時間盲と自身の時間感覚
どうも、GO!です。日々の思考を一メモリずつ進めていこうというポッドキャスト、ぽつぽつhito-memory第4回になります。
今回も頑張って録音していこうと思います。
今回、ボイスメモということで残しておきたいのが、時間盲という、time blindnessという、最近そういう言葉に触れる機会があったので、
ちょっとこれも自分の中で一つのトピックだったので、ちょっとこうやって喋っていこうと思っています。
そもそも僕にとっては、時間というものが一個気がかりというか、奇妙なテーマであって、
もともと記憶が曖昧だったりとか、時間の流れ、時間が経過していくということがどうも感覚的につかめないなという、
なんか自分が時間的に曖昧な存在だなという意識が昔から強くあって、
例えば数年前の自分、あるいはもう数週間前、あるいは5日前の自分と今の自分がこう連続している感じとか、
その間にこういうふうに時間が経って、で自分もこう変わっていって今があるよねっていう、
なんかそういう時間の流れとともに連続しながら存在している事故みたいなもののイメージというものが、
何となく曖昧な感覚があって、もちろんそれは皆さんそういう部分はお持ちだとは思うんですけれども、
自分の中では一個それが特別なテーマで、自分がすごく時間的に曖昧な存在だなということを強く意識して、
多分10代後半から何となくそういう意識があったんですね。
それで今日お話ししている時間網という概念を知ってちょっとびっくりしているというところなんですけれども、
もともと僕の時間にまつわる自分の曖昧さみたいなものはどういうものだったのかなというのを考えて思い出していたら、
数年前まですごく自分が何か気がかりというか、よく考えていた事例があって、
学生の時代の時に、京都の下鴨の辺りに下宿していたんですね。
夜帰り道に近くの下鴨神社、ちょっと森になっているような、林になっているような下窯神社の敷地内を通って近道して帰るというのが結構常だったんですね。
下窯神社の中に入りまして自転車行為で進んでいくと、夜も暗くてそんなに周りも見えないし、
大体木々がずっと同じように並んでいる中を北にずっと上がっていくという。
それがあるところで木々が途絶えて、道に逸れて普通のアスファルトの道に戻って下宿に着くというところなんですけれども、
なぜかその時に持っていた感覚というのは、まず下窯神社に入る。
その下窯神社の中をずっと自転車行為で抜けていく。
抜けていくんだけども、ずっと大体同じ風景でそのまま進んでいく。
で、下窯神社を出るという、こういう流れなんですけれども、
その間の時間というものが何かないような感覚というんですかね。
下窯神社入って、下窯神社を出てしまえば入ってからの時間というのがもうない。
下窯神社と入って出るというのがギュッと入ってすぐ出ましたみたいな。
この間の時間というのは本当にあったんだろうかみたいな。
なんとなくそういう感覚があって、これをずっと不思議に思っていて、
その不思議さというのはちょっと今では自分が何で不思議に思っていたというのは、
当時ほどには強く意識ができないんです。
ただ考えて、今から振り返って考えると、点と線みたいなことなんじゃないかなと思ったんですね。
下窯神社に入るという点がある。
時間網とタイムブランディネス
で、下窯神社に出るという点もある。
だけれども、その間はずっと同じ木々が並んでいた風景で、ずっと変わらないからそこに点というものはない。
僕自身は時間を点で捉えることはできるけれど、
その点と点の間の連続している時間、経過していく時間みたいなものを線として把握したり、
自分に留めておくことが苦手なのかなということですね。
もう少し言うと、僕自身も生まれてからいろんな点があって、いろんなことを経て、確かに連続して生きてきて今に至っているんですけれども、
そのいろんな間に流れてきた時間、自分が経験してきた時間の流れみたいな、
それを幅を持った、長さを持った時間、人生として多分感覚するのが苦手なんですね。
全く共感できない方には何言ってるのかと思うんですけれども。
なので僕の場合はそういう時間の連続性を帯びて生きてきた人間、事故というのが曖昧なので、
自我というものの曖昧性とか、あるいは可変性みたいなものがテーマにもなってくるんです。
こういった時間についての自分自身の感覚というのが1個トピックというかテーマではあったんですけれども、
そこで今日の本題なんですが、最近僕の奥さんにあなたは時間網じゃないですかということで、
あるネットの記事が送られてきて、それが時間網、タイムブランディネスの記事でした。
もともと奥さんには僕がよく物を失くしたりとか何かを忘れたりとかちょっとボケっとしている時間があるので、
ADHDじゃないかと、程度はあるにしろADHDなんじゃないかと言われていて、
そう言っている彼女もよく携帯がないとか何とかがないとか言って、
あんたちゃうのという感じであでひであでひで言っているんですけれども、
そういう中でADHDの位置形態としてタイムブランディネス、時間網という症状というかそういう切り口がどうやらあるみたいですね。
これがどこまで一般的に知られていることかわからないんですけれども、
時間の経過とかをうまく感覚できない、それは脳機能なりの神経構造の問題で一定数そういう人たちがいるということですね。
その人たちはすごく時間を全く守れないとか、
大体の人が例えば本を読み始めて、大体今30分ぐらい経ったかなとかいうそういう感覚があると思うんですけれども、
そういう人たちは気づいたら3時間経ってたとかそういうこともあったり、
あといろんな動作に時間がかかる。
しかもそういった時間を加味していろいろ組み立てて行動するのが苦手。
昼の12時にあそこに着かなければいけないから何分でシャワーが入って、何分で歯磨いて、
あそこ何時に家出ればっていう、まず組み立ても難しいし動き出すのもちょっと時間かかるみたいな、
そういう時間についていろいろ意図的ではなくて本当にそこの感覚が鈍いというか、
そういう人たちのことを時間を守るというらしいんですね。
特殊な感覚とハッピーであること
僕はそうですね、確かに会社で働いたりとかは今したことはないんですけれども、
一応センター試験とか一応突破してきておりますし、
すぐさま生活に支障が出るというほどではないんですけれども、
確かに思い当たる節もいくつかあったりして、
シャワー浴びてて5分くらいでシャワー出るだろうと思ってたらずっと20分くらいボーっとしたりとか、
確かにそういうこともあるみたいなんですけれどもね、僕自身。
それはタイムブライアンスというのが脳の認知とか機能の部分という話と、
あともう一個はドーパミンがあるときはとても活発で出たり、
あるいは何かに熱中しちゃうとめちゃくちゃドーパミンが出て時間を忘れちゃうとか、
そういうドーパミンの量の増減とかそういう二方向の脳の話らしいんですけれども、
あんたは時間脳じゃないですかと言われてへーって思ったんですね。
昔は結構自分のある程度人とは違う特殊な感覚みたいなのがすごくそれを大事にしていた部分もあった。
ですけれども、今は何というか、それって脳の話だよねとか、
そう言われても別に確かにいいかというか、
もしそれで薬とか飲んで治るのがあるなら生かしたいなとかそういうふうな気持ちなんですけれどもね。
それで最近少し思うことは、自分もそうですけれども、
いろんな人の特別な感覚とか人とは違う特殊性みたいなものに対して、
すごくその特別性とかあるいはそこから生まれ得る表現とか、
それを突き詰めた先のものというものもとても大事だと思うんですけれども、
意外とそれって何かの側面では病であったりとか、あるいは側面では脳の障害であるとか、
何かそういう形で何事にも原因があったりして、
実はいろんな人がそういうものを抱えたりしていて、
そういう特別性も大事だけれども、まずみんな能動的にハッピーであった方がいいんじゃないかとか、
そういう感覚もあって、なので自分がずっとテーマにしてきた時間というものが、
時間網じゃないかタイムラインなんじゃないかという話は、
別に全部全てを科学的な出来事に還元する必要はないんですけれども、
そういうものも受け入れながら気楽にいろんなことを眺めていった方がいいんじゃないかなと、
最近はそういう風に感じたりしています。
ということで今回は時間盲の話でした。また次回までよろしくお願いします。