岡田さん。何ですか、Satoruさん。長い歳月が流れて、銃殺隊の前に立つ羽目になった時、おそらく、アウレリアのブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない。
来ましたね。岡田さん。来ましたね、ついに。岡田さん、これは何ですか。ガルシア・マルケス。百年の孤独の冒頭ですね。
いやー、来た!これね。岡田さん読んでくれた。読んでくれた。これね、なんでこんな興奮してるかというとですね。
まずこの回、百年の孤独を語る回をね、もうSatoruさんが熱望をしてたというか、もう。そうそう、一回台風で流れちゃったね。流れた。流れて。
台風の日のコンディションに合わせるようにして、20年ぶりに僕、読み返したんです。僕その時点では、最初しか読めてなかったので、知らない人として聞いて、探しようと思ってて。
そうそう、岡田さんはコロンビアにはいかれたことあるけど。コロンビアに僕、この百年の孤独の文庫が出てない時期なんで、単行本を持ってって、読まないまま持って帰ってきた。
それはね、すごくいい体験。ある意味読んだ人よりもいい体験だと思いつつ、読んでなかったと。
で、今回も改めて文庫版を買って。最後はね、台風で延期になったおかげで、昨日読み終わりました。
コンディションとしてはこれ、岡田さんの方がいい感じになってるかもしれない。昨日読み終わった。あの最後の、あの一文に最後にたどり着いた。
いや僕、昨日ね、夜12時ぐらいにこれ読み終わって、昨日俺、夜なんかうなされました。
ちょっと待って待って待って。これ、ちょっと私ね。
途中気持ち悪くなった。起きて、なんか頭の中ぐるぐる回って。
ちょっと待って待って。これ本当に私ね、始める前にね、あんまり興奮しすぎて僕はね。
そうですね。
喋りが早くなりすぎて失敗すること、今までこのラジオで何回か繰り返してるから。
あんまり、あんまり、あんまり。
どういう本なのかっていう、たぶん説明?
そうそうそうそう、まあ落ち着いて。
さすがさんが見たってどういう本なのか。
一回ちょっと、きつけの深呼吸の、あのいい深呼吸のためのきつけのお水があるから。
百年の孤独っていう名の、これは焦虫ですね。
これが、百年の孤独という小説のタイトルに借りた、でも本当はそれにインスパイアを受けた、
寺山周知の映画から撮ろうとしたけれども、その情報が得られなかったっていうのはちょっと、
ちょっとだけ一拍噛む経緯があるんですけども、いずれにせよ、この百年の孤独という。
これだって焦虫自体も悪い。
そうそう、めちゃめちゃそうだ。逆に、たぶん普通の人にとってはというか、いろんな世間一般にとっては、この焦虫の方が有名ですよね。
ちょっとこぼれちゃった。今手が震えて。
ドボドボ。
ドボドボ。こんなに。
これちょっと石川さんに調達いただいてね。
そうそうそうそう。ちょっとね、これをね。
まずはちょっと、私の心も落ち着けなくちゃいけないので。
孤独を飲みながら。
そうですね。百年の孤独を、焦虫を飲みながら、百年の孤独を語るという。
ありがたいです。
ありがたいですね。ありがとうございます。じゃあちょっと乾杯を。
乾杯。
乾杯ときましょう。ありがとうございます。
琥珀色ですね。
琥珀色ですね。たまんないなあ。
あ、きた。
いやー。
いやー。
うまい。久しぶりに飲んだ。これものすごい、バーとかで飲むと、むちゃくちゃ高いんですよね、これね。
石川さんが見つけてくれて。
うん。
いやー、氷といえばやっぱりね、初めて。
ブエンディア大佐がね、銃殺隊の前に立ったね。
思い出したね。
時に思い出したに違いないって、この語りのこの一行に詰まってるこの時間の長さですよ。
アルカディオブエンディアに見せてもらったジプシーの氷ですね。
ジプシーのメルキアですのね。
だからちょっとどっから話すか。
こんなこういう感じでいくとあれです。
いや、ダメだな。ダメなんで。
えっとね、このね、百年の孤独という本は、
まあその南米のコロンビアに住むガルシア・マルケスさんが、
まあノーベル賞を取りになったことでも知られて、とても世界的に非常に有名な文学者ではあるんですよね。
日本の小説家にもものすごく影響を与えたし、
なんだろう、もうある意味では語り尽くされた本ではあるんです。
何しろ1972年に日本で翻訳本が出たけれども、
その前に1960年代ぐらいに出た本かな。
だからずいぶんもう出版してから日が経ってるし、
だから真面目に語ると、私は割と文学が好きなものですから、
そのセルバンテスに始まって、ウィリアム・フォークの系譜を受け継いで、
ガルシア・マルケスが20世紀文学における位置づけみたいなことを語ってきた方もいるし、
そういう風に語ることもできるんだけれども、個人的なところからちょっといくと、
この本を僕が読んだのは、19歳か20歳ぐらいだから、
まあ20年以上前なんですよね。
その時も文庫化はとにかく長い間されなかったんですよ。
文庫化されなくて、というのは確かその時の若き担当者の方が、
文庫化をしちゃうと本体の単行本が絶版になっちゃうからっていうことで、
ものすごい単行本の分厚い本でも十分売れてる本だったんだけれども、
しかもその分厚い本のまま何回か表紙を変えたり、役を変えたりとかしながらも、
ずっと文庫が出なくて、そのうち文庫化したら世界が滅びるとか、
よくわからないジンクスがあったりとかしながらも、
この度ようやく、今これ収録してるのが2024年の9月初旬ですけれども、
先月か先々月ぐらいにようやく文庫化されたんですよね。
だから日本でも50年ぶりに文庫化ってあんまないパターンで、
しかも確かNHKとかにもニュースになってましたけど、
文庫化されたらたちまち売れてるんですね。
26万部とかそのぐらい。
それもこの小説のエピソードの一つというか、50年ぶりに出た本がいきなり売れるとか。
世界中的にも5000万部ぐらい売れてるんですよ。
ホットドッグが売れるように売れたみたいな。
そういうぐらい売れるぐらい面白いというか吸引力がある本だったりするんですよね。
私はだからやっぱり19歳20歳で、
もっと早熟な文学青年はもっと若くして読む人が多いんでしょうけど、
私はそのぐらいに読んでもこんなものがあったのかみたいな感じで、
かなり心揺さぶられてですね。
それ以来もう読み返すことがかなわず、読み返してなかったんですよ。
読み返してなかったんだけれども、ずっと私の心の深いところに残り続けて、
さっき岡田さんが意味軸もうなされたって言ってますけど、
ずっと二日酔いが20年間続くような感じで、ずっとうなされてる感じがあって、
もちろん私の人格形成に与えたのはやっぱり親がいたり友達がいたりとかあるんですけども、
20歳を超えてその文衰齢的に大人になってから一番僕の人格形成に影響を与えたのはこれだと思うし、
だから私は今まで多分通算5000冊ぐらいはいろんな本読んできましたけれども、
一番とか言われると、一番って質問自体が愚かなんだけれども、
100年の孤独以外に考えられない、
ドストエフスキーとかいろんなありますけれども、
イロカワタケヒロの本とか30回40回読み返したけど、
この1回しか読んでない、この本がベストでですね、
もうやたら度数の強い酒のようにですね、ずっとずっと僕の心の中に残って、体の中に残ってるんですよ。
で、文庫化になったと。文庫化になってなんか話題になってるから、
まあ私も勢い発売日に手に取って、
池澤夏樹先生のフロックというか何というかその家計図みたいな、
UNDI一族の、あ、岡田さんもだから初版ってことかな。
今それが入手困難らしいんですけども。
あ、これついてたんですね。
ついてた、ついてた。
僕これあのインターネットでダウンロードして、
そうそうPDFからダウンロードできるんですよね。
自分で印刷します。
そう、でも私はねそれをね、20歳ぐらいの時に自分で作ったんですよね。
それよりも詳細な。
出てくる全員の名前を、UNDIわけ関係ない、
ポッドのやつも含めて全部A4一枚に書いて、
だからね、覚えてるんですよ。
何が書いてあるかというと、この家計図が書かれていて。
そう、この本はすごい同じ名前の登場人物がいっぱい出てきて。
あの単行本というかこの文庫にも家計図が一応載ってるんですけど、
これだけじゃ全然足りないんですよね。
足りないし、足りないし、そう。
で、名前が受け継がれていくというか、
アルカディオとかの名前の人がいっぱい出てくるので。
最初に出てくるのが補正アルカディオ・ブエンディアで、
で、その子供が補正アルカディオで、
その子供がアルカディオで、
その子供が補正アルカディオ・セグンドなんですよ。
みたいな感じで。
そう、そう。
で、あれでその土地に最初に切り開いた補正アルカディオブエンディアが、
要するに近親相関みたいな形で元の村から放築された感じで出てくるんだけれども、
その人が非常に好奇心が強くてですね、地球が丸いっていうことを何らの他の情報なしに
自分で計算して発見するみたいなとんでもない人で、
その天才みたいな人が海がどこかにあるとか言ってどんどん行くっていうシーンがあって、
その人たちが軍隊みたいな自分たちの隊列かなんかを組んでいくんだけども、
自然を何しろ獣道どころか何も道がないようなものだから、
どんどん刀が切っていくんだけれども、切った瞬間にまた草が再生したみたいなシーンがあって、
そこら辺からマジカルな感じがあって、そんなことないやろと思うけど、
でもその後、私が思ったとき、これを思い出した。
一つ注釈は、私がこれを19歳、20歳になったときは、一回も海外に行ったことがなくて、
一回も外国ってまだ何だかわからなかったから、
わりと変なことが起こることに笑ってたんだけど、
その後私はこの20年間くらい色んなありがたいことに職業的な幸運をもえて、
アフリカとか中南米とか色んなところに行ったことがあるから、
確かにそういう自然の力が、守るべき自然じゃなくて、
人間の住むところを侵してくる敵としての自然みたいなのは、まだ残っているようになると、
もう切った瞬間に再生していく、なんか頂上的な植物ってこれあるなっていう感じで。
そうですね。この屋敷を常に、
メンテを一日中かけて草を切って、アリを追い払わないと、
常にその自然が侵食されるんですよね。
そうそうそう。すごい勢いになってるから。
その超人的な働き者のウルスラとか、
ウルスラおばあちゃんね。
そういう女性たちが、何とかその自然に侵食される屋敷を守るっていう日々が。
そう。ウルスラおばあちゃんが死んだ瞬間にグワッて、
自然が人間との力バランスが変わるみたいなシーンとかもすごかったですよね。
そういうとんでもないことが起こるってところに、私は初読の時は結構フォーカスをして、
やっぱり多分それってこの本を紹介する人もキャッチーに紹介するとしたら、
やっぱりこのチョコレートを食べて空中浮遊する神父登場みたいなこと言って、
そんなことないやろみたいなことを思ったりとか、
マジカルな。
あるいはものすごく美しい、誰の男性の心も奪ってしまう美しい少女が、
ある日突然洗濯物の布に包まれて、そのまま天に昇って昇天してしまって、
全くいなくなっちゃったみたいなシーンとかも、なんだこれとか思うんだけれども。
でもそのシーンはすごい印象的でした。
すごいですよね。僕もそれを覚えてます。
女の、みんな結構ね、ネタバレの上で言うと、
割と悲惨な死を遂げる人が多い中で、
このレイメイディオスという少女だけは空に昇っていくんですよね。
無垢なまま。
そう、死ぬとかじゃなくて。
何の別に伏線とかもなくて、
急に空に。
急に洗濯物に包まれて。
浮遊び上がって。
で終わりに。
そのまま消えていって。
出てこないんですね。
そのあと1個も出てこないっていう。
でもそのぐらいまで読み進めている読者は、
ああそういうもんだなみたいな感じになって。
そういうなんかその超常現象みたいなことが、
普通のように語られるっていうのを、
マジックリアリズムなんてもう語られ尽くされた、
手垢のついた言葉だけど、
そういう文学用語で呼ばれたりするんだけども。
もう1回こう読み返してみると、
なんかそういう安易なって言ったらあれだけども、
なんか文学的なターミノロジーというか定義付けをすることで、
かえってこの小説のね、
本質に奥深く入り込んでいく可能性を阻害してるんじゃないかっていうね、
気持ちに私はなるんですよね。
だからそういう変なことが起こるのも確かに面白いんだけども、
でも実は数を数え上げてみると、
実はそんなこの600何ページぐらいの本に筆すると、
そんなに多くはないですよね。
超常現象的なことが起こる。
そうでいろんなその、
40何歳でいろんな社会経験をしていくと、
いや土を食べる病気というかそういう人も、
いや少数だけどいるんですよね。
だからそのなんか、
ありえねえだろという人も結構いたりするんですよ。
でも私も不眠症の前線病は聞いたことないけど、
なんかそのぐらいの前の戦死時代とかって、
心のバランスとかいろんなので、
なんかあったんじゃないのっていう。
だからあったよりてか、
変なことが起こるから面白いみたいな、
ところとはちょっと違うことだなっていうね。
超現実みたいなところとはちょっと違うえぐみというか、
その良さがあって。
で、さらに思ったのはすごいやっぱり、
この人もともとジャーナリストというか、
非常にコロンビアってもともと政治的に非常に悲惨な歴史を辿ってたところで、
で、このマルケスさん自身が、
ガルシアマルケスさん自身が結構ヨーロッパをあちこち旅してですね。
30代ぐらいの時のこの人の旅日記とか読むと非常に面白いんですけれども、
そういう西欧のこと、いろんなもののよしなしを知ってるから、
結構西欧文化がポコポコところどころに出てきたりするんですよね。
で、そういうジャーナリスティックに書かれてるから、
なんか考えてみると、
チョコレート食べたら浮かぶとか、
ずっと雨が降り続けるとか、
その訳の分からないところの中にも、
もっとインパクトがある出来事っていうのはこの小説の中にはあって、
それは保守党とそうじゃないものすごい虐殺をされるとか、
労働者が騙されて資本主義の人たちに集められて、
ものすごい大虐殺をされて、
だけどそれがなかったことになるとか、
そっちの方がすごい驚異的なショックなことで、
でも考えてみると、
それって今もこの世の中にどこかで起きてるし、
かつてあったことだし、
そういうことがすごい、
こういう語られ口で初めて、
そのとんでもなさらに改めて気づくっていうか、
これはもちろんフィクションで、
マコンドなんていうものは世の中にはどこにもないかもしれないけども、
マコンドダッシュというか、
マコンドセカンドというか、
そういうものってもしかしたら古い日本にもあったし、
他のところにもこういうことがあったし、
だけどそれは語られ継ぐ人がいなかったから、