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イタラジ、今回は、表現のもつ刷新力と、定式化してしまう可能性についてお話しいたします。
ある種の芸術理論に、言語・概念・思考を返さない、生の芸術といったような理念があります。
そこでは、思考は、感覚や感情から抽象されたものであり、純粋な根源的な表現を阻害しているとされます。
いわば、言語が身のたたきにされています。しかし、本来的に芸術とは抽象化されたものであり、その素材は現実から汲み取られております。
そして、我々が表現に触れるとき反応する最も、感覚も知的なものであります。
我々の目に留まるのは、我々のあらかじめ知っているものだけであります。
例えば音楽は、目的や対象を持たない、個性に依存しない、純粋な感情の感覚の表現の模範とみなされていることがありますが、
その構成要素は、現実に存在するものを抽象化したものであり、その背景には理論があるか、理論がなく混乱した印象を与えるものであります。
そして、その音楽を感じる我々も、聴いた音楽を抽象化しております。
我々にはまず概念があり、体験を抽象化して経験を形作りますが、同時に概念は経験に依存しておりますので、
概念と経験とが互いを形成しよう状態が生じます。
経験の液体と伸縮性のある容器との関係があります。
思考を目の形にすべきではありません。
表現体験を形式化されるのは、思考ではなくてそれ以前の実際的な方向づけの必要であります。
さらに注意すべきは、その概念を形式化する以上に、無理などの表現や感覚印象を定期式化いたします。
例えばドラマチックに演出された映画のマシンのようにであります。
本の内容を抽象化して紹介して、そもそも紹介は抽象化であります。
そういう意味だったのかと相手が驚いたときのように、現実を抽象化して表現したものが、人間の現実性質に揺さぶりかけるとき、そこにある境界に交差しようとする新たな連動があります。
それは定式化された現実認識の把握を一度開始いたしますが、そのとき同時に再構築が襲われます。
それはかつての認識の在り方ではありません。
その意味でもっとも攻撃的で直接なのが文学であります。
文学は定式化そのものの素材として悪く関わるであります。
同時に思考に偏り、主的に簡略化される空想になる傾向があります。
そして同様に、体験と概念の経験の織り出しを定式化しますように、感覚、感情をまた空想化いたします。
つまり、諸芸術諸表現には、現実の再構成という働きとともに、それぞれ等しく正規化され、文切り型に空想になる早さがつきまとっているのであります。
今回は、表現の刷新力と定式化してしまう可能性、芸術における認識や形式のお話をさせていただきました。
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ありがとうございました。