しらかわホールの閉館
キャンパスFM6214、この番組は高橋はじめのSNSのノートと連動した形でお送りするチャンネルです。
今日は記事の紹介を一つしたいと思います。本日7月16日ですね。早いもので7月も半ばを過ぎました。
今日紹介する記事は、6月25日に私がノートに書いた記事で、 しらかわホールのおもいで という記事を書きました。
名古屋に しらかわホール というとても素敵な音楽ホールがあるんですね。
ここが1994年に開館したんですけれども、30年ですね。
ちょうど30年目の2024年2月29日で閉館するということを決めたということなんですね。
理由としては経営状況、今後の維持、それから音楽ホールは修繕費が非常にかかるんですよね。
来年の2月末で閉館することになりました。そういうニュースが入ってきまして。
これに関連して、この しらかわホール というのは本当に高校生もそうですし、いろんな地域の合唱の方もそうですし、あるいは地域のオーケストラや音楽活動をされている方ですね。
この30年、とても愛されてきただけじゃなくて、多くの音楽を愛する人たちを育ててきたという、そういうホールなんですよね。
とてもいいホールで、
シューボックスタイプという、
靴箱型というんですけれども、音響もとても良くて、本当にある意味贅沢なホールなんですよね。
1994年に作る時も、これがどういう時期かというと、やっぱりバブルとの関係もあったんですが、贅沢なホールを作って大丈夫なのかという話はあったんですけれども、やっぱりなかなか厳しいという話になっているんです。
ただね、やっぱりもったいない。
このホールが入っているビル丸ごと売りに出すというね、ことのようです。
なので、どういう買い手がつくか、その買い手次第でホールどうなるかという部分も決まる部分もなくはないんですけど、ただ、今の時代なかなか大変なんですよね、これを維持するというのはね。
かといって、それをじゃあどう、あそこまで音楽に特化したホールをね。
どう別の活用ができるのかというと、ちょっと難しい部分はあるんですけれども。
しらかわホールの思い出
ただ、ホール以外の周りのフロアとかね、すごく贅沢に作ってあるんで、あの辺を使っていろんなことができるような気もするんですけどね。
とにかく今、署名活動も始まったということで、この記事を書いたきっかけっていうのは、この署名が始まりましたということで。
ちょっと単に私が署名活動協力をっていうのをSNSで流しても、面白くないというかね。
いうことで、せっかくやってるノートに記事を書いて、そこに署名のリンクも貼ってということで、まあ、この記事を書いたんです。
合わせて、そのしらかわホールの署名活動のことだけを書くのも芸がないということで、私のしらかわホールの思い出ですね、
についての記事というふうにしたわけです。
それで、しらかわホールの思い出という形にしました。
私の思い出の部分はもうどうでもいいので、そこから先は無料記事なんですけれども、ノートの無料記事なんですけれども、試し読みエリアに入れないで置いたんですが。
今日というか、この署名活動の事務局やってる中心人物の方から
久しぶりに
私の携帯に電話がかかってきて こんな状況なんですよっていうね
いうことをお話しされてたので、それも含めて今日は
7月16日ですけれども この記事すべて全部読めると 今日1日24時までね 夜中までは
最後まで読めるという形にしたので そこに私の思い出 大した思い出じゃないんですけども
書いておきましたので 興味のある方はぜひ読んでください
しらかわホールは本当に何百回も私 通いました この近くに住んでたのでね もう歩いて2、3分で
家から着くホールだったので もう本当に1日多い時は2回3回行くこともありましたけども
ほとんどは聴衆、聴くために行ったんですが
ただ大学
音楽大学の
学長やってたもんですから、ある 意味そういう意味では主催者としてもよく
行きましたで事務局の人ともあの ねいろいろ親しくさせていただいたわけ
ですし私が学長をやっていた音楽大学の 卒業生もそこでね働いてたりしたのでとても
馴染みのある
密接な関係を持ったホールなんですが 私あの音楽家ではないので
ただ 一度だけステージに出演者として立ったこと
があるので、それをしらかわホールの思い出という 記事に書かせていただきました
これは2000年。西暦2000年今からもう 23年前ですねの12月20日もクリスマス
年末も押し迫ったところでした。 この時私はある演奏会のナビゲーター
という形でね、出させていただきました それは私がその音楽大学に勤めて5年目
が終わる頃のことでした。
音楽大学にね 政治学一般教養として就職したので、もう5年
もいないでどっか行っちゃうんでしょって。 確かに私はまあ勤めるんだったら5年か
なと せいぜい5年だなと思ってたんですが、ただ
ここは私にとって別れ目でしたね。 次の大学行くんだったらこの5年。ところが
まあこれはノートの記事にも書いたんです けれども
いろいろ私の人生については書いてあるん ですが
やっぱりその問題に就職して2年目ぐらい からやっぱりここをもう少し何とかし
ないと、という思いが強くなって、それで いろんなカリキュラムの改革とかね
臨時的定員に関わる学則改正とかね。どっぷり浸かっていったんですよね。
ちょうど2000年から新カリキュラムが始まって
その新カリキュラムの原案はほぼ私が 書いたんですけれども
そんな中で要するにようやくその音大の 仲間として認められて
認めてくれる人も出てきたかなぁみたいな ね
それがちょうどこの5年目が就職してから 5年目が終わる頃のことでした。私よく
言ってたのは石の上にも5年だねってね3 年どころじゃないねって話をよくしてたん
ですがまぁ そんな話です。これが
しらかわホールでの演奏
2000年。その2010年の3月、ちょうど その10年後ですね私がしらかわホールの
舞台に立った10年後にはその大学の学長に 私は46歳でなったという。まあそういう意味
ではこの時からねそういう運命が始まっ たのかなぁなんていうこと記事には書か
していただきました。 ついでに言うとあのしらかわホールっていう
のは本当に音楽専用のホールなんで、それ以外 には使いにくいホールなんですが。私はナビゲーターということで、
普通にね私だけが壇上に演奏の合間に立って
喋っても面白くないだろうということで まあいろいろパソコンとか使える人だった
ので
まあ2000年頃といえばまだまだねパソコン しっかり使う人少なかったんですが
私はパワーポイントでプロジェクター 持ち込んでスクリーンですね。もう借りる
だけで1日借りるだけで20万円ぐらいし たスクリーンですけどそれで研究費全部
飛んだんですが
そのスクリーンを張っていいスクリーンを 張ってそこにこう大画面を写したんですね
実はしらかわホールでそういうスクリーンを 張るっていうのは初めてのことだったと
いうことで ステージマネージャーしている方がもう
本当に偉い感心してくれて喜んでくれて むしろねありがたかったですねまあそんな
エピソードもありました。しらかわホールに プロジェクターを持ち込んでスクリーンを
張ったのは私が最初だってね。その後その
そういうことをやる人も出てきたって いうことなんですが。まあそういう意味では
ちょっとフロンティアを開いたということ ももう一つの思い出かなと思ってます。まあ
そんな 内容でした。まあ詳しくは今日の24時まで
ですけれども、7月16日 ノートの方に
しらかわホールの思い出という記事があります のでぜひ
よろしければ読んでみてください それではまた