だってアメリカ人の方だって、
一生懸命私に説明しようとしてるけど、
彼らも彼らの当たり前があるから、
私の当たり前とすり合わせてくれることはないわけ。
一生懸命丁寧に説明するけれども、
私が思っている世界観がここが違いますよっていう指摘はしてくれないから、
だから一緒に私とタツさんは一緒にすり合わせていかないと、
見えてこないのよね。
父親力が上がったって思ったエピソードがあったじゃない?
それ話して。
えっとですね、
ポットラックパーティーっていうのがアメリカだとよくあるんですけど、
日本人の集まりでもアメリカ人の集まりでも、
手料理を持ってね、お料理持ち寄りパーティーみたいなのがあるんだよね。
それで毎回僕が作るようにしたんだよね、ある時から。
ある時じゃないんだよ、実は初めから。
私一回目ですごく苦手だってことに気づいちゃったからね。
で、何持ってこうかなと思って、
パーティー料理だからみんな喜ぶのは海苔巻きだよねと思って、
いつも海苔巻きを作ってたらだんだんだんだんだん巻きが上手くなりまして、
なんか凝っちゃうんだよね、僕ね。
それで、竜巻きっていうあだ名がみんなからついて、
竜巻きをいつも楽しみに言って子供から言ってもらえるようになったりして、
で、あと春巻きですね、春巻きもこう巻く料理でして、
巻くの好きよね。
やっぱ見栄えもいいし、つまめるし、
なんかせっかく持ってくんだからみんな食べれるもの、食べやすいものがいいかなと思って、
で、竜巻きとか唐揚げとかいろいろやりましたけども、
やっぱりある時からデザートに行きたいなと思いまして、
ティラミスとかシフォンケーキとか行きましたけど、
今、下積み期間、十何年の下積み期間を経まして、
個々のシュークリームに行き着いたというお話をさせていただければなと思ったんですね。
たくさんのシュークリーム、非常にどこ行っても好評でいます。
そうそう、だって今、年間何個シュークリーム焼いておりますか?
たぶん300個ぐらいだと思うんですけど、
あの辻口先生のレシピに従いまして、
多少アレンジはしてるんですが、簡単にするためにね、
20分の工程で20分焼いて40分で全部出来上がるように、私、実験のテクニックを駆使して、
そうね、タンパク質実験だからね、シュークリームってね。
無駄な作業全部省いて、でも美味しさそのままに、みたいなのが届けられるような工夫をしたわけで。
生クリームとカスタード入れちゃったりとかして、
あとフルーツ入れるとギャルは喜ぶので。
はい、ということで、奏でる細胞、この4月はですね、少し間が空いてしまったんですけども、
ゆりかさんと一緒にね、コミュニケーションということで、
会話のやり方とか、方言とか、あとはバイリンガルとか、
そういったことをですね、話し合った会があるんですね。
僕のちょっとメモ書きについて、こういうメモ書きをし始めましたみたいな話もあるんで、
良ければ聞いていただければと思います。
そしてですね、その本編の後で最後になりますけども、
今年もインリアナ日本人会の方に呼んでいただいて発表させていただきました、
リュウジェイ論文賞っていうね、アワードを作ってるんですけど、
それをインリアナの方々に支えていただいて、
今年で9年目になるんですけど、
昨年がですね、大江千里さんのコンサートっていうのがありまして、
それの、そういう会の全体のうちの一部をね、やらせていただいて、
大江千里さんについて語らせていただいたんですけど、
今年はですね、上村カナさんという、トイレの神様という曲を歌った方が、
ニューヨークで今活躍されてるんですけど、来ていただいて、
すごい盛り上げていただきました。
非常に楽しい会になったんで、その辺の話をね、また最後に語りたいと思います。
じゃあお聞きください。
奏でる細胞。
奏でる細胞のシーズン3として、
僕が考えてるのは、これまでは編集ね、切りすぎてたのね。
そう?
そしたら、結構大事な、何かを考えて空いた間とかを全部消してんのね。
テンポよく話が行くようにしてんだけど、
例えばこの間レイさんが来てくれたときに、レイさんが、
実はこれ言おうか迷ったんですけど、みたいな感じで言ったときの、
この間が大事なの。
っていう間が大事なのね。
そうそう。
それがなかったから、下手だったなと思う、編集は。
で、触りすぎてたの。
だから、より取ったままに近い方にしたいわけ、俺としては。
だからそうすると、時間が長くなるの。
で、長くしてみたんだけど、すごい皆さん聞いてくれてるわけ。
あ、そう?それは嬉しいね。
嫌なのかと思ってた。
それは大介さんから学んだんだけど、意外と人は聞いてくれると。
だから、間延びしてる会話っていうのは良くないなとは思うんだけど、
何か考えて、難しい話してるときにじっくり考えてるときの間っていうのは、
意外と必要だったりするわけ。
そうよね。
だってそんなにさ、パッとさ、すごい深い話っていうか、考えたらさ、
確かに信用ならないよね、そういう人たちに。
そうでしょ。
うんうん。
ちょっとリアルじゃないわけ。
大介さんとかがポンって難しい話したときに、
うちらで噛み締めながら返事したんだけど、
うまく答えれたところだけを出したら、
え、そんな2秒でゆりかさんこんなにすごい答え返してるの?っていうふうになるわけ。
そっか。
だからその辺の編集を、こう少し伸ばしてもいいなっていうふうに思ってて、
より自然な編集になっていくというか、編集なしに近い状況で、
心に残るのはその時のことだなと思って。
うち、自分のおばあちゃんの介護をした時にね、
僕大学生の時におばあちゃんの介護をちょっとやってるんだけど、
おばあちゃんも子供の時の記憶とか、子供の時の仕草とかが残ってたっていうのがあって、
それを直接自分のスランプに重ねるのは変かもしれないけど、
直感的にちょっと日本語でノートを取ろうとか。
それは何?自分のルーツというか、
自分が学んできたことと同じことを続けていこうということ?
うん、なんかね。
自分が学んだ小中学生、幼稚園小学生、中学生の頃の学びに戻ろうっていうこと?
自分の研究のすごい難しい軸になってるところあるでしょ?
あれの構想をシナリオみたいな感じでノートに取ったり、
データを集めた時にその構想みたいなのをノートに書くのね。
それをアメリカに来て3年間ぐらいはずっと日本語で書いてたわけ。
で、その時の構想とかクリアにバーって残るし、いつまでも頭に残って、
それ以外のものはもちろん英語に変わって置き換えながらやるんだけど、
16年経ってるでしょ?だからあるところからどんどんどんどん僕は英語に切り替えていったのね。
それでノートも英語で取るようにしてるし、
研究の構想みたいなやつも英語で取るようにしたのよ。
で、うまくいってる時はよかったんだけど、すごい難解なものになって、
そして仕事がね、いろんなものが重なった時に、スランプに落ちた時にね、
なんか英語で構想練ったものたちが頭からちょっと薄れちゃったんだよ、自分の中で。
負担がかかった時に。で、意外とその前に日本語で作ってたやつとか、
英語でやったやつでも、日本の大学とか用にプレゼンで作ったやつとかで、
一回日本語で全部改めてやって残したやつとか、
あとはユリカさんと日本語でしっかり議論したやつとかって、頭にしっかり残る。
英語だって俺残ってると思ってたんだけど、なんか負担かかってたみたいで、
ちょっと頭の中がバーンて疲れちゃった時に、残らなかったんだよ。
で、だからなんかスランプを乗り越えて、それがちょうどシーズン1ぐらいの時に俺スランプ得てるんだけど、
あの時にいろいろ日本語でしゃべったり、ポートキャストで自分の声聞いたりしながら、
本当にバイリンガルの人たちとかでも、
行ったり来たりをやりすぎてしまって、アイデンティティがどっちにあるかわからないみたいな考え方。
いろんな考え方あると思うんだけど、その中でそういうの聞いたことがあって、
自分はちゃんと日本語のほうに体重乗せといたほうがいいのかなと思った時があって、
シーズン2のこの1年間ぐらいは、もうノートとかも日本語でとってきて、
そう、知らなかった。
英語でバッとメモった後にも日本語でそのサマリーを書くようにしてるの。
それいいかもしれないね。
わかる?
で、質問とかもキーワードとかバッと英語で書いて、そこから質問してたの。
だけどその隣にこの遺伝子の働きは臓器が変わっても一緒なんだろうかとか一言で日本語で入れとくの。
その質問をあげたいなと思ってたのね。
そうすると結局英語で質問するんだけど、ふわっとした質問じゃなくなる気がしたの。
気がしたというか、最近いいなと思ってるわけ、自分の中で。
で、そのスランプを抜けつつあるんだけど、
軸足を日本語にして、科学のディスカッションとかメモとかこれからの構想とかも、
英語と日本語混ざってるんだけど、全部英語でやってた時期に比べて、
やっぱり日本語を入れてる自分の方が落ち着いて前に進めてる感じがするっていうことを打ち明けたかったのね。
面白いね。子供たちに関して、やっぱり14歳以降は、
もう彼らがうちの子供たちね、選ぶ言葉でものの思考を深めていってほしいなってふうに思っているから、
中学から高校上がるくらいよ、このアメリカだったらば、
その時にはもう深い勉強が始まっていくじゃない。
だから英語と日本語を一気にするっていうのは、ちょっと至難の技になってくるわけ。
例えば、科学を理解するとか、数学でもだよね。
その時は、どっぷり英語教育を受けてるんだから、英語で理解していったらいいんじゃないかなと思うわけ。
で、時々私と話す時に、日本語でこういうことどう説明したらいいの?とかっていう話になって、
いや、こういうふうに説明するよって言うと、
ああ、一緒だね、英語と、みたいな言い方に変わってくるのよ。そうそうそうそう、みたいな話。
なんだけど、例えばメンタルヘルスのものの考え方ってなってくると、
日本語だと意外とザクッと理解してる言葉があったりして、
領域が、日本語の領域と英語の領域が違ったりするのよ。
この心の表現の仕方とか、家族との関係性の持ち方ってなった時に、
そうすると、言語によってくっきりはっきりさせる言語と、
心の領域みたいなものってこと?
そうそう、意外と英語ってそういうの進んでるな、特にアメリカは進んでるなと思ってて、
論の詰め方を、あのね、ギブアップしなかった。日本語で書いたから。
1、2、3って詰めていくときに、
1.01、1.02、ね、ジュジュジュジュジュってこう1、2、3って詰めていくときに、
決して諦めずに、英語のせいにせずにね、日本語として、
で、担当の先生も日本語をきちんと向き合ってくださったから、
とてもいい機会だったなと思っています。
そうそう、軸足っていうところで言うと、
なんかやっぱり日本語なんだなっていうふうに思って、
結構さ、あのー、ショックを受けたときもあった。
自信を持ってさ、何回もいろんな論文書いてきてるから、
英語の方の文章だって、しゃべる英語だって、
僕はそれなりに自分に自信を持ってやってきてはいるんだけど、
ことに書く方に関しては、何回も書いてきてるし、何回もうまくいってるはずのものが、
フローが良くないって言われて、真っ赤になって帰ってくるんだよな。
で、ある程度若いうちは、そうやって成長していくんだと思ってやってんだけど、
この微妙なニュアンスで、どこが改善されてるのかわからないようなところを真っ赤になって帰ってきて、
前の方がいいんじゃないのっていう気持ちもあったりしたり、
それはもうスタイルの違いになってきてんじゃないのとか、
好みの違いだよねみたいなふうになったり、
確実に良くなってるかどうかが、もうわからないレベルになってしまってるときとかに、
その不安みたいなのって、自信みたいなのって揺らぐよね。
だから、そういうのもあったのかもしれないけど、スランプのね、一つとしてはね。
だけど、それを乗り越えるために、日本語に軸足を置いたのが良くなったなと思うし、
明らかに、シーズン1からシーズン2で、この1年間でね、自分のしゃべりに自信が乗ったというか、
ああ良かったなと。だいぶいろんなものを取り戻してきたというか、
僕は根本に日本語を持って、英語も使いこなせる人というような立場が自分にとって満足なんだなと思ったのね。
少し自分の中で、全部、頭の中も全部英語でできる人にならなきゃいけないって思い込んでたの。
だから、それができないって思った時に、最初つらい気持ちもあるし、
逆にプライドがあるから、あえて日本語を中心に置かないようにしようと無理にしてる時もあったし、
でも、そういうのがいろいろ経験した上で、自分はこの軸は日本語で良くて、
で、あとは上手く英語で表現していくというような形で仕事をしていくというのがあって、
良いんじゃないでしょうか。
学んだっていう、そういう話です。
だから、そういうのも経験して、ゆりかさんのこのひらくの本。
ひらくに来るのね。
この本というものが、言語に向き合うだけじゃなくて、文化にも向き合うだけじゃなくて、人に向き合うでしょ。
そして自分に向き合う。
でしょ。
これって自分の言葉を手に入れる大事なステップだと思うんだけど、
それが、自分って何かっていうことに言葉から気づくこともあるんでしょ。
ここに感動したの。
母国語の大切さってこと。
だから、これに力を入れていきたいっていうのがシーズン3なんです。
心を開きながらも、言語っていうものとか文化っていうものに自分がどう向き合って、
何を感じたかみたいなのを自分の言葉で話していきたいなって思ってる。
そうだね。
だから、それをやりたい。
奏でる細胞。
はい、聞いていただきました。
バイリンガルとか、メモの取り方とか、方言とかね。
多分、方言の話って初めてなんじゃないですか。
気づくと、さっきも話してたけど、隠してる何かがあるのかもしれないね。
方言っていうことで。
ちょっと私、考え直します。
自分の心の深いところを。
何のことですか?
方言を使う自分っていうものと、英語を使う自分っていうものと、標準語で暮らす私っていうものをちょっと考え直したいなと思いました。
私、もっと深いところに自分の川が流れてるんじゃないかなって。
方言だったり、祖父母が亡くなったことで、祖父母がお話ししたことをよく思い出すのね、最近。
そうすると、そういうものが私の心の深いところで川となって流れていて、
そういうところを無視しちゃいけないんじゃないかなっていうふうに思ってるんです。
だから、ちょっと考え直そうかなって、自分でお話ししててすごく思いました。
それが聞けてよかったです。
少し重なるんですけど、インディアナ日本人会に行ったんですね。
そしたら、上村カナさんのトイレの神様っていう曲は一番最後でした。
今回も僕はゲストとして参加する形で、15分くらいお話しさせてもらったんですけど。
研究者の会の説明よね。
これまで若手の研究者を支えよう、若手の研究者のすごい研究っていうのを皆さんに伝えられるよう発信しようっていうイベントでやってきたんですね。
そっちが僕の仕事としてはやって、大成功に終わって、いろんな人から温かい声をかけていただいて、
本当に素晴らしい受賞者の方々が集まってて、
ウェブサイトとかでも公開されてるんでそっちも見てほしいんですけど、
UJ論文賞に関しては改めて別の機会にじっくり喋りたいなと思ったんですけど、
その後、いつものように夜教がありまして、ご飯がありまして、
一番最後のメインイベントのところに上村カナさんが来てて、何曲も歌いながら日本語で歌い続けるとおっしゃってたんですね。
日本語でコンサートをして、英語も混ぜながらやるんですけど、半々ぐらいでやるけれども、