00:01
水草
久尾十蘭
朝の十時ごろ、俳優のドクトル関亭が、ネギとビールを下げてやってきた。
変な顔をしていますね。どうしました?
田坂で池の水を落とすのが耳について眠れない。もう見番になる。
あれには私もやられました。池を干して畑にするんだそうです。
それはいいが、そのビールは何だね?
藍鴨で一杯やろうというのです。もっとも、アヒルはこれからひねりに行くのですが、
田坂のアヒルが水門を抜けてきて畑を荒らしてしょうがないから、おびき出してひねってしまうという話なのである。
関亭は田坂の一人娘と難しい仲になっていて、娘のママ母が二人をこっそり庭で会わせたりしていたということだったが、
福音してくるとすっかり風向きが変わり、娘を隠したとか逃がしたとか、そういう噂をよそから聞いていた。
そんな鬱憤も大いに手伝っているのだと察した。
釣り針に土錠をつけておびき寄せましてね。その場でメスで処理してしまうんです。
注視ではよくやりましたよ。そんなことを言いつつ尻歯処理をして出かけて行ったが、なかなか帰ってこない。
昨日、田坂の女中が来て、誰かアヒルを殺して矢部の中に押し込んでありましたんですが、
もしお気持ちが悪くありませんでしたら、と言って大きな手歯を一つ置いて行った。
昨日誰かにやられ、今日また関亭に占められたのでは、田坂のアヒルも楽じゃないなどと考えているところへ、
関亭が変にぶらりとした様子で帰ってきて、手に握っていたものを縁の端へ置いた。
髪の毛がマリのようにくぐまった不気味なものである。
それはなんだね。
こんなものがアヒルの胃袋から出てきたんです。
まあ、見ていてごらんなさい。
関亭はひきつったような笑い方をすると、もさもさを指でかいさぐって、小さなひすいの耳飾りをつまみ出した。
これはヒサコの耳飾りですから、髪の毛もたぶんヒサコのでしょう。
ママ母がヒサコを殺して池へ沈めたのをアヒルがツツキ散らしてこれが胃の中に残ったというわけです。
03:07
えらいことを言い出したね。
いや、そういえば思い当たることがあるんです。
二月ほど前、ママ母が疲れて困ると言ってポリモス状を取りに来ましたが、
あいつは新薬マニアですから、ポリモス状のアヒ酸をどう使うかぐらいのことはちゃんと心得ているんですよ。
アヒルが人間を食うかどうか、それもすこぶる怪しい話だが、
死体を池へ沈めたものなら、池を干したりするはずがない。
このごろ調子がおかしいと思っていたが、だいぶいけないらしいとそれとなく顔を眺めているうちに、
最近の石蹄の一句が心に浮かんだ。
水草の冷えたるママを夏枕。
ふと妙な気当りがして尋ねてみた。
田坂ではアヒルをたくさん飼っているの?
いいえ、一羽です。
あいつもその一羽のアヒルから足がつくとは思わなかったでしょう。
よくできていますよ。
ことわりというのは、なかなか油断のならんもんですね。恐ろしいもんだね。
これで石蹄が自白したようなものだと思うと、
暗い水草を枕にしてひっそりと横たわっている娘の妖艶な死に顔がありありと目に見えてきた。