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2018-06-03 44:20

2018/06/03:ヨハネの福音書講解説教(31)いのちの主、イエス・キリスト

2018/06/03 聖日礼拝
尹善鎬牧師
ヨハネの福音書 -45

00:00
皆さん、おはようございます。今日も、聖地霊会にようこそいらっしゃいました。神様の豊かな恵みが、皆様の上に注がれますように、お祈り申し上げます。
それはいつものように、メッセージの前に、隣の方としばらく挨拶の時を持ちましょうか。はい。
ありがとうございます。一音お祈りいたします。イエスは言われた、私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていて私を信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。アーメン。主よ、信じます。
この朝、いのちの主、イエス・キリストが、私たちに、新たなる主からのいのちを、我らに主を吹き込んで下さいますように、お願いいたします。主からのいのちによって、新しく生かされますように。
主よ、今日のこの日を、いのちの日として祝して下さって、イエスこそ、いのちの主であることを受け入れ信じ、我々が本当に、さらなる恵みを経験できますように、主よ、祝福して下さい。イエス様の皆によって、お祈りいたします。アーメン。
感謝します。
ヨハネの福音書の公開説教が31回目で、11章まで来ていますので、ヨハネの福音書は全部何章あるかご存知ですか。21章まであるんです。
大体半分で31回させてきましたので、残りの半分も30回くらいかかるかもしれないですね。神の恵みによって助けいただいて、共に、御言葉から真理を教訓をですね、共にお受けしたいと思っております。
今日は、ということで、この箇所から、いのちの主イエスキリスト、いのちの主イエスキリストという題にして、御言葉の恵みを共にお受けしたいと思います。
先週の続きとして、マルタ、マリア、ラザロ、三兄弟のお話の続きです。
先週のお話を、ちょっとだけですね、まとめて、今日の内容に入りたいと思います。
イエス様が普段、ベタニアという町に住んでいた、この三人兄弟と、よく親しく、交わりを持っていらっしゃいました。
03:09
その三人兄弟の名前は、マルタ、マリア、ラザロでした。
ところが、ある日、このラザロが、男の兄弟ですけれども、重病にかかりまして、そして死にかけていたんですね。
それで、イエス様が自分の町に近く来ておられるという話を聞いて、
このマルタとマリアは、人を送ってですね、イエス様に、お家に来てくださって、この死にかけているラザロを癒してくださるようにお願いをしました。
ところが、イエス様は、すぐにこのラザロの家に向かいませんでした。
二日も経ってから、後からね、向かいました。
私たち人のタイムと神のタイムは違っている。
そして何より、私たち人間の考えより、神の考えはいつも上にある、そしていつも正しいということを、私たちは学ぶことができます。
その後のお話が、今日の読んでくださった十七節からの話になります。
今日のストーリーは、信仰の目で見れば、いくらでも何回でもイエス様はなさることができるということでもありますけれども、
不信仰の目で見れば、単なる作り話とか小説に過ぎないお話になるかもしれない。
大事なのは、このストーリーは作り話ではない。神話でもない。小説でもない。
明らかに歴史上あった事実として、私たちは受け入れて、信仰の目で読みたいと思います。
信じる者には、神様が奇跡を起こしてくださるのです。
今日の十七節を見ますと、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて、四日も経っていたとあります。
もうラザロは亡くなって、ホラーなお墓に葬って、四日も経ちました。
ところが、先週もお話しましたように、イエス様は、彼のこの病気は、彼の死は、ただの病気、ただの死ではない。
06:06
イエス様は、ご自分の栄光を表すためのものであり、神の栄光を表すためのものですよ、と。
ラザロの病気は、ただの体の病気じゃなくて、神の栄光のための病気なのか。
確かに私たちは、特にもしもこの中で皆さん方が、もしも何かの病気にかかっていらっしゃるならば、こういうお話を理解し難いものでもありますね。
病気にただの死の病気があって、あるいは神の栄光のための病気が別にあるんだろうか。
もしもあるならば、それをどうやって見分けることができるんだろうか。
そういった疑問が自然に、私たちの心の中に生じてくるかもしれない。
その疑問を持つことは、ある意味で自然かもしれないですね。
ところが皆さん、信仰というものはどういうものなんでしょう。
もちろん100あって100すべて、そういう場合ではないでしょうけれども、信仰というものは、時には100%すべてを全部理解できなくとしても、
100%納得がいかなくても、その中にたった1%しか、あるいは10%しか納得がいかないと、
不に落ちないとしたとしても、それを受け入れて信じることが、実は信仰なんだ。
1%の可能性が、99%の不可能性を逆転させるのが神様だ。
私たちはですね、信仰に対して神の御言葉、聖書の真意に対しては分からない、納得がいかない。
そういうふうに思って、少し受け入れたり受け入れなかったり、跳ね返したりすることが我々にあるかもしれませんが、
でもですね、不思議に私たちは、普段の生活においては、あまりにも不思議にも丸のみして受け入れることが1つあるかなと思いました。
それは、例えばですよ、風邪をひきました。何かの病院に行きます。
そしたら先生が処方してくれるんですね。
そしたら、薬局に行って処方してもらった薬、当然この薬は、簡単な説明をしてくれるんですね。
そしたら皆さんどうですか。お薬にあって、その薬を粉々にして、成分を検査して、原材料を検査して、
効果や副作用が丸々100%を全部理解して納得したから薬を飲まれる方、1人もおられないんです。
09:04
お医者さんが、看護師さんが処方してくれたら、何の疑いもなくよく飲みます。
1日3回ですよ。そしたら3回、ちゃんと守って飲みます。1回ですよ。1回だけ飲みます。
ところが、そういう医者を、医術であろうが、科学であろうが、医者も知らない人間の身体の神秘をつけられた神様、
私たちの人生のマスタープランを握っておられ、全て知っておられる神様、
また、私たちの喜びも苦しみも健康も病気も生も死も全て支配しておられ、知っておられ、助けてくださることができる神様に対しては、
人間の医者よりはもっと大きな確実な信頼を、信仰を持つべきではないでしょうか。
もちろん、今からお話ししますけれども、イエス様はいつもあらさじに、ただ信じなさい、ただ信じなさいというね、盲目信仰、教養をなさる方ではありません。
なぜなら、イエス様は、私たちの感情だけではなく、理性も知性も論理も全てを作られた方であられ、
私たちと同じく考えることができる方であって、その考えよりはるかに超える考えも持てる神様であるからです。
今日、読んでいきますと、イエス様がこの三人兄弟の家に向かいました。
そして、まずマルタに会いました。そしてその後、マリアに会いました。
ところが、私によく注目して読んでいきますと、イエス様は、このマルタとマリアに対してイエス様の接し方というか、話し方というか、それが結構違うんです。
よく注目して読みますと、興味津々です。イエス様の知恵が輝いているんです。
結論から申しましょうか。マルタは、この11章から見てわかるように、マルタはマリアよりは、理性的で論理的な部分がありました。
それでイエス様は、そのマルタに対しては、一つ一つ見言葉を、その紐を解いて解説して、一つ一つ一々教えて下さいました。
しかしマリアに対しては、イエス様は、彼女の感情と言いましょうか、その気持ちと言いましょうか、それを重んじてくださって、大切にしてくださって、ともに泣いてくださった。
12:09
その話を、今から見ていきたいと思いますけれども、
まず今日の21節、もう一度聖書をお持ちの方は一緒に読みたいと思います。11章の21節です。
一緒に、マルタはイエスに向かって言った。主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
こういうふうにお話をしました。そしてですね、22節私は読みますね。今でも私は知っております。
マルタ自身がですね、イエス様私も知っていますよ。あなたが神にお求めになることは、何でも神はあなたにお渡になります。
マルタは確かな信仰を持っているんですね。イエス様が神様に求めるならば、神様が聞いてくださるでしょう。与えてくださるでしょう。
それ私は知っていますよとね、素晴らしい信仰を持っているんですね。
そしたらイエス様が何とお答えになったのでしょうか。23節私は読みますね。イエスは彼女に言われた。あなたの兄弟はよみがえります。
イエス様は簡単に答えました。そしたらマルタは何と答えたのでしょうか。24節一緒に読みますね。3、マルタはイエスに言った。
私は終わりの日のよみがえりの時に彼がよみがえることを知っております。ここだけ見るならばマルタは確かな復活信仰を持っているんですね。
それは素晴らしいことです。しかしイエス様があなたの兄弟をよみがえりますよというのは今の話ですね。
そしてその時にイエス様はそのマルタに確実な信仰の大事な彼女に今かけている、信じてほしい、いや信じるべきお話をされました。
それが今日の中心聖句でもある25節26節です。ここらを声を合わせて一緒に読みたいと思います。25節3。
イエスは言われた。私はよみがえりです。命です。私を信じる者は死んでも生きるのです。
また生きていて私を信じる者は決して死ぬことはありません。このことを信じますか。アーメン。皆さん信じますか。皆さん信じるでしょうか。
イエス様は疑問を持っているマルタ。信仰を持っていないわけではありません。信仰を持っています。
そのマルタに決して強要せずに、でも彼女が持っている考えがただそれでいいんですよ。じゃなくて彼女がまだ理解していない部分、その部分を見事を持って教えて下さいました。
15:12
そして彼女は本当に素直に受け入れて信じてついてきましたね。理解を求めたマルタには理解できるように真理の言葉を一つ一つ解説して教えて下さい。
というのはこのマルタは理性的な女性方だと思いますけれども、その彼女に合うようにイエス様は一つ一つ教えてわかるように信じられるように導いて下さい。
皆さんイエス様は私たちも同じく、もし私たちが疑問を持っているイエス様を教えて下さいと求めるならばイエス様が教えられないわけがないんですよ。
いつの時もイエス様が盲目的に信じなさいと強要なさる方ではない。
さてその後マリアに会ったイエス様はどういうふうに接してくださったのでしょうか。見ていきたいと思うんですね。
32節からご覧下さい。私が読みします、32節。
マリアはイエスのおられたところに来て、お目にかかるとその足元に比例をして行った。主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
これは実は先のマルタがイエス様に最初に言った言葉と全く同じなんですよね。
ところが33節のマリアに対するイエス様の接し方はマルタとはまたちょっと違いました。
33節一緒にお読みしたいと思います。
はい、そこでイエスは彼女が泣き、彼女と一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると霊の息取りを覚え、心の動揺を感じて、
4節私は読みますね、言われた。彼をどこに置きましたか。彼らはイエスに言った。主よ、来てご覧下さい。
35節イエスは涙を流されたとあるんですね。皆さんどうでしょうか。マルタとは違った接し方をイエス様は話し方をされました。
33節、35節によるとイエス様はすごく悲しんでいるマリア、もちろんマルタは悲しんでいないわけではないでしょうけれどもね。
すごく悲しんでいるマリアと、その悲しみを共感してくださったんですね。痛みを共感してくださった。
18:07
そして35節を見たら、なんとイエス様は涙も流された。ここにね、33節にイエス様が息取りを覚えたとありますが、この息取りは何に対する息取りか。
一つは不信仰的なこのついているユダヤ人たちに対する息取りでもありますし、もう一つは人間の死ぬことの死に対する息取りである。
小約聖書という聖書にはこの33節のイエス様が霊の息取りを覚え心の動揺を感じてという部分をこういうように訳していますね。
イエスは短足を繰り返された深い動揺を覚えられたと訳していました。
悲しんでいるマリア。イエス様がもう少し早く来られたら生きていたのに、癒されたのに死んでしまった自分の兄弟のためにすごく悲しんで泣いて、イエス様は何が聞くね、力すらなかったんじゃないでしょうかね、このマリア様。
彼女にはイエス様が共感してくださった。マリア様には彼女が持っている疑問に見言葉を持って教えてくださった。
皆さんイエス様は本当に最高のカウンセイラじゃないでしょうか。イエス様に行けばイエス様が時には共感してくださる、時には一つ一つ紐を解くように解説して教えてくださるんですよ。
なぜならイエス様には何でもできるからです。共感もできますし、解説もできますし、時には使徒パウルがダマスコに行く途上でイエス様に出会ったように、あのような強烈な出来事を通して人を新しく作ることも神様にはできるわけなんです。
イエス様は神様です。
イエス様が取り扱いできる人もいませんし、取り扱いにくい人もいませんし、解決できない人生の問題は一つもありません。
イエス様の身元に出てくれば全ての人生の問題は全て解決されるのです。
祈って求めれば神様はご自分の御心通りに解決してくださる、祝福してくださるそのお方であります。そのための力も癒しも知恵も富みも全て持っておられる方がイエス・キリストです。
ところがどうでしょうか。
21:05
自分には解決されている問題がありますよ。何でしょうか。イエス様が間違っているのでしょうか。あるいは神様の力のエネルギーが減っているのでしょうか。
そうではない。一つ聖書に行くから教えをね、答えを見つけたいと思います。
旧約聖書のイザヤ書を開きたいと思います。旧約聖書、イザヤ書、59章。
聖書をお持ちの方は開きましょうか。
イザヤ書、59章、1222ページですね。
イザヤ書、59章、1節と2節。私の聖書では1222ページです。
イザヤ書、59章、1節と2節。
聖書をお持ちの方はご自身にお見せしましょうか。
3、はい。
見よ、主の御手が短くて教えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。
あなた方の徒があなた方とあなた方の神とのしきりとなり、あなた方の罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。
皆さんいかがでしょうか。
神の御手がどんどんどんどん短くなって救えないわけではないんです。
あるいは神様がおじちゃんになって聞こえない。何?
それは神様ではない。
何が問題でしょうか。
私たちの徒が、罪が、神様と私との間のしきりとなってしまって、そしてその罪が神の御顔を隠させてしまったわけです。
聞いてくださらないようにしてしまったわけなんですね。
だから皆さん、求めることは何でも答えていただきたいのでしょうか。
まず、我ら自分自身の徒が罪を、まずその問題を許していただき、悔いを改めていかなければならない。
イエス様も主の祈りでおっしゃられました。
イエス様に罪を許していただくならば、まずあなたが兄弟を許しなさい。
それが先ですよとイエス様が教えてくださいました。
ちょっとした罪でも、ちょっとした徒がでも、神の御顔を隠させてしまいます。
とするならば、祈っても、祈りは、罪というものは私たちが軽く取り扱ってもいいものでは。
24:08
さて、今日の四年の福音書に戻りますと、イエス様はそれでマルタにもマリアにも悟りと智慧を与えてくださりました。
信仰を奮い立たせてくださいました。
そして実際に死んでいて、四日も経っているこのラザロを、その墓から出てきなさいと、そしてよみがえらせてくださいました。
一番最初に一緒に申し返せたようにね、嘘でしょうと言ったら、それは嘘に過ぎです。
しかし、人には不可能があっても、神なるイエス・キリストには不可能があります。
これを信じるのが信仰です。
皆さん、もしですね、私たちに自分にもできることを、それしかできない神を信じる必要があるのでしょうか。
信じる必要なんてないんですよ。なぜ?自分にもできるから。
しかし、私たちにはできないこと、人にはできないこと、イエス・キリストにはおできになるのです。
なぜならその方は全能の方であって、命の主であるからです。
そのイエス様が丸太に語られた御言葉、今日の十一章二十五節二十六節は何度も強調しても、言い過ぎではないと思います。
私がもう一度読みますので、今日のこの二十五節と二十六節を、今日の御言葉としてですね、ぜひですね、心の中に受け入れていただきたい、信じていただきたいと願います。
もう一度お読みいたします。二十五節。
イエスは言われた、私はよみがえりです。命です。私は信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていて私を信じる者は決して死ぬことがありません。このことを信じますか?
皆さん、この朝イエス様が、皆さん鬼捕りを鬼捕りに問いかけておられます。ボールを投げています。
私はよみがえりです。命です。生きていて私を信じる者は決して死ぬことがありません。永遠の命が与えられるから、このことを信じますか?
と、この朝、皆さん一人一人にイエス様が尋ねておられるんです。
今日、この御言葉に対する信仰とですね、確信を持って、このカイドからお家に、それぞれの居場所に帰りたいんです。
たまにはですね、聖書のお言葉を聞いて、あるいは皆さんがお家で聖書を読む、祈るときに、確信が与えられない、疑問がある。
27:08
疑問がある、そしたらそれで仕方がないな、いいやと。起き上がるのではなくて、神様も確信が、この疑問が解決できない限り私は何もしません。
たまにはですね、たまには、こういう決断決心を持ってほしいなと思うんですね。どうでもいいやじゃなくてですね。
イエス様はよみがえりです。命です。イエス様は作り主です。
神様と同じお方です。そして何より、イエス・キリストは、私たちが病むことも痛むことも苦しむことも、イエス様は願っておられません。
イエス様は、私たちの体も魂も霊も全てが健康であることを主は望んでおられます。信じますか、皆さん。
そして私たちの祈りを聞いてくださる。私たちを癒してくださる。体に霊に魂に祝福をお果たしになる方が私たちの主、イエス・キリストです。
それでイエス様はいよいよラザロのお墓に向かいました。
当然、葬って四日も経っているから、横に穴を掘って人を入れるわけですから、大きな石でそれが閉じていました。
イエス様は、あの石を取り除けなさいと、そこに集まっている人にお願いしました。
そしたらここでですね、マルタはこういうふうに言うんですよ。
えーとですね、ちょっと見てみますね。39節ご覧くださいますか。39節。
私が読み足します。イエスは言われた。その石を取り除けなさい。死んだ人の姉妹マルタは言った。主よ、もう腐くなっておりましょう。四日になりますから。
まだマルタは十分、百パーセントは信じきっていなかったですね。
蘇りますよ、イエス様がおっしゃったのにもかかわらず、現実を見ている、まるで私たちのようなマルタさんがここにおるんですね。
イエス様、もう四日も経てますよ。もう腐くなってできないでしょう。と思ってしまう、マルタのような私たち。
イエス様、これはちょっと無理でしょう。今まで見たことがないんだから。
イエス様、あれはできるんでしょうか。いや、それは日本では無理でしょう。私には無理でしょう。だめでしょう。四日も経っているから。
30:02
そういうふうに思いがちの私たちが、このストーリーの中にいるんじゃないでしょうか。
その時にイエス様はこうおっしゃられました。四十節、この言葉は、当時のそこにいたマルタだけではなく、
今日の朝の私たちにイエス様が語ってくださるお言葉です。非常に大事な御言葉です。
一緒に四十節読みたいと思います。この御言葉を見逃しがたら悲しいですから、一緒に読みたいと思います。
四十節、せーの。イエスは彼女に言われた。もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、と私は言ったではありませんか。
もう一度お読みしますね、皆さん。イエスは彼女に言われた。
もしあなたが信じるなら、あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、と私は言ったではありませんか。皆さん、よかでしょうか。
何が問題でしょうか。イエス様の力が問題でしょうか。この状況が問題でしょうか。我々はどうでしょうか。皆さんの今置かれている状況が問題でしょうか。
大変でしょうか。問題は、私たちがイエス様の力を、神の力をどれだけ信じるか、信じられるか、信じ切るか、それが実は問題です。
この御言葉を素直にこのまま受け入れていただきたい。信じていただきたいんです。
もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。皆さん、皆さんが何かの課題に対して、皆さんが本当に神の力を信じるならば、栄光を見ることができますよ。
信仰が問われている、この朝、信仰が問われている。イエス様は言いましたね。終わりの日に、あなた方の信仰を私が見る、と。
そうです。理性的なマルタニも感性的なバリアニも、そこにいた人々に、イエス様は私を信じなさいと語っておられるんですね。
そうでしょうか。イエス様は命である、よみがえであるから。そしてそれを聞いて、私たちがそれを自分自身に当てはめて、適応して、我々の人生の中に、本当にイエス様は命である、よみがえである、それこそを、私たちも経験させていただきたいんですよ。
そうではありませんか、皆さん。でも私たちはどうでしょうか。目に見えることだけ信じようとする、我々人間の限界があるんですね。どうでしょう。
33:16
私たちは今まで経験できたことの、その範囲の中にあるもの、その範囲の中で起こりそうなことだけを信じようとする、我々の限界、弱さがあるんです。見ていないのものは信じようとしない。
まるでね、トマスがですね、他のみんな弟子たちがイエス様よみがえであるイエス様を見たのに、そこにいなかったトマスはイエス様の弟子なのに、後から帰ってきて、他の弟子たちがですね、ほらほらトマスさん、イエス様よみがえりましたよ、見たらしいよと言ってですね、トマスさんが何と言ったんですか。
いや私は見ていないから信じられん。自分の手で、その手とイエス様の手と脇をね、触ってみないと信じないですよ。嘘でしょ、お前たち。私はトマスかもしれない。
自分が持っている経験、あるいは常識、理性、伝統というもの、信仰の程度と言いましょうか、その中に神様を閉じ込めてしまって、これ以上は無理でしょうというふうに限界見つけてしまっている、我々がここに。
しかし聖書は何と語っているのでしょうか。ヘブル人への手紙11章1節開きたいと思います。私の聖書では438ページです。ヘブル人への手紙11章1節。聖書をお持ちの方はご一緒に信仰を持ってお読みしたいと思います。
ヘブル人への手紙11章1節。438ページです。ご一緒に3杯。信仰は望んでいる事柄を保障し、目に見えないものを確信させるものです。アーメン。
信仰は何でしょうか。私たちが望んでいる、それを信仰が保障してくれるんですよ。そして信仰は何でしょうか。目に見えないものを確信させる。つまりこれはもう先取りなんです。自分が既に手に持っているかのように、それを確信させる。何がですか。信仰。だから何が問題でしょうか。信仰が問題なんです。
この言葉をそのまま信じていただきたいです。そして神様は私たちの信仰を通して働かれるという方を信じていただきたい。
36:11
今日の見方に戻りますと、イエス様は亡くなっているラザルに向かって、こう語られました。大きな声で43節。今日のヨハネ・ジュリシャですよ。43節。そしてイエスはそう言われると、大声で叫ばれた。
ラザルよ出て来なさい。ラザルよ出て来なさい。ラザルよ出て来なさい。死んでいるんですよ。欲観をなっていますよ。生も死も全てを支配されるイエス・キリストが出て来なさいと言ったら出てくるんです。神にはできないことはありません。
44節一緒に見たいと思います。44節3、はい。すると死んでいた人が手と足を長い布でまかれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。解いでやって帰らせなさい。アーメン。
だからそこで実際に布を解いた人は本当にこのラザルが実物だと分かったじゃないでしょうか。触ったわけなんですよ。皆さん、イエス様は私たちの痛みも悲しみも、ところが我々の人生には時には苦しみも病気も悲しみも伴われるものであるということなんです。
しかしイエスを主として信じる者には失望に終わることはありません。
それならイエス様は私たちの苦しみの中でも光の中でも共にいてくださって悟りを与えてくださって時には慰めてくださる。そしていくらでも何回でもその苦しみから病気から痛みから私を救うことができる。
そして光を命をお当たりになれる方なんだからです。私はこのイエスを信じるのです。もう一箇所、聖書を開きたいと思います。第二コリントを見取りの手紙一書四節です。
この言葉こそ今日のストーリーに出てくるマルタマリア、アリアはタサシ族に向かうイエス様の神のお言葉ではないでしょうか。私の聖書では三百四十五ページです。第二コリント一書四節を大きな声で眠気が吹っ飛ばされるように大きな声で一緒に読みましょう。
39:15
神はこのような苦しみの時にも私たちを慰めてくださいます。こうして私たちも自分自身が神から受ける慰めによってどのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。アーメン。信じますか皆さん。
イエスキリストは私たちがどのような苦しみの時にも私たちを慰めることができるお方なんです。イエス様に手強い問題はないんです。イエス様が理解できないなあ、そういう問題はないんです。あるいはイエス様がいやそれは難しいから百年後にしましょうよとそういう話もあります。私たちを慰めてください。
こうして私たちも自分自身が神から受ける慰めによってどのような苦しみの中にいる人をも慰めることができる。慰められるからどんな苦しみの中にいる人をも私たちも主が祈ってくださる。
バザロはよみがえりました。これは諸説ではありません。作り話ではありません。事実です。命をつけられた神様がその神様と同じく永遠からおられてこのすべてを宇宙万物をつけられたイエスキリストが死んだ人をよみがえられるのはカモでありイエス様は生きておられます。
命の主です。我々の人間の頭の知恵や知識や経験や想像や能力をはるかに超えておられる方がイエスキリストです。その方は命の主です。
その方が皆さんを慰めてください。痛みを苦しみを涙を罪を知っておられる。そして私に出て来なさい。最後に私の個人の私の家族には神様から大きな病気を癒された二人の女性がいます。一人は私の母一人は私の妻です。
母は今から四十一年前、子宮癌の末期で死にかけていました。お医者さんは三ヶ月しか生きられないと診断されましたが、まあ縮めて言いましょう。奇跡的に主は癒してくださいました。
42:02
また二十七年前、交通事故で両足が膝のところが粉々になって、医者は歩けないでしょうと診断されました。半年くらい病院に入院していまして、イエス様は診症を見て、その医者の診断を覆してしまって、自分の両足で歩いて退院できました。
車椅子にも持っていなかったんです。
また十七年前、私は新学校二年生のときでした。金曜日でした。今もあざかに覚えています。猛卒で倒れてしまいました。そのときは体の半分は動けない状態でした。
そこからも主は癒してくださって、自然な体を持って喋るようにやって退院できました。
そして妻も六年前、威我も主は癒してくださりました。医者より素晴らしい癒し主は神様なんです。
医者に癒せる病気もありますし、癒せない病気もあります。お手上げの病気もあります。しかし、神にはお手上げの問題はありません。
だから私たちがお手上げしてはいけないんですよ。
イエス様は生きておられます。よみがえりです。命の主です。私が信じる者は死んでもいけるんです。また、生きていて私を信じる者は決して死ぬことがありません。
このイエス・キリストを信じてください。その方は命であり、よみがえりであります。
イエス・キリストを通してなければ、神のもとに来ることはできません。
その方は皆さんを愛しておられます。癒してくださいますし、包んでくださいますし、本当の幸せと本当の平和の罪を取り除いてください。お祈りしましょう。
44:20

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