まあそんなところで、まあ車の話はさておきとしまして、ちょっと先ほど近藤さんが行っているアンノウラジオですね、いろんな経営者の方とかに話を聞いて、すごく密度の濃い内容を語っているラジオなんですけれども、リスンでやってますね、リスンでやってるアンノウラジオ。
私が手伝っている清水前子さんと株式会社まつりの副代表の野君という方が非常に語っているんですけど、まあちょっと先ほど仕事と家事をしながら聞いていて、まあ自分も結構それをずっと見ていたので、自分もよく知っていることなんですけれども、ここまであからさまに語るかってちょっとびっくりしたんですけれども、
まあやっぱり、まあいつでもおかわりというサービスをやってるんですね、株式会社まつりは。でそのサービスはやっぱり、まあ優しいSNSと言いますか、誹謗中傷のないSNSと言いますか、心の安らぎを与えるSNSと言いますか、そういうものなんですけれども、それがなんでそういうサービスになったっていうのを非常に細かく書いておりまして、やっぱり清水さんですね、清水前子さんが非常に苦労されたというか、
裏切られたりですね、本当に大変なことになってたんですけど、まあそういう中でもやっぱりつかみ取った、つかみ取って得たアイデアからできたサービスですので、非常に血の通ったというんですかね、血が通っている、心が通っているサービスなので、ぜひ自分も成功してほしいですし、まあそういう成功、まあ自分も結構広報担当という感じにはなっているので、
そうですね、本当に心の奥から応援していますし、まあ自分自身のためにも成功してほしいなというふうに思っております。それで近藤さんも非常に厳しくと言いますか、厳しく優しく質問を送ってくれているんですけれども、やっぱりそれを見ていると、やっぱり近藤さんという方が非常に優しい方というか、本当に聡明な方だなというふうに思いまして、
やっぱり人生に対して非常に肯定的であるなというか、なんでしょうね、ちょっと清水さんが別なラジオで言ってたんですけど、別なリスンのコンテンツで言ってたんですけど、世界に対する肯定感というんですかね、やっぱりそういうものが垣間見えまして、
割と自分も障害者という立場からすると、あんまり世界に対する肯定感が持てない、何かしら世界に対して裏切られたという感じが結構あるんですね。それ、まあもちろん近藤さんも経営者ということをやってますし、まあいろんな経験されてますし、年上ですからなかなか大変なこともいっぱいあったと思うんですけど、
それでも世界に対する信頼というのを失ってないというのはすごいなと思いました。まあ、でもやっぱりね、まあ自分もやっぱり世界に対して裏切られたという感じはやっぱりあるんですけど、でもそれで裏切られっぱなしかというと必ずしもそうではなくて、まあ自分金持ちも名誉もないですけど、まあたまたま本を一冊、二冊ですね、
二冊出させてもらって、なんとかこういういろんな国境界というんですか、界隈というんですか、そういうところに絡ませていただいて、非常にいろんな方に恵まれまして、まあ仕事できてるわけなんですけど、まあやっぱりそういう人にだけは恵まれましたね、本当に。他には何もないけど、まあ妻とか友達とか、まあいろんなメンターになってくれる方が大変いらしまして、そういう方に本当に救われたなというふうに思っております。
そういう意味でやっぱり世界は大変なところではあるけども、必ずしもそういうものではなくて、いろんな人がいて助けてくれる人は多分いるんだろうなというふうに、まあ自粛にはたくさんいらっしゃったんですけど、本当にありがたいことに。
そういう信頼っていうのはやっぱり捨ててはいけないですし、清水さんもやっぱり最近裏切られる中でもやっぱり信頼できる人、助けてくれる人というのがやっぱり残ったっておっしゃっておりますので、そういうところで人間というのは裏切られたと思いながらも結局裏切られたままではいられないみたいな、そういう環境にあるのかなと思いますし、
裏切られたと思っても裏切り、自分が世界を裏切ったら多分それは何かしらの悲しいことかなというふうに思っております。
まあそんなふうに世界というのは本当に大変なところではあるんですけど、やっぱりどこかしら憎しみきれないというか、おそらく憎しみきってしまったら自分の人生もやっぱりうまくいかないんだろうなというふうな、ちょっとあまりぼよんやりと思っておりますね。
ここから結構、本題ってわけではないんですけど、ちょっと最近ずっと思っているのが、7月7日に行われたいわゆる東京都知事選ですね。
あれは選挙結果で言ってしまえば小池都知事の圧勝だったわけなんですけど、やっぱりそれを見て思ったのは、なんていうんですかね、ネットっていうか青年誌っていうか、自分の見えている範疇は必ずしも性格ではないと言いますか、いわゆるエコーチャンバーって言ったら簡単なんですけど、
やっぱり自分の見ている世界が必ずしも正しい世界全体のあり方、社会全体のあり方を反映しないというのはすごく感じました。
自分が言うまでもないんですけど、本当に今回の選挙はいろいろありましたし、ネットを見ていると連邦さんを投稿だとか、小池は投稿だとか、非常に口汚いの知り合いと言いますか、そういうのが行われておりまして、見てて結構気持ちいいもんじゃなかったんですけど、
やっぱりそういうのを見ていると、ある意味自分の願望と自分がこうであってほしいということと本当の社会のあり方に差が出たときに、人間って結構簡単に怒りを覚えますし、ある意味で現実逃避、ある意味で世界のあり方を認識が歪んでしまうというのはとてもあり得ることですし、
多分自分も知らない間にそういうことは起きているんだろうなと思いまして、気をつけたいとは思うんですけど、多分そういうバイアスっていうのは気がつかないんですね、自分で。気がつかないからこそバイアスなのであって、
そうなると自分を叱ってくれる人と言いますか、それは違うよって言ってくれる人ってすごく財産だなと思いました。そういう財産になってくれる人は本当にありがたいことにこと書きませんので、結構割と自分クソだなと思っているんですけど、
やっぱり妻をはじめとしていろんな方が自分の尻をぶん殴ってくれる、叩いてくれる、蹴ってくれるということで、何とか人間としての形を保っているかなというふうに思います。そういう、何を言いたいかというとですね、やっぱり自分の願望とか自分の希望っていうのは必ずしもこの世界に一致したものではないと。
その一致しないのはある意味当たり前で、もちろん一致したら幸せかもしれないですけど、でもやっぱり願望というのは願望であって現実ではないことも結構多いっていうのはやっぱり正確にできるだけ正確に捉えていることができれば、
そっちの方が多分最後には結構一番絶望しなくて済むかなと思っていて。さっき言ってましたけど、やっぱり世界に対して絶望しているのは結構簡単で、それに対して自分も絶望し返すというのはすごく簡単なんですけど、多分それは何かこう世界を変えたいっていう時に大きな邪魔になってしまいますし、
それで世界を変えたいって思うほど裏切られると思うんですよ。多分清水さんもそうですしね、近藤さんに対してそんなこといっぱいあったと思うんですけど、社会を信じる世界を信じるっていう時に絶対裏切られるし、なおかつそれを変えようとする時に社会というのは多分、社会を変えようっていうのは社会に不満があるから変えたいわけなんですけど、
そうなると、もともとマイナスモードなわけで敵なんですよね、社会が。社会が敵であるからこそ変えようというモチベーションが生まれるわけなんですけど、これ本当に思うんですけど、敵っていうのは思った以上に悪魔化しやすいと言いますか、思った以上にひどく見えてしまうと多分あって、
でもそのひどいものを倒してやるって勢いすぎると多分疲れちゃうんだろうなと思います。もちろん戦わなきゃいけない敵っていうのはいっぱいいますよ、自分だっていっぱいいます。例えば有性保護法に対して賛成だった方もいらっしゃいますけど、自分障害者当時は3代目なんですよね。
祖父に母に自分に弟が耳悪いんですけど、結局障害者は障害者を読むなって言われたら自己否定というか私自身の存在を否定されることになりますので、そういうことには絶対的に反対していきたいですし、障害者の存在自体を認めないっていうような動きには絶対的に抵抗していきたいですし、そういうのは自分にとっての敵だなとは思うんですけど、
でもやっぱり正確に考えてみるとそういうネットの声っていうのは必ずしも大多数ではないと。薄っ面とは思っている人は多いかもしれないんですけど、それを言葉にしてSNSに上げる人っていうのは多分自分の思っている十分の一もいないんじゃないかなと思ってて。
でもそうなると多分そういう世界全体を見てしまうと多分、そういう十分の一の声を世界全体の声だと思ってしまうと多分自分は何かを見誤って、戦うならやっぱり戦わなきゃいけないんですけど、無駄な体力を使ってしまうと言いますか。
そういう変に絶望感に襲われてやっぱり世界に絶望してしまう、絶望し返すってことが結構起きてしまうなというふうに思いまして、やっぱり多分エコーチャンバラとかそういう現象って、そういう敵に対して何でしょう、みんなでこいつは敵だっていうのは多分楽しいんですけど、
いわゆる悪口っていうのはすごく増幅していくものですから、おそらく何でしょうね、みんなで集まってみんなの敵を作ることってものすごく本当の存在よりもめちゃくちゃ大きい敵を作りかねないかなと思ってて。
逆に味方も結構何でしょう、いらっしゃいますけど、やっぱりそういうみんなですね、味方のみんなも結構思ったより多く見えちゃったり強く見えちゃったりするとは思うんですけど、そこをどうやって公平公平に見ていくかなというのは多分人生を生きていく上ですごく大きなテーマに、社会を変えていくっていう時に、
正確に見ないとやっぱり暴れるだけで終わっちゃうとか、いわゆる一家制の騒ぎで終わってしまうようなことって多分起こり得るなと思ってて、そういう意味でバイアスというかそういうのって怖いなというふうに思っております。
でもちょっと話がいろいろとたちらかってしまったんですけど、やっぱり戸地戦の話に戻るんですけど、戸地戦今選挙が終わってからも非常に揉めてるんですけどね、やっぱり次は石丸慎二さんですね。
あの方は非常に結構大変っていうか、確かにいろいろ問題がある方だとは思うんですけど、その問題がある方を投票してしまった人やばかとか、投票してしまった人に投票した方を叩くっていう、あれはちょっとムーブメントがSNSで起きてるかなというふうに思うんですけど。
まあそういうのも一つの結構、社会に裏切られたっていうそういう気持ちが極端に恐怖心というか、やっぱり絶望感というか、そういうのから生まれてると思うと、なんて言えばいいんですかね、やっぱり大変だというか。
でもやっぱり投票した人は投票した人なりの理由があって、そこを100%否定しきってしまえば社会は変えられない、本当の意味での社会を捉えられてはいないわけですから。
もちろん小池さんに投票した人がばかとか、連邦さんに投票した人がばかとか、それぞれ意見はあると思うんですけども、あまり敵を大きくしないことってすごく大事だと思いますね。
やっぱり本当に悪魔化って言えばいいんですかね。そういう悪魔化をしてみんなで倒そうっていうモチベーションを高めるのはすごく大事なんですけど。
その敵が本当に倒すべき敵だっていうのは絶対あるときはあるんですけども、それが非常に些細なところから些細なところまで、手から足まで、頭から爪の先まで全部嫌いだってなってしまうと、何かずれてしまうと思うんですよね、本当に。
ずれるっていうのは社会を全否定してしまえば、存在そのものを認めないって感じになってしまうこともあると思うので、それはちょっとやめたほうがいいかなっていうか、社会に存在しているものは何かしらの理由があって存在しているわけで、
それを全否定してしまえば、やっぱりそれで何か問題が解決するかっていうと多分しない。たぶん小池さんがこの世から消えたって小池さん的なものがなくなるわけではないし、蓮舫さんが切れても蓮舫さん的なものが消えるわけではないし、石丸さんが消えたからっていったって石丸さん的なものが消えるわけではないですからね。
そうなると、もちろんそれぞれ社会を変えようというときに、本当にその人が代表している何かっていうのもあるんですけど、変えるべきことはそういう話を知りする人たち、そういう話をやっぱりそれは正しいというふうに思う方々が本当にいっぱいいらっしゃいますので、
そういう意味で、何でしょうね、そういう人たちが背景にいてそういう人たちが力を持っているんだということはちょっと認識した上で、なおかつその力を持っている、その力の源泉と言いますかね、そういうのを見ながらやっぱり人ではなくてやっぱり現象、実証、構造を見なきゃいけないなというふうには思っております。
そのためにも、それを見るためにやっぱり人を悪魔化するのではなくて、その裏にある諸々をちゃんと見なきゃいけない。そこを変えなければやっぱり人を太り倒して社会が良くなるというのはRPGとか漫画とかラノベでよくある展開ですけど、そういうのはやっぱり分かりやすいですけどね。
分かりやすいですけど、多分それをやっても多分うまくいかないというのを多分歴史的に証明していることかなと思っていて、まあでも、だからまあ分かりやすいってあんまり良くないなと思いますね。
ちょっとまた話が長くなるんですけど、こういうなんどりが40分くらいですのでもうちょっとしたら終わりにしたいと思うんですけど、リソナルとちょっと別なラジオですね、ちょっとお名前忘れちゃったんですけど、ちょっと後で調べて概要には書いておきたいと思うんですが、
このいわゆるディスティーンって非常に長いじゃないですか、皆さん長いじゃないですか話が。話が長いんですけど、ある意味近藤さんはその長さをちゃんと狙っていると言いますか、割と効率化とか単純化とかスピードが大事にされる社会でじっくりゆっくり話を聞く。
人のちゃんと頭に残るってのも長いコンテンツなんだとおっしゃってたんですけど、それと同じで、一言こう小池は悪魔だとか連邦はちょっと口汚い言葉で罵ったりですね、そういうことをやって非常に分かりやすいですし、頭にも残るんですけど、でもやっぱりそれぞれの方の候補者の話をやっぱりしっかり聞いてみて、
聞いてみると、いわゆる連邦さんの任意ではダメなんですかっていうのは全く別な意味を持ちますし、小池さんのプロジェクトマッピングだって何かしらの意味があってやってるわけですよね。それはちゃんと裏金かどうのことじゃなくて、ちゃんと心出し目的があってやってるんでしょうけど、そういうのって長く考えなきゃいけないわけなんですよね。
自分はちょっとAIはいいぞ、AIはいいぞ、効率がいいぞとかって言ってるんですけど、でもそれはそれとして自分がこういう、ある意味20分も30分も喋ってる理由って、単純でやりたくないって一方で、AIとかが予約したり効率化をしてくれる一方で、ある程度自分は単純な人間でやりたくない、そういう一つの分かりやすさにこだわりたくないっていうことがあって、
そういう気持ちがどっかにあるんだろうなと思ってて、そのためにはちょっと前から音声で1日センジにセンジの日記書いてるって言ってたんですけど、あれはちゃんと自分の中から頭の中で考えてるっていうことを取り出すためにやってまして、
多分140字いわゆるツイッターのツイートだと頭使わなくてもできるんですけど、センジはちゃんと頭使わないと書けないわけですよ。頭の中から何か絞り取ろうとしないと。
絞り取るっていう作業が結構大事かなと思ってて、手先でパンパンって多分書くんだったら、500文字ぐらいは本当に何も考えずに書けるんですけど、多分1,000字、3,000字ってなってくるとちゃんと頭を使わないと書けない。
そうなるとですね、手ではなくて頭で書くっていうことをちゃんとやるためにはある程度の文字数が必要なわけですね。その文字数を手から自分にとっては1,000字ぐらいがそこからスタートかかってくるかなっていうぐらいで。
1寸でポイスキャットやってたら思ったんですけど、自分の中で多分3分とか5分とかは多分10分ぐらいは何も考えないでできるんですけど、多分20分、30分はちゃんと頭を使わないとできない。
そういうちょっと、今は実際頭から絞り取ってる感じがあるんですけどね。そういう意味で一つのことをある程度長く考えるっていうのは、多分こういう効率化だったり単純化だったり、ちょっと言ってしまえば何かを絶やすく悪魔化したりですね。
そういうする時段の中において、20分も30分も一人でベラベラ喋ってるっていうのは結構貴重なことをやらせてもらってるんじゃないかなというふうに思っております。
そうなると、ずっと考えよう考えようと言ってるんですけど、考えるって頭の中から何かを絞り取るようなそういう苦行でもあると思うので、そういう意味でちゃんと長く読む、長く考える、長く語る、長く書く、
そういう作業っていうのは、本当に社会を変えようとか世界に絶望しないとか、簡単に世界に絶望して簡単に絶望し返す、この世界はダメなんだって断言してしまう前にやるべきことっていろいろあるんじゃないかなというふうに思います。