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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。 サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は損得勘定と無条件についてお話ししたいと思っています。 損得でしか判断できないなんてクズだと
もっと無条件の行いをしなさいというふうなことは言われてきたなと思うんですけども、実際これを
やれているかというと、誰もやれていないんじゃないかなと思ったりもするし、 やったところでそれが良い時もあれば悪い時もあるだろうということで、今日は損得勘定とか
無条件の行いみたいなところについて考えてみたいなと思います。 無条件の行いって言って
継続的なものもあれば瞬発的なものもありますけども、瞬発的なその無条件の行いの分かりやすいやつって言うと、
例えば横断歩道の前で今、あなたそして私がいて、黄色いカバーつけた、ランドセルに黄色いカバーつけた小学校1年生みたいな子がいて、
赤信号なのにバーって走っちゃったと、小学校1年生ぐらいの男の子か女の子か知らないけども走り出したと、向こうからすごい勢いでトラックが来てると、
これはもうね、このまま行くと引かれてしまう。でも自分が飛び込んで助けようとすれば、もしかしたら助かるかもしれない。そんなシチュエーションで飛び込める人っていうのは無条件の行いっぽいですよね。
結構90年代とかのドラマとかで良いお父さんみたいな人が飛び込んで死んじゃいましたみたいなシーンってよくあったような気がするんですけども、
まさにそんなシチュエーションかなと。どうでしょうか?飛び込みますか?迷わず飛び込みますか?それともちょっと迷うけども飛び込みますか?それとも飛び込まないかなって感じですか?
いろいろあると思うんですけど、実際その2番目、迷いながらでも行くっていう人はですね、多分飛び込まないですね。だから迷わず飛び込むって言えた人だけがきっと飛び込むんだと思うんです。
というのも先日友人が全く今言ったようなシーンに出くわしたらしいんですけど、いざそういう場面が来たら動けもしないし、危ないとか言って声も出なかったって言ってたんですね。だから子供がわーって結局走って行っちゃったみたいな。
幸いね、無事だったみたいになったんですけども、さっきの場面の時に自分が動けるかって言うと、迷わずパンと動けないと、ちょっと考えてる時点で動けないんですよね。意外と無条件で人を助けるって難しいんですよ。
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もっと掘り下げていくと、今のはいかにも弱き存在というか守るべき存在が目の前にいて、見た目から守るべき存在で、見た目からこの世の中のルールを理解してないだろうということがわかって、見た目から危なっかしいと。だから助けるまでのタイムラグがなさそうじゃないですか。要は助けるっていう前提で動きやすい対象ですよね。
飛び込むかどうかは別としてですよ。で、迷わず飛び込むとしても迷わず飛び込みやすい対象じゃないですか。でもところがですよ、今のが小学校1年生じゃなくて、すごいチャラチャラした大学生だったら助けますかと。いや、それでも助けますという人はいるかもしれませんね。
だったらそのチャラチャラした大学生が、実はあなたの好きな人に、結構必要なまでに嫌がらせをしているような人だったらどうしますかと。そんな人が今目の前で惹かれようとしてたら、もう無条件で助けなきゃいけないこの人って動けるかって言うと、急に見殺し始める人がいるんじゃないかなと思うんですよね。
つまり、全部全部助けるって言った人は確かに無条件で素晴らしいとも思うんですけど、この人だったら助けるの迷うかもなっていう気持ちが少しでも浮かんだとすると、実は条件付きで人を助けようとしてたんだっていうことなんですよね。つまり助けるに値するかどうかを瞬時に計算していると。
この計算方法の違いが無条件みたいなところに見える一つの要素だったりもするのかなと思いますね。まず一つ目の計算方法が感情ですね。感情で判断する人って結構人数いると思うんですけども、感情的にとっさに判断したっていう結果じゃないですか。人を助けよう助けない。さっき言った子供とかだったらとっさに判断しやすいですよね。
助けられるべき存在だとか。明らかに嫌いな奴だこいつって目の前にいて助けるかどうか、でも助けなきゃいけないシチュエーションだけどめっちゃ嫌いだしとかっていう感情で判断しようとするときに、その矛盾する気持ちが二つ浮かんだときに多分今度はむずいじゃないですか。
って感じで、感情的に判断した結果、例えば子供の場合だと助けやすいから、パッと瞬発的に判断できたと。瞬発的に判断して子供を助けようとしたという行いが、いわゆる瞬発力がね、
瞬発力すごいから、早いから、無条件に見えるだけだと思うんですよね。結局は判断してるんですよね。嫌いな奴だったらとっさに行かないかもしれないんで。
そういう意味では、条件付きで判断してるんだけども、その条件は何かというと感情が動くか動かないか、どういう風に動くか動かないかですよね。
助けるという方に感情が動いて瞬発的に判断したのが、すごい無条件に見えたというわけであって、別に立派なことでもなんでもないというか、感情が反応したというだけなのかなと僕は思っていますね。
もちろんそういう助かった子供がいるんだったらそれは素晴らしいけども、結果その人が亡くなっちゃったらですね、例えばその人に家族がいて、その人にも子供がいてというときに、
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その子供とか家族とか、またその人が今抱えている仕事とか、それはどうなってもいいのかという話もあるので、助けることは必ずしも素晴らしいこととは言い切れないこともあるのでですね、そこはちょっとまた難しいですが、
ただ、今言ったね、総合的に見たら正しいかどうかわかんないけどもという意見よりも、いや、美しいじゃんと。その小さい子供をね、突然に助けるという美しいじゃないかと。結局そこなんですよね。突然に判断したことが美しかったかどうかだと思うんですよ。
さっき言った、よくわからない、自分の好きな人に嫌がらせしまくっている人を助けるって、助けたはいいけども、なんやったんやろうみたいな周りの人も結構リアクションしづらかったりすると思うんですけども、ちっちゃい子供を助けたら、それはもう素晴らしい。命を投げ出して、そんな素晴らしい人間がこの世にいるなんて。美しさで結局判断しているのであって、当たりはずれ大きいですよね。感情で判断すると。
次にですね、感情で判断した場合の、いわゆる瞬発力がすごすぎて無条件に見えたというお話なんですけども、もう一つあって、尊徳人間であってもね、尊徳感情しかできないような人間であっても、そういう無条件の行いができるパターンがあるということを最近僕は発見したんですね。
一般的に尊徳人間ってなると、金とか今すぐみたいな、金とか今に縛られてる人が多いんですよね。短期的な時間軸とお金で判断しちゃう、お金の尊徳で判断しちゃうっていうことを結構尊徳感情的に言われたりするんですけども、確かにそれだと柔軟性がないから、お金とか今とかってかなり限定されてるから、ちょっと融通効かなくて嫌なやつに見えると思うんですけども、
僕もね、かなり尊徳感情、サイコパスですから、尊徳感情しかできないタイプなんですよ。ただ、今言ったみたいに金と今とかには別に縛られてなくて、別にメリットというかリターンが金じゃなくても、気持ちでもいいし、気持ちよさ、心地よさでもいいし、時間が得られるとかでもいいし、経験が得られるとかでもいいし、上げ始めればキリがないと。いわゆるメリットってお金だけじゃないよねって話なんですよね。いろんな軸があるから。
時間軸も、今すぐじゃなくても、明日でもいいし、来週でもいいし、来月でもいいし、来年でもいいし、3年後でもいいし、10年後でもいいっていう、いろんな時間設定できるわけじゃないですか。そうやって掛け算していくと、結構いろんなことを尊徳感情しても尊徳感情に見えなかったりするんですよ。
例えば、分かりやすいとこ行くと、今僕がやってる教育系の事業があるんですけども、それは単純に自分がやりたいからやってると。やりたいからやってるし、あわよくばその事業がちゃんと形になれば、自分にもちゃんと経済的なリターンもあるしとかいう感じで、超長期でいくと経済的なリターンもあるかもしれないし、仮に経済的なリターンがなかったとしても、そういう仕事に従事できるってことが、自分にとって経験にもなるしとか、意義を感じるから、
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その心地よさというか、自分の気持ち的にもプラスになるしとかいう感じで、今すぐ得られるメリット等、長期的に得られるかもしれないメリット等とか、あとはそこで失っているデメリット等を判断しながらやってるんですが、やっぱり不遇の時をずっと続けているわけなので、見る人によっては無条件でじゃないけども、自分を犠牲にして頑張っている人みたいな見方をされることがあるんですよね。
ただ僕はただ全体的に損得勘定しているだけなので、全然自分を犠牲にしているとかいう感覚もないし、全てが自分にとってリターンがあるのを自分なりに計算してやっていることだから、全然そんな自己犠牲みたいな感じはしないんだけども、そんな風に見られることがあると。
つまり何が言いたいかというと、相手の計算式で計算しきれないことは損得勘定に含まれないってことなんですね。僕が計算している式がちょっと複雑だから、ちょっと意味がわかんないから、この人は自分を犠牲にしてすごいみたいに見られることがあるんですよ。
さっきの瞬発力というか、早すぎて無条件に見えたのとまた違って、計算式が複雑すぎて無条件に見えるということもあるみたいです。
なので、冒頭に言っていた損得でしか判断できない人間はクズだと、もっと無条件に生きないとダメだみたいなのは結構間違った指摘だと思っていて、どっちかというと損得勘定だろうが、瞬発力だろうが、どっちでもいいけども、美しさを大事にしようと。
結果として美しければ、それはもういいんだと。そういう方が美しい行いをしなさいと。その方がよっぽど纏われているような気がするので、自分は損得勘定しかできないから、もっと人のため、世のため、人のためにできないとダメだとか、もしくはすぐ自己犠牲の方向に走っちゃうんだけどとかいう、いろんな悩みというか課題というかあると思うんですけども、大切なことは美しく生きるか。
美しい行いかどうかっていうね、そっちで測った方が意外といいんじゃないかって最近思ってますね。だから僕はサイコパスなんで、無条件のとか言われても意味わかんないんで、条件のないなんて、だってさっき言った人を助けることさえ分解していけば、条件で助けてるじゃんって、感情の反応という条件で動いてるわけだから、条件付きじゃんとか思っちゃうわけですね。
なので、僕は無条件というものは信じないですね。信じないけども、結果として美しいかどうかっていうのはよくわかる気がするので、美しさで判断するっていうのはすごく納得だなと思っています。なので、一つの軸として皆さんも、この行為って美しいのかなとか、この生き方って美しいかなとかっていう風に考えてみるっていうのは面白いかなと思います。
もちろんね、誰から見て美しいかもあるし、自分から見て美しいかっていうのもあるんで、またそういうものになってくると複雑になってくるけども、美しさというキーワードをね、一つ生活する人生の中に持ってみるっていうのは面白いんじゃないかなという風に思います。本日は以上でございます。またお会いしましょう。さよなら。