね。
そういう風にも考えたいですね。
考えたい。
いや、ダメ、帰れない。
北の方に連れて行かれるぞという意見が2つ出てくるわけよね。
うんだけども、国家に行って何日も過ごしたけれども寒い、寒いことはもう本当に寒い。
燃すものってない。
なぜないかというと、前に来た連中がみんな燃えるものを燃しちゃったから。
私らは後から行ったから燃えるものがない。
寒いところ、仲間と背中を合わせて寝たわけだけども、その時に歌ったのが国境の街なんだよね、だんだん。
移送されてる時って1ヶ月間ってありましたけど、ギューギュー詰めで40人というか入ってる中で、
時間の間隔とかあるんですか?やっぱり光が当たってるから朝だろうぐらいしか分からない。
時計、例えば誰か持ってるとか。
時計なんか無くない。
無いですよね。
取られちゃう。
ソ連のバカ野郎が腕に時計を3つ、4つやってるんだよ。
時計が止まると捨てちゃうんだよ。
流浄機も開くってのはできないんだよ。
あの警戒兵は、話では囚人が警戒兵になったと。
とんでもない奴らばかりなんだよという風なことも言われたから。
食事とかはどんな感じだった?
食事はたまに、それは止まって持ってきてくれるけれども、そんなにいっぱいくれないよね。
24:06
分ける歌って大変で分けっこが。
何がどんなものが出るんですか?
俺は満州の時の食べ物っていうのはあんまり分からないんだけど、
やっぱり満州の食べ物じゃなくて、ソ連の黒パンだったよね。
だって日本で言えば、なんだろうね、300グラムっていうのはどのぐらいかよく分からないけども、
食パンだって8枚切り、6枚切りがあるだろう。
あれだってこうやって縮まっちゃうでしょ、一人切りになっちゃうでしょ。
あのぐらいのやつが1日の分だもんね。
その1ヶ月間って、当時は本当にそれが1ヶ月かどうかの期間はどうですか?
もっと長い感じしましたか?
1ヶ月かからなかったよ、国家まで行くのは。
ただしさ、長い感じだった、毎日が。
食べ物がない、白身がたがられるさ、トイレにはいけないさ、毎日その苦しみだからさ。
何を考えてました?
何も考えない。何も考えない。
早く帰りたいぐらいがやっと頭に浮かぶだけで、
今日生きていられるかどうか、今日どこ行くんだろう、それが大きかったよね。
生きた心地ないですよね。
生きてる気持ちないですよ。
明日どうなんだろう、どこ行くんだろう、どこまで連れて行かれるんだろう、それがいっぱいだよね。
あと考えることないもん。
そして1ヶ月経って着いた先が?
国家だろう?約1ヶ月後、8月、10月。
それで今度は国家からさ、さっき話したように、南衛生から北へ行くのか。
だけども、とうとう国竜港を渡っちゃって、
ブラゴイシンスクというところに連れて行かれちゃったんだよね。
とうとう来ちゃったなということだよね。
そしてそこに着いて、いろいろ労働させられる?
そこでまた労働される。
まだですか?着いて?
そこから今度はまた傘に乗せられるんだ。
で、そこからまた?
そこからまた、今度は鉄道に乗せられる。
何鉄道だかわからない。
でもね、その頃は、俺らが行った時には零れが多いんですよ。
だから、どっちへ行っているのかわからない。
時たま太陽が出ると、これ西へ行っているんだなということだろう。
西へ行っているということは、滑り屋鉄道かもしれないっていう想像だろう。
そのうちだんだん考えていくと、やっぱりやっぱり西。
何日経っても西でしょ。
これは滑り屋鉄道間違いないなということ。
27:02
そうしているうちに今度はバイカルコに来ちゃった。
バイカルコっていうのはわからなかったけど、
貨車だから窓は普通の車と違うくらい。
上の方にちょっと2つぐらい右左にあるぐらいで、
誰かがちょっとそこから見てて、
お、海が見えるぞって。
海見える、海なんか恐ろしい滑り屋鉄道だと思っているんだから、
おめえ、そりゃあ海ねえぞ。
日本海だって太平洋だって見えないはずだ。
ひょっとすると右側だからバイカルコかもしれないぞって。
そしたらバイカルコだったんですよね。
バイカルコだって南の方はちょっとだけだから鉄道通っているのね。
第一次世界大戦の時には、
ソ連がそこに鉄道を敷いて、兵隊を運んで、
氷が割れて何千年という兵隊が進んだって言うんだよね。
その話を思い出している。
あそこは2日か何日かかったかわからない。
止まったりだよ。
とうとうバイカルコまで来ちゃったかっていうことだよ。
今後ろにちょうどありますよね。
帰れぬと覚悟して見るバイカルコ。
これなんだよ。これそれなんだよ。
帰れぬと覚悟して見るバイカルコね。
ふるさとをこう夏服のまま。
8月15日に戦争に入ったんだから。
冬服なんかないよ。夏服で戦争でしょ。
だからこの歌ができたんだよ。
そしてそこはバイカルコで、さらにそのまままだ。
まだ行くんだよ。
ところが途中で、太陽の光、光線がさ、
ひょっとしたら南から射してんじゃねえか。
これおかしいぞ。どこへ行くんだろう。
みんなしばらく不思議に思った。
ところが、まさしく南に行って。
そうか。
で、着いたのがタシケントという都市だった。
今のウズベキスタンですね。
その地図はね、ちょっと井戸が、
ちょっと錯覚を起こす。
タシケントっていうのは、青森県とほぼ井戸が同じぐらいだから。
あ、そうなんですね。
これ見るとずいぶん南でしょ。
思ってるより、これよりは北な感じですね、実際は。
そうですよ。青森県とほぼ同じぐらいだから。
だから気候的には、羽根本と同じような気候だけど、
砂漠地帯でしょ。
そうですね。
水の中。
そんで卸された時、一番先の仕事が、
サトウダイコンのカサ卸しなんですよね。
サトウダイコンでしょ、こっちは腹減ってるでしょ。
かじって甘くて甘くて。
ところがあれ、いごいんですよね。
30:01
いや、喉がチリチリするわ、どうしようもない。
砂漠地帯だから水を持って、水はない。
ひでえ目になりますよ。
それが一番先の仕事。
それは、そもそものところですけど、タシケントつきました。
で、こういう労働しろみたいな、そういう説明があるんですか。
よくわかんないけどやらされるみたいな。
うん。とにかくそれから、
収容所に入るでしょ。
そうすると、グループ編成またやらされるわけよね。
産業隊、産業隊だね、グループ何十人も。
じゃあ何するんだってことはレンガ作りだと。
産工隊だよと。
じゃあおめらのグループはこの人数と。
それでレンガ作りに行くわけだけども、
タシケントっていうところは赤土を掘っても石がないんだよね。
レンガ作るのは持ってこいの土なんだよね。
それをターチか一輪車というんだけど、一輪車で運んで、ミキサーで埋めて、
結局コンベアで流して、それを棚に乗っけて乾燥させる。
その仕事。
産工隊だからね。
産工隊の昼間はできないけど、夜は泥棒に行くんですよ。
泥棒とは悪い言葉だけどさ。
かぼちゃとかメロンとか。
夜20人でやる仕事を18人でこなして、2人は泥棒に出てくる。
メロンダなんか取ってくる。
相棒置いて分けるくらい食べるんですよね。
だけどそれはあるときにはいいけど、ないときにはコーリャンを取ってくるんですよ。
コーリャンなんか取ってきて食べたら、食べますよ、腹減ってから。
明日から腹の中がおかしくてどうしようもなくなっちゃう。
そのときに薬なんかくれないんだから、薬なんかないんだからだいたい。
俺は人が悪いっていうことを言われればその通りだけど、
私はね、ライオンハミンガヒコっていう、このぐらいの大きな袋でね、ハミンガヒコあったんですよ。
今のライオンですか?
ライオン、ハミンガヒコ、今あんだかんだか知らないけど、ハミンガヒコなんだ。
俺3袋あった。よくこれ取られなかったと思うんですよね。
このハミンガヒコをね、腹痛いときに舐めると腹痛いときに治っちゃうんですよ。
風邪ひくと、これ飲むと治っちゃうんですよ。
頭痛いときにここつけて治っちゃうんですよ。万能薬なんですよ。
だからこれはね、いつ買えるかわからないけども、専用という仲間がいるけれども、
33:01
誰にもずるいけれどもやれなかった、やんなかった。
余裕ないですよね。
自分だけで使った。
だけどそれがなくなった後は、何したかというと、
スイーツ場に行って鴨戸から、木のもう一か所、スミだね。
スミを取ってきて、それをかじって。
スミを?
スミを。
結局腹の中の、いきたい要素を吸収させるんでしょう。
そんなことで過ごした。
だけどその薬も3年半いるうちに、1年ちょっとでなくなっちゃったよね。
全然使っていない。
実際その時期、3年半とおっしゃいましたけど、胃掃除からもそうですけど、
普通に栄養失調とか、なんか気が狂っておかしくなって死んじゃう人とかいなかった?
いますよ。私のところには少なかったけどね。
秋元さんご自身は、ライフ歯磨きじゃないですけど、大きく体を壊すことは3年半ってなかったんですか?
俺は不思議になかったんですよ、俺はね。
それなんかすごい丈夫だったんですか?ってわけではない?
いや、俺は丈夫ってわけじゃなかったんだ。あんな虚者な人間というより人間だから。
さっき写真も拝見しましたけど。
そこに前に書いてあるかな。
俺はね、小学校から体弱くてね。
今の人は腺病室という言葉を使うかな。
使わない?聞いたことない。腺病室。
あのね、虚弱体質。これ僕は腺病室ですよ。
もっと前の話は、肺病ってあがるって。
結局ね、あのやろ肺病ってあがるって。
いうふうなことを俺言われたほど弱かったんです。
ところが、中学校になってからだんだん体が治ってきてね。
中学校の3年生、4年生くらいになってから体がしっかりして、
ヨカレンも受けられるようになってきたと。
ヨカレンは外れたけれども、
じゃあということで大学の受験もして受かって、
京都だから、テントラ飛行場っていう飛行場があるんですよ。
これ学生連盟の飛行場。私も受けたんですよ。
4年生って起こったのは私だけなんですよ。
そういうふうな人間。
それでまた今度はしょうがねえなと思いながら、
さっき言った、特別勉大大ですか、工事の飛行場。
これ海門の呼び出しを受けたんですよ。
ところが早く試験が合格するとき来たのが、
陸軍の特別勉大。
で、こっち行っちゃった。
その頃体はね、それだけの丈夫になってた。
36:04
さっきの3年半って言いましたけど、
毎日何を考えているんですか。
何か寄り所がないと人間って3年半とか。
寄り所ないですよ。
だって寄り所ないけども、ただ寄り所ってのは帰りたい。
帰るためにはどうするか。
なんとか持ちこたえられるようにならない。
それだけですよ。
あと何もないですよ。
寝られないときはどうするかというと、
昔、千夕っていう歌があったんですよ。
わからない、知らない。
どんな感じですかね。
ここは多国を何百里
離れて遠き満州
こういう歌。
十四番まであるんですよ。
歌いながらね、寝るわけですよ。
分からなくなると、
明日作業のときに、
お前、あの何番はどういう歌だっけと教える。
そうすると、俺だけじゃないんだ、歌っていたのはね、
みんなそれ歌っているんだ、夜ね。
声出さないけども。
こんなの声出したら歌ったら、
音立てちゃう。
それで、十四番までみんな覚えて、
今でも歌いっているのは十四番まで歌います。
そんな生活を。
この式か何かに書いてあったんですけど、
その多志堅とか、
そこにたくさんの人骨みたいなのがいっぱい埋まっていたとか、
人の骨とかが埋まっていたって書いてあったんですけど。
それはね、
私、骨っていうと、
別な話になりますが、
その骨っていうことになると、
赤土を葉っぱ掛けて崩すでしょう。
土を運ぶでしょう。
そうするとね、
ピカッと光るのなんですよ。
あれ、何だ、あれ。
やってみると、
キンバなんですよね。
そうすると確かに、
キンバが出てくると同時に、
外骨が出てきたり、
腕の骨、足の骨が出てくるんですよね。
そこが一箇所なんです。
こっちは出ない。
ここだけ出るんですよ。
作業する人はそれを張ってきて、
今度は骨を組んで、
外骨をやって、
ドクロツェみたいな、
旗の、
あんなやつを組んで、
何個も出てきたんだって。
その中で、キンバなんか出てくるって言うと、
こそっとそれを取ってきてね、
夜、監視に来る、
ウズベック族がいるんだよね。
明日パンを持っていこうと。
今次は、
参考体は何日に何時だから、
何時に持っていこうと。
キンバを持って、
パンを2キロパンと言うんですよね。
ただしこれをさ、
39:00
一人で食うわけにはいかない。
みんなでそこで食べるわけにもいかない。
持って帰らないのを、
3つ買っちゃうから。
これを3つか4つに切って、
袋に入れてね、
ガイドを着ていくから、冬は。
股の下にぶら下げて、
足の間ぶら下げて、
衣紋を履いて、
中に入って分けっこして、
そういうことがあった。
その時に骨が出てきました。
その時に肺ヒールも出てきた。
いや肺ヒールだって、
掴んだら肺ヒールポロポロって、
くすぐるくすぐる出てきた。
そういうのが。
で、何段ぶりこれということの話になったんだけど、
ひょっとすると、
肺ヒールが駄目になった時に、
貴族連中が、
ここに連れてこられて、
埋められたところじゃないかという、
話にはなったけれども、
これは想像だけで、
製造だったのかどうか、
分からない。
そういうことがあったんですね。
3年半って言っても、
結果的に3年半だったわけで、
さっきのどこに運ばれるか分からない話じゃないですけど、
いつ終わるか分からなかったわけですよ。
いつ、
ダモイ、帰還できるか、
分かんない。
そもそもできそうみたいな雰囲気とかにも、
別に分からなかった。
ある日突然っていう感じになった。
ある日突然、
服装検査がある。
ひょっとするとこれダモイかな、
と思った。
1回引っかかったんです。
俺も板の上に乗っかった。
帰れるか知れない。
喜んだ。
ところが検査の時に出てきたのが、
何かって言うと、
階級書が出てきちゃったんですよ。
階級書。
階級書。
そうすると西という誤帳がいて、
これが天皇陛下の写真が出てきちゃったんですよ。
西誤帳と、
俺が残されちゃったんですよね。
ああ、もうみんな
飛車に乗って行っちゃうんでしょ。
投げるも投げないですよ。
そしたら、
しょうがねえ、
ご機嫌取らなきゃなんねえと思って、
私演劇部に入ったんですよ。
つらいですよ。
1校隊、10校隊、
3校隊の仕事の合間で練習だからね。
劇の練習。
その中で俺は、
若くてかわいかったんだね。
女の服装して、
秋田おばこ踊りって言って、
男服でやはりめっきりしたんだが、
女の着物着てね、
秋田おばこを歌ったんですよ。
そんなことで半年経った後、
また俺が
カエルムエンバーの中に入ったんだよ。
何にも出てこなかったんで、
名穂とかまで来て、
裸半分、
身体検査だったんです。
42:01
こんな寒さなんか感じない、10月。
幸いにして、
名誉を生まれて、
名誉を生まれて、
帰国の船に乗せてもらって、
帰ってきた。
ところがね、
船に乗って、
何に使ったって、
名穂とかが見えなくなった頃、
甲板上で、
なんだか騒いでいるんですよ。
何騒いでいるんだ、
私らは船の下の方だからね。
とにかく財物が重なって寝ているような状態なんだから、
それを掻き上げて、
甲板に寝ていた。
そうしたら、
ソ連で、
悪粒って言うんかな、あれな。
日本人でありながら、
日本人を売り物にしたような、
ソ連の味方をしたような、連中が、
散々甲板の上でいじめつけられているわけだ。
そうしたら、
あわや船から、
投げ飛ばされそうになった時もあった。
ところが、
船長が、
投げ手に投げないでくれと、
それでも減ると、
船長の責任だと、
言うことになるからと、
言うことを言われたらしいんだ。
俺は聞いていないから分からないけど、
後での説明ではね。
俺の船では、
そういう海に投げ込まれた連中は、
いなかったかもしれないけれども、
どこかの船では、
何人か落とされた。
それで、
前鶴に上陸した時に、
前の方の船は、
上がった途端に、
父ちゃん母ちゃんが迎えに来て、
何もかかわらず、
東京の、
共産党本部陣軍だってさ、
赤旗を振り回して、
一旦そこに立ってんだよな。
俺らの時は、そういうことなかった。
- 今、共産党赤旗の話が出てきましたけど、
シベリアから帰るのだいたい、
僕はちょっと調べたら、
1947年から55年ぐらいにかけて、
その40何万人が、
順に帰っていったってことなんですけど、
そうすると、
結構、その長いスパンで見ると、
秋元さん早い段階で帰ってる方に入りますよね。
3年後ぐらいだから。
その、
日本に前鶴に帰られたのが、
昭和23年の11月ですよね。
そうすると、
その、
昭和23年だから、
1948年か。
だと思うんですけど、
その後もまだ帰れなくて、
56年ぐらいまでに、
段階的に帰ってるわけじゃないですか。
そうするとその、
早く帰れる人、そうじゃない人の基準で、
さっきのちょっとなんか、
天皇の陛下が出てきちゃったとか、
それもあると思うんですけど、
なんか明確なものってあったんですかね。
- わかんないそれ。
なんか今日逆にザクマに聞きたいんですけど、
例えばそれこそ共産主義の、
なんかこう熱心なそういう
共産主義者とかの人だったら、
45:00
早く帰れたんじゃないかとか、
なんかいろんな説が渦巻いてるんですけど。
- それは俺よくわかんない。
そこら辺はどういう人が早くて、
どういう人が遅いのかわかんない。
ただね、
特交関係にいた人は遅いって話は聞いたことがある。
それから、
司令部なんかにいた人なんかはね、
情報関係をつかむような
施設にいた人は遅かったって話もある。
だから俺がね、
57航空を築司令部にいたと、
その時に捕まっていたらば、
危なかった。
だからそれから俺が、
高司令というところの
教育隊にもう一回戻ったから、
教育隊で捕まったから、
司令部にいたという
肩書きがないでしょう。
だから逃れて、
早く帰って、
逃れて早く帰ったほうがいい。
もし、築司令部に
行って捕まったらば、
ひょっとしたら遅かったかもしれない。
速い遅いもそうですし、
生きる、死ぬっていうのは、
何なんですかね。
その境目って何なんですかね。
わかんない。
その人の体にもよるしさ、
仕事の内容もよるし。
俺らは、よく皆さんは
話聞くだろうけれど、
伐採ということの仕事に就いた人なんかは、
だいぶひどかったようだよね。
俺らは、
伐採の仕事なんかは、
携わってないから、
気候的にお話をあげたように、
青森県とやや同じぐらいだから、
日本と気候がやや似た感じだから、
だから、
なんとか生活できたということは、
あるよね。
北のほうに行った人はひどかったと思うよ。
だってここにも、
ここにも書いてあるけれども、
友達が亡くなったって、
凍ってて、
いくら掘ったって、
二十センチぐらいから、
一日に掘れないって。
埋められなかったって。
そんなことも書いてある。
実際、ダモイで、
帰る航路というか、
船の期間ってどのくらい乗ってたんですかね。
一ヶ月ぐらい。
一ヶ月、そんなに乗らないよ。
三、四日じゃねえよ。
全然感覚が、
渋谷鉄道じゃなくて、船ならすぐか。
船だからさ。
那覇とかから、
前鶴だから、
二、三日ぐらいだったろうな。
そのとき何考えてました?
何考えても、
もう日本に帰れると、それだけだよ。
嬉しいですよね。
嬉しいだけの話だよ。
早くっていうことだけだよね。
帰って何をしようとか、
そういうことまでも考える。
そんなこと考えた人はね、
もう嬉しいって。
早く父ちゃん母ちゃんがいて、
そんだけですよ。
実際、
前鶴には、
あれですか、
すごい歓迎の感じなんですか。
歓迎、
それがね、
48:01
前鶴にどういう感じだったんですか。
前鶴にね、
近づいてきたときにね、
海の色が違うんだよ、もうね。
前の頃、
黒い海の色でしょ。
ここ濁ったよ。
ところが前鶴に近づいてくると、
海の色が青いんですよね。
そうして、
遠くに見えるのが、
緑の松でしょ。
近づいてくるって言うと、
白衣の、
監獄さんとか、
あるいは婦人会が、
この空が、
本当に綺麗に見えるんだよね。
天使ですね。
天使だよ、本当。
こんな日本で、
綺麗な姿って、
他にねえな。
というのは、なぜかというと、
それに見えたときの女っていうのは、
油に汚れたジャンバを着て、
その小脇に、
2キロパンを抱いて、
家に帰って行ってた、
その汚い女でしょ。
それと、
俺らの身体検査するのが、
女の具合なんですよ。
白い服着た具合なんです。
この女の具合の前で、
俺、ひっぱ高なされて、
ほんで周り見にして、
ケツつままれん。
すれば、
健康のチェック。
なかなか戻んねえと言うやつは、
健康の証拠なんですよ。
違う違う、もう逆です。
弾力がある人は健康なの?
そうそう。
戻っちゃうのは、健康で重労働なの。
それが健康するんだ。
それだけ。
じゃあ、日本そうですね。帰ってきたら。
俺はあんな綺麗な嫁さんもらえかなと思った。
正直言ってするよね。
頭に浮かんだのはそうだよ。間違いなく。
そして、いよいよ戻ってきて、
すぐにお家には戻れなかったんですか?
1週間くらいあるから。
1週間くらいあるから。
その時に、
ちっちゃい餅だけでももらったんだよね。
これがうまくて、
俳句にも。
俳句になるほどやっぱり。
他にあるわ。
ちょっと後で見て。
ありがとうございます。
それとね、1000円もらった小遣い。
その1000円ってすごい。
今に関係したらどのくらいなんですか?
あのね、
今、日本にいた時なんか、
うちの母が言ってるんだから、
昭和10年代だね。
この頃は、1000円あれば
51:00
うち一軒小さい奴が建てられたと
よく母が言ってたんだよ。
それっきり頭にないから。
だから、1000円もらって
これ、うち何かお土産買ってきると。
シフォンがあるからいっぱい売ってるからね。
そうですね。
そんで、あんじゃと思って
行って、まず
荒入っていくから洋缶買ったんだよ。
1本100円。
これには腰抜かしたね。
洋缶1本100円。
煙草。
1つ買って、行こいって言う煙草。
10本40円。
煙草40円?
いやー。
だって、俺の時には
ゴールデンバットってやつがあって、
小学校の先生が
窓から、竹代、
こっち買おうか。
タバコ買ってこ。
何十何千円だから。
そうですよね。
それが40円もするんでしょ。
じっくり行ってんすよ。
だから何も
うちに持って帰るまでのものは
食べてなくなっちゃった。
何も持ってこない。
そうだったんですね。
それは物資がなくて、物価が上がってたからってことですよね。
ところが、うちに帰ってたら
本当に何もないんですよね。
だから、
俺が帰るために
母が
配給の米を少し貯めて
俺が帰った時に
お寿司作って食べさせようと
食べさせてくれたんだよ。
俺、お風呂から出て
そんなの知らないから
喜んで食べちゃった。
20本って戦争で負けたって
こんな前回っちゃ
大損だなと思ってたら、
明日になってから妹が
取っておいたお金なんだと
明日からまず
ご飯よ。
そういう風な
戦後3年経ってたけど
まだまだ生活が大変だったってことですね。
大変ですよ。
うちの親父の年金が
400円ぐらいだったんだよね。
ところが、米一緒が
400円ぐらいだったんだから。
1ヶ月の年金
400円でしょ。米一緒買って
400円でしょ。
パッと無くなっちゃうね。
一緒の子が5年で食べたら
何で過ごすの?
それで
先ほどね、体壊されたり
教員になるまでって
ありましたけど、帰って
舞鶴校から家に帰って
何でしょう
本当に心休まる
感じでした。すぐ。
その後、すぐ
働かなきゃとか
どんな感じでした?
うちの両親も
年取ってるから
これは仕事しなきゃならない
ってことを後見に
ありましたよ。
ここの前が
旧道場になっているけど、ここは田んぼだったんですよ。
54:00
そうなんですね。
10月の3日だから
まだ入り刈りしてないんですよね。
で、私
全部ずいぶん入り刈りしちゃって
お袋が喜んじゃったけれども
本当に具合悪いんじゃないか
俺が水太り
ぐらいのような様子だったらしいんだよね。
で、医者行っていこうって
だって医者行くと来れないもん。
一生来ないもん。
行くって言ったら
行けない。
しょうがない。どうするかなと思って
考えたんだけども
ソ連から帰ってきて
ただで
ソ連に
行ったわけじゃないんだから
そこまでなんとか
そういう方法がないかと思って役場に行った。
たらば
帰ってきたという
証明があれば
医者を無料で
見てもらうことができると。
何か証明がないかと。
何でも証明なんか持ってないんですよ。
ただ持ってたのはね
銘湯丸という船に乗って
帰ってきたときの船の
乗船証明だけだった。
これで大丈夫だと。
それから医者に会いようと。
岡本の上院にね。
それはただだった。
ところが電車バス
往復の。電車中にバス駐がない。
でしょ。
しょうがないから
弟も愛用医小児のときに
勤めてる。妹もちょっと
勤めてたけども
それにお金をちょっとずつ
通合してもらって。
電車中、汽車中を通合してもらって。
それで医者に会いようと。
その間にね
弟が今愛用医小児というところに
勤めてて。
これがあの
今の石鹸じゃない
ひどい石鹸なんだけども
手に入ったんですよ。
キツネが石鹸売り上げるわけにはいかないから。
岡本に降りて
一軒一軒回ってやるって。
石鹸買ってこれ。
これだって利益っていうのはほんのりないもんね。
何せんだろうね。
それを何個か売って。
それもある程度
達成したということが
あった。
早く働きたいって
頭の中に起きながら。
働きに出られないんだけどどうしようね。
話、今
シビリアから帰ってきてまでの話
一通り伺いましたけど
改めて最も
振り返った時に
秋元さんの中で
死が近いというか
俺死ぬかもなみたいに
ありました?
毎日だよ。
死ぬかもしれないと思っているのは
毎日ですよ。
どの思い出というより
全部ってことですね。
この瞬間この思い出が
死ぬと思ったというよりも
毎日がもう
いつ俺の番が来るかってことだ。
それが日常だったってことですね。
57:01
毎日。
いつ死ぬかってことが毎日だよね。
これは間違いなく。
いつ帰れるか
帰れなければいつ死ぬか
その他考える用がない。
あとは思って
さっき言った軍歌を歌って
寝つく
というぐらいの
仕事しかできない。
たまに話は
友達と話すけども
土壌鍋うまかったなとか
何食いたかったのか
そんな話を友達と
暇があればするぐらいの精々でね。
あとはいつどうなるかわからないということですよ。
どうですかね。
今でも数え切れないほど
いろんなこういう話を
いろんな場でされてきたと思うんですけど
戦争の体験の話を
まさに73年経って今
この日本の状況
世界の状況というのを
どう見てますか。
あのさ
100年近いんでしょう。
戦争死んじゃったやられた
もう
今の時代になったら
年齢が若い人に変わってんだよね。
若い人が
今の世の中を支えていった
ということは
もっと世界中に仲良くできないもんか
戦争なんか考えないでさ。
そう思うね。
うん。
俺らの場合にはさ
アメリカがどうだイギリスがどうだ
ソ連がどうだという
いろいろなさ
日露戦争ならさ
一時戦争ならさ
聞くけれども
あの時代と今の時代はさ
ものが豊富で功力が多いでしょう。
だからいろいろな工作をしなくてもさ
韓国だって
北朝鮮だって
仲良くできないもんか
若い者同士が
アメリカとね
ソ連の若い者同士もさ
仲良くできないか
だって観光客なんか
いっぱい
中国からも来るでしょ
ああいう風なものも
もっと頻繁にして若い同士が
仲良く過ごして
政治家がいなくては譲るよと
おめでとうがダメだから
政治家やんねえなって
そんなことじゃなくてさ
仲良くできないもんか
昔のことは考えないで
実際体験してないわけですからね
一人一人は
戦争始まる前の
日本の空気というか
そういうの当然経験されてるわけですけど
その時の空気と
例えば今の空気というのは全然違いますか
人によっては今がもうちょっとまた
平和みたいな人もいれば
いやいや昔に比べたら
全然平和な空気だよという人もいると思いますけど
1:00:01
あのね
戦前の空気ってのは
なんとしてもアメリカ
イギリス
そういう連中にさ
負けたくない
勝たないとダメだと
意識でしょ
今さ時代が違うんだから
もっとさ
仲良くできないもんか
そうすれば若い人も
外国と仲良くできるはずなんだと
いう感じはするんだよね
だって
いずれこそ仲間が生きてるんだ
そのやり返しということもあるだろうけどさ
そんな連中はもうほとんど死んでもるよね
生きてないもん
そうですね
喧嘩やった連中は
シベリア特措法
シベリアに拘留された
方たちに対して
国から
お金を
払うっていうのは
それはやっぱり払われてるんですか
3年半いて
25万円
今25万って言えば
月給というか1ヶ月の月給くらいでしょ
3年半で25万円だけ
率直にどう感じました
まあ一般的に
それに
認めてくれたから
しょうがないという
考え方がだいぶ多いけどね
俺とすれば馬鹿にしてるということだ
というのは
こないだ自衛隊が
頭痛を起こしたときに
イレイさんやってるよね
総理大臣もちゃんと
長寿呼んでるよね
そうですね
あれと比べれば
不公平な取り扱いだよね
不公平な取り扱いっていうかな
そう思う
思うところはありますよね
この質問したかったんですけど
最初終戦後に
共感の試験を受けるときに
さっきの話で
憲法9条についてどう思うかと
言われてその当時は
まだ頭がね
いろいろ混乱されてたんで
お話しましたけど
今同じ質問したら何て答えますか
憲法9条私はね
右とも左とも言えないね
分からない
だって
メモがすぐ変わってんだもん
一つの例をとればさ
アメリカの大統領が
前の大統領と
今度の大統領
どっちがいいかと言われたら俺ら分かんねえもん
一概にはね
言えない部分がいろいろありますよね
秋元さんも
あれですよね
お孫さん?ひ孫さん?
ひ孫はいない
1:03:01
お孫さんにこういう話ってされたことはあるんですか?
直接はあんまり
あんまりしないけども
俺の孫ってのは
生まれた時から俺らが
とーっと面倒見た子供なんだ
女の子なんかは
24歳になるけれども
大学受験の時も
東京まで連れて行ったんだから
だから
ちょいちょいと話はするけれども
そんなに深く
話はしたことないね
女子も男子も
俺早くやってたから
ずーちゃん何やってんだ
早くやってんだ
私も作ってみるなんて
作ったこともあって
そんな時はちょいちょい話はすると
ある程度は分かるよ
しかし
これなんか
俺の孫が作ったのよ
面白いな
父ちゃんが母ちゃんを起こす春の夜
朝があって
そんなの孫が作ってんだ
そんな時にちょいちょいと
話はするけれども
最後に聞きたいんですけど
あきもとさんの
人生の座右の銘とかってありますか?
大事にしている言葉 真実
座右の銘
座右の銘ってほとんどのもんじゃないけども
俺に言わせれば
長立つところを深く掘れ
詳しく話すと
分かりやすく話すとどういうことですか?
これはドイツのニーチーっていう
学者が
言った言葉なんですよ
長立つところを深く掘れ
深く掘れば
いずれぞ分かんって言うんです
これはなぜそんなことを
覚えているかというと
私は今の伊豆橋高等学校
前から伊豆橋中学校で
いたずら小僧では
悪影だったんだよな
そんで今でも思い出す
高橋清松先生って
受け持てた
これにこっぴどく怒られて
廊下に座らせられて
高下に
長立つところを深く掘れ
深く掘れば
いずれぞ分かんっていうことを
コンコンと説明されたんだよ
怒られたんだよ
なんで俺こんなにいずめられるんだよ
やなちゃなって
その当時は思ったけども
教員になって
バレーボールをやった時に
やんなきゃならない
その時に
長立つところを深く掘れ
深く掘れば一生懸命やれば
1:06:00
なんとかなるぞと
教師ですよね
俺思い出したんですよ
高橋清松先生こと
俺は恨んだけれども
あの時にあんだけこっぴどく
言われなければこの言葉は思えてないな
ということで
その言葉を頭に置いて
馬力かけてやったっていうことが
一つ俺がね
教員やれってやってこられたという
例になって
ここには書いてないけど
入れといてくれ
長立つところを深く掘れ
深く掘ればいずれぞ分かん
これがね
心情というか
なんていうかね
いつでも考えてることですよね

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