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名古屋で感じたギャップというのは、本当に毎去にいとまなしという感じですが、その一つが集団登下校。
まあ、今どうなっているんですかね。私たちの時には、分団というものはありまして、私はですね、名古屋市厚田区天馬町というね、
今、厚田神宮天馬町という名前の駅が名城線にあると思いますけど、あの辺なんですよ。
で、私が住んでたところは天馬本町って言って、あのね、旧町名なんですよね。
住所の表記って戦後変わっていて、区画の整理なんかも行われてるわけですが、私の住んでたところのごく近く、
ちなみに私の家は国道1号にほんとにほど近いところにあったんですけれども、旧東海道もすぐ近くにあって、江戸時代にあった道標、道標ですね、
とかがそのまま残ってて、ここにこれは文化財ですよみたいな、市の文化財ですよみたいな建物が建ったりしているようなところだったんですよね。
その当時の地名を残している天馬本町。
天馬ってだから馬を伝えるなんで、そこで馬乗って当時は往来してたわけですけれども、馬を駆いてたわけですよね、疲れてるから。
あるいは馬を休ませるというような場所が天馬町で、各地にある、東京にも小天馬町ってありますけど、同じですよね。
その天馬町っていうところだったんですけど、天本。
で、隣の文壇は天五。
天五って何でしょうね、五は数字の五だと思いますけれども、天五。
図書とか、何図書って、図書波状堀の内。地名は覚えてますけど、漢字でどうやって書くの、図書って多分図書館じゃないのかな。
よくわかりません。たぶん名古屋市の歴史に詳しい方に聞けば、厚作の歴史に詳しい方に聞けば、いろいろある。
そんなね、文壇というのがあって、文壇ごとにまたちょっと細かく分かれていて、
小学6年生から1年生までが、一緒になんか集合場所があって朝、そこに集まってから投稿するんですよね。
これは東京には全くなかったシステムで、私、小一の頃から別に勝手に小学校には一人で行ってましたし、
今、子どもたちは東京に住んでますけれども、これも小一の時からはそれぞれ手でバラバラに学校に通ってましたが、
名古屋の場合はみんなで行くんですよ。悪くないと思いますね。
とりわけ小一とかね、まだなんかいろんなことよくわかんないし、学校への行き方に迷っちゃうってこともあるでしょうし、交通事故の危険もありますからね。
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年笠の6年生が1年生の世話を見ると、6年1年だけじゃなくて全部の学年がそこにいて、
そうすると朝だけでも話しするようになるから地域の交流みたいなのもできますしね、
っていうようなことでそういうのが導入されているんでしょうね。
帰りはそれはクラスごとというか学年ごとというか、だって1年生は4時間しか授業ないけど、
6年生は6時間みたいなのもありますから、だんだんねみんな授業時間が長くなりますからね、合わないわけなんですけれども、
週に1回全員で下校するっていう日があって、週1だったと思うのは水曜とか木曜とかなんか決まってるんですけど、
その日はね、全員が学校上の6学年全員がまず校庭に出てくるんですよ。
で、分段ごとに分かれて帰るっていうですね、そういうのがありましたね。
でね、関係ないんですけど、その時にね、歌が流れてた。
あの名古屋というか愛知県って今でもそうなんですけれども、交通死亡事故数がすごく多いんですよね。
東京とかより多い。人口で言うと東京とか大阪の方が多いわけですけれども、
愛知県って事故多いし死亡事故多いんですよ。
いろいろな原因が言われているわけですけど、まず一つにはモータリゼーションが進んでいるというか車社会なんですね。
東京とか大阪だと地下鉄を使ったり電車バスを使ったりっていう公共交通機関が名古屋で発達しているので、そっちが便利なわけですよ。
とりわけ東京はそうですよね。本当にどこでも電車で行ける。網の目のように張り巡らされてますよね。
一方で名古屋ってやっぱりそこまでじゃない。地下鉄も走ってますけれども、当時桜通り線なかったからまだ三路線か。
私鉄も名鉄しかありませんしね。近鉄もあるんだけど。っていうような状況ですから、やっぱりそこは全く違う。
車がないうちってほぼないんじゃないかなぐらい。うちはなかったですけどちなみに。ぐらいですね。
車がありふれた当たり前のものなんですよね。
だから車の保有台数が多い。それから道が広いんですよ。
これは名古屋の都市計画に関わってくることなんですが、名古屋で育った人は全員小学生の頃に叩き込まれるんですけれども、
3年生の時に目で見る強度、4年生では強度の学習。名古屋とか愛知のことすげえ教え込まれるんですよ。
名古屋といえば破壊の地下街、名域にもありますけれども、地下街で火事になったらどうするのかということであったりとかですね。
災害ということでいうと東海大地震っていうのが絶対あるって言われてたんで、そういう時の避難、避難訓練は結構だから厳しかったですもんね。
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東京とはクレモノにならないなと思いますよ。マジモンの避難訓練をやると。
それから明治養水、愛知養水って多分愛知以外の人はほとんど知らないんじゃないかなと思いますけれども、
主に地下半島の話なんですが、養水ですね。
要は水がないと田んぼや畑が作れませんよね。あれを作った人たちがいるわけですよ。
そういう苦労の話であるとか、あとあれですよね、基礎三線の三線分流っていって、今もね、
基礎川、長良川、伊比川っていう3つの大きな川が流れているところ、これ愛知県と岐阜県と三重県の県境あたりにあるんですけれども、
千本松原っていってね、風光明媚なところではあるんですが、あそこに確か薩摩藩の人が江戸幕府に言われてやってきて大変な難工事をしてね、
犠牲者も何人も出たような工事があって、だけれどもそれで治水をした。川が氾濫して毎回毎回あのあたりの人たちは大変だったわけですよ。
それが薩摩藩の人たちのおかげで大変暮らしやすい土地になりましたって話とか、
そういう話を教えられるんですよね。だからあの辺の人たちの常識になってるわけですが、
そういう学習の一環なのかな、まあまあ流れじゃないですけど、愛知県ってね、車が多いっていうのを一つ、車の事故が多いっていうのを一つの理由として、
とりわけ名古屋ね、道路が広い。これは第二次大戦で名古屋でも大空襲がありました。
私の実家がある厚田へんにも、とりわけね、祖父祖母の家があった大瀬古町っていうのの近く、川、橋渡って隣ですけれどもには愛知時計っていう工場が、時計会社の工場があったんですね。
は?時計って思うかもしれませんけれども、例えばゼロ戦の計器ね、なんか今何キロで走ってるみたいなやつ。
それ車か。とにかく計器類って時計と基本的に構造とかそんなに違わないので、部品作ってたわけですよ。
その工場が米軍に狙われましてですね、もう本当にB-52が雨あられと爆弾を落としてった。
それであの辺でもたくさん人が死んでるし、名古屋自体がでかい都市だったんで狙われてるんですよね。東京大空襲みたいな感じで。
で、やけの原になったわけです。名古屋城も戦後再建されてるから全部コンクリートなんですよね。昔の名古屋城は残ってない。
名古屋城自体はすでに退化で、その前に江戸時代とかに失われたみたいですけど、もともとのやつだね。
ともあれ、そうやってその町が壊滅したんですよ。で、逆にそれだったらもういっそここから立ち直るためにはすごい都市計画を立ててやれっていうので、
当時の名古屋市が100メートル道路って言ってますけれども、ものすごいでかい道路をバンバンと東西南方に敷いたんですよね。
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そのおかげでやっぱり物流とかは便利になりましたし、車社会ってあの辺、トヨタをはじめとしてね、自動車工業が盛んですけれども、おそらくそういうとこにも影響したんじゃないかなと思いますが、
ともかくですね、それによって車がめちゃくちゃ走りやすい町になってるんですよね。歩行者よりも車が優先されてる感じ。道めちゃ広。
だがあんまり広すぎると片顔車線が普通なので、右折とか左折するときに車線変えの大変なんですよ。
なおかつ道が広いと名古屋走りって言って運転が乱暴になるんですよね。
簡易に結びつけていいのか因果関係がよくわかんないですけど、なんで死亡事故数が多いっていうね、そういう土地柄で、
集団と集団下降にもひょっとするとそういうことが影響してるかもしれませんね。
その方が安全ですもんね、みんなで帰ったほうがね。