1. 神田大介の経験
  2. 最初の景色
2023-11-19 10:24

最初の景色

00:08
今回は、紹介ということでですね、自己紹介をしてみようと思います。
名前は、神田大介と言います。1975年、昭和50年9月23日生まれです。
出身は名古屋ですね。名古屋市の病院で生まれましたので、生まれは名古屋です。
ただ、これはですね、直後に引っ越しているというか、よくありますけど、里帰り出産というね。
私の場合もそうだったようで、それが名古屋市の病院。
実際に当時、私の両親が住んでいたのはですね、一宮市。愛知県一宮市と言いまして、名古屋市の北部にあります。
現在、おおむね40万人ぐらいの人口がいる、割と大きい都市だったそうです。
何分ゼロ歳なんで、一宮の記憶は全くないんですけれども、そのように親からは聞いていますし、写真も残っているのでそうなんでしょう。
写真捨てちゃいましたけどね。
それから2歳の時に横浜・上大岡に引っ越しまして、これは父親の転勤の都合です。
その後、幼稚園の年中3の年って何歳ですか。5歳かな。
4歳か5歳の時に東京に引っ越しています。世田谷区上馬ですね。上馬って知ってますか。
駅ないんですよね。東急の田園都市線、昔は新玉川線って言いましたけどね。田園都市線の三原寺と小松原大学の真ん中にある国道246号線、首都高の3号線ですね。
と、観奈良通りが交差するあたりでした。
そこで小学3年生までを過ごしたんですけれども、その後、もう一回名古屋に引っ越して戻ってくるんですね。
小学3年生の11月18日だったと記憶してますけど、ということで、思春期、つまり人間の形成に最も大きい影響を与えると言われている時期は私、名古屋なんですよ。
この経歴、話し出してすでに2分半ですけど、めんどくさいんでですね。
大体、私は名古屋出身ですっていうふうに言ってます。
生まれたの実際名古屋ですし、私の人格形成に影響を最も与えた土地も名古屋なので、間違ってないだろうと、あんま覚えてないですもんね。
横浜時代のことは、かろうじてちょっと覚えている。
03:00
でも違うな、多分これも後からアルバムの写真とか見て、私が見たものだっていうふうに認識しているんだと思うんですよね。
そういう意味で言うと、東京に引っ越した時の場面って自分の頭の中に残ってるんですよ。
うちのマンション、私が住んでいたマンションは14階だって、私は最上階の14階に住んでました。
結構大きい当時としては、タワマンとかなかったですからね。ないと思います。さすがに昭和50年代ですからね。
14階ってまあまあでかい。ただね、でかいから高いところに住んでるのいいなって思うかもしれませんけど、まずはそうでもない。
というのは、さっき言いましたけど、246号と首都高の3号線っていうめちゃくちゃ交通量の多いですね。
多分東京でも相当多い道路が目の前通ってるんですよ。14階なんで目の前ってことはないんですけれども、7階か8階ぐらいのあたりに首都高通ってたと思いますけどね。
だからね、うるさいんですよ。総合公害が日本で一番激しい場所だっていうふうにニュースで言ってるのを見ましたからね。
まあそうじゃないですか。246と7階ですからね。それうるさいですよね。
だから私のマンションは部屋に防音サッシが二重になってたんですよ。北海道でもないようにね。
普通は外気の気温と部屋の中っていうのを少しでもね、寒い空気を中に入れない、中の空気を外に出さないっていうんで干渉地帯として空気を入れるっていうためにサッシ二重っていうのはあると思うんですけど。
騒音がうるさすぎるんでサッシ二重なんですよね。
もうだから当時はホコリみたいなの、粉塵っていうんですか、アスファルト削れるやつですよね。
あとディーゼルエンジン、ガソリン車じゃなくてディーゼルエンジンのトラックとかですよね。
粉塵とかもう飛び放題だったので、これ後に石原慎太郎都知事の時に帰省されるわけですけど。
まあなんていうか、環境は結構ひどかったですよね。
高価格スモグ注意報とかもしょっちゅう出てましたしね。
っていうのは東京のことは覚えてるんですよ。
東京に引っ越した時に私が最初に記憶してるのって、14階建てのマンションのもう一個上に屋上があるんですけど、屋上に洗濯物が干してあったんですよね。
これもしかし今考えると不思議だな。
例えばシーツとか大物は屋上で干せるように紐が屋上に引っ張ってあったんですよね。
だって下着とかは公共の場所で干さないもんな。
自分家のベランドで干してると思いますけれども、屋上がそういうふうに使われたんですよ。
06:02
私、引っ越して母親なんかと一緒に屋上に行って、そしたらたまたまそこに私と同じ年格好の子がいて、話はしてないな、たぶん挨拶ぐらいですね。
私の母と私と同じ年格好の子のお母さん、ママって言ってましたけど、うちはお母さん文化だったのでママって言うんだと思いましたけど、が話をした。
ママ友ですね、いわゆるね。
っていうところに私はへばりついていたっていうような、そういう光景。
だから屋上に白いシーツが広がっている光景っていうのが私、記憶にあるんですよ。
これは後に振り返っても写真には撮ってない。
当時そんな写真って気軽に撮れるもんじゃないんで、まだ写るんですもなかった時代ですから。
いやー、これ喋ってみると私も本当に化石みたいですね。
もちろん当然スマホとか写メとかないので、そんな情景写真に撮るわけないんですよ。
何でもない日常なりふれた景色を。
だからこれは間違いなく私の記憶なんですよね。
その屋上の光景がすごく記憶に残っていて、
それから都市学校の同じ子が米原君って言うんですけど、米原君とは結局その後ね、
幼稚園も一緒になりますし、よく遊びに行くお互いに仲になったんですけど、
と一緒にその屋上で、屋上に金分くんですよね。
小金虫って言うんですか。ただこれがね、小金じゃ全然ないんですよね。
後に私が大人になって、自分に子供ができてから東京に住むことになって、
子供たちって小学生だったよね。虫好きですよ。低学年の頃特にね。
その子供たちを連れて火災臨海公園に行ったんですよね。
分かりますかね。小徳のね、一番千葉県と堺近くにあるディズニーランドもうすぐだっていうのね。
あの火災臨海公園、でっかい公園です。虫もいっぱいいてね。
金分も飛んでて、それを捕まえたんですけど、綺麗な色しててね。
それは小金虫って言われるわけだなっていうね。
本当にいわゆる玉虫色っていうのかなとはちょっと違ったけど、
多分種類によって色が違うと思いますが、メタリックカラーっていうかな。
子供が好きそうなというか、自動車なんかでね、走るの速そうな車がまとってるような色だったですよね。
だけどね、私の住んでたマンションの屋上に来る小金虫って全然光沢がないんですよね。
ゼロ。カブトムシだって黒いけど黒光りしてる光沢あるじゃないですか。
ゴキブリだってありますよ。
それないんですよね。なんかね、茶色いの。黄土色と茶色の中間ぐらいかな。
09:01
なんかね、薄茶げててね。多分保護色だと思うんですよ。
つまり本当にコンクリートジャングルを絵に描いたようなあたりだったんで、建物ばっかり。
都会なので、緑とか全然ないんですよね。
で、そういうところで虫が暮らしていくとこういう色になるのかなっていう感じの薄茶げた色。
きったねえ小金虫。
これを米原君と一緒に撮ってですね、子供ですからね。
意気揚々と虫かごかなんかに入れて持って帰ったらですね、
母親にすごいキャーって言ってね、すぐ捨ててきなさいって言われた。
6匹ぐらい捕まえたんで持って行ったんですけどね。
で、チェッって思ったのも覚えてますけどね。
っていうのが、私の最初に記憶がある場所での記憶。
いろんなことありましたよね。
とりあえず初回はこんな感じです。
なんかどうやって締めるのか決めたほうがいいですね。
また聞いてください。
10:24

コメント

スクロール