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2020-12-28 12:05

#228 よく考えて依存する

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「ヒトへの依存」というのは実に厄介だ。相手のあるものだから、思うように依存させてもらえなかったり、依存できたとしてもずっと続くとは限らない(多くの場合、続かない)。依存先として安定しないことで、依存者の精神は不安定になる。依存したい側も不安定なら、依存される側も時に不安定である。私のようなサイコパスなら、たとえ無慈悲と思われても過度に依存させない。めんどくさい。依存先としてふさわしくないことをあの手この手で伝えるだろう。しかし、世の中の多くの人は慈悲に溢れている。「私が彼を見捨ててしまったら…彼は」などと他者の人生にまで責任感を発揮し始めるのだ。人として美しく見えないこともない。彼はどうなってしまうのか。確かに、彼はどうなるんだろうね。しかし、それは彼の課題であり、あなたの課題ではない。/サイコパスのラジオは、サイコパスがサイコパスの視点で語るラジオです。斜め上の視点に触れたり、サイコパスについての理解を深めるきっかけとなることを目的としています。/パーソナリティ:うえみずゆうき /【脳内議事録】というマガジンをやっています。https://note.com/y_uemizu/m/md0e3af51acf5 【脳内議事録について】「本音は傷つく、高くつく。」毎日更新のエッセイ。認識の解像度を上げるための思索の旅の記録です。うえみずゆうきの考えたことのすべてがここにあります。ご自身の考えと対比させながら、人生観を磨き上げていくきっかけの1つにしていただければ幸いです。マガジン購読者限定の特典として「サイコパスの裏ラジオ(音声)」と「月例反省会(動画)」も毎月プレゼント。ぜひ購読ください!

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みなさんこんばんは、上水優輝でございます。 サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、よく考えて依存する、という話をしたいと思っています。 人間はですね、何かに依存しながら生きている。これは当然のことですよね。自分一人でこの世界で生きていけるか、生きていけないか。
今、僕のテーブルにはコーヒーがありますけども、このコーヒーを僕はね、ゼロから作ろうと思ったら、もうとんでもない労力がかかるんだけども、
まあいろんな方々のおかげで、このコーヒーを簡単に飲むことができるというわけですね。 そしてこの収録はマイクを使ったりとかね、
パソコン使ったりとか、いろいろやってるわけですけども、こんなパソコン作ろうとか、このマイク作ろうと思ったらね、とんでもなく労力がかかるわけで、やっぱりその人の力を借りながら、依存しながら生きている
という大前提があるわけですが、それにしてもですね、誰かにオンブに抱っこになっている、依存的すぎる人たちっていうのは結構いるなぁと思って、
今日、依存について考えてみたいなと思ってるんです。 依存って言っても、人に依存するっていうのもあれば、何かのものに依存するっていうこともあれば、何かのことに依存するっていうこともあると思うんですね。
僕自身は、もう別に、かなり依存体質だなぁという自覚はあるんですけども、基本的にはですね、ものとかことに限定して依存するように心がけています。
例えば、長らく音楽、音楽活動に依存してきました。作曲をするとか、作詞をするとか、演奏するとかという形で、そういう体験に依存してきたんですけども、
そういうことっていうのは逃げないですよね。音楽は逃げないし、どっちかと言ったら僕がいつも逃げているという感じで、音楽は逃げないんだと。
だから、ことは依存したところで答えてもくれないし、逃げもしないということで、自分自身で完結できるよねっていうのが一つですね。
で、ものもまた逃げませんよね。逃げない。例えば、僕は結構カフェインに依存していたり、最近だいぶいいんですけども、酒に依存していたりとかっていう感じで、
ものもね、僕が望めばいつでも受け入れてくれると。もちろん副作用はあるんですけども、別に酒側が僕を拒否したりしないわけじゃないですか。
という感じで、ものやことっていうのは拒否せず、そして意思を持たず、常にその依存者を受け入れてくれるっていうのがあるなと思ってるんですね。
なので、僕は迷惑はかからないという、まあ、確かに酒に依存してある中とかだったら迷惑はかかっちゃうけど、そうじゃなくて、そうじゃない範囲であれば迷惑はかからないよねと思って、ものやことに限定して依存しているわけでございます。
で、結構ね、世の中見てると、ものやこともそうなんだけども、人に対して依存しているっていう人は結構多いなと思うんですよね。
別に必ずしもダメだって言ったわけじゃないけども、依存しすぎている人が多いなと思うんですね。
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でも人っていうのはね、さっきのコーヒーとか酒とか音楽と違って人ですから、じゃあ相手も同じように、自分と同じように、意思があったり感情があったりするわけじゃないですか。
だから自分が例えばAさんに依存したいなって思っても、Aさんの立場とかAさんの状況とか気持ちとかあるわけだから、Aさんは常に依存させてくれるかと、そうじゃないですよ。コーヒーじゃないからね、Aさんはね。
という感じで、依存先の相手がね、Aさんがね、その依存させ続けてくれるかというとわからないと。
もっと言うとコーヒーへの依存というのは、例えば1日に1杯毎日飲んでたっていうのが2杯、3杯、4杯、5杯ってなっていくみたいな依存をコーヒー側は拒否することはないけども、
人間だったら嫌ですよね。例えば1日10回LINEしますっていうのが、1日20回、30回、40回だったら、1日500回LINEしますだったら、やっぱ嫌ですみたいになっちゃうっていうのはあったりしますよね。
みたいな感じで、依存度合いっていうのが、人間は一番最初に言ったみたいに依存する生き物だから、依存することでいわゆる保管し合うというか、依存することによって自分が成り立っているっていう生き物だから、それを他者で保管するような形になっちゃうと、
他者なくして自分が成立しないということで、他者にかなり依存的になっちゃうということなんですよね。
僕みたいなサイコパスだったら、そういう過度な依存されているなと思ったら、無慈悲な対応をしますけども、厳しいことは言ったりはしないけども、かなり無慈悲に距離をとっていくと、上手に距離をとって依存させない、
武道みたいなね、間合いを常にとるみたいな、よく人間関係の距離感をとるみたいな話をしてますけども、まさにこのことで依存させない、させないと言ったらあれですけども、させすぎないようにすごい気をつけているんですね。
それは重たいから、めんどくさいことになりますからね、あまり背負う人のことをね。って感じでかなり距離をとります。
ところが多くの人っていうのは、かなり優しい、浄土にあふれているわけじゃないですか。だから慈悲深くですね、やっぱり頼られると応えたいとかって気持ちはあるみたいですよね。
多くの、90数%の正常な人間というのはきっとそうなんだろうと。私がね、あの人見捨ててしまったら、あの人どうなるんだろうみたいなことで、私が何とかしなきゃみたいにね、なんか責任感、勝手に他者の人生に責任感を持ち始める人っているんですけども、
まあ確かにそれはね、一見美しいんだけども、じゃあ背負えますかと、他人の人生を。無理でしょ、無理なんですよ。
だって、残り例えば50年あるとして、50年間もう片時間離れずに一緒にいるって無理じゃないですか。
だから結局最終的な責任は負えないのに、責任を負ってどんどん相手を依存的にさせてしまっているという責任も実はあるんじゃないかと僕は思うんですね。
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そもそも依存している、依存する人っていうのは、依存する人っていうのは全員依存するんだけど、人に依存している人っていうのは、要は自分に足りないからその人に求めている状態、何かが足りないから保管するために、それは寂しさかもしれないし、
何なのか分かんないけども、何かを埋めるためにその人と接しているわけだけども、それはその人の課題なのであって、依存される側の課題ではないですよね、本来ね。
でも、それを依存される側が責任を持った瞬間、依存される側の課題でもある、みたいな感じになっちゃって、よく分からない運命共同体が成立してしまうわけですよ。
つまり、人依存の成れの果てっていうのは、さっきコーヒーがね、1杯2杯3杯ってだんだんこうね、深くなっていくみたいに、人への依存もね、歯止めをかけなければ、距離感を良いところで止めなければ、
どんどんどんどん深掘りして、もう本当なくては生きていけないみたいになっちゃうんですよね。
で、なくては生きていけないとこまでいくと、今度重たくなっちゃうから、重たくなってもう耐えられませんって急にパンってリリースしちゃうんですよね。
そこまでリリースしちゃうから、相手はもうすごくそれなくしても本当に生きていけないって状態になっちゃってる状態だから、そこでリリースされるともう死ぬしかないとか、
もうね、自傷行為するしかないみたいな感じで、極端なメンヘラみたいな行動を取っちゃうんだと思うんですね。
もちろん病気、病的になってそうなってるのはあると思うんですけども、やっぱり依存させてる側の問題も僕はあるのかなと思っています。
結構あると思っています。ただ、それを言い出すきりがないので、依存される側はですね、
何だろうな、応えたいって思ってるんだったら、責任を持ちたいって思ってるんだったら好きにすればいいけども、
なんかなんとなくな善意で、かわいそうかわいそうとかあるけど、なんとか自分がしなきゃ自分ぐらいしか頼る人いないんだろうなみたいなので、
変な情を発揮して依存させると共倒れするので、そこは気をつけた方がいいんじゃないかなというふうに思います。
さて、依存する側の人にもう一回話を、視点を戻していきたいと思うんですが、人に依存するっていうのは今言ったみたいに、
相手ありきのものだから、どんどん泥沼化していくんですよ。人に依存するってめちゃくちゃ危険なんですね。
なので、それに相手の人生も滅ぼすというか、相手にも迷惑かけるので、依存する側はですね、人に依存するっていうのはめちゃくちゃ慎重になった方がいいと僕は思っています。
それは人と付き合うなっていう意味ではなくて、依存の仕方ですよね。
今依存しすぎてないかなっていうことをかなりチェックして、できれば依存っていう形じゃなく人と関われるのがいいんだろうなというふうに思っています。
でも人間ね、依存しないと生きていけないわけじゃないですか。じゃあ何に依存するかって言ったときに、
物やことですね。ただ物はさっき言ったみたいにカフェインとかアルコールに依存しちゃうと、やっぱり身体的に今度リスクがありますよね。
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体に不具合が出てくるので、あんましそういうケーキとか甘いものに依存するとかカフェインに依存するとかっていうのは健康的に良くないので、それもまた良くないんだろうなと。
僕はここが課題ですね。これ良くないんだろうと。
体に入れないものだったらまだ幾分か増しで、例えば洋服に依存する。いっぱい洋服を揃えることで、自分の依存感みたいなものを埋めていくってこともできるんだと思うんですけども、
今度それは自分のお財布事情とか、クローゼットのスペースとかっていう空間とかね、そういったリソースの問題が出てくるっていうことで、むずいなと。
で、僕がお勧めしたいのはことに依存することなんですよね。ことっていうのは比較的物にも通ずるんだけども、物ほどリソースに縛られないということで、
例えばですけども、散歩、筋トレ、読書っていうのはことですよね。本を読むこと、筋肉を鍛えること、歩くことじゃないですか。
これらは例えば歩ける場所なら別にフランスだろうがイタリアだろうがどこでもいいわけですよね。日本でももちろんいいですけど、どこでも歩けると。歩ける場所だったらね。
し、筋トレだったら両手広げて寝転がれるぐらいのスペースがあればどこでもしようと思うことができますよね。
読書も本というものがいりますけども、電車の中でもベッドの中でもトイレでもお風呂でもどこでも読めますよね。
っていう感じで、時間とか場所にもすごく寛容である、多様性があるということで、依存する先としてはですね、実はことっていうのがとても素晴らしいと。
なぜなら自分でコントロールできるから、コントロールしている感覚っていうのは、自分で生活をコントロールしている感覚が持てるんですね。
人に依存すると相手歩きだから結局難しかったりとかするし、物だったらさっき言ったようにリソースに縛られるので、それこそ金持ちで時間持ちでないと難しいとかいうことが起こってくるんだけども、
ことに関してはまずしかろうがなんだろうが、今すぐできるので、ぜひ何か依存してしまうなっていう人は何か依存できることはないだろうかということで、ことベースで考えていくっていうことがすごく重要なんじゃないかなと思います。
特にね、繰り返しますけども、人に依存するっていうのはあんまり精神衛生上良いものではないので、本来人依存するんじゃなくて、やっぱり人に貢献する、そして貢献し合うみたいな関係っていうのが、
実は一番美しく、そして爽やかであると。依存し合う人間関係っていうのはドロドロしてて、なんか淀んだ川みたいなね、あんましいいものではないと思いますので、人間関係っていうのはあくまでお互いに気持ちよく貢献し合える関係に留めておいて、
あんまし依存せず、依存したいんだったらことにどっぷり依存すればいいんじゃないでしょうかというお話でございました。
よく考えて依存していきましょう。本日は以上でございます。またお会いしましょう。さようなら。
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