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2023-08-10 24:21

#026 - 当たり前が当たり前じゃないとき

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大人の学びのきっかけになることのある「当たり前が当たり前じゃない」体験やそのテーマについて考えていることを話し合いました。異なる”カルチャー”をまたぐ、という体験はどこにいても起きるものであり、その多くは自分たちに気づきをくれる、といったことなど。

  • zoomでの自分の名前の表記の仕方、人称代名詞の使い方とジェンダー
  • 年齢、婚姻ステータス、宗教、など開示するのが当たり前・当たり前じゃない
  • 「政治と宗教の話はするな」
  • 自分にとって話すことが当たり前じゃないテーマが出てきたときに「離れる」「避ける」スタンスをとることについて
  • テーマについて母語で話したことない、など準備不足の状態で言語が変わった時(環境を跨いだ時)に起きること
  • 五大宗教がタイトルにある書籍が日本で増えていることは興味の高さのあらわれ?
  • 「当たり前が当たり前じゃない」体験をしていることを気づくのってどんなとき?
  • emiが日本の外に行ったときに起きたこと、事前にやっておいてよかったこと

関連エピソード


「#まなびのはなし」について

大人の学びをサポートしている二人が、それぞれ見つけた・考えた、ことを、話したいから話しています。話している二人は「英語教育」「コミュニケーション学」「言語コーチング」に専門性をもつemi (⁠ウェブサイト⁠)と「インストラクショナルデザイン」「リーダーシップ」「キャリア・ライフコーチング」に専門性をもつtomoko (⁠ウェブサイト⁠)。毎週1回配信しています。自己紹介エピソードはこちら:⁠#001 - 自己紹介。文字起こしはLISTENサイト上で見ることができます。

サマリー

当たり前が当たり前じゃないときに直面することは大人の学びのきっかけになります。例えば、他のカルチャーや宗教、年齢に関する当たり前が異なる環境に触れることで、自身の当たり前のレベル感が変わると感じられます。新たな環境や文化に触れることで、当たり前の概念が異なることに気付き、多様性を理解することが大切です。そのためには、世界の宗教や日本の宗教について学ぶことがお役に立つでしょう。私たちは、当たり前が当たり前じゃない状況に触れることで学びの機会を得られます。一方で、多様性のエピソードを簡単にくくることに抵抗を感じ、安心しないようにしている人もいます。エミさんは、日本のことを学びながら海外で学ぶ機会を得られたと語っていました。

他のカルチャーとの違い
このポッドキャスト、まなびのはなしでは、大人のまなびをサポートしている2人が、それぞれ見つけた、考えたことを話したいから話しています。
今日もよろしくお願いします。
お願いします。
今日はですね、当たり前が当たり前じゃないとき、というテーマについてちょっと話したいなと思っています。
はい。
こういうね、当たり前が当たり前じゃないときっていうものに直面するっていうのが、大人のまなびのきっかけになるなと個人的には思っていて、
それを思うきっかけになったのが、
私、最近結構日本にいる人とZoomのミーティングをすることが増えていて、何人も参加されるZoomに自分が参加することがあって、
気づいたんですけど、ニューヨークでZoomをするときに、名前あるじゃないですか、表記、自分の名前を書くところ、
そこに私の名前はテモコマスカワって書いて、その後に括弧でシーハーハーズみたいな感じで、
自分を女性として扱ってくださいね、みたいな表示として、それを追加することが2020年あたりから結構周りでも増えていて、
なんかZoomの会議とかウェビナーとかに参加すると、それを記載している人が多い環境になんとなく慣れていたんですけど、
同じZoomのアカウントで、その日本の人たちが複数人いるミーティングとかにパッと参加すると、
明らかになんか自分だけがそういうことをしている、自分だけが長いんですよね、表記が。
たまに、例えばこれは何ですか?って聞かれることもあったりするので、
あ、そっか、私の中では過去に数年、なんか当たり前のように周りでやっている人が多いなって思っていた当たり前だけれども、
全然当たり前じゃない環境ってあるよねっていう、ちょっと考えるきっかけがあったっていうのが、このテーマを話してみたくなった。
うーん、なるほど、ありますよね。なんかそうやってカルチャーをまたいだ時に、あるカルチャーでは当たり前ことが、
その外側の人から見ると、何それ、わからない違和感、なんかいろんな反応がありそうですよね。
あとは、そうですね、ジェンダーに限らず、例えばですけど、年齢を聞くみたいなのも、ニューヨークに長くいて思うのは、
日本では結構意識するんですよね、20代とか30代とか40代とか。
だけど、何歳だからみたいなのもあんまり聞かなくなったなっていう、当たり前ってほど強い話ではないですけど、
何歳代で今大学生とか、何歳代でこういう仕事に就いているとか、
なんか年齢とかに対する、どれだけそれをその人の説明書きとして入れるか入れないかっていうのも、
ちょっと環境によって当たり前のレベル感が違うかなと思ったり。
年齢や宗教における当たり前の違い
なるほど、まあ確かに日本ではあらゆる人の年齢を割とはっきりと、
今ね、ともこさん何十代っていう話でしたけど、何十何歳まではっきりとさせることの方が多かったりはしますよね。
まあそのあたりは日本、アメリカだけではなくて、
例えば韓国人の友達と話したりするときは、彼女たちは年上と話す話し言葉と年下と話す話し言葉を分けているので、
自分より年上か年下かっていうのをね、割と早い段階で確認したがるっていうのはね、
そういえば最初の頃あったなっていうふうに思い出しますね。
年齢に関してはそうですね。
例えばコンミコンみたいなのも、日本より圧倒的に適応意味のない結婚とかの比率が多いのもあると思うんですけど、
あんまりそこも細かくはないけれども、日本だと公的文書っていうんですかね、
例えば役所の資料とか書くときに結構チェックボックスがあるイメージがあって、
チェックボックスになってるってことは当たり前の項目として情報を集められてると思うんですけど、
なんかそれもあんまりないなとか、ちょっと改めて思ったりもしますね。
そういう性的指向、年齢、結婚してるかどうかみたいな、割とそういうお役所的な括りに対して、
トモコさんが感じることが多いっていうことなんでしょうかね。
どうですかね。
色々なトピックで、私ではちょっとアメリカと日本しかわからないので、他の国とかがわからないですけど、
例えば政治的な意見とかね、宗教的なポリシーとか、
そこら辺も明確に表明する人が多い環境と、
あんまり実は知らない。
例えば日本で、あの友達はクリスチャンかとか、あの友達は仏教だとかってあんまり私はわかんないというか、
会話にも出てきてないから知らないことも多いなって思いますけど、
こっちだと例えば、ハッピーハヌカみたいな、
明らかにこの家族はハヌカをお祝いしてるなとか、
イードがあるからこれからはちょっと忙しくなるとか、
友達がどういう宗教を大切にしているかっていうのも、
結構オープンに情報が届いてきてるなっていう気もしたりしますね。
そういう意味でも、それもどこまでをどれだけ開示するかとか、
アイデンティティの認識に当たり前としてどのぐらいになっているかとかも、
しっかりそうだなというのを色々思ってて、
えみさん、色んな文化の人たちに触れられてたりとかする中で、
大人はそういうのをどうやって学んでるのかなとか、
そういうのを考えたことあるかなと思うとちょっと気になるんですけど。
外国文化に触れることの重要性
友子さん、日本でよく言われている、
政治と宗教の話はするなっていうのは聞いたことあります?
ないです。フレーズがあるんですか?
日本の人たちの中で避けたい話題っていうところで、
一般化されているところがあるんですけれど、
実際にそれをどういうふうに捉えているかっていうのは個人差があると思うんですが、
今ね、宗教の話が出てきたので、
特に例えば私が知っている文脈だと、
英語を学習者が英語を使えるようになって、
外国人と話をする時に宗教の話が出て、
戸惑ってしまうっていうことはよくあるんですね。
で、例えばそこで困ってどういうふうに返そうみたいなことを検索すると、
これを言えば大丈夫ですよっていうフレーズ集なんかが出てくるんですけど、
それを見ると大変危ないですね。
とにかくその宗教の話からいち早く逃れる、
その話をしないようにするっていうことが目的で書かれているリストなので、
もし本当にそれを言ってしまうとまずいことになるんじゃないかなというふうに、
私は感じる表現が並んでいたりします。
ただ目的としてはとにかくその宗教の話から離れるっていうことなので、
その目的を達するためには機能する言い方なんですけれど、
違うニュアンスをすごく与えてしまうなっていうふうに感じることがありますね。
その時に例えば、自分の当たり前が通じない世界に触れてるぞって本人が気づいて、
オープンに自分はそこら辺知らないんだけれども、
興味あるから聞きたいっていうようなスタンスでコミュニケーションをすることはあんまり推奨されていないかな。
そうですね。
とにかくその避けるっていうことが目的にあるなっていう感じがするので、
興味を持って聞くっていう態度っていうのはあまり教わっていないんじゃないかなという感じがします。
なるほどですね。
揉め事の原因になるのをとりあえず避けようっていうのは、
なんと昔のね、和をどうやって大切にするかみたいな、
大切にしている価値観とかが背景にあるのかなと思ったりしましたけど、
宗教と政治でしたっけ、
その2つのカテゴリーはアメリカの文脈でもたまにそのサンクスギビングで普段関わらない親族とか、
あとは自分と思想の違う家族とサンクスギビングを大切にする家族の人とかまだアメリカにたくさんいるので、
サンクスギビングです何日も一緒にね過ごしたりとか、長い夕飯を共にしなければいけないときに、
そこのテーブルでそれらのタイプの話題を出すと、
だいたいみんなつまずい思い出ができてしまって疲れるから、
サンクスギビングでそういうトピックを開けるみたいなことが、
その時期になると気になったりするんですね。
多分視聴したい人が集まるんですよね、全体的に。
だから自分と違う価値観の人がいたらリベートするモードの人が、
っていうのがちょっとこの話はするなの世界とはまたちょっと違うかなという気はしますね。
サンクスギビングで集まる家族っていうのは基本的には共通項が多い人たちっていうことなので、
お互いに考えを全く知らない者同士ではないっていうところで、
でもあえてそのサンクスっていうお祝いの日にリベートを熱くする必要はないので、
穏やかにお互い過ごしましょうっていう意図だろうと思うんですけど、
さっき言ったような日本人で英語を学んだ人が外国に出てっていう文脈だと、
自分から宗教の話が出しようがないので、話すことがないからそのトピックにしないようにしようっていう、
そういう回避が働いていくんだと思うんですね。
やはり日本の中で宗教の話をあまりにもしてきていないので、
言語が変わった、場所が変わった、相手が変わったといって、すぐにそこで切り替えができるようにはなっていないという、
準備不足の面がすごくあるんじゃないかなと思いますね。
さっきトムコさんがおっしゃった通り、本当にある時期になったら当たり前に挨拶の中にその宗教行事が入ってきているということとか、
少しの間でも暮らしていれば人々が、例えば教会に行ったり、モスクに行ったり、そういう習慣を見たりすることがあるので、
新たな文化への接触と質問
そういう経験をしていないとやはりすごく大きく捉えてしまって、大変な話をされているっていうふうに受け止めてしまう。
そこら辺の当たり前にズレがあるなっていう感じがしますね。
日本人じゃない人たちと出会うと、大体聞かれますよね。
新しく出会う人にとっては、あなたが日本代表みたいな感じになるじゃないですか。
そうするとやっぱり向こうも、日本ってどうなのとか、何の宗教が、外から分かりにくいと思うんですよね。
例えば、あの国はクリスチャンの国だね、みたいな国ってたくさんあるじゃないですか。
そういう分かりやすいラベルが日本には多分ついていないので、宗教どうなのとか、
あるけど、民主主義なの?みたいな国の天皇もいるから、
そこら辺の複雑な外から分からないものとかに対する質問とかあって、
聞かれますよね。
そうですね。
レディーかどうかは別として。
そうですね。
自分の国について一通り用意しておくと、スムーズにコミュニケーションが取れるっていうところがあるかなと思うんですけど、
そういう意味でね、最近、五大宗教っていうのがタイトルについた日本の本ってたくさん出てるんですね。
そういう教養として世界の宗教、日本の宗教を語れるようにしようっていうので、
ちょっと2つ持ってきたんですけど、
持ってらっしゃるんですね。
1つ目がこれです。
世界94カ国で学んだ元外交官が教えるビジネスエリートの必須教養。
世界五大宗教っていう本です。
これとかは本当に各宗教を短く解説してくれていて、
しかもよくあるビジネスショー風な書き方がしてあるので、
例えばこの宗教のこのやり方は今で言うところのプレゼンです。みたいな。
たとえもビジネスマンに分かりやすいので、こういうものだったり。
もう一つ教養として学んでおきたい五大宗教。
これもすごく薄いですしね、読みやすい本なので、
一通り世界の宗教、日本の宗教を宗教学的に軽めに知るっていうのではいいかなと思います。
そんな風にちょっと大人の学び、勉強型の学びとしてさらっと知っておくと、
宗教の話をするのが当たり前のカルチャーに入った時にも、
あんまり慌てなくて済むかなというツールとしてね、
持っているといいかなと思いますね。
自分も結構そんなに宗教のこと詳しくないと思うので、
体験地から、周りから私の場合は学んでいるものが多くて、
そういう改めてIKだって本を読むみたいなことは詳しくしていないので、
一個、例えば仏教とか本を読むことはあっても、
それと一つ横に並べて書くしたりとか、
そういう、日本語でそういう本が増えているっていうのは、
あんな無きっかけになりそうだなと思う。
宗教について学ぶ
興味がある人がね、実は多いっていうことなんだと思いますね。
そうか、そういうことなのか。
ビジネスをね、グローバルでする上では、
もちろん教養としてしておいた方がいいと思うんですけど、
そんなにたくさんの本が出ているってことはね、
グローバルで仕事をするビジネスパーソナル以外の人にも、
興味が強いということだと思うので、なんか面白いですね。
そうですね。
まあでも、違うカルチャーに入った時、
例えば宗教の話、例えば政治の話をしている人たちに会った時に、
ここではそれはみんな普通にやっていることなんだなっていうふうに気づくこと、
そこがまず、実は難しかったりするのかなと思うんですけど、
その辺ってどうやったら気づきやすくなるんでしょうかね。
そうですね。どうなんだろう。
私はなんか、自分の個人の体験だとやっぱり、
お、なんか自分が知らなかった世界に今触れたみたいな、
前提通じないみたいな体験をすることが、
自分の話の前提とかが頭の中でくるくる回っているわけですよ、普段は。
このくるくる回っている前提を停止させるきっかけになるんですよね。
例えばですけど、結構やっぱり日本で生まれ育ってたら、
家族の形みたいなのもサザエさんの時代というか、
分かりやすい家族構成みたいなものが家族っていう当たり前があって、
けど自分の頭の中ではそうじゃない人たちもいるっていうのは知ってるんですけど、
やっぱり一番最初に自分が、
本当に自分の前提って小さな世界の話だなって思うのは、
アメリカに来て離婚して、それぞれにまた新しい家族ができてとか、
あと養子に迎えるとか、
どんどんどんどんいろんな形で家族という形が拡張しているところも多くて、
結構大学院の友達とかにも、
自分の親が来るっていうふうな簡単なフレーズがある時に、
パッと自分が思いつくのは、
その人の生まれのお父さんとお母さんが来るっていうふうに思うんですけど、
けどよく聞いてみると、そうじゃなくて、
かつ、ブラザー・インローみたいな話で、
インローって聞くギリのお兄さんってことは、
自分の兄弟の旦那さんなのかなとか思うけれども、
実はその前提が違ったりとか、
国によっては、私のパートナーはフィリピン人ですけど、
フィリピン人の場合って何でも数のいとこって言うんですよね。
日本で考える定義のいとこじゃない人たちのいとこになっていて、
多様性を理解するための学び
そういう意味で、やっぱりそういう人たちに触れたり、
そういう人たちと話すことで、
自分が思いつく世界の定義と違うみたいな、
それを私の場合は、
肌で体験することで、
ちょっとずつちょっと前提ホールドみたいな感じにして、
学んでいるっていうのがあります。
経験学習ですね。
経験しないことに対しては、全然知らないことがいっぱいある。
今のトムコさんの、この家族の話を聞いて思い出したのは、
私の場合は国はまたいでない時点でですけど、
最初に子どもの英語教室で入ったところの子どもたちが、
私の子ども時代とは違うカルチャーを持った子どもたちだったので、
家族の話とか、特に英語で会話をするときのファミリーの話とかっていうのが、
いろいろある中で、
なんか大人の男の人の話が出てきたので、
お父さんなのって聞いたら、
お母さんの彼氏とかって言われたりして、
はーって思ったりしたことがあったなっていうのを思い出しましたね。
ありますよね、意外と。
なので、別に日本の中でもそういう機会っていうのはありますよね。
いろんなところでありますね。
例えば、日本で高校卒業して、大学卒業して、社会人になってっていうルートが、
デフォルトみたいな感じで、雑誌とかには出されてますけれども、
高校卒業して8年後に大学を行く人とか、
大学行ったけど6年かけ卒業する人、たくさん実はいるじゃないですか。
多分、15年前、20年前ぐらいの自分だったら、
周りの人の大半が4年生大学に行っていて、
多分23ぐらいまでに卒業しているみたいな人が、
すごい多い世界に自分がいたので、
なんかそれが当たり前が小さかったんだろうなっていうのはありますね。
そういう意味での学歴に対する当たり前も、
小さなマイクロ、マイクロ当たり前が当たり前じゃない大学だなと思ったり。
そうですね。
もちろん、本人の経験とか本人の見ている中で、
世界が作られていくっていうのは仕方ない部分はあるし、
それは当然だとは思うんですけど、
ただ、その狭さみたいなのを知っているかどうかっていうのは、
すごく大きな違いになるんじゃないかなと思いますね。
その広げていくことも無限にできるわけではないですし、
それぞれの置かれている環境によって、
あらゆる可能性を全部体現するっていうのは不可能だと思うので、
まだまだ見えてない部分があるんだろうなっていうふうに、
ある種疑っておくとか、少し慎重になるっていうのがね、
それが実は気づきやすくなるコツかもしれないですね。
今ちょうどエミさんがおっしゃった、
全部体験することは難しいし、
それをする必要も多分ないと思うけど、
多様性のエピソードを話したときに、
それだけを気にしすぎると、
本の逆に辛くなるっていう人も一部出てくるよね、
みたいなことを私も言ったような記憶があるんですけど、
それとちょっとギリギリ表裏一体かなと思うんですよね。
当たり前が当たり前じゃないっていうのを、
体験して、なるほどって思って、
興味を持って学ぶっていうのと、
当たり前は当たり前じゃないかもしれないっていう、
心配なモードで恐る恐るっていうのと、
なんかちょっと違うと思うんですよね。
当たり前が当たり前の世界で、
心地よいところにいることが全然悪いことではなくて、
たまに何も意識せずに生活してるときに、
これちょっと違うかもみたいな、
見くれたときは学びの機会だと思って、
自分の前提を置いてみるくらいの気持ちでいいのかなとは思いますね。
なるほど。
いいと思うんですよね。心地いい世界で、
自分の当たり前がいつも通用する世界に
い続けるのも全然いいと思うんですけど、
たぶん生きている中で、
学びの機会と多様性
そうじゃない人に触れることって出てくると思うんで、
それに気づくか気づかないか別ですけど、
そのときに学びの機会というか、
何もしてないのにそんな機会が訪れるのって、
ある意味ありがたいじゃんっていうか、
考えるきっかけというか、
っていうぐらいでいいのかなというのは個人的にはしますけど。
なるほどな。
多様性のエピソードっていう意味では、
たぶん私、くくるっていうことに割と抵抗が強いので、
簡単にここの人は、この国はっていう風にね、
言ってしまうことはあまりしない習慣がある気がしますね。
なので、簡単に安心しないようにしているっていうところはあるんじゃないかなと、
思いますね。
自分のことも、自分の所属している文化についても、
そんなに知らないっていう前提があって、
今日はたまたまこうだけれど、
あるいは私に対してはこういうことが起きたけれど、
明日は違うかもしれない、
私がいない場では違うかもしれないっていうのを、
なんか常に可能性として感じているところがあるので、
人によっては早く安心したいというタイプの人もいらっしゃるとは思いますけど、
私個人的には、あまり安心しないようにしているっていうのがありますね。
日本のことを学ぶ
えみさんは逆に、私さっき自分のことだけは結構話してましたけど、
こういう体験があるときに、
あ、当たり前、当たり前じゃないなっていう、
あの量のエピソードを出したんですけど、
えみさんはどういう感じなの?
そうですね。
今言った通り、
あまり安心しないようにしているっていう前提がある中で、
さっきの本とかもそうですけど、
あらかじめ知っておくっていうことも、
これも後から振り返れば知ってたっていう結果論なんですけど、
そういうパターンが割とあるなと思いますね。
最初の方に言っていた日本のことっていうのも、
たまたまですけど、私もともと日本語教師になりたくて、
日本のことっていうのを学んでいたので、
そのことが初めてアメリカに行ったときにも、
例えば政治の仕組みだったり、宗教のことだったり、
そういうのが一通り頭に入った状態でアメリカに初めて行ったので、
なんかそういう運の良さっていうのはあるかもしれないですね。
自分がそういうふうに自分の国を語ることに加えて、
留学生のコミュニティに入れてもらっていたっていうこともあるので、
いろんな国の話を彼らもしてくれるようになって、
そこですごく短い期間にいろんなことを知れたっていうのが、
スタートにあったなという気がしますね。
エミさんの場合は避けるどころではなく、
自分である程度自分の持論というか軸というかを、
ご自身なりにリサーチしてインプットして持っていたからこそ、
他の人たちに出会ったときに、向こうもエミさんから得るものもあって、
それと対価じゃないけれども、あなたはこうなの、私はこうなのっていう感じで、
引き寄せて学びが深まるみたいなことが起きたんだろうなってイメージはありますね。
これがエミさんが避ける人だったら、
その話題から学びも得らなかったと思うし、
エミさんが逆に日本はこうなんだよっていうのを発信しなかったら、
向こうも多分、私たちはこうよみたいなのとかってなかったと思うので、
やっぱり自分がギブするからリターンがあるみたいなことが、
学びにつながっていたのかなって聞いて思います。
たまたまですけどね。
偉いですね。事前に学ばれていて。
実はといえば、やっぱり私は母語である日本語も大して知らないっていうところからスタートしていて、
だから日本語を学ぶ、日本のことも知らないから学ぶっていう、
日本を出る前からなんかそういう、さっき言った安心しない感じが、
たまたまそういうことに結びついていたので、
結構特殊な例かもしれないですね。
なるほど。これからもお互いね、当たり前が当たり前じゃないとき。
別に国を超えたケースばかり今話してますけど、
日本人同士でも全然ありますしね。
世代間とかでもあり得ることですしね。
学びの種はどこにでも転がってますね。
今回は当たり前が当たり前じゃないときについて話しました。
紹介した情報や関連する他のエピソードへのリンクは、
エピソード情報欄にまとめています。
学びの話は毎週1回配信予定です。
番組をフォローしていただけたら嬉しいです。
それではまた次回。
24:21

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