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  2. V.75-1 写真家・荒谷良一さん..
2024-02-12 43:16

V.75-1 写真家・荒谷良一さん「機会をどれだけ大切にしていくか」

今回は、写真家・荒谷良一さんにお話を伺いました。
六本木ヒルズの展望台からの写真を長年撮り続けている荒谷さん。まずは写真家になられた経緯から、どのような現場を経て、いまその写真を撮るに至ったか、というお話からお伺いしていきます。
荒谷さんHP:https://aratani-photo.com/
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ゆいなわさんの聞く人ラジオ。皆さんこんにちは、ゆいなわさんの聞く人ラジオのお時間です。
今回は、写真家・荒谷良一さんにお話を伺いました。 六本木ヒルズの展望台からの写真を長年撮り続けている荒谷さん。
まずは、写真家になられた経緯から、どのような現場を経て、今、その写真を撮るに至ったか、というお話からお伺いをしていきます。
なのでまず、お聞きしたいこととしては、写真家ということについて。
もともと、いつから写真家、みたいな、最初、勉強されて。
もちろん専門学校にはいってますけど、専門学校に行って、その後に、田沼武雄先生という写真家の先生につきまして、その方に、学校を卒業してから3年間、デチボコをしました。
デチボコっていう種類はないですよね、あんまり。
わかります、わかります。
デチボコというアシスタントということですね、助手ということで入りまして、そこでいろいろと教えていただいたというか、教えてというよりは、仕事をさせていただきながら、アシスタントをさせていただきながら、勉強させていただいたという学校ですね。
学校を卒業して、そこの田沼さんのところに行くというのは、何かあったんですか、知り合いだったのか、そういう。
僕が卒業した学校というのは、多摩芸術学園というところなんですけども、そこの卒業生が田沼先生のところの助手だったんですよね。
その助手さんが辞めるタイミングと、そこを出るタイミングと、僕が卒業するタイミングがちょうど同じだったので。
それで、僕自身が田沼先生のことは知ってたんですけども、PHPという雑誌で世界の子供を撮っている写真家としてすごいなというのはずっと思ってたんですけども、たまたま偶然、そういうタイミングで新たに行ってみるかみたいな格好で先生から言われて、そこで行ったのがきっかけです。
そっか、もうそのタイミングで行って、アシスタントとして。もちろん最初はわからないことだらけなところから。
全然わからないですよね。だって学校で勉強することとは全く違いますからね、実際はね。
学生としてやるときはもちろんカメラというか、撮影とか歴史だったりとか、機材とかのこととか。
ほとんどが機材の扱い方ですよね。技術的なことが多いですよね。
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それは触りながら学びながら。
ただ僕自身が、親父が商業デザイナーだったんで、家に写真機材とか、あといろいろ暗室もあったんで、写真とはずいぶん長いこと付き合ってはいたんですけども、僕も中学高校時代、写真部でしたし。
ああ、そうなんですね。
で、写真の知識というか、それなりには持ってたんで、学校ではその上乗せみたいな格好で、いろいろとやらせてもらったという感じですね。
そうか、じゃあある程度、幼くもないか。小さい頃から写真に触れる機会はある中で、扱いも何となくは分かっていて、じゃあそのままスッと写真に行こうみたいな。
それが本当僕ね、写真家にはなりたいっていうことじゃなくて、僕は、親父がさっき言ったように商業デザイナーだったんですけども、で、祖父が画家だったんですけども、僕はデザインをやりたかったんですよ。
だから、予備校時代は、代々木ゼミナールの絵を描く部ってあるんですけども、そこに行ってたんですよ。
デザインのほうに行きたいから、絵を描くほうに。
そうです。平面構成とかデッサンとか、木炭デッサンとかそういうのをやってたんですよ、ずっと。
で、落ちたんですよ、僕は。美術大学を。むさびとたまび受けて、両方とも落ちて、で、ぶらぶらしてるのが嫌だったんで、それでやっぱり写真も興味あったし、変な話ね、やっぱり専門学校だったらある程度すぐ入れちゃうところってあるんで。
で、写真をやろうかなって思って。それで、写真の専門学校いくつか見たんですけども、すごく変わった専門学校だったんですよ、多分芸術学園っていうのが。
変わった専門学校?
僕は映画も好きだったんですけども、映像系の学科もあって、映画学科っていうのかな。それで、その人たちと同じ授業を1年目か2年目くらいまではやるんですよ、一緒にね。
そんなの興味あったし、あと、非常に校舎っていうのが古いんですけども、昔の学生運動の名残じゃないけど、ああいうのだったんで、ちょっとそこに惹かれたっていうか、あんまりキレイキレイじゃなくて、学生の熱量っていうか、そういうのを感じられるような学校だったんで。
今、なくなっちゃいましたけどね、その学校。
学校自体が?
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珠美の姉妹学校だったんですけども、すごい変わった学校でしたね。
そこで僕は1,2年の頃っていうのは、映画学科の人たちと一緒に行動をともしに来て、自分たちでグループ作って映画作ったりとかしてました。
映像系っていうのはすごい好き。未だに映像系は好きですけども、映画もよく見るし。
そういう経験が今には活かされているとは思いますけどね。
ただ、さっきも言ったようにデザインっていうのが好きだったんで、デザイン系のことも自分の中ではずっとやりたいなって気持ちはあったんですけども、それとはちょっと違うんでね、田沼先生っていうね。
行動系ですから。行動というか作家ですから。世界各国を回って子どもたちの姿を撮ったりとか。
皆さんがよく知っていることで言うと、クレネティティスコさんの南民の神前大使で、ユニセフの神前大使ということでいいのかな?
ちょっとそこら辺調べないといけないんですけども、一緒に行って、それで持って向こうで行動を撮ってみたりとかね。
南民の子どもたちの姿を撮ってみたりとか。
広告とはね、デザイン系とは全然違うタイプなんですけども。でもやっぱり僕はそういう写真も好きだったんで。そういう写真を、やっぱり田沼先生は知ってたしね。
それで子どもの写真は素晴らしい写真だったんで。ただ、それでは食べていけないからね。
その後は、またスタジオに入り直したんですよ。実は広告のスタジオに。
あ、そこで広告に。
田沼先生のところに出たからといって仕事はあるわけじゃないですからね。
それはカブラギースタジオっていうスタジオに入って。でもやっぱり全然違う環境だったので、やっぱり難しかったですよね。
その当時僕は3年間田沼先生のところにいたんで、そうすると年齢がその当時で24になっちゃうわけですよ。
で、カブラギースタジオに入る人っていうのは専門学校出てからすぐ入る人が多いんで。
僕よりも年下が僕の先輩になっちゃうんで。
そうなりますね。
で、やってること全く違うんで。スタジオはね。
でも入ってよかったと思います。今になってみれば。そっちの方の仕事がやっぱりすごく活かされてますから。その時の経験が。
カメラの機材にしたって田沼先生のところにいる時っていうのは、35ミリカメラって今の方はよくわかんないかもしれないけど、
普通に小さいカメラが中心でドキュメンタリーって撮りますけども。
カブラギースタジオとかそういうところだと35ミリが少なくて66とかブローニーとか。
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ブローニーって言ってもわかりづらいよね。ちょっと中盤のカメラ。中盤とかオーバー。
オーバーっていうのはシノゴとかね。4日かける5日のフィルム使うものとか。
で、あとスタジオ使うとなるとスタジオにある機材の名前とかね。ストロボとかね。
そうかそうか言われますもんね。
そういうのを覚えることができるんで。それが覚えられたから広告の方の仕事で色々と仕事が受けられるようになったんですよね。
当時はやっぱり取材物よりも広告の方がギャランティーは良かったんですよ。
そっかそっか。はいはいはい。
そっちの方がやっぱり生活はね。生活っていう意味よね。
あーそうですね。
あの、ドキュメンタリーとかそういうのやってて、取材物、例えばこういうインタビューで写真を撮ったりしても、
まあユイネさんは分かると思うけども、ギャランティーはね。
まあそうですね。
でも広告っていうスタジオで、例えばモデルさん撮影とか物撮り撮ったりすると。
それはもう全然また違うんですね。
桁が違っちゃったりすることもありますからね。
でもそういう仕事を取るためには、やっぱりかなりの技術力っていうのが必要で、その中で競争もありますけども。
そこに打ち勝っていけば、やっぱりギャランティーはいいわけであって。
まあ僕もね、たまたまいろいろと運が良かったんで、そういう仕事を受けることができたから良かったんですけども。
まあそんな感じですね。
ずっとそこにいらっしゃったわけではない?
僕はスタジオは1年しかいなかった。アシスタントで。
やっぱりすごく自分の中で精神的に参っちゃって。
大きいね、広告の仕事っていうか、カタログとかチラシとかの仕事で。
例えば僕はアシスタントなんだけどスタジオの中ではね。
カメラマンがそこにいるスタジオなんですけども。
そのカメラマンの元について、例えば一冊のパンフレットとか一枚のチラシとかをやるために1ヶ月ぐらいずっとスタジオにこもるみたいな感じのことってあるわけですよね。
こもるっていうか、まあもちろん家に帰ることもあるんだけども。
だいたい朝準備を、まあ僕たちは一番スタッフだからトイレ掃除からやるんだけども。
トイレ掃除8時ぐらいから始めて、9時ぐらいになると機材準備して、フィルム準備して。
それでカメラマンについていって、例えばスタジオであるときはスタジオで撮影して、その後ロケで撮影して。
その後帰ってきてからフィルム整理して、機材のチェックをして、機材を返却して。
スタジオが例えば夜遅くあるときはまたスタジオに入って、それでスタジオで撮影が終わったら、白いホリゾンとなるスタジオなんだけども、そのホリゾンを塗るわけですよね、白いペンキでね。
だいたい1時とか2時ぐらいまで撮影があったとしたら、それから塗ると3時、4時になって、帰れないからそこにパカポクって言って発泡スチロールひいて、そこに寝て、また次の朝8時に起きて、それで便所掃除やって、それの繰り返しっていうのを約1ヶ月やるんだけども。
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- それは結構ね。そうですよね。
- あとまあ、やっぱりね、いろいろ言われるからね、それはもちろんね。バカ野郎みたいな感じのことは言われるしね。よく動けないし、よく動けないと自分でもイライラするし。
それでちょっと参っちゃって、このままだと俺、ちょっとおかしくなっちゃうかなと思って。それで、本当はね、そんなところで1年で辞めちゃうなんて情けない話なんだけども、僕は辞めるっていう決断をしたんです。
- 辞めるっていう決断ができたっていう要因の1つにね、実は僕、たまにある休みっていうか、たまに早く帰れるときによく飲みに行ってたんだけども、渋谷の方に小さいチャーズキッサー、チャーズバーみたいなのがあって、そこのマスターによくしてもらって、そういう若い頃って、例えばいろいろと年上の方に怒ってもらったりするじゃないですか。
- そうですね。
- 特にそういうふうにお金がなくて、アシスタントやってるなんていうと、向こうが可愛がってくれるんで、そうするとほとんどお金使わずに飲めるんですよ。
- あーわかりますよ。
- そこに入るときのチャージ料ぐらいのもんで。
- いいよ、みたいな。
- そのときによく来てたお客さん、デザイナーの方がいて、ガチャガチャのおもちゃ、コスモスっていう会社なんだけども、そこのガチャガチャっていうカプセルおもちゃで、あれの商品撮影やってみないかっていうふうに言われて。
- 飲み屋さんで?
- スタジオにいるときにそういうふうに言われたんで、スタジオ、こんなちっちゃいおもちゃ、すごいちっちゃいおもちゃだからカプセルおもちゃって、家のこんなちっちゃいスペースで撮れちゃうんですよ。
- そうかそうか、もうこういう机のような。
- いろいろとライティングとか工夫したけども、撮れてそれで持って納品して、それがだんだん増えてきたんですよ、仕事が。
- それで、そういうのを一つ、仕事としてやりながら他の仕事も営業して回ったら、もしかすると独立してちょっとは生きていけるかなと思って、そこでそういうのもあったし、辞めたんですよ、1年間で。
- でも本当にスタジオ、さっき言ったように、スタジオに入ったことっていうのは僕にとってすっごい栄誉になったし、ためになったし、あれがなかったら僕は、例えばその後いろんなスタジオで撮影することが出てくるんだけども、スタジオの人たちを使えなかったですからね。
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- そうかそうか、勝手がわかんないですもんね、やってない仕組みとか。
- スタジオのアシスタントの方が物をよく知ってたら情けないじゃないですか。
- そりゃそうですよね、お願いするにあたって。
- 例えば、くだらない話だけども、いろいろと四角い箱とかあるじゃないですか、白く塗った、わかる人はわかるんだけども、あれのってサイコロって言ったり箱馬っていうのがあったり、摂取っていうのがあったり、あとトレペっていうのもどういうふうに使ったら人間を撮る時にはいいかとかね。
- あと箱板とかね、そういう言葉自体がわからなければアシスタントを動かせないわけだから、1200とか2400のストロボをどういうふうに動かしたら、どういうふうな配置にしたらどういうふうな絵になるかっていうことを自分の頭の中でわかってないと動かせないから、そういうことができたっていうのは僕にとって非常に大きなプラスですよね。
- はい。
- さっき言ったようにコマ社のギャランティっていうのはね、そういう報道関係に比べるといいんだけども、それだけに責任っていうかすごく胃が痛くなるようなこともありますよね。でもそういうのも勉強させてもらったっていうのはすごく良かったですよね。本当に良かったですよね。
- じゃあそれをもってして普通にお仕事を今度次のとこに向かわれていくみたいな。
- そうそうそう。だから一つ一つステップアップすることができるじゃないですか。小さい仕事で、だからコスモス団ってこんな小さい仕事だけども、これを一つの糧として、自分の中の糧として、その後にこういうのやってましたみたいな感じで、また次のやって、こういうのやりましたみたいな感じで次のやるっていうことで。
- そういうのがあったんで。これは報道だけやってて、例えば写真家としてやっててもそれは経験できないことだから、写真家っていう肩書きってアーティストに近いようなところがあるから、自分の思うものを作っていくっていうタイプのものだけども、僕はその頃は写真家って言わずにもうカメラマン。
- だからカメラマンっていうのは、どちらかっていうと映画のキャメラマンの方がイメージとしてはあるんだけども、要するに技術者っていう。カメラマンっていうとやっぱり職人的なイメージですよ。
- 写真家との響きはちょっと違いますよね。
- 写真家っていうのはやっぱりフォトグラファーだけども、カメラマンっていうのは映画で言うとキャメラマンだよね。そういうところで僕は昔広告やってる頃は本当にカメラマン。ただそんな中でやっぱり自分のものは作りたいなという気持ちでいろいろとやってることはやってるんですけども、そこを離れた後に。
- でも自分の根本にあるのは、やっぱりカメラマンであるっていうのは根本にありますよね。責任を持って人から依頼されたものをやっていくっていう。その上でフォトグラファー、自分の真にあるものをね、それを表現し続けたいっていう気持ちも両方あるし。だから両方が作用してますよね。
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- そうですね、行ったり来たりなのが。なるほど。あるたにさんの中にカメラマンの自分だったり、写真家としての自分、フォトグラファーとしての。
- あれを撮り始めたきっかけは、2013年の12月30日かな。今調べればちょっともっと正確にわかるんだけども。それ以前にも言ってたことは言ってたんですけども。
- 僕は仕事がどんどんどんどん減ってきて、本当に仕事がなくなりかけて、精神的にすごく落ち込んで悩んで、どうしたらいいもんだろうかって思ってた時期があって。
- 自分で写真を撮らなくちゃいけない、撮らなくちゃいけないっていう気持ちもあったんだけども。例えば海外に行くとか、日本全国旅にするとかってね、元手が必要なんですよね。お金が。
- 僕は今ここに住んでるけど、以前はもうちょっと違うところに、実家に一軒家だったんだけども。近くの大関なんだけども。大関から六本木ヒルズって、車は持ってたんで、車だとだいたい20分から25分くらいで着いちゃうんですけども。
- 12月30日来年どうしようかって考えた時に、六本木ヒルズに行って、僕は展望台からの写真って好きだったんで、それ以前にも写真撮ってて。その時に撮れた写真が、すごい自分の中で綺麗だなと思える写真が撮れたんですよ。
- それは富士山の近くに沈んでいく夕日なんだけども。そういう写真が撮れたんで、今やってるSNS、Facebookの方だったっけな。アップしたら結構いいねがついたんですよね。こういう写真ってみんながいいねって言ってくれるんだと思って。すげえ普通の写真なんだけども。
- その時に六本木ヒルズが年間パスポートっていうのを発行してるのを知って。年間パスポートその当時5,500円だったっけな。あ、違う。5,400円か。5,000円で8%消費税だった。
- 5,500円でね。年間いつでも行けるっていうのはお金かかんないし。それで片道25万ウォンで行ける。それもそんなに大したお金かかんないし。さあこれで作品作りしようかなって思って。
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- それだったら自分の時間すごい有効に過ごせるし、登って写真撮ってる間はいろいろな煩わしいことを少しは忘れられると思って。すっげえ夢中で撮り始めたんですよ。本当に夢中で撮ってて。写真が夢中で撮ってると溜まってきます。
- 年間パスポート。例えば電車で行けば駐車場代金しないでずっといることができるから。もう4,5時間平気でいるわけですよ。そこにずっと。
- そうそうそう。平気でいてずっと撮り続けてたからすごい量になって。それで写真展できるかなと思って。キャノンのカメラで撮ってたんで、銀座のキャノンギャラリーに応募したら写真展の応募が通って。それで写真展をやることになったんですけど。
- その時に東京シティビューっていうのがあそこの展望台の名前って言ったらこういう名刺みたいな感じで使われてるんですけど。もうそこでしか撮ってないから東京シティビューを使いたかったんですよ。
- ああそっかそうですね。それはもう。
- 電話してこういう事情でお会いしたいんですけど、知ってる方にお話したいんですよって言ったら広報の方から、それじゃ企画書を送ってくださいって言われて。企画書だけじゃなくて写真も添付したんですよ。
- 今はメールで簡単にそういうことができるからすごく楽になったんだと思うんだけども。そうしたらその写真もすごく喜んでくれて、それじゃ会いましょうって話になって。会っていただいて、もちろん東京シティビューは使わせてくださるって形になったんですけども。
- 僕自身もそこの展覧会で協力六本木技術展望台というふうに入れさせてもらえるようになったし、それも一つの拍がつくし。それで僕の写真気に入ってくれてすぐに広告に使えますかみたいな話にもなったんだけども、とりあえず写真展が決まっちゃってるから先に広告になっちゃうと。
- 広告に使ってもらいたいって気持ちはすごくあったから、キャノンギャラリーには確認したんですよ。本当は未発表の写真使わなくちゃいけないんで、展覧会っていうのは。ただ広告は普通に例えば写真家が写真集とか写真展で発表するのとはまた違った意味合いなんで。まあいいですよみたいな感じで言ってくれて。
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- それからいろいろと六本木技術の方も広告の方も僕が無理を言っても写真を撮らせてくださる。そういう融通が効くようになったんですよ。
- たまたま2015年に六本木技術がリニューアルオープンするんですけども、展望台が。そのリニューアルオープンのイメージの写真で僕の写真が使われたんですよ。たまたま撮ってて、次の年にリニューアルオープンっていうたまたまのタイミングが良かったんで。
- そうですね。
- それからずっとのお付き合いなんですけども。僕はね、一つのことを始めると、だいたい自分の頭の中で10年くらいやれるといいよなっていう気持ちはあるんですよ。だからちょうど今年で10年なんだけども。
- ああそうなんですね。はいはいはい。
- 去年の12月30日だから、2014年ですから。
- そうかそうか。10年ですね。はいはいはい。
- 今年もひとつね、きっかけになるようなことができたらありがたいなっていう気持ちは心の中ではありますけどね。随分たまってきたんで、写真自体も。きっかけっていうのはそういうわけです。
- だから、何が自分になってプラスになるかって本当にわからないけども、だってすごい苦しいっていうどうしようもない精神状況の時にそういうものを見つけたっていうのはやっぱり大きかったんですよね。
- そうですね。たまたまといえばたまたまなのか、そこに行って、「あ、なんか撮れたな。」みたいな些細なところが、もしかしたらそれで終わってたかもしれないですし、そこで夢中になっていくっていう時間もあったりとか、それでだんだん関係が、応援が繋がっていってってことですよね。
- そこにそれをそもそも描いてたわけでは当然ないわけですし、それは新谷さんが行動していってるからできてきたみたいな。- そうですね。行動してるから。僕はそんなに大した行動力がある人間じゃないんだけども、
機会を与えられると、すごく大切にしたいっていう気持ちは大きいですよね。だから自分から積極的に行動したかっていうと、どうなんだろうっていう疑問。
- あの、苦しかったから写真を撮りに行って、写真を撮りに行って別にそれがどうなるかっていうのも分からないまま、無我夢中で写真を撮ってたらそれがだんだん溜まってきて、東京シティビューっていうタイトルを使いたいと思って、それでその場合には言わなくちゃいけないし、言いかなくちゃいけないし。
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それでさっきも言ったように、すごい喜んでくれたらそれはすごく僕自身が嬉しいし、もっともっと頑張るし、それで広告に使っていただけたらやっぱりもっともっと頑張るし、そこに責任も生まれてくるし。
- 人間っていろんな小さなきっかけが積み重なって生きていくものだと思うんだけども、その一つ一つをどれだけ大切にできるかできないかで生き方って変わってくるのかなって僕は思いますね。
- よく海外の人ってオポチュニティっていう言葉を使うんじゃないですか。あれって機械って意味がありますよね。僕たちは日本人だとよくチャンスっていう言い方をするじゃないですか。
- うん、チャンスがあったからできたんだって。チャンスっていうのはある程度結果っていうか、成功っていうか、そっちの方の上る方の意味合いっていうのが強いじゃないですか。オポチュニティって機械じゃないですか。何かのきっかけとか、別にそれはどっちに転ぶかわからないけど、何かのきっかけがあったんだよね。
- オポチュニティっていうか機械っていうのがすごく好きで、それを料理するのは自分、どっちにも料理できるから、それをどれだけ大切にしていくかっていうのがすごく大事。最近もそれはすごく思いますね。
- あ、本当ですか。
- こうやって弓内さんと会うのもやっぱりこれも機械だし。
- そうですよね。
- いろんな小さなきっかけが積み重なって生きていく。その一つ一つの機械をどれだけ大切にしていくか。そんなお言葉をいただきました。そしてお話は、木造校舎の子どもたちという作品について展開していきます。
- ちょっと話は変わるけども、この間、去年木造校舎の子どもたちという写真展をやったんですよ。それは1991年に33年前に撮った写真で写真展をやって、写真展をやるにあたってその当時のメモとか、
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- どこで撮ったかっていうのを全部調べ直して、撮らせてもらった小学校に写真展をやるっていうのと写真集を作ったんで、その写真集を送ったんですよ。こういう写真集なんですよね。
- そうしたら、今の現在の校長先生がすごい喜んでくれて、現在の校長先生が校長先生が書いているブログに写真展と写真集のことを書いてくれたんですよ。
- そうしたらそれを見た卒業生が、そこの学校の卒業生が、それ山形県なんですけども、東京で僕が写真展をやったんですよ。東京の麻布で。そこでやったんですけども、そこの卒業生が来てくれたんですよ。東京に住んでいるから。
- そうですね。
- その人からお礼の手紙が来て、この写真集に対するお礼の手紙が来て。
- それと一緒に、私が卒業した学校と似てます。木造校舎の学校を残したまま記念館になっているんですけども、そこの記念館のパンフレットを一緒に送ってくれたんですよ。
- 僕、ふと思ったんです。4月にやった展覧会で、7月、8月くらいに、なんかふと考えて、なんか山形でもできたらいいよなって思っちゃって。その前にもう一つきっかけがあるんだけども、あるミュージシャンと一緒に、そのミュージシャンがその写真集からインスパイアされて、コラボのライブやりませんかみたいな話があって。
- そうですね。
- コラボでやるんだったら、なんかそういう木造校舎でできると面白いよなっていうのを頭の中にふと思い描いたんだけども、全然そんなつながりなんてないし。
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- そこで、あ、そうだ。そういえば送られてきてたんだと思って、そこに、写真展開場でも使えるみたいなんだけども、部屋がいっぱいあるから。で、なんか、私こういう写真を撮ってて、こういうことをやったんですみたいな感じで、そこの記念館の方に直接電話して、言ったら、僕のホームページに見てくれて、すごく向こうが喜んでくれて。
- なるほど。
- なんか、やろうって話になって。で、代々的にやるにはお金かかっちゃったから、お金どうしようかなって。
- はいはいはいはい。
- そうですね。
- で、うーんって悩んでたら、なんか、周年事業ってあるんだけども、要するにそこの記念館の、作られたときの周年の。
- 何周年、はいはいはい。
- 周年事業の一環としてやれば、なんか、いいんじゃないみたいな。
- いい感じになるみたいな。はいはいはいはい。
- で、それで、じゃあそういうことでできるんだったら、やりたいなって思って、去年の8月も直接行って話をして。
- おー。
- で、この間、まあ予算組みにはね、やっぱりね、大焼けのところだから、やっぱり1月にならないと、そういう、今年の予算って組めないから。
- はい。
- で、この間また連絡したら、大体やることに決まったって話になって。
- おー。はいはいはいはい。へー。
- だからそれも機会ですね。
- そうですよね。最初にやっぱりやってるってことがあったわけですから、そこから繋がっていって、で、時間も経ってるわけじゃないですか、これって。
- そうそうそう。
- へー。
- だから、その当時っていうのは、まあもちろん木造工舎は珍しかったけども、今ほどそんな買い越し趣味じゃないし。
- あーそうか、当時はそうでしたね。まああったはあったみたいな。
- だから別にそんなに大して発表したって、そんなにいっぱい写真撮ってるわけでもないし、そんな専門家でもないし、木造工舎の専門家でもないし、中途半端だなと思ったんだけども。
- はいはいはい。
- 今となってみれば、そんな少なくてもすっげえ貴重な写真だなってことになっちゃって。
- そうですよね。ほんとそうですよ。
- へー。
- 今となってみればやっぱり貴重なんだなって。で、周りの人もやっぱり貴重だって言ってくれるから。
- そうですよね。やっぱり世代によってはみんなこういうところで育ってきたみたいなところもあって、今はないけど、ああそうだったよなみたいな、価値のすごくやっぱり高いものに思うので。
- 何年っていう時の流れがまたプラスしてるんですよね。
- はいはいはい。そうですよね。
- これが1,2年前に撮った写真ですよ、と。
- あー、まあそれは。
- なんか安っぽくなっちゃうんだけど。
- そうかそうかそうか。やっぱりその経年のやっぱりことがあるから。
- うん。30数年経ってポッと出されたらやっぱりタイムスリップじゃないけどね。
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- そうですよね。
- うん。それでなんか、その後また珍しいというか、びっくりすることがある。この表拍子の裏、一番最初にここに教室内で落ちてるんですけど、ここに先生がいるんだけど、この先生がその学校の校長先生になってるんですよ。
- おー。
- だからそれをこの間メールでもらって、僕が送った時は気がつかなかったみたいなんだけども、よくよく見るとこれ私かもしれない。
- あ、ご本人が連絡見て気づいて。
- そう。それで、ちっちゃいからわかりづらいからプリント大きくして送ったら、まさに私ですって言って。
- あー面白い、それ。あーすごいですね。
- うん。
- それはまた実際に自分ってなると、またグッと入っていくと言いますか。
- そう。だって30数年経っちゃってるから、なんかすごいですよね。
- すごいと思います。
- 30数年前の自分があるところからポッと出てきちゃったじゃないですか。
- びっくりですよ。それはびっくりですよ。そんなに取られてる自覚がない中で、ふとこれが。
- 自覚あったとしても忘れてるようになっちゃう。
- そうですよね。
- 30数年経っちゃったらね。
- その驚きってあるや結構なものですよね。それがこういう形でって言うと、へー。
- 写真って、今デジタルカメラになっちゃったから色々と再育できるけども、再育しない写真の強さってそういうところにあるなって思って。
- あーそうか。そのままの、ずいぶんそのままフィルムの。そうですよね。
- 変な話さ、デジタルカメラで撮ったデータって、例えばここの雲邪魔だなって思ったら、今消せちゃうでしょ。電柱邪魔だなって思ったら電柱消しちゃうでしょ。
- で、電線嫌だなって思ったら電線消しちゃうでしょ。
- で、この人間ちょっと汚いから消しちゃおうと思ったら人間消しちゃうでしょ。
- で、それで例えば発表されちゃって、で、その作った本人というか撮った本人がまだ生きてる間はいいけど、これ嘘でしたって言うことはできるけども。
- あーそうかそうか。もうその後。
- これ30年経っちゃって、そういう人いなくなっちゃったら、30年40年経って、その写真を真実かどうかって誰が判断するかってことになっちゃうんだよね。
- そうですよね。分かんないですもんね。
- うん。でもこれはフィルムだから。
- あーそうか。もう全部が真実。
- そうそうそう。だから写真ってそれすごいよなって。
- 確かに。そうだわ。そっか、もともとフィルムで撮ってらして、転換するときがあるんですよね、新谷さんの中でも。デジタル。
- デジタルはもちろん転換点っていうか、最初デジカメが出た頃っていうのは、印刷会社もデジカメのデータっていうのに慣れてなくてあんまり綺麗じゃなかったから、フィルムとデジタルカメラっていうのが並行してあった時期があるんだけども、それがだんだんデジカメの方が多くなっちゃうと、デザイナーも昔とは違ってデジカメの方が全然扱いが楽になっちゃって、フィルムで入稿されてもどうしようもないって話になっちゃう。
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- そういうのがありますよね。
- カノン10Dっていうのが出たんですよ。試してみたいなと思って、フィルムとデジカメで両方で撮って、それで渡したことはあるんだけども、その当時はやっぱりフィルムで入稿しましたけども、それから後に20Dっていうのが出てから急激にデジカメに移行してた。
それで5Dっていう1000万画素のカメラが出てからは、ほとんどデジカメだけになっていくっていう格好になりましたね。カメラの性能と、デザイナーの環境とか印刷会社の環境で切り替わっていった。
- 僕自身はそういう新しいものっていうのは大好きな人間なんで、デジカメを導入したのは早いんですよ実は。
- そうなんですね。
- その後にデジカメの有効性っていうかスピード感っていうのが、あとその場で確認できるっていうその便利さっていうのを感じて、その後自分から積極的に、例えば会社案内のパンフレットとかすごいちっちゃい写真だったらこれ使えますよっていうことで、クライアントに提案したりっていうのはしましたね。
- そこでやってもらって、さっきも言ったように最初の頃っていうのは全然印刷が良くなくて、でもクライアントもスピードが速いし、すぐに確認できるっていう安心感もあるし、面白いっていう話で採用してくれましたけどね。
- でもその後には、やっぱりちゃんと大きい写真の場合にはデジカメ写真全然追いつかないんで、フィルムでやることが多かったですね。さっき言ったサンデーマイチはずっとフィルムでしたけどね、フィルムで撮って。
- 原谷さんが、例えば子供たち、造工者のこととか六本木ヒルズとか、いくつかテーマみたいなもの、撮るものの対象がいくつかあるような感じなんですかね、モチーフというか。
- その時に興味を持ったものをシンプルに撮ってるっていうだけの話で。
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- やっぱりそれは、きっかけは些細なことなのか。
- 多分すごく些細なことだと思いますよ。なんかすごい自分の中で組んで組んでの企画を組んでのプロジェクトっていうよりは、これちょっと撮ってみたいなって。で、そうしたら撮り始めちゃったら虫になっちゃうっていうタイプが。
- だから、ホームページ見ていただければわかると思うんですけど、いくつかテーマがあって。今、身の回りのものを撮るのが中心なんですけどね。今撮っているのは陽気公園ですけどね。
- 木造校舎、そしてそこにいる子どもたちを撮影するという仕事の価値。そしてフィルムからデジタルへの移行について。その時その時において興味を持ったものをシンプルに撮っていたということ。そしてお話は次回に続きます。
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