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フェスティナレンテ、この放送はSWC🦥SWCreatorsコミュニティメンバーのワーパパCTO🦥がお送りいたします。
今回は、傷の舐め合いという話題についてお話しできればいいかなと思いました。
2つ前の放送のエコシステムモデルの中で、本当はお話ししようかなと思ったんですけど、ちょっと経路が違うなと思ったので、別枠で放送したいと思います。
傷の舐め合いは何の話題かと言いますと、鳥井博文さんのボイシーの放送、「傷とケアの優しい空間が広がるほど、世間は金と実力主義に流れてしまう。」という放送の中で、傷の舐め合いというお話がありました。
これがSWCのメンバーの間で、特にエッグセアスタンドFMの中で話題になっていたと。
私自身、この傷の舐め合いという感覚はよく実はわかっていなくて、解釈間違っている可能性がすごくあるんですけれども、自分の中での解釈をちょっと喋ってみたいなと思います。
鳥井さんの放送の中では、こういうことを言っていたのかなと思うんですけれども、
生み出したコンテンツをコミュニティの中で批判しづらくなるよねと。
作り出したものがガラクタであっても、称え合ってしまうようになると。
それを批判しようものなら、なんでそんなことを言うんだ、のように言われてしまう。
つまり建設的な意見であっても、自分たちを称賛することを優先して、そういった建設的な批判のようなものは受け取らないということが起こり得ると。
結果的にそれが集団の成長を阻害するし、周囲の人からも距離を置かれるという可能性がありますよね、というお話かなと理解しました。
傷のなめ合いは、辞書で引いたりwikipediaとかを見ると、似たような不幸のもとにあるものが慰め合うことで、結構軽蔑的な意味を含みますと、
ただ互いを甘やかし合っているような状態とか、前向きに改善する努力をしていない状態のようなことを指すというふうに書いてありました。
これは人間関係での傷のなめ合いというのは普通にあると思うんですが、クリエイティブの中での傷のなめ合いというのがちょっとよくわからなかったんですよね。
人間関係での傷のなめ合いは普通にあると思います。
例えば会社に対して愚痴を言う飲み会みたいなのはそれに当たると思うんですけれども、会社は俺たちのことわかってくれないよなとか、そうだそうだみたいな。
でも、これで文句言ってもしょうがないから転職もしないし、また明日から普通に仕事するか、うんうん、俺たちかわいそうだよな、うんうん、みたいな。
こういうのは傷のなめ合いと言えそうな気もします。
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実際のところどうかはわからないです。本人たちはどう思っているかもわからないですけど、というのは思うんですよね。
クリエイティブの方がちょっとわからなかったのが、自分が作ったものが理解されなかった。
だがそれでいいとなった時に、それが自分のスタイルだから貫くみたいなものなのか、違うのかっていうのはちょっと外からは判断しづらいなと思います。
お互い称賛し合うこともあるでしょうとは思うんですが、それが前向きのために次のクリエイティブを作るためにやっているとかであれば、傷のなめ合いとは言いづらそうな気もします。
なので自分の世界観の中ではクリエイティブの領域での傷のなめ合いっていうのはちょっとしっくりこなかったんですよね。
クリエイティブは特に労力を使って作るものなので、これが傷のなめ合いだと思うっていう例は1個あります。
作ったものが評価されませんでした。なのでもう作りません。だが自分の作ったものは今でも良かったと思っています。
これ以上作らないっていうのは傷のなめ合いと言えそうですが、その後にもう一度作るっていうことをしているのであれば、それは傷のなめ合いなのかなというふうにはちょっと疑問があります。
トリーさんがおっしゃってた傷のなめ合いっていうのは単純にそういう話でもなかったと思うので、ちょっとそこの言葉と私の世界観とのギャップもすごいあったかなと思います。
トリーさんがおっしゃってるのは、前向きな批判が無視される。それがコミュニティにおいて、集団においてっていうところかなと思います。
それを無視するのは確かに成長阻害するなというのはおっしゃる通りかなと思いますが、それの表現が傷のなめ合いという言い方が適切なのかはちょっとわからなかったなというふうには思います。
はい。なので、クリエイティブしながら次のサイクルを回して物を作り続けているんだが、それは慰め合いをしているのかというと、ちょっとそうとは言い切れなさそうというのが自分の中でも感覚ですね。
歯磨きをしながらお菓子食べるみたいな、それって並立するんでしたっけ?みたいな感覚はありました。
ちなみに鳥居さんのことはめちゃくちゃリスペクトをしているので、批判をしたいわけではないですね。自分の中での世界観とここだけマッチしなかったみたいな感覚は若干あります。
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で、センバズルの例ですね。センバズルの例はすごくそうだなとは思いました。
いらないものを押し付けてっていうのはめちゃくちゃ問題だなとは思うんですけれども、これは傷のなめ合いというよりはコンテキストを超えたときのマナー違反の話だと思ったんですよね。
センバズルを作って送る人はセンバズルが良いものであってっていう体で送ってるんだと思うんですよ。ある意味宗教儀式と言いますか。
祈りを込めて送った。それで病気が併有したり災害から良い方向に好転するみたいなことを祈って送っているみたいな宗教儀式的なものかと思うんですが、
ただそういったものは普通に勘弁してください。それには何も効果もないですよね。そういったものを送られたら普通にゴミになるので迷惑なのでやめてくださいという風なコンテキストが今大半を占めていると思います。
なのでここのコンテキストのギャップを超えたときのマナーを送る側が認識していないというところの問題なのかなという風に思ったので、ちょっと傷のなめ合いとはちょっと違う文脈の話なのかなとも思いました。
もしこれが仮にですね、俺のセンバズルを誰も評価してくれないんだ。だから傷ついている人たちにセンバズルを送って傷のなめ合いをさせてくれみたいなことであれば、傷のなめ合いを想定したクリエイティブなんでしょうけれども、そんなことがあるのかはちょっとわからないですね。
でもそうだとしたら怖いなぁと思いました。すいません、笑ってしまいました。いらないものの押し付け合いは確かにまずいなという風に思いますし、そこに関しては気をつけないといけないんですけれども、基本的にコンテキストの話とかマナーの話かなと思うのでましたというところですね。
はい、とはいえ外部から見た時の課題は確かにあるようなというふうにも思いました。あいつらは傷をなめ合ってるよねというふうに外部から見えることで人が近づかないみたいなことは多々あると思います。これに対してはいろいろ配慮は必要かなと思いました。それはすごくおっしゃる通りですね。
外部に対して、例えばネタミソネみを言って自分は何を作らない。でも自分たちは良いことしてるよね。よかったよね。自分たちは優れてるよね。みたいなことを言いながら、でも自分たちはやっぱり行動しない。みたいなのは外から見えるというよりは普通に、確かに傷のなめ合いかなとは思います。
で、肝は、私の中での肝はクリエイティブをし続けるかどうかみたいなところかなと思います。特にその多産多士ですので、クリエイティブは多産多士で確立論だという前提のもとを話しているというのがありますね。
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なので、その中では認められないかもしれないという中で、確かに同じものをずっと作り続けるとクリエイティブが良い方向には進まないみたいなことはあると思うんですけれども、いろいろとずらしながら作っていくということを続けていけばいいのかなというふうには思いました。
ということで、傷のなめ合いについての私なりの考えでございました。ありがとうございます。それでは、スロスロスロース!