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真偽不明の情報が元になって、取材を始めるということもあります。
私は、調査報道班というところにいたことがあって、
それは要はですね、垂れ込みであるとかね、匿名の電話みたいなのがあったりとか、
女神が来たとかね、それから俺は情報を持っているぞというふうに言って名乗ってね、出てくる人でもいいんですよ。
という人の話を聞いて、そこから真偽をたどるということもありますね。
内部告発とかもそうですね、企業でこういうこと、こういう悪事が働かれているとかですね、
私はパワハラを受けました、セカラを受けました、みたいなのも、その人の話だけで判断するということはないですね。
必ず誰か別の人に確認をする。
会社でパワハラがありましたというのは、パワハラを記事にするというのは結構難しいなというか、
新聞の記事になるのって割と組織的な悪質なものかなというふうには思いますけれども、そうなんですよ。
結局ね、事故、事件とかもそうですが、例えば交通事故って日々起こっているわけですよね。
それ全部記事にするわけじゃないんですよ。
交通死亡事故、死者が出る事故に関してはおそらく記事になる場合が多いと思いますが、それも多分全部じゃないかもしれませんね。
自存事故で亡くなった場合とかっていうのは本当に小さい記事にしかならないということが多いと思いますし、ひょっとしたら記事にはならないかもしれませんね。
殺人事件とかですら飲んないものはあります。
そういうところをね、飲んないって、殺人飲んだらあんまないかな。
でもすごく扱いの小さいものはあって、それは新聞の考える社会的重要性ってもので見出しの大きさとかが変わってくるんですよね。
すごく本当に雑な例えを出すと、やっぱり重要とされる人物って政治的に重要であったり、会社の社長であったり、著名な人だったり、タレントさんとかスポーツ選手とかが殺されたとかなるとやっぱりそれは大きいニュースになりますよね。
例えば、すごく典型的な暴力団の構想で誰か死んだとかっていう記事はあんま大きくならなくて、ただそれが例えば商店街で銃撃があったとかだと、その暴力団区民が殺されたというよりも、町にそういう治安的に不安を与えたと。
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商店街で銃声が響いたらみんなびっくりするじゃないですか。
だいたいそういう、拳銃という日本では処置は禁止されているものを持っているやつが、その辺をウロウチョウしているっていうこと自体が大変なニュースなので、そっちですよねむしろね。
本当に暴力団区民が殺されること自体はあんまりそういう大きいニュースとして扱うことはないですね。
だからなんかその静かな場所で、密かに暴力団同士が殺し合いをしたとかっていうのは、てかそんな聞いたことない。
やっぱりそうやって人を巻き込むから暴力団なんでしょうね。
ともあれですね、そのニュース同じ事件でも扱いに違いが出る。
てかそれを判断するのがまさに記者のあるいは編集者の仕事なので、これが大事です。
これはより大事ですっていうのを決めるっていうのはね。
どうやって決めるのかっていうと、それは別に決まりはないです。
それは単純な話、事故なんかでも1人が亡くなった事故と住人が亡くなった事故とではおのぞと扱いが違うっていうのはね。
なんとなくお分かりいただけるんじゃないかなと思うんですが。
それとてですね、たとえ死者がいなかったとしても幼稚園バスの事故だったらそれは大きなニュースになりますね。
そういうのっていうのは別に明文化されたものがあるわけじゃないです。
例えば新聞社に行けばですね、こういう事故の場合にはこういう対応の記事を書くっていうような辞書があったりね、
データベースに入力するとその扱いが出てくるわけではなくて、あくまでも経験不足ですね。
例外もたくさんありますけれども、編集者は結構その辺は厳密にこれまでの紙面で同じような事件事故があった時にどのような扱いをしていたのかっていうのを見て、
それで見出しを決めます。大きさをね。
でもその時の編集者の判断で、あるいはその編集に関わっている人、別の人の判断とかでいろんな議論とかするんですよ。
これは前の事件ではこうだったけれども、今回はより特別な意味があるからこうだ、みたいなこととかは日々議論してるんですよね。
そうやってことの重大性っていうのを決めますね。
こういうように基本的にはその場その場で起きていることを書くっていうことですし、
それからことの重大性に関しても自分にとってどうかではなくて、世間一般の常識に照らしてどうかっていうことで判断をするっていうことを毎日やってるわけですよ。
何でしょうね。
割と記者の仕事っていうのは自分の判断は疑うっていうところがありますよね。
例えば全然違う事件とかを離れて何か問題、社会問題がありますと、これについてどう思いますかっていうのをいろんな立場の識者の方に聞いて書くっていう取材もあるんですよ。
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それはどの新聞にもありますし、私の地域面とかそういう駆け出しの記者がやる仕事としてもそれはあります。
で、そういうのも、例えばカンダ大好き記者はこう思ったっていう記事は載らないわけではありませんけれども、まずそういうこう考えるみたいな記事はそんなに載らないんですよ。
多分こういうことなんだろうなと思っても、そういうことを喋ってくれそうな人を探すんですよね。
で、大抵別の角度から喋ってくれそうな人とかも探して、それでコメントは少なくとも2本ぐらいは取るんじゃないかな。
1本ってことはあんまない気がしますね。
まあ仕事の仕方がどうなっているかわかりませんけれども、私は大抵2人以上の人に聞いて載せてましたね。
つまりですね、記者が判断するっていうのはあくまで見出しの大きさとかに過ぎず、この問題にどういう意味があるのかみたいなのは必ずその学者、教授とかですね、専門家とかに聞くんですよね。
そういう専門家が言ってることだから価値があるということですね。
逆に言うと自分の考え方にはあんまり価値はないわけなので、なんか考えてみるとこの今の世の中の生き方としては割とマイノリティなのかなって気もしますね。
だってみんなSNSとかでは私はこう思う、僕はこう思うっていうことを山ほど書いてますよね。
てかそれしかないですよね。
今の時事の消費の仕方っていうのは、そのように何かがあったときに自分の立場を表明するっていうね、誰に求められてるわけでもないと思いますけれども、何かそういうことをする場所があるので書くっていう、そういう引力みたいなのがプラットフォームにはありますよね。
ツイッターXにしてもインスタグラムにしてもフェイスブックにしてもあるいはYouTubeにしてもですよね。
何かしらが起きたときに何かを表明するというようなことを自分の意見を言うじゃないですか。
別にそんなSNSがない時代からでもテレビを見ながらね、ああだねこうだね家族とか友達とかと喋るご近所と井戸畑会議をするということを人間はずっとやってきたわけですから。
自分の意見というものを喋るわけですよね。
記者は自分の意見を載せるっていうことはあんまないですね。なくはないんだけど非常に稀です。
信頼できる指揮者の方のコメントを取ってきて載せると。
何かあんま自分っていうものがないのかもしれないですね。
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そんなこと言うと自分をすごい持ってる人が怒られそうですけど。
目立つ記者っていますよね。
そのものズバリ新聞記者っていうタイトルのものを出したりしてる人もいますけれども。
目立つ人は自分がはっきりしてる人が多いですね。
だからこそそうやってコンテンツになるわけでしょうから。
僕の考える一般的な新聞記者ってもっと無色透明な存在っていうか。
本当はワープロタイプライターの延長線上みたいな感じですよね。
場所に行って見たものを言語化する。
それから何かの問題に対してこういう考えがあるっていうのを言語化する。
自分の思いを伝えるのではないですね。
だからその上で飲み会の時とかには私はこう思う、ああ思うみたいなことは言ってるんですけど。
家族と話したりするんですけれども。
それが記事になるっていうことは原則ないですね。
つまり何ていうかうつせみ人生というかね。
宿借り人生みたいなね。
そうやって自分の気に入っている意見をたくさん聞いていくうちに
そういう記者になっていくっていう人もいますね。