面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。 第77回の本日は、言語はこうして生まれるについて語ります。
はい、よろしくお願いします。 はい、お願いします。 今回も2人独立をしたシリーズで、しかも結構前に僕は読み終えたんですけども、
面白すぎるというか、結構大きなテーマの本なので、準備が整ってから紹介しようかなと思いながら年月が流れてしまい、
なんとか今年中に取り上げるということで、今回ピックアップした本でございます。 同じく記録を振り返ると、2022年の12月に独立をした記録が残っており、
その後に面白いのが、今年1年間読んだ本の中で、何冊かわからないんですけど、複数冊の本によって、この著者だったり、ここで書かれているような内容が触れられたりしてきていて、
多分結構大きな影響、言語業界に大きな影響を与えている人物であり、著者なのではないかなって思ってます。
そうですね。結構言語学の分野に対して大きな展開を促すような本の内容じゃないかなとは思うんですが、とりあえず簡単に書士情報をさらっておくと、
翻訳本で新著者さんから出ているハードカバーで、原稿はこうして周りの方からタイトルで、特許するのとジェスチャーゲームが複大。
著者2人は、モーテン・H・クリス・チャンセンさんとニック・チェイターさんということで、両とも認知科学者のお二人でございますね。
このニック・チェイターさんの名前を個人的にはよく見た印象かなって感じですかね、著者で言うと。
他の誕生として、ココロはこうして作られる即興する脳の心理学という本があるらしく、本書のテーマにも通じる内容だとは思いますね、なんとなくタイトルから。
そうですね。前作とかと似せたタイトルにしてきたものかなっていう。
そうでしょうね。現代はほとんど一緒で、The Language Gameで、複大が合うImprovisation, Created Language and Changed the Worldというタイトルで。
これも結構デカめのタイトルがついてますけども。即興っていうものが言語を作ったと。そしてその世界を変えていった。
世界っていうのは人間を含むというような感じだと思いますけども、そういう話で。タイトル通り、言語ってどんなふうにして生まれたんだろうかっていうのを元々の、よくは通定していた言語学とは違う、というか大きく違う観点から説明している本という感じですかね。
ちなみになんですけど、Language Gameって、ウィット・ゲンシュタインって英語だと言語ゲームってLanguage Gameって訳されてるんですかね。The Language Gameって。
まあどうなんやろうね。一応本書の中でもウィット・ゲンシュタインの言及はあるんですが。あれはウィット・ゲンシュタイン、言語ゲーム。Language Gameやね。
じゃあもうまんま狙ってるってことなんですね、おそらく。
まあその本の中身を紹介していくときに出てくるかもしれませんけども、ウィット・ゲンシュタインという哲学者がおりまして、彼は前期と後期で、哲学の内容そのものが大きく違うとよく言われてて、その後期のほう。
後期ウィット・ゲンシュタインが述べた言語ゲームっていう観点が、参照されているというか、結果的に同じようなことですよね、みたいな説明がされている。ウィット・ゲンシュタインに触発されてというよりは。
そんなイメージはあるかも。認知の仕組みとか、生物学的な原理を考えていたときに、結局ウィット・ゲンシュタインが言ってることってこういうことだよね、みたいな感じの関係性として説明されるかなというところですね。
哲学と言語学が同じところにたどり着いたみたいなイメージかな。2人とも考えたらこうなったっていう。
逆に言うとウィット・ゲンシュタインの先見性の高さっていうか。
100年早いですもんね、単純に。
ある種、途中まではウィット・ゲンシュタインの考え方と全然違う言語の捉え方があったけど、かなり早期の段階でそうじゃないのか。
で、彼自身は、哲学っていうものに対して営みがどんなふうに行われているのかを、かなりラディカルな地点から再検討したんで、方向性は違いますけども。
でも結局、僕らが言語をどう使っているかという地平では一緒で、そこが交じり合うのが面白い話ですね。
そういう意味でも、難しかったというか、難しい、違うな、考えさせられるという印象なのか。
だから僕らが言語を使うというのは、ある種、言語を使う領域というのは幅広いわけで、いろんなところにこの話って顔を出してくるなという印象ですね。
で、本編全体が8章プラス終章っていう感じで、全部なぞろうとするとなかなか長かったので、適宜気になったところを触れながらみたいな感じでいいですかね。
そうですね。そういうふうに進んでいくとして、第1章がおそらくこの本の中心的なテーマである、言語はジェスチャーゲームであるという話で。
どうなんですかね。僕、ここを読んだ時、結構ラディカルというかインパクトが大きかったんですけど、僕らが言語を捉える根本的な見方を反転させるというのかな。
なんかね、勉強してればしてる人ほど衝撃がでかそうなイメージで、俺多分ラシタさんほど衝撃がでかくなかったのかもしれない。
なるほどね。どう表現したらいいんだろう。正しい言葉、あるいはその根本的な原理みたいなのが言葉にはあり、それを僕たちは学んで日常的に使っている。
正しい僕たちの日常言語は非常にラフなので、その正しい言葉からはちょっと逸脱しているっていう見方をひっくり返すというのが、この本の一番肝の点で。
いや、そうじゃないんだよと。僕らはその1回1回のコミュニケーションにおいて、非常に即興的に相手に伝わる一番適切な言い方とか表現とかをインプロビゼーションしているんだと。
それが言語の本来的な姿であるという話で。会話の価格で紹介したように、僕らが日常に行っている会話を主眼にする視点と重なるところがありますし、
あと、何回か前に紹介した普通の相談という本も出てきましたけど。原理性とか体系化っていうのと反対側に、非常に雑多な日常的な普通の相談というものがあるっていうことを対比して、普通の方に力点を置こうという話でしたけど。
だいたい重なる話がここにはあって。学問的、理念的、もっと言うと西洋的かな的な感じで、ある唯一の絶対の正しきものがあり、そこからの派生とか逸脱として僕らのリアルがあるという考え方を転換しようという新しい言語感がここで匂わされていって、
これ以降の章はそれを補強するというか、説明を加えていくという感じで展開していくかなというところですか。
そうですね。言われて思ったのが、やっぱり西洋的な言語学の学び方とか、その唯一心が存在しているみたいな概念があると、やっぱり正しい答えがそこにあって、それを表現するのが言語だっていうふうに固り固まりそうなイメージがあるんですけど、
なんか自分の印象で言うと、ほとんど全部直感的にその通りだなって思うようなことばっかりだったんですよね。
それはひょっとしたらなんだけど、そういう西洋的な概念が自分にはあんまりなくて、言葉っていうものを逆にそんな真面目に考えてなかったからこんなもんだろうぐらいに思っていたから、
よく考えて、確かにこれは一般的な言語の学説とはすごくずれるなっていう印象はあったんだけれども、自分としては印象はなので、その通りだよねっていう話ばっかりだったとも言えるんですよね。
そういう感じ。だから、さっきも言った通常の相談の普通の方に属してたら、まさに当たり前の話で。日常的な感覚で言うと、例えば僕ら文法知識を理解できなくても喋れるっていうことがあるわけですけど、
これはさっき言った正しい言語理解があって話してるというのと、マッチしないんですよね、この実際とリアルが。
だから実際に喋ってたら、確かに、むしろ実生活の中で、いわゆる純学問みたいなものとの距離が実は離れてたのにもかかわらず、学説の方は学説としてドーンと構えてて、その学説から見たときの僕らの雑多な会話っていうのが、会話というか言葉の使い方が帰却されていたとか、取り除かれていたのをひっくり返したという意味で、
西洋的なものの見方が強い人とか、あるいはこの学問、言語学、特に言語学に長く親しんでた人ほどインパクトは強く感じるんじゃないかなという印象はありますね。
オープニングでいきなりクック船長がアメリカに渡って現地に行って、言葉とか何もないけどジェスチャーで持ってる棒をあえて捨てることで、俺は戦う気がないよっていうことを示してみたいな、そこに身振り手振りを加えてたら、石疎通がお互いできたというのか、言語がないのに。
それこそが言語の始まりだったんじゃないかって言われると、確かにその通りだし、そうとしか考えられんよなと思いつつも、だんだんすごい話になっていった印象で。
そうですね。たぶん第一章部分で重要なポイントが2つあって、コミュニケーションのメッセージインザボトル方式という表現が出てきましたけど、自分が言いたいことを瓶の中に詰めて相手に渡して、相手がその瓶の中から取り出して理解するっていう情報の一方通行の流れをコミュニケーションと捉える捉え方じゃなくて、捉える捉え方をまずやめるっていうのが1つのポイントで、
2つ目が会話っていうのが共同のプロジェクトなんだと。この比喩がたぶんジェスチャーゲームを持ち出す、ジェスチャーゲームという言い方を持ち出すポイントなんですけど、ジェスチャーゲームって当てようとしなければいけないし、当ててもらわなければいけないし。
そう、当てようとしないといけないが重要ですよね。 両方があって、言いたいことと聞きたいことの整合があると。だから、正しい言語理念やと、僕は正しいことを言っている相手は理解できない、理解できない相手が悪いみたいなことになるわけですけど、
共同のプロジェクトである以上、お互いに分かる言い方を探していかなければならないという、このあやふやな感じがこのジェスチャーゲームっていうメタファーの一番メタファーが効いてるポイントじゃないかなというのは、一生読んでて思いました。
同時にやっぱ思うのが、会話をベースにすると、俺の話が通じないんじゃなくて、それはやっぱ会話じゃないんだなっていう気がするし、難しいな。概念を共有することが目的だったんであれば、確かに言いたいことを言っていてはダメなんですよね。当たり前なんだけど。
伝わるように言わなければならない。
それはなんかね、やっぱ本を書くにしても、ポッドキャストにしても、何にしてもに、やっぱこう、通定する非常に重要な概念な気がして。
そうですね。伝わることが主で、だから正しい言い方をしたら税ということはなくて、伝わったら税で、どんな方法を用いてもいいからとりあえず伝えようという、その姿勢そのものがコミュニケーションを支えているという、この会話共同プロジェクトという観点を確認できたら、第一章結構大きいかなというところですね。
そうですね。バケツリレーではないっていう言い方をしていたかな。日本語の翻訳だと。
そうね。だから一方通行で情報がただ流れていくものじゃなくて、一つのゲームに2人が参加しているというイメージを持った方が良いって感じかな。
だから複数になって余計難しくなるのか。分かってない人が分かったふりをしてしまったら、どうしようっていうことになって。
多くなればなるほど難しくなるし、特に本を書く場合はどうしても情報が一方通行になってしまうわけですから。ここにまた独特の難しさがあるわけですけど。
そうですね。あらゆる文字が始まってしまってから変わっているし、だから文字ベースで考えてしまうと、言語の始まりみたいなのを間違えるっていうことなのか。
そういう関係もあるかもしれないね。確かに。そういう言語間の転換が一章で測られて。次第2章、言語の儚さということで。
これはなぜそんなジェスチャーゲームになったのかというところの生物学的な基盤というかな。そこが確認される章で、本章を通して後半ずっと出てくるんですけど、今だけボトルネックという概念が提出されて、これがめちゃくちゃ重要なわけですけど。
短期記憶は少ない。簡単に言うと、僕らがずっとここのポッドキャストで確認してきた通り、人間の短期記憶ってのは非常に短い時間しか処理できないし、
しかも長い大きい量は処理できない。そういう長いものを処理していくためには、チャンキングという情報をまとめる処理が必要だというところがあって、その制約があることで、僕らのコミュニケーションがこんな形になってきたんだなというところが大きく確認されるのが第2章ですね。
ここも例え話がいきなり面白くて、第2次世界大戦中のアメリカ軍が暗号化として、暗号としてナバホ族の言葉を喋らせた。何も暗号化してないけど、日本人はそれを解読、日本軍はこの暗号を解読できなかったっていう、ナバホ族に普通にアリガドーノコーノとかトラトラトラみたいな感じですよね。
そういう行動を向こうの現地の言葉で喋ってもらったら、本当に何を言っているのか何もわからなくて、下手に暗号化しなくても最強の暗号になってしまった。
分からん言葉がいかに聞き取れないか。英語を勉強している時でも思うんですけど、短期記憶に収まらないと分からんのですよね。逆に1個でも分かる単語があれば、そこをヒントに文脈が共同作業としてなら作れたりもするし、そういうところに面白さというか。
やっぱり言語を学ぶとかにも役に立てる話はいろいろあったかなという印象ですかね。
そうですね。学ぶときもあるし、逆にさっきも言ったように、本を書くときにどんなふうに情報を伝えたらいいのかっていう考えの上でも、ものを理解するときに必ず今だけボトルネックを越えていかなければならないという点は意識しとくと良さそうですね。
あれかも。ちょうど前回のアフタートークで観光客の哲学を読んでいるときに、分からん哲学者が出てくると全然読み進めないって言ってたじゃないですか。
言ってましたね。
まんまそれもそうですね。やっぱ。
知らん人の名前を聞いてしまうと、その人で脳内が当然いっぱいになってしまって、他の情報に意識が持っていけない。
うん。だから話の流れ、論理の流れもそこで止まってしまうというのはあるね。
うん。
だからまあその読み手としては、いろんな知識を増えるとそのチャンキングしやすくなるということがあるでしょうし、書き手としてはその相手がチャンキングしやすいように情報を提示したらいいのかっていうのを考える方策にもなるんですよね、この点は。
うん。あれですね。名付けがあらゆることに有効だっていうのも多分その結局同じことですからね。
そうですね。あとメタファーとかが有効なのもそういうことですね。相手の脳内にある概念を転用することによってチャンキングしやすくなるということだと思います。
そっか。その例え話と紐づくことができて。だからやっぱこれで言うと言語ゲームと紐づけて読むと面白くなる。ただ言語ゲームが分かってないと何も分からん。
ちょっとまあ、何も分からんじゃないけど。
そういう繋がりが作れない。
っていうのはあるかもしれないね。そこの辺はちょっとあるけど。まあそういうふうに紹介される、要するに認知の限界っていうのがあって、それに合わせるように
僕らの意思疎通が形成されてきたっていうのが確認される章が第2章でした。
第3章が意味の耐えられない軽さっていう章で、この章は要するに意味ということでね。
意味っていうものが、だからさっき言った意味っていうのが、ある言葉、一つの一対の言葉に対して完璧にそれに対応する意味っていうのが一個あるっていう
見方。それもないっていう話ですよね。そういう本質主義というか、イディアですね。いわゆるプラトンでいうイディアみたいなものがあって、それを精緻に組み上げることで意味の通った文を作るっていう見方は結構西洋で一般的だけども、いや違うんだよと。
言葉っていうのは非常に、これもウィトゲンシュタインで、家族的類似性という概念があるんですけども、一つの言葉が意味するものっていうのは、
例えば100個意味があったとして、その100に全てに通じる根底となる本質があるわけじゃなくて、ある部分は似てて、ある部分は似てない、ある部分は似てて、ある部分は似てないみたいな微妙な家族の顔立ちが少しずつ似ているっていうのと、
同じような関係でしかない、一つの意味の類推のネットワークかなっていうもので意味っていうのが形成されているというのが確認されるのが第三章で、これはだから認知心理学というよりはこれは何論なんだろうな、ここちょっとあれやない、難しいんやけども。
何論か、なんかよくある話で、何でだろう、国によって色というもの、虹の虹が何色に見えるか違うみたいな、あれは文化でもあるんだけど、その赤色という言葉は赤じゃない色が存在しないと赤を定義できなくって、赤とオレンジがないと赤とオレンジの境界線というものは定義できなくってみたいな話が言葉のいろんな言葉にもあるっていうような感じかなっていうふうに捉えてた。
なるほどね。結構ね、ここ僕たくさんメモを取った方の章なんですけど、色々知らん何とか効果とかが出てきたんですが、2つ面白いのがあって、まずさっき言ったように文字通りの意味はない、コミュニケーション上に、それぞれのコミュニケーションにおいて即興的に作られる意味があるっていうところはもちろんあるんですけど、
意味されるものとそれを表現する言葉の並びがどう作られるのかで、例えば犬を表すときにワンワンと鳴くからワンワンと呼ぶと、隣の犬はバウバウと鳴くからバウバウと呼ぶみたいなことをしていくのが一番効率が良さそうなのに実際そうはなってないと。
それぞれの犬種には様々な名前がついていると。これはワンワンとバウバウっていう風に呼ぶと直接的やけど、区別がつきにくいという話が出てくるんですね。
その意味と音の響きを同じようにしてしまう、できるだけ同じようにするとってやつですよね。 そうですね。覚えやすいかもしれないけど、区別がつきにくくて。逆にでも例えば、アキタケンとダックスフンドって完全に音が違うのであれば、もうその人がそれ何を意味している犬っぽいものであり、あの犬種っていうのがすべて区別しやすいように分けられる。
だからここをちょっと非効率的にする、もっと言うと音と意味を独立的に要素で構成すると、さっきの言った慌ただしい、僕らの認知が限られている状況ですっと意味を捉えやすくなっているという説明があって、これはなるほどなと一つ思いましたね。
これがメモしたのは、言語では音と意味のつながりは弱い方がいいっていうタイトルでメモを取ったかな、その同じ話を。 そうですね。音と意味があまりにも密着していると、関係的にコミュニケーションが難しくなるというのは、これはその効率性から考えると一見逆なんですけども、実際僕らの言語からしてもそうなっているわけで、ここが面白いですね。ちょっと離れている方がいい。
あと面白いのが、これを実際にやってみた人がいたっていうのも面白いなと思って。ウィルキンズさんっていう人が、音と意味をそれぞれフォルダ的に分けていったっていうのかな。フォルダ的に分けていって、この音が来て、この音が来て、この音が来るとこんな感じの意味だっていうのを作ってみたけど、ものすごくうまくいかんかった。
その説明を書いているウィルキンズすら間違って誤字してたっていう。だから、犬の名前だったらNから始まって、NCAだったらこの犬で、NCBだったらあの犬みたいな感じで命名していったら、非常に整合的なネーミングの体型ができるけど、めちゃくちゃ使いづらいっていう話ですね。
犬と猫じゃないか、そういう区別の仕方っていうのが結構乱雑というか、意味がない方が良くて、さらに言うと同じ言葉でもニュアンスで何とかしてしまうっていうのも面白かったなと思って。
書いてあったので言うと、英語で言うLightっていうのも、Lightっていう言葉に明るいとか軽いとか、そもそも明るいとか軽いとかって言ってる時点でっていう話なんですけど、そのLightっていう言葉に正しい意味はおそらくないんですよね。
唯一の正しい意味っていうのはないってことね。
なんかLightっていうニュアンスでビールもLightになるし、クリームもLightになるし、風もLightになるし、意見もLightになるって、本の例えで書いてあって、確かに全部Lightで分かるよなって思って。
で、その分かればいいってことだよね、この場合は。
分かればいいし、分かってしまう人間の凄さでもあるんですよね。比喩でいける?
だから、結局規定がその意味を毎回その度に生成してるし、その生成を助けやすくなる言葉が多分最適な言葉だってことね。
だから、それ後に繋がるけど、だから言語は変化するっていう話にも繋がっていきますもんね、ここの話が。
そういうことね。だから、言葉と意味が、正しい言葉が1つ意味があって、それが固着的になる場合、言語の変化っていうのは想定できないわけですけども、実際そうじゃないと。
第4章がカオスの果ての言語秩序ということで、多分ここが多分一番。
この辺が4、5、6あたりが個人的には一番面白かったですね。
とりあえず第4章で言語学といえば、ノーム・チョムスキーさんっていう方がいるわけですけど、
それって変だよねっていうことを言っておられることで、これチョムスキーの話を説明するやつ長いんですけども、
生成文法というものがあって、僕らはなんでこんなに言葉を使えるのかっていうことを原理的に非常に考えていった結果、
僕らの遺伝子にその言語を使うものが刻印されていて、それが発動して言語を覚えると。
だから、いろんな、それぞれの出てくる言葉はその生まれた地域とかで表現形式は違ってますけど、
僕らの心の遺伝子の中に言葉を産む遺伝子があって、それによって支えられた生成文法っていうのがあって、言葉が生まれてくるっていうような見方があって、
言語学は超最強だったんですよね。
それが最強で、いかにそれを人が使っている根本となる文法っていうのを探し出すか。
これかなり記号論的に探索されてたと思うんですけど、結局すごく長い年月経っても、そういう生成文法は確定できず、むしろどう考えても例外ばっかりの言語の創作が見つかって。
例外ばっかりだったっていう。チョビスキーがこれ、普遍文法というものがあって、こういうルールがあるって言っていたのに、特にここに30年、もうちょっとぐらいか、そのルールに従わん言語がありまくるぞってなってしまっているんですよね。
そうですね。だから西洋とか、西洋特にその欧米の中心でやと、ある程度整合的な言語感が成立するかもしれないけど、世界中を探索してみたときに、まあまあ全然そうはなってないぞと。
これどうしたらええねんっていうことだったんですけど、著者らが考えるこのジェスチャーゲーム方式の場合、むしろそうですよねっていう話になるということで、
本書の主張のコアをなす部分が第4章かと思います。
今言われて思ったのが、前回の音楽の話とかにも通じるものがあるなっていう気がして、直感というか、ここに秘密があって必ず論理がありそうだって思ってたんだけど、実はそこは数学的に矛盾していてどうしようもなくって、
言語も決まったルールがありそうだって最初はピタゴラスが思ってたみたいに思ってたけど、よく考えてみたら合わんことがいっぱいあってどうにかしようとすると、やっぱ違ったわってなってきてるっていう。
音楽の場合は演奏するっていう現場があって、どうしても長尻合わせっていうのが必然的に出てくるわけじゃないですか。定合性っていうのは2番手3番手に行くわけですけど、言語研究って、日常的な会話っていうのを一旦置き去りにして、モデル化して行われるわけで、
究極的に最後まで無視できるんですけど、結局その普遍的な文法っていうのは見つからないという局面にぶつかってしまって、今の言語学の常識がどうなってるか僕は全然知らないですけど、舵取りとしてはこちらの方に行くんじゃないかなという印象はありますね。
あの楽譜絶対に印刷技術が流行って楽譜がその音楽の絶対になっていたけれども、結局テクノロジーが発展して正しいものは演奏であって、それにしないといけないみたいなのに近くて、書いてある文字が絶対で正しいものだったけれども、実は正しいっていうんじゃないんだけど、原理はやっぱり会話に合ったみたいなところにたどり着いたのかなって感じます。
なるほど。結構いろんな分野で似た方向性が進んでいる。ある種理念的、イディア的なものからリアル的なものへの移行を、しかもそれを科学の、科学というか学術の観点からそういう変化が行われているみたいな感じかな。
で、テクノロジーによって解決できてるっていうのかな。かつては録音ができなかったから楽譜で残すしかなく、かつ音も録音できなかったから文字にして残すしかなく、それしか調査できなかった。が、しゃべり言葉が普通に残せるようになったおかげで、その統計的だったりなんだったりで、いろんな調査ができるようになってきたとかもあるような気がするな。
うん、そうか。音楽の録音も、モノラルで録音するのとステレオで録音するのでは違うわけじゃないですか。録音するというか聞くか。だから音響が完全に再現できないわけじゃないですか。でも現代だったら、その360度の音の響きを踏まえて録音することもできるわけじゃないですか。
よりリアルに近づきますよね。
そうするとやっぱり楽譜って二次的なものになってきますよね、きっとね。
たまたまこうなったにしかならん。
っていう、やっぱりその真理感とその歴史感っていうものの違いによって、言語のリアルさっていうのもわかった。
昔のヨーロッパで使われた言葉って、語順が自由だったと。どんな並べ方もできると。
自由度が高かったんですよね。ほとんどの言語が。
で、その区別するために、この格を区別するために語尾に何かつけるとかを、あるいはその言葉そのものに、その格に対する表現がだいたいあったから、
言葉、語順が関係なくても意味が通じたけど、当然そんなことはめんどくさいわけで、
だんだん語順が固定されて、で、その語形もだんだんシンプルにまとまっていくっていうヒストリーがあって、今の形があるという話が紹介されてまして。
まあ、いろいろここの章は考えることが多かったですね。
ここはね、さらにね、どの言語でも全部そう向かっているっていうのが面白くって。
昔はなんて言うんだろう。大雑把に言うと単語がたくさんあって、その英語で言うIとかmyとかmineとかmeとかっていう各種類がめっちゃいっぱいあったのが、
だんだん雑になっていって、youなんてもう全部youでいいやっていう風になって。
あなたとあなたたちの区別をなくしたってすごいよね。
うん。で、代わりに順番だけでどうにかしようって、どの言語も割とそうなっているっていうのが結構面白いし、
さらに言うと、今で言うと例えばheとかsheとかなくそうみたいな流れじゃないですか。
政治的なものもあるんだけれども。
っていうのもやっぱどんどん言語が簡単になっていって、この後どうなるんやろうっていう風にも思うし。
いやでも、これは結局、そもそもじゃあ最初なんで複雑やったのかっていうと、もともとルールがないからですね。適当だから。
つまり普通にやっているとエントロピーが拡大するわけですね。
ただ、そうなっていくと実際使うのに不便やから簡略化するっていう。
だからこれ、単純化するというよりは単純化・複雑化・単純化・複雑化みたいな感じで進んでいってるような気がしますね。
そう。でも順番が、どこの言語もおそらく少なくとも現状の、俺の理解で言うと、どの言語も基本、文法が複雑かし単語は少なくなっている?
そうなんかな。どうなんかな。少なく、一つの言葉が意味するものが増えてるってことなのかな。
とも言えるのかな。この本であったやつで言うと、かつては全部ハブみたいなやつが、今だと大雑把に言うとハブとハドツ、ハビングぐらいしかない。ハズがあるか。
っていうのが、古英語だと、1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、十数種類。現在分子、過去分子の命令形の単数と複数があり、家庭法の単数と複数があり、過去のハブが1人称、2人称、3人称で全部使い分けていたとか。
っていうのが、全部ハズに、もう面倒だから全部ハズでいいやとかハブでいいやってなったっていう。
文法的にはどっち?複雑になってるのか?簡単になってるのか?
自分の印象で言うと、変化のバリエーションを減らして、単語は少なくともシンプルになっている。
それは間違いない。
で、語順にルールが細かくなっている。
いや、どうなのかな。分からんな。
そんな感じのことは書いてありましたよ。語順、格があれば語順は雑でも良くて。
それは間違いない。
実際に、古英語だと、今の英語と違う順番に並んでも意味が通じていた。
そうよね。
で、英語じゃない言語でも割とそういう、多くの言語でそういう風に、何て言うんだろう。
格みたいなものが全体的に減っていて、代わりに語順が複雑化している。語順のルールが複雑化している。
だから、語順が生まれてるんじゃないの?
ああ、そうか。だから今も生まれていると言えるのか。
うん。そういうことだと思う。
そうか、そうか、そうか。
うん。もともと、だから、乱雑に話されていたものから、こうした方がいいよねっていうパターンが見出されて、
それは固定的なものじゃないから、別の言い方が良かったら、それがもし流行ったらそれに変わっていくということで。
で、まあ、やっぱりその、羽部のバリエーションは減ったけど、一つの羽部が担う役割は多くなった。
ああ、多分めちゃめちゃ多そうですよね。
そこは複雑になったとも言えるよね、だから。
で、多分文化に応じて、なんか、それであれですよね、変化していくっていうか、よく使われるとまた羽部に新しい概念が加わって、
これは羽部じゃなくってなんとかみたいな言葉が生まれて、みたいなことですよね。
だから結局そういう、そのある人間の乱雑さが生み出すルールからの逸脱と、それを統合した新しい使い方とかルールが生まれてくるっていう、
発散と就職の繰り返しの中で進んでる気がしますね、なんとなく。
うーん、そうだね。Going Toが面倒になって、Going Toって誰もが使うから、ゴナになって、Did Notをみんな何回も使うから、Didn'tになって、
なんかあれですね、Madameっていうのも元はMare Dominaっていう言葉だったのがMadameになって、もう今だとMしか言えないらしいですね。
Marmって言ってMしか言わない?YesMとかしか言わない?みたいな。っていう風に、だからやっぱり文化によって変化していくでいいのか。
うん。で、よく使われる言葉が短くなっていくんだね。だから単純に全部が短くなっていくわけじゃなくて、きっと。
うーん。だからそのIとかUなんて、多分どこの言語でも、どこの言語の人でもすごく話しやすい言葉で。
そう、発音しやすい言葉になってるはずね、きっと。
うん。日本語だと私とか多いですもんね。それで言うと意外と文字数が。
言わへんから。言わないから、そもそも。
あ、そっか。使わんから減らんのか。
そうそうそう。あれは文語の時しか出てこーへんから。
そして、だから、格付けをするために、なんていうんだろう、いろんなバリエーションがあるんだ。
そういうことだよね。
ちんとかわれとか。
いっぱいあるね。Iだけで事足りる英語とはちょっと違うね、そこが。
うーん、そっか。そういうふうに考えると面白いですね。そういうことか。そうだな、確かに。
まあ、というふうに、ジョムスキーの言語館から別の言語館っていうのが提出された。
あと、公文文法って話があって、単語、基本的な言語学で単語を基礎とするけど、むしろ公文が基礎だという話で。
で、あのー、これ、子供がよく言い間違えする話っていうのがよく出てくるんですけど、これよくわかるんですよね。
フレーズを一塊にして使うというようなことなんですけど、えーと、今実際でパッと出てこないが。
あ、あった。
子供が特に、フレーズをまとまりで覚えるという話で、
ほにゃらら、ゲットイットっていう言い方を一度覚えたら、もう何でもかんでもそのゲットイットに、その埋め込む形で使っていくっていう、そのパターンと穴埋めの形で言葉を使っていく。
その文法的に正しいとかっていうことは、まあ当然考えないし、なんか、そもそも文法的に正しいという概念がそもそもおかしいわけやけど。
通じるように、えーと、自分が使えるフレーズを当てはめて使っていく。だからこれは結局、単語ごとに意味を理解しているわけじゃないってことだね、結局。
そのフレーズで何が相手に伝わるのかっていうことだけを覚えてて、そのフレーズの部分だけを変えて表現していくっていうのが子供の言語の使い方で、親がそれについて訂正するから使い方が変わっていく。
子供が使えるのだよねっていうやつですよね。
ということで、言語を覚えていくという形で、この公文文法という考え方もまあ結構面白いなあと思いました。
あとね、それと近いところで、変だって思う文章も数学的に考えたらおかしくない?
そうだよね。
あーそれもすごいな。I like skiing っていうのは、skiing っていうのはおかしくない。I enjoy skiing もおかしくない。I like to go skiing もおかしくないのに、アメリカ人はI enjoy to go skiing っていうと気持ち悪いと感じる?
で、そのルールとしてはおかしくないんですよね。この今までの英語的な話で言うと。
単純と聞き慣れてないってことですね。要するに。
だからみんなが使ってないからダメってことですよね。言い方としては。
だから誰かが使い始めて、例えばその高校生とかが使い始めて、それがもし認知に広がったら、10年後の英語ではそれが普通の例ですね。
ありの言葉になってしまう。
あり得るっていう、そういう変化していくものとして言語を捉えられるというところが、第4章の話。
で、第5章。生物的進化なくして言語の進化はあり得るかというところで。
これ面白かったね。メモは少ないけど、すげえ面白かったですね。
今の遺伝的な基盤と、僕らが言語が使えるのかっていうのは、どう関係があるのかということが研究されてて。
で、言葉を使うための遺伝子みたいなのがあって、それがあるから言葉が使えるんだみたいな考え方じゃない考え方が提示されてるってことかな。
逆だったってことですよね。
人間の能力と人間の遺伝子でできることしか言葉にはなかった。
これは面白いよね、その観点は。
そんなふうに考えたことなかったなっていう。
だから、子どもが複雑な言語をなぜ使えるのかというと、使えるように言語がデザインされる。
子どもでも使えるように言語が作られているからというのが一つの回答で。
これもひっくり、視点をコロンボスの卵的にひっくり返す説明なんですけど、そう言われたらそうじゃないですか。
本当そうだわ。たまたまみんながわかったやつだけ残ったから、みんながわかって当然で、もちろん例外はあって、その遺伝子に何らかのエラーがあるとわからない人はいるんだけれども、
大半の人類がわかることしかなかったということは逆に言えば、やっぱどんな言語も学べるはずだっていう気もするし。
確かにね。人間の、要するに全く何の遺伝子的能力が必要ないっていうことはなくて、ある種の、いわゆる知能と呼ばれるものを担保するものは必要ですけども、
もしそれがある、つまりある言語が喋れるんであれば、別の言語も頑張る必要あるにしても喋れるようになるんだろうなという感じですね。
なんだっけ。脳の仕組み的に聞き取れない音を捨ててしまうっていうのがあるので、ある程度の困難はあるんだろうけれども、たぶんネイティブには慣れなくても使えるようにはなるんだろうなと思うし。
この場合の使えるって結局だから、一層コミュニケーションができるということですから、きっと。
そうそう。そこもやっぱ重要ですよね。
ただし、Rじゃなくても言ってる単語がわからなくても、こっちが言いたいフレーズが相手に伝わったら、もうそれは言語が使えてるってことになるわけですからね。
うん。ここはね、やっぱりね、タカノさんの話とかもよく出てくる、「言語の達人まで一億光年だったかな?」とか、外国、
俺たちが英語が話せるというものに対するレベルが高すぎる気がして。
なんかもうお店に行ってハンバーガーを買って帰ってこれたら、もう英語が話せるでいいんじゃないかって思うんですよね。
まあ、たぶんそうでいいだろう。やっぱり僕らの教育観点で、正しい英語知識を学ばなければみたいなのがあるんじゃないかな。
そこはなんかこういうふうに見ても思うなと思うし、なんか前も言ってたかもしれないけど、何だっけ、タイに行った時に俺1から10が喋れんくって理解できんくって、
俺はなんて英語はできるんだっていうふうに逆に思ったっていうか。
比較するとね、確かに。
で、お店に行けば100までぐらいなら聞き取れるんですよ。
なるほど。
タイに行くと5とかもわからんから指でこうやってやってっていう話だったから、やっぱそういうものなんだなっていう。
言語をもっと軽く考えたほうがいいんだろうし、簡単なもんだんだろうなっていう気もするし、簡単な意思疎通なら。
そうやね、なんかこの本やったかな。大体一般の人が日常会話で使う単語って1000個ぐらいしかなくて。
1000個あったら日常会話っていうのは概ね整理する。相手の言ってることが100%わからないにしても、日常のコミュニケーションをとつなくこなすことができるっていう。
で、1000個やったらさすがに覚えてるでしょね、その。
英語も多分1000ワードは覚えてる自信はありますね。
例えば日本で日常的に生活してても英単語に出会うわけですし、当然義務教育を経てたらそれなりの単語には出会ってるわけで、何もかもわからんってことはなくて。
それっぽい単語を言ってみる?間違ってたら別の単語を言うみたいな。
そんでいいっていう。
それでできるんやったらもうそれはもうある種言葉の入り口には絶対入っているし、増やしたかったらそこから単語を増やすこともできるけども、
その言語の入り口入ってるっていう感覚、結局そのコミュニケーションが取れたらOKっていう思えば、
その正しい文法とかっていうものに縛られずに済むんじゃないかなと思いますね。
あとね、同時に3章で出てきた話なんですけど、
ほとんどの人にとって言葉の意味なんてコミュニケーションが円滑になる程度でいいっていう、これもやっぱ深いなと思って、
そうだよね、そんなもんだよねっていう。
哲学者とかに触れてると、例えば生きるとは何かみたいなことを定義したくなってくるわけやけど、
それはある種特殊な営みであって、そこまで厳密な、会話するときそこまで厳密に考えてるわけじゃないからね実際。
円滑なコミュニケーションというのが多分一番重要で、
やっぱ分かってないと何回も言い直すと面倒くさくなってやっぱ喋ってくれんから、
仲良くなりにくいとか、時間がかかるとかっていうやっぱデメリットはあるんですよね。
でもそれを無視してしまえば、少なくとも商業的なブツブツ交換、買い物みたいなことだったらやっぱこなせるし。
自分が相手に適応ないことも示せるよね、きっと。
うん、だって手挙げてこれって言って指差して金渡せばだいたい多分成立するし。
そうやね、コミュニケーションの道具として捉えたときに、そんなにたくさんの単語もいらんし、正確な文法もいらんし、むしろ大雑把でいい。
てか、言語のスタートは、ジェスチャーゲームだとしたら大雑把なものから始まったはずやから。
だから、全く触れ合ったことのない2者がコミュニケーションを始めるってことは、つまり、原初のコミュニケーションを始めるってことやから、きっと。
使ってあかん場所ももちろんあるわけだからね。
会社の会議でヤバイっていうのはカルチャー的には通じないんですよね。
でも一緒にお酒を飲んでいるときはみんなしてヤバイって言っとけば大丈夫みたいな感じもあるし。
若い子と喋るときも、あえて難しいこと言わずにヤバイって言っとけば、むしろそこのコミュニケーションは円滑っていうことも言えますね。
この本マジヤバイから読んでって言っといた方がいいんですよね。
そうそうそうね。あえて自分を賢く見せるために難しいことも使わなくても。
このチョムスキーさんのせいぜい文法っていうやつがあって。
言葉の使い方そのものも正しいのはなくて、カルチャーというかコミュニティの中で最適を探っていくし、
僕らはそういうことを学んで喋れるようになった。正解を知ってるんじゃなくて、どう喋れば通じるかっていうところを模倣しているというところが大学長では確認されます。
コミュニケーションはやっぱり模倣の能力なんだなというか、相手に合わせて言い方を変えるというのか。
誰に対しても同じ喋り方しかできない、一般的に勉強ができる人ほどそういう傾向があるような気がするので、だからあいつはコミュ力が云々と言われてしまう。
でも全く正しい指摘なんだね。
コミュ力を学習できるようにもうちょっとなればいいなって思うんですよね。社会的な話で言うと。
でもスタートの模倣力が低いんやったら難しいよね。
自分の話で言うと、やっぱり結構学習で補えるようになってきたなって気がして、そういうのが。少なくともあんま得意だったと思わんし。
今が得意かどうかは置いといて、その苦手意識は減った。
相手の価値観を認めるということができるかできひんかなのかな、やっぱり。正しいイデアリズムに支配されていると、やっぱりそういうのに交じりにくいっていうのがあるのかもしれない。
そうかもですね。神社の委員とかで隣のおっちゃんとかと普通に仲良くしゃべれるようになったから、自分の場合で言って。
それは信じられんかった気がするんですよね。
20代の自分やったら信じられんかったよね。
そうそうそう。そういうのは思う。なんとなく楽しいと感じることができるまで含めて重要なことなんだろうなって思いますね。
で、時間が迫ってきたのでいきますが、第7章が再現なく発展する極めて美しいものというところで、ここね僕ねちょっと感動したんですね。ローラさんやったかな?盲目のローラさんの話で。
彼女が名前っていうのを発見するシーンが描写されてるんですけど、そこにすごく感動したんですよ。
俺全然覚えてないけどどんな話でしたっけ?
盲目の女の子がいて、文字も書けへんけど、少しずつアルファベット的なものを教えてもらって、あるときにこれ、ある対象をこの言葉の並びで示せるんだって発見した。
僕らが当たり前にしているつもり。何かを指差して、あれがあれ、こうですよっていう名前っていう概念を発見して、そこから目まぐるしく言語能力が上がっていったっていうエピソードが出てくるんですが。
名前ってすごい発明というか、何やろ、機構?っていうんかな?システム?なんだなーっていうのは。名付けるとか名前があるって。
人間は当たり前に名前使ってますけど、よく人間以外の動物って普通にお互いに名前呼ばないですからね。
できないですもんね。ヘレン・ケラーが水で革命が起こった、水というものを知って革命が起こったみたいなこととか。
あと名前を付けると、リアルに存在していないものも共通項にして味わうことができる。面白いとか楽しいとかって、物理的に存在してないのに名前があれば共通のものとして共有できるっていう感覚として。
それはなんか違う本だった気がするんだけど、その辺りも言葉の凄さですね。
あと、デンマーク語の難しさがこの章の後半に出てくるんですが。 あー、あったかも。
詩音をほとんど言わない。 詩音がない。 うーん、うーんっていうことしか言わなくて。
デンマーク人にとっても聞き取りにくい言語になってるらしいんですが、逆に言うとデンマーク人は言葉、発話以外のもので意思疎通をしている、補佐しているみたいな話があって。
やっぱり言語っていろんなパターンがあんねんなっていうのは思いました。
これ思ったのがね、やっぱね、東北弁とも似てるなと思って。 確かに確かに。
やっぱ寒いところはみんな口開けたくねーやろうなーっていう。 うん、それはあるよね。
で、東北弁がやっぱその認識として自分もやっぱ聞き取りづらいんですよね。 うん、確かに。
他の地域のその方言に比べて。 うんうんうん。
っていうのはやっぱ、これも詩制っていうのか地域制っていうのか。
地域制ってことだよね。 うん。
寒いところは寒いからみんなあんまり口を開けずに喋るようにしたくって、だんだん言語がそうなっていった?
うん。それでもお互いにそういう言葉を使っていると、なんとなく意思疎通ができる。
そればっかり聞いてるから聞き取れるんですよね。
そういう感じで進んでいくと。で、これ発祥の話に多分つながるんですけど。
結局この本の観点って結局進化論的なんですね。進化論的観点で言語の発達を見ていくというふうに言えると思うんですが、
大発祥が両循環の文化・言語ということで、進化論は今さら説明することはないと思うんですけど、
まあ明確な設計図があって、それに基づいてデザインされているというわけじゃなくて、
その環境ごとに適応したものが残って、次の世代に残されていくということが繰り返される。
盲目の時計職人みたいなメタファーがありますけども。
唯一の正しいイデアに基づいて生物というのを作られるんじゃなくて、
その時その時機能していったらいいねっていう生物の展開と、著者らが言う言語の展開というのはほとんどほぼ同じ。
進化の速さが全然違うだけの話であって、
人間の進化はすごく長いタイムがあるけど、
言葉っていうのはある人から次の人とかあるいは日常的に会話されるその他の人々の間で行われて、
通じたり通じなかったりっていうことによって変化のサイクルが回っていくと。
言語の方が早く進んでいくのですけども、
その2つが共進化かな。共進化という概念で、
生物の進化に合うように言語も進化するし、
言語がうまく使えるとコミュニケーションがやりやすくなって生存に適するよねみたいな感じで、
共に進化のプロセスを進んできたというような話が確認されるのが第8章で最後の話ですね。
言語が遺伝子の変化よりも早すぎて、
言語能力が上がって、それに伴って脳の能力も上がってきてっていう循環が、
多分他の生物よりも圧倒的に早い速度でPDCAが回せたみたいなイメージなのかな。
どういうことだと思いますね。
言語が進化して、脳みそというハードウェアがちょっと良くなって、
そうするとまた言語が進化してっていうので、
最適化がより早く進むのか、それによって、環境に対しての。
子供でも使える言語っていうものが残っていくという風に進んできたということを踏まえると、
トムスキーとかの言語化とはだいぶ違うパラダイムがここに広がっていってるんじゃないかなと。
結構、プロ式の広い話というか、だいぶ大きめの話が展開される。
あと、人間と他の動物との違いみたいなのがいくつか紹介されてるんですけど、
チンパンジーって指差しをしないっていう話があって、これも面白いなと思ったんですけど、
指差しをしないとか指差しを理解しない。
最後、収賞があれですね。チャットGPTとかああいうのがやべえよって言われてるんだけど、そんなことはない安心しろみたいなニュアンスがこの人の言っている感じのこと。
そうですね。シンギュラリティとか生成AIについて収賞に触れられてて。
昔は全然コンピューターは言語でのやり取りなんかできませんでしたが、チャットGPT3かな、この本が書かれてたの。
では、かなり言語の応答ができるようになってると。これはもう人間がヤバいんではないかみたいなことは危惧されてますけど。
結局彼らは何も理解していないと。理解という理解をどう定義するかによりますけど、理解というものをしてないから、すっとんきょうな返答文を生成して、
それで指摘されるので絶対謝ること。指摘したら謝るんですけど。つまり分かっていないということなので、
その分かっていなさと人間の分かってるの違いっていうのは埋められないか埋めるにしても相当の時間がかかるだろうから、
少なくとも生成AIに人間が乗っ取られて支配されるみたいなことはちょっと急じゃないかなっていうことが最後触れられてますね。
この人は多分埋められないみたいなニュアンスで考えてたかなって印象ですね。
なんか知能の必要を回避する動作しかできないだとか。
あと言ってたのはこれではないんですけど知能と知性っていう言葉を、ヨーロッパ圏、西欧圏の言葉だと欧米圏だとついどっちもインテリジェンスっていう言葉にしてしまうので、
結構解像度として雑に理解するけど、日本語で言う知能と知性で考えればあんまないぞ。そうはならないと考えることができるみたいな話があったのと、
あとね、サンプルがあったじゃないですか。GPT-3がいかに何も理解していないか。
GPT-4で試してみました。まず一つがGPT-3がいかに何も理解していないかの事例その1っていうのが、
1801年に誰がアメリカ大統領でしたかって聞いたらトマス・ジェファーソンと答えてきます。
1600年に誰がアメリカ大統領でしたかって聞くとエリザベス一世と答えてくる。これを今のGPT-4で試したらトマス・ジェファーソンの話は出てきました。
同じ答えでした大雑把に。1600年のことを聞いたらですね、1600年にはアメリカ合衆国の大統領は存在していませんでした。
アメリカ合衆国が独立したのはいつで、初代はジョージ・マシントンが大統領になったのはいつですみたいなことをちゃんと返せるようになった。賢くなっていた。
もう一つ、一度も聞かれたことのない質問は壊れるっていう言い方をしていて、
クモは何個の目を持ってますかって聞くと8個っていうらしいんですよね。さらに私の足は何個の目を持ってますかっていうと2個って答えてくる。
GPT-4バージョンなんですけど、クモは通常8個の目を持っています。しかし種によっては目の数が異なることもあり、中には6個、4個、あるいは目を全く持たない種も存在します。
これらの目は環境に対する感知や獲得に役立っています。まだダメでしたね。
では私の足は何個の目を持ちますかって聞いたら、あなたの足には目はありません。
人間の体には目が2つあり、これらは頭部に位置しています。
足には目がないため視覚的な情報を得ることはできませんと、おそらくやっぱクモの情報より人間に関する情報が多いので、
ここは日本、あえて言うんですけど、理解できるようになってきているかなと少しずつ。
情報量が増えてくれば増えてくるほど、そういうミス、エンドっていうのは減っていく。
本質的に何も理解していないということは多分変わらないんじゃないかと思うんですけど、
俺はこの著者が言うほど、こんな自信満々に絶対大丈夫とは思えないなとは思いましたね。
そうか。結局理解するっていうのをどう定義するかによって変わってくるし、
僕らの知識では彼らのミスを指摘できないぐらい知識を蓄えてしまうと、もはや差がなくなってしまうから。
人間には区別ができないレベルの知性と区別ができない現象が起こり得る?
うん。まあ、そうやな。
当然、仕事が云々かんのみたいな話はあるんですけど、SFが描くシンギュラリティがやってくるかどうかは。
そこに関しては割と楽観的かな、自分も同じく。
一部のことしかできないっていう、当たり前なんだけど、できないことをいかに見つけていくか。
単純に問題提起ができないですからね。
問題提起をお願いしない区切りできないからね。
お願いされないと問題提起をしないってことなのか。
その辺りが今後、個人的には生きていく鍵なのかなという印象ですかね。
これが大体の本の話で。
僕、3つ本書を読んで考えたことがあって。
1個が自然言語と人工言語という話で。
僕、この本の題材にしているのは自然言語ですね。
意味のネットワークがたゆたっているのが自然言語。
人工言語というと、一番簡単に言うとプログラミング言語ですよね。
あれは人工の言語で、同じ言語とは言ってますけど。
人工言語の場合って意味が単一に、意味というかファクションが単一に定まっていて、
どうしたらどうなるかが客観的に保証されているというようなもので。
同じ言語とは言ってるから分かりにくいけど、違うものなのだなと。
全くもって役割が違うものだって。
そうしたときに、鉄学っていうのはむしろ人工言語の方に、
かつての鉄学の営みっていうのは人工言語の方に近いんじゃないかなという、
僕らの自然言語と同じ語彙を使って行われてるけども、
やってることはプログラミングみたいなものなんじゃないかなと。
人工言語を開発しようとしていた?
人工言語的な営みをしようとしていません。
新しい言語を作るみたいなことをしてた。
それは日常の使ってる語彙は、例えばプログラミング言語でも何やろうな、
宣言するとかリムとかってありますけど、共通する言葉はありますけど、
でも基本的には営みとしては別じゃないですか。
だから鉄学も多分そっち側に位置づけられるんじゃないかなっていうのが一つ思ったことと、
あとやっぱり人間っていうのはパターンの発見?
パターンの発見と模倣っていうのがその知性を支えているんだなと。
あらゆるところにパターンを見つけてそれを使っていくっていうことが、
人間の人間らしいところなんだなと。
最後は一番最初に出てきましたけど、書き言葉ですね。
書き言葉はジェスチャーゲームをどう変えたのか。
これ多分抜本的に変えたと思いますね。
書き言葉でもうあれですよね。
それで言うとやっぱり歴史がいかに短いかですよね。
書き言葉の歴史は確かに短いね。
所詮人類全体で見ても数千年レベルしかないんだし。
一般で言うと、
一般人なんて100年200年のレベルですよね。
100年くらいの話だからな。
この浅い文化の中で、
僕らが書き言葉とかをうまく扱えてないっていうことはきっとあるだろうなという気がしますね。
遺伝子は当然追いつけてないですからね。
それの話を言うとやはり。
基本的にジェスチャーゲーム、言葉っていうのは
愛対して言葉以外のニファンスも使いながら意思疎通するというゲームなので、
書き言葉はもう純粋に言葉だけで、
しかもさっき言った言葉っていうのは意味が本当は
あやふやで定まらないものなのに、
なんかそういえば、ひょっとしたらここから会話の科学とかに興味を持ったような気もするし。
何よりも改めて読み返してみると、
1年経っても読書メモがちゃんと残ってるとすげー思い出せるなっていうのと、
1年経ってみると同時に新しい発見があるというのかな。
自分が書いたメモなのに。
それは面白い。忘れていて自分なりにいい意味で要約されているからこそ発見できることがある。
ありそうですね、それは。
そこはやっぱり書いておいたメリットなのかなとも思いましたね。
そんなとこですか。関連するのっていくつか僕も思いついたんですけど、
とりあえず言語の本質、中古新書から出ている言語の本質という本は関連して読むと面白いと思う。
こっちはジェスチャーゲームじゃなくて、何だったっけ、オノマトペか。
オノマトペから始まった的なやつですよね。
オノマトペっていうのは身体感覚の延長にある言葉。
言葉そのものと身体感覚の間にあるような言葉で、そこから生まれたんじゃないかみたいな話で。
合わせて読むと面白いと思いますね、これは。
俺は直接的に繋がりなさそうに感じるピダハンが一番繋がりとして面白かった気がして。
そのピダハン語っていうものがいかに我々の常識と違う言語。
さらに多分言語と文化がすごく大きく影響を与え合っているっていうのが、この本一冊でだいぶわかるような気がする。
人間の生物としての進化と言語と文化、これ3つがお互いに関連し合ってるっていう。
かなり言語に文化は影響を受けているだろうなっていう。
その、才気の構造を持たないっていう特殊な言語らしいんですけど、才気の構造を持たないって、やっぱなんかね、うまく言えないんだけどね、複雑なことをしないというかね、生き方として。
そういうところにも繋がっている気がするし。
確かにね。
知識とか真実に対してはプラグマティックらしいんですよね。
でしょうね、きっと。
そういうとこも言葉ときっとうまく通じるんだろうなとか。
あと直接は関係ないんだけど、絵とか写真を見てもわからんっていうらしいんですよね。
それは何が写ってるかわからんのか、その糸がわからん。
何が写ってるのかわからん。
その二次元のものが存在しないので。
そうか、なるほど。
二次元のものを見ても、ちょっと情報量が落ちるともう何もわからんとか。
じゃあ僕らはだから二次元のものを見る訓練をして大人になってきてるわけか。
二次元のものを視覚的な抽象化が得意だからできることで。
っていうのとか、ちょっと違う話なんですけど、
繋がりという意味でピダ版は今読んでも面白いと思いますね。
なるほどね。
およそ10年前の本なんだけれども、日本版出たの。
っていう感じです。
だいたいそんなとこで。
非常に面白くて、紹介する前にもう一回一から頭から読み返したんですけど、
二回読んでも面白かったですね、普通に。
あると思いますね。やっぱそのぐらいのほうがいいですよねってやっぱ思いますね。
まあそうやね。
面白いと思う本を二回読むほうが、微妙なやつを二冊読むよりはるかに、五冊読むよりいいというのかな。
まあね、理屈でいうとそうやけどね。
面白い本を見つけるためには微妙なやつに出会う。
やっぱり人間は新しい情報を求める傾向があるから、ついつい読んじゃうよね、新しい。
はい、まあそういう感じです。
ということで、Book Catalystサポーターも募集しておりますので、
よかったら概要欄などご覧いただけたら幸いです。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。