面白い。
そういうのいろいろやってて、科学より理科ですかね、理科って面白いなって。別にテストで点数とか取れたわけじゃないんだけど、なんかそういうの面白いな。
で明版の結晶を作るとか、とにかくそういうのずっと手を動かすのが好きで、科学が好きになりましたかね。
いい先生がいたんだね。
まさにね、私たちが科学教室でやったようなことだね。
一番心が柔らかい時にそういう楽しい科学っていうのをやってくれる先生がいるってありがたいよね。
そこから、やっぱり高校大学って進む時に、その分野っていうのはどうしていろんなサイエンスがある中で化学っていうのが、
雄一郎さんの中心になってきたんですか。
確かにそれは、高校でもう一個すごい出会いがあったんですね。
高校の担任の先生、1年生の時。
その先生は、いろんな科学講座とかアウトリーチのチラシとかを配ってくれるんですよ。
で、僕がそういうの好きそうだからかわからないけども、特にこんなのあるよとか言ってくれると結構食いついて、車乗っけて博物館連れてってくれたりとか。
そんな先生。
その中のチラシに勇気の光で世界を照らすっていう張り紙があって、
ちょうど高校1年から2年に上がった時って、ベンゼンとか習い始めるんですよね。
勇気化学。
で、よくわかんないけど、かわいいなみたいな、かっこいいなみたいな、ベンゼンってかっこいい。
それの最先端の化学を学べるっていうチラシがあって、それがJSTのウィンターサイエンスキャンプってやつだったんですけど、
それに断書みたいな、なんでそういうこと勉強したいか紙を書いて提出して、
で、それでそのプログラムに参加したのが山形大学の木戸順次先生の研究室で。
そこで繋がるのか。
そこで高2の冬に木戸県に行って、本当大学院の先生、スタッフの学生さんと先生が目の前で光る文章を一緒に合成してくれて、
で、次の日、みんなでワイワイした次の日に作った文章を使って有機ELディスプレイを一緒に作ってくれて。
もうそこで有機ELと出会ってるの?高校生の時に扉が開いてるんだ。
パッカーンですね。
そこで、その頃って有機ELが携帯電話のサブディスプレイに使われたとか、そのくらいの時代なんですけど、
だからまだまだ鼻で笑われてたかもしれない時代なんです。
その有機物でディスプレイ作るなんて耐久性もないだろうと言われてた時代が、ようやく製品化になった。
ソニーが初めて、世界で初めてテレビを作った年なんですけど、その年が。
1年前くらいだったのかな。
もうすごい最先端を行く、最先端の設備で実験させてもらって、すごいかっこよかったし、やりたい、もっと勉強したいと思って。
そこで僕の行ってた高校が東京工業大学の附属高校だったんですけど、卒業研究っていうのがあると。
いいと思います。それでその理解でOKかなと思います。
この勇気とムキの化学をくっつけた境目の教会分野に飛び込んだのが、
ねぎしえいち先生なんですよね。
ねぎしえいち先生の出会いに続けていきたいと思うんですけど、
そのUQLを山形大学でやっている雄一郎さんに留学の転機が訪れたと思うんですけど、
どういった流れで留学先を決めたりして海を渡ったんですか?
そうですね。先ほどの高校でUQLやってた時に訪問した軌道研究室に進学して、
そこでドクターを取りたい、一刻も早く研究者になりたいんだって入ったんです。
その時にいろいろあって、5年一環のリーディング大学院っていう博士を取るコースがあるっていう話があって、
そこに進学をすると留学できるとか、企業へのインターンシップの機会を得られるとか、
あとは最も大きかったのは同じ志を持つ同期の学生と一緒に切磋琢磨できるとか、
その三拍子が揃っていてそこに編入しました。
そのおかげでまず留学をするっていう機会を、チケットを手に入れたんですけど、
どこに行くかっていうのはむちゃむちゃ悩んで、
例えば大御所の根岸県に行きたいとか、
なんかいろいろ、もうイギリスからアメリカ、もうどこもどこもあちこち10人くらいリストアップとかしたんですけど、
その時に僕がやってみたい研究として、超分子化学っていう分野があるというのを聞いて、
で、それやってみたいなと思った時に超分子の大御所っていうと、
ジェン・マリー・レーン先生っていう先生がいて、もうノーベル賞取られてるんですけど、
もっと僕、UQLやってるけど有機合成そんなに知らないなと思って、
有機合成も勉強したいと思ったらば、ハーバード大学に岸義人先生っていう日本人でも有機合成のエキスパートの先生がいらっしゃる。
こういう先生たちのところに行きたいなと思って、
僕の共同研究先の片桐先生と先生に相談させていただいて、
いろいろ話していた時に、岸研卒でジェン・マリー・レーン研でポスドクをしたっていう先生がパデュー大学にいらっしゃるってことが分かって、
それがアレックス・ウェイ先生なんですけども、その先生にもNice to meet youで、
もうコールドメールっていうんですかね、もう全く知らない状態でメールをして、
初め全然返信なかったんだけども、そこから返信いただいて、10通くらいメールやり取りして、
その頃はZoomとかなかったんで、スカイプでミーティングしようっていうことでスカイプをして、
その時はもう大学の寮に住んでて、後ろに自分の学会のポスター貼って、
パッと出たら、君のパーソナリティを見たいから、研究は後でゆっくり聞くから話をしようって、
生のスパゲティをマドラーに僕たち使ってたんですけど、それをネギ先生も取ってくるくるくるくるってかき混ぜて去っていく。
こんにちはって挨拶しても英語で挨拶してくださったりとか、
それでいてちょっと悩んでる時にお声掛けしたら僕のオフィスにおいでって言って席に座らせてくださって、
お話聞いてくださったりとか、とにかく奮闘を受けましたね。
その隣でこういう研究者っているんだっていうような。
幸せだなぁ。
懐かしいね。僕も科学棟にいて、あそこのビルディングのネギ先生の研究室でおいでおいでって中に入れてくれていただいて、
研究者が活躍していくために大事なこととかをやるために組織を作りたいっていうお話させてもらった時に、
どんどんやってください。大事なことですって言われて、アワードを作りたいっていうお話させてもらった時も、
本当に若手の人たちにとって役立つ大事なものを作ってくださいって言って審査員になってくれて、
ほとんど作った人、そういえば結一郎さん取ってきましたね全部。
先生と一緒に作って、でもこれねアワードが足りなくてポジション争いに負ける日本人の研究者多くて、
日本のアワード制度って100人ぐらい出しても2人ぐらいしか取れなかったりするんだけど、
僕たち審査するとね、若手研究者でアメリカのポジションを出す人たち20も30も賞あるんですよ。
アメリカの組織ってみんな賞を持ってるからね。だからそれがなかったから作ったんだけど。
僕今日話したいのはこの出会い、この寝石先生と僕なんかお寿司を何回も食べに行くような関係を作ったりして、
いろんなお話しさせてもらったんだけど、後から考えると寝石先生が僕たちにかけてくれた言葉とかそういう教えとかって、
僕たちがみんなに次の世代に伝えてくださいよっていうメッセージだったと思うんですよ。
ちょっとみんなに聞いて欲しいなーって思ってて、だから雄一郎さんから寝石先生との出会いとかもらった言葉とか、
ぜひこれからの化学、そしてサイエンスの世界で活躍したいと思っている人たちのために、ぜひ聞かせていただければと思うんですけど。
そうですね。寝石先生、やっぱり初めて寝石先生のオフィスに招いていただいたときが、
ドクターの2年生のときで、それこそ論文出るかなとか、卒業できるかなとか、
そのようなドキドキもありながら逃兵した初めての年だったんですけど、そのときに寝石先生すごいおっしゃってくれたのが、
大丈夫、大丈夫。どんな研究してるの?とかディスカッションもしてくださったんですけど、
大丈夫、大丈夫っていうのは、とにかく夢を持っていけば大丈夫だから、みたいな本当にニコニコ話してくださって、