はい、お願いします。
例えばこの人、話題に出てきたもので、エヴァンゲリオンを題材にしていたりだとか、
あとラッキーマンのついてない陽一くんの話が出てきたりだとか。
難しいな、それ。
そうでありつつも時々古代の武士とか騎士の話を、なぜ悪口はいけないのかみたいな話に、
例えというか歴史的な観点でそうなったんじゃないかみたいなことを話してくれていたりとかもしていて、
ただ取っつきにくいので、まず一番個人的に取っつきやすいと思った例え話を元にして説明というか話してみたいと思います。
例え話なんですけど、エヴァンゲリオンの話をすると、おそらく俺よりも詳しい倉下さんならいっぱいわかるんじゃないかなと思うんですが、
アスカ、アスカラングレー、僧侶アスカラングレーさん、
シンジと会ったばかりの頃から物語の終盤までしょっちゅうあんたバカって言ってるじゃないですか。
あれってどういう意味の言葉なんだろうっていうことを真面目に考えるとめちゃめちゃ難しいよね。
それを言語哲学的にちょっと考えてみようかっていうふうに思うんですが。
あなたはバカなのですかっていう質問ですけど、だから修辞疑問ですよね、これは。
でも文字に書いてあることだけのことを言ったら、あなたはバカなのですかっていう意味だとしか、
小学校で習う国語では、is, are you バカ?だけなわけじゃないですか。
そうですね、単純に考えたら。
でも我々日本人というか言語を話す人々というのは、このあんたバカっていうのは、
あなたはバカなのですかっていうことを聞いているわけではないということは、
おそらく多くの人が同意できると思うんですよね。
思います。
言語哲学的な用語で言うと、これは疑問文であるということはまず語尾が上がる特徴から明らかだということは言っていて、
どういうものかというと、この本で書かれていた説明で言うと、
発語行為と発語ない行為と発語媒介行為という3つのものが重なり合ったものですっていう言い方ができるらしいです。
その3つが重なり合って意味が形成されているということ?
そのあたりがすごくわかりづらかったというか、言語というものに行為としてどういう意味があるんだろうっていうことを考えると、
その3つの行為があると言えるのかな。
発語行為というものは一番シンプルな話で、どういうことを言ったのかという意味で考えてみましょうと。
発語行為的な解析としては、あなたとバカということを組み合わせた文を言ったと考えることができる。
あまりにも文字通りすぎて、だからなんやねんっていう話だとは思うんですけれども、
もうちょっと考えていくとちょっとずつ面白くなっていって、
おそらくこのあんたバカというのはもう一つ発語ない行為というもの。
内容のない、内側の内。
内側の内。
発語ない行為というのは、質問やお願いのように、
主に話者の意図や他人から見てその人がやったと見なされたことという観点で発言を記述したもの。
いきなり難しいな。
意味がわかんないじゃないですか。
面白い例え話っていうのがすごいあって、
日本語としてお醤油とれるって言葉があるじゃないですか。
お醤油とれるってどういう意味だと思いますかって。
意味っていうかその発話者の意図としては、お醤油とってほしいけど可能ですかっていうことですよね。
これは場面によって意味が変わるんですよね。
すごく当たり前のことなんだけど、一緒にご飯食べてる時にお醤油とれるって言ったら、
疑問文なんですけど、
お醤油をとってくれますか。私にお醤油をとってほしいですというお願いという行為をしている。
でも例えばこれが心身麻痺の人がリハビリしている人に対して、
お醤油とれるって言ったら、あなたはお醤油をとることが可能なんでしょうか。
可能であるかということを聞いている。
今度は質問という発語ない行為にあるということができる。
あんたバカ?というのは発語ない行為というもので考えたら、どういうことを意図しているかと考えると、
言語哲学的に著者が考えた言い方で言うと、表出型と呼ばれる行為なのではないか。
表出、漢字では。
表に出てくる。
表出型という行為なのではないかという解釈ができる。
表出とはどんな行為なんでしょうか。
自分の感情を表現、表出することが目的で、
シンジ君が何か言っていて、シンジ君が言っていることが気に食わないんですよね。
お前が言っていることは気に食わないぞという意図を持った文章1が、
お前が言うことは気に食わないぞという感情を表出することが目的なのではないか。
というのが、発語ない行為としてのあんたバカってどういうことなんていう行為である。
さっきほどの言うと、何かを頼んでいるわけでもないし、純粋な疑問文でもない。
そりゃそうだわな。
話していて思うのが、俺が喋ろうとするとこんなに難しいのに、
感覚で考えたら、ごくごく当たり前なことしか言っていないんですよね。
だから、私はあなたのことをムカついているということを言いたいというメッセージがそこの言葉にはあったというふうに解釈できる。
そうですね。それが発語ない行為として解釈すると、そのように解釈できるのではないかと言えるのかな。
それはでもさっきも言ったように、文脈次第ってことですよね。
そうそう。エヴァンゲリオンをまさに思い出すと面白いんですけど、
どう考えたって一番最初の頃のあんたバカと、エンディングが近づいた頃のあんたバカは言ってること違いますよね。
なるほどね。確かに。
それは例え話としてすごく見事だなと思っていて。
だから言語行為、発語行為としては常にずっと変わっていないんですよね。あんたバカというのは。
だけれども、物語を通じて発語ない行為としてのあんたバカというものは、意味が変わっていった。
そういう捉え方をしてエヴァンゲリオンを語ったら、楽しみ方にもう一つ深みが生まれるというか。
アカデミックにエヴァンゲリオンを解釈しているという言い方がちょっと言えるんじゃないかという気もして。
なるほど。
そういうふうに考えると、正直意味がわからんけどなんなんやろって思っていたことをもうちょっと身近なものとして、
エヴァを楽しむための言語哲学みたいなニュアンスでもちょっと楽しめるかなと思っていて。
そのあたりが入門としてこの本が上手いなって思うんですよね。
エヴァンゲリオンの今の話が、おそらくこれを聞いてくれている人の多くが、どこまで詳しいかわかんないけど、
アスカというキャラクターのことは一定程度知っているだろうし。
あんたバカって言っているであろうことも一定程度知っているだろうし。
あんたバカが最初と最後で意味が違うってすごく当たり前のことなんだけど、
でもそれを哲学という学問で考えた場合は当たり前にしてはいけないんですよね。
そういう意味で説明する場合に発語行為は変わっていないけれども、
発語ない行為としては変わっているという言い方をするとちょっと認識がしやすい、説明がしやすくなる。
だから言語行為っていうのがとりあえず今、1階と2階に分離されてそれぞれ解明されたという状況ですね。
もう一つ行為として存在するであろうということで言われているものというのが発語媒介行為。
これもまたすっげえ難しくて、例え話をするとおそらく一番わかりやすいと思うんですけど、
パトカーが走っててサイレンを鳴らしてアナウンスで前の車止まりなさいって言いますよね。
この場合ってパトカーが言おうとしていることの目的というのは、
ドライバーに止まるということを了解させて車を停止させようとすること。
発語ない行為というものは結果じゃなくて言ったこと自体がどういう行為なのかということなんですけれども、
はい、わかります。
発語媒介行為というものはそのことを言ったことを媒介してどういう意味合いのことを言っているかという行為というか解釈の仕方というかって言ったらいいのかな。
発語ない行為は例えばさっき言ったようにお願いするとか言う言葉を発する人の状態というかその言語の意図みたいなところで、
発語媒介行為はその言語が伝わった人の結果としてどうして欲しいかどうなって欲しいかって目指す状態みたいな感じですか。
ですね、そう。やっぱあれだね、これはすっげえ難しいから、倉下さんの助けがないと進められないですね。
だから、黙れっていうのは相手を黙らせるってことが目標の行為。それが媒介で。
発語ないは、だからそういう意思を僕は持ってるってことを示すってことが発語ない行為で、発語媒介行為は相手を黙らせるっていうこと。
なるほど、はい、わかった。
で、今回のそこまでわかった上で戻ってくると、要するにあんたバカという言葉にはどのような機能があるかっていう哲学の要望で言うと、
どんな機能があるかという言い方ができると思うんですけども、ここで言っていて面白いなと思ったのであり、この本の割と核でもあったことなんですけども、
初期のアスカが言うあんたバカの中心的な機能というものは、誰かを自分より低く位置づける、ランクづけをするという機能があるっていう言い方をしているんですよね。
で、これがある意味で悪口という行為の本質というか、悪口は何がいけないのかということを一言で言うならば、このランクづけをすることというものが悪口の最もダメなところで、
それさえなければ、要するにあんたバカにランクづけ機能が存在していなければ、あんたバカは悪口ではないという言い方すらもできる。
というのが、この本全体での大きな主張というか、自分が一番印象に残ってすごいなと思ったことなんですけど、
あんたバカの話で言うと、あんたバカという発言を真面目に言えるっていうことは、そういうことを言ってもいいというメタメッセージが伴っている。
場の空気が、あいつバカって言ってもいいっていうことを伴っているので、言ってすぐに制裁の対象になったりしない限り、向けられた人に対して、そういうことを言ってもいいんだっていう意味を限界に含んでいるということができる。
スクールカーストの上位にいることが明示されるということですね、その発言によって。
そうですね、その発言によって明示されて、要するに権力を持っているってことなんですよね。
自分はこの人をバカと呼んでいいという権利を持っていて、この人の呼び名をどう決めるかというのは、私が権利を持っている。
この権利を持っていて、ランク付けをするということこそが、悪口の最もあってはならないというか、悪い機能というか、悪口がなぜ悪いかという説明をするときの悪いものというのが、ランク付けをするという行為だっていうふうに言えるのかな。
それはランクそのものがダメなんですか?そのランクがC的なものだからダメなんでしょうか?ランクというものが全体的にもうダメ?
ランクというものを付けることができてしまうという状況が、結果的にその人が権力を持って差別をすることが自由にできてしまうということがダメだという意味だと解釈しています。
これを正確に、筆者が言いたいことが正確にどうだっていうよりは、あくまでも俺が解釈したというふうにしか言えないところが難しいんですけれども。
それでOKです。大丈夫です。
大雑把に言語哲学って、要するにこういうことを考える学問だよっていう感じの。
言語の機能っていうか言葉のお役割っていうものを考えていく。先ほどから何度も出てきましたけど言語行為なんですよね。言語そのものじゃなくて言語行為。
言葉が発されるっていう誰かに向けて言葉が放たれるというものを視野に入れてるっていうのが多分特徴なんでしょうね。
そうですね。で、すげー難しいのが、昔最初期の言語哲学というものは、それで言うと行為というものだと言語は考えていなかったみたいなんですよね。
そこがますますもうちょっと掘り下げて勉強すると、余計難しくて分かりづらくなるっていうことなんですけど。
例え話としても出てきたんですけれども、例えば結婚をするときにあなたは誰々を永遠に愛することを誓いますか?みたいな、割とナンセンスだと思ってるんですけれども。
そういう発言って、ただ言葉を言ったわけではなくて、その発言って何らかの行為をしているという言い方ができるよねっていうのが最初期の言語哲学から最近ちょっとずつ変わってきた言語行為論という呼び方をするらしいんですけれども。
そういうふうに変わってきて、そうじゃないと言葉というものを説明できないことがすごく多かったみたいなんですよね。
だからウィト・ゲンシュタインの後期は言語を一つのゲームとして捉えてましたけど、やっぱりさっきも言ったように文脈があって初めて言葉の意味っていうのが制定できるんで。
だから言語だけを研究するっていうのは文脈を抜くっていうことですから、それはやっぱり限界あるでしょうね。
実際にバートランド・ラッセルから始まり、ウィト・ゲンシュタインがついでぐらいが言語哲学の始まりとも言えるようなレベルなので、哲学の分野で言うと、所詮100年しか歴史がない学問なんですよね。
それは結構不思議なことですよね。だって哲学って言葉と共にあったはずなのにね。
そこがある意味で個人的に哲学が割と面白いなというか、すごい大雑把なこと言うと2000年かけてやっと気づいたのが。
俺たちって喋ってるくせにこの言葉がそもそも何なのかっていうことに気づくことができたのは、人類2000年かけて一生懸命考えてやっとそこまで来たっていう。
だいたいこういうことをずっと考えてるのが、ある意味言語哲学でもあるという言い方ができて、もうちょっとわかりやすい存在論的な答えって言われた場合のいいサンプル、事例として。
CDとは何かって言われた場合に、この円盤の形をしたプラスチックですっていうのが意味の存在論的な答えという言い方ができると言えばいいのかな。
さらにそこの外在主義、内在主義のことを言われると、このCDって何ですかっていうと、そこに存在しているCDのことを考えている場合は意味の外在主義と言えばいいのかな。
私の頭の中に思い浮かんでいるその円盤状の形状のものですっていうことを考えた場合は内在主義という言い方をすればいいのかな。
問題はその実際にものがあるときはいいけどないときどうするかですよね。
そういう不都合が出てくるので、そうやって常に外在主義の人と内在主義の人は戦いをしているんですよね。
お互いにこういう今みたいなツッコミどころというのを探しあって、CDならあるからいいけど、じゃあ楽しいという。
愛とか平和とか、いわゆる概念しかないものについてはどうしたらええねんっていうことになりますからね。
哲学の人たちはそれあるって考えているっていうのは、またそれはそれでおかしなことっていうか変な感覚ですよね。
それはちょっとさすがにそれの実態があるというのは難しいものがありますね。
実態があるっていうかあれなんですね。だから自分の内側にあるんじゃなくて、一般的なものとしてあると考えているという言い方ができるのかな。
それは難しいところです。それをCDと同列には並べられないで、そこの一括りは僕はちょっと厳しいかなという気はしますけども。
そっち側の立場に立つとそう言えるのではないのかというニュアンスですかね。
こういうふうに意味という言葉の存在論があるとかないとかっていう言葉を考えるだけでも、無限に考えようと思うと30分1時間ずっとやれてしまうような難しさがあったりだとか。
もう一つ意味というものの機能としてもどういうものがあるのかっていうようなことがあったりしていて。
これ以上突っ込むと難しくなりすぎるので簡単に言うんですけれども。
機能としては意味という言葉にはこういうような機能があるんじゃないっていうのが4つある。
少なくとも4つの側面があるという言い方をしていて。
一つが心理条件的内容。事実関係を伝える内容というものがある。
例文として性格の悪い大学教授がいるっていう場合に性格の悪い大学教授というものが存在をしているということを伝えようとするというのが意味の心理条件的内容としての機能という言語にするとそうなるのかな。
一般的にイメージされやすい言葉ですよねきっと。
あと3つが前提的内容、使用条件的内容、会話の含みという3つのものがありまして。
2つ目から。
給食費を盗んだ奴は誰だ黙っといてやるから手を挙げろっていう場合にそもそも誰かが盗んだのっていう前提みたいなものを勝手に含んでいるよねっていう言葉には。
そういう意味があるよねっていうような言い方というのがその前提的内容、意味の機能として前提的内容というものを含むことができるみたいな言い方。
もうその言葉を発した段階でそこに意図されて隠されている前提も含めて表出してしまうと。
一番わかりやすいのがあれタバコもうやめたのって言われたら、その人はタバコをやめている、吸っていたということを勝手に前提として含んでいる。
確かに。よく覚えているキャッチコピーがありまして、カラムーチョなんですけど、ポテトが辛くてなぜ美味しいっていうね。
はちゃめちゃなんですよね、文法として考えると。
で、なぜ美味しいっていう疑問文はすでにもうポテトが辛くて美味しいことが前提になってるんですよね。
これまさに言語哲学で言うならば、前提的内容を上手に使った事例なんですよね。
なるほどね、確かに日常にありますね、そういうのは。
で、もう一個が使用条件的内容。これは心理条件的内容って、要するに文章の意味としては同じなんだけれども、
例えばっていうので出てきたのが、泉が到着したという言葉と、泉のやつが到着しやがったっていう言葉って、
さっき言った心理条件的内容、何を言おうとしているかということを伝えていること自体は全く同じなんですけど、
言葉として違うことは直感的に分かりますよね。
後者はなんかちょっとネガティブな感じが辿ってきますよね。
そうそうそうっていう場合に、これもね、さっき言った前提条件、共有基盤を自動的にアップデートする機能があるという言い方をしていて、
さっきの泉のやつが到着しやがったという言葉には、それだけで和社に有意な共有基盤を持たせるという効果を含んでいる、機能を含んでいるという言い方ができる。
この辺り話してみると、改めて思うんですけど、要するに悪口もこういうような機能があるから、悪口というものはダメなんだぞっていう話に繋がっていくんですよね。
なるほどね。ただ事実を記述しているだけではない以上の意味というかメッセージがそこにあると。
そうそう。そこが分かるようになって、やっとここまで話してきた、すげえ難しいことというのがだいぶちょっとずつ繋がるようになってきて。
この例を聞くと、やっぱりニュアンスは伝わるじゃないですか。
要するにこういう機能を持っているから、言葉というものは、悪口というものはいかに悪いのかということが、こういう機能を一つずつ説明していくことによって、少しずつちゃんと合理的な説明ができるっていう言い方でいいのかな、いいんだと思うんですけど、ようになっていく。
この辺は哲学のすごさというか、社会を円滑に進めるために、めんどくさいことを言う相手を本気で倒すためには、こういうところから話していかないといけないんだなと思うんですけど。
なるほどね。悪口言っちゃダメっていう道徳的によりも、その言語、哲学的な言語の機能に注目して、悪口を発話することのネガティブな側面を機能的に解説すると。で、納得してもらうというのが、真っ当というか王道ですよね。
そうですね。ロジカルにそうやって悪口をダメだっていう言い方をするのであれば、道徳心に訴えかけていても、道徳心がない人には通用しないので、こういうレベルで、今の話だったら少なくとも、ただダメだっていうより多くの人が納得、理解され得ると思うんですよね。
もう一個最後の意味の機能で言って面白かったのが、会話の含みっていうやつ。おじさん、今お金持ってる?って聞かれた場合に、もうそれだけでわかるじゃないですか。なぜか我々は。
でも心理条件的内容の話で言ったら、あなたは今お金を持っていますか?って聞いているだけなのに、なぜか弦外にお金くれ、貸せって言っているということをわかってしまいますよね。
ちょっと面白いのが、文章で読んでへーって思ったのが、私たちは一般的に目的と全く関係のない質問をしない。この話者が所持金の有無だけに関心があって尋ねているとは考えられない。
わざわざ尋ねるということは目的があるのだろう。お金が欲しいようなので聞き手に所持金があればそれを渡すように要求しているのだろうという推論を、なぜか多くの人間は天性でできているというか、天然でできてしまっている。
でもどうなんだろう?例えば小学1年生はできるんだろうかね。
おそらくなんですけど、結構わかると思いますよ。自分の今子供と向き合っての経験で言うと、相当早い段階でその会話の含みは理解しているような気がします。
会話の含みってさっきも言ったように、発話とか質問には必ず意図、動機があるから、自分に対して向けられるそれは自分の何かと関係があるはずだという推論が強く働くということですね。
たぶんそのあたりはね、ひょっとしたら赤ちゃんの言語習得というものが、そもそも会話の含みというものを前提にして習得しているんじゃないかぐらいにちょっと思ったりもしますよ。
という感じで、人間というものが、ただ当たり前なんですけど、会話の含みって単純には判断できなくて、さらに言うとこれ、おそらくAIに理解させようとするのが最も難しい分野なんですよね。
ある意味で人間らしさというものを考える場合に何か役に立つことなのかもしれないし。
そうだね。だから含みやから、まず正解が一つじゃないし、複数あるかもしれないしね。
おだしょー これはたぶんね、社会によって変わるとかもあると思うんですよね。
多くの社会で、おじさん、今お金持ってるって言われたら、たぶん同じ意味をなすと思うんですけど、人間社会であれば。
なんかその異性人の話だったらこうではないだろうとも考えられるし。
なるほどね。
おだしょー 別に一個一個の言葉みたいなものを覚えるのはちょっと難しいというか、覚えることが多すぎるので難しいんですけど。
意味というものを一つ考えてもこれだけのことがあって、言葉というものにやっぱりそのランク付けの機能を勝手に含んでしまっているというのが大きな意味での、その言葉の意味、機能、役割を持っているもの、言葉が。
っていうのがまず前提としてあって、もう一個面白かったというかすごく興味深かったのが、総称文という言葉。
これを我々は割と無意識で結構使ってしまって、総称文というものが無意識で使ってしまう割に結構危険な言葉なんだぞということが終盤に出てきて、これがすごい面白かったんですけど。
総称文は漢字で言うと全てを呼ぶ文。
称というのはですね、一人称、二人称の称。
例えばで言うと、まず総称文の不思議なところ、正三角形は二等辺三角形だという総称文の場合、正三角形は二等辺三角形であるということは数学的な意味で言うと例外なく全てのものについて言えますよね。
同じく総称文なんですけれども、先ほど言った象の鼻は長い。ほぼ全ての象に当てはまるけれども、絶対そうだとは言えないですよね。
3つ目、化はデング熱を媒介する。
これってまた逆で、ほとんどの化はデング熱を媒介しないのに、化はデング熱を媒介するって言われたら、我々は一部そういう化が存在しているということをなぜか無意識で認識できてるんですよね。
これも言語哲学的な分析なのかちょっとわからないんですけど、危険を伝えるような術語の場合は、なぜか人間は総称文として判断してしまう、できてしまうという能力を持っているみたいで、
ライオンは人を襲うって言うけど、実際に人を襲ったライオンって生物の割合で言ったらごくごくごくわずかじゃないですか。
でも、総称文にしてしまうことができて、さらに言うと、さっき言った総称文というものが危険なのが、例外なく全てに当てはまる場合にも総称文を使うし、大半のものに当てはまる場合にも総称文を使うし、ほとんど当てはまらない場合ですら総称文を使ってしまう。
これでも英語だったらどうなります?
英語もいい話が出てくるんですよ、その後。
その前に、またトランプさんの話が出てきたので、一個言っておきたいんですけど。
トランプさんが言った総称文を悪く使うことがすごい簡単にできてしまう。
トランプさんが言った事例というのが、メキシコ人は麻薬を持ち込む、犯罪を持ち込む、合間犯だっている。
メキシコ人の中に麻薬を持ち込んだ人はいるかもしれないし、犯罪を持ち込んだ人はいるかもしれないし、合間犯だっているかもしれないけれども、例外なく全てに当てはまるかといえば絶対そうではない。
大半のメキシコ人がそうかといえば絶対そうではない。
かはデング熱を媒介するというように、そういう人がいるということは事実ではあるから、言っている言葉としては間違ってはいない。
だから、文法的におかしくはないということだよね。
そうですね。機能論、心理条件的内容はおかしくない。
なるほど、はい。
のに、そういう言い方をすると解釈する我々はどういうふうにも取れちゃうんですよね。
そうですね。
さらに言うと、危険なことをなぜか総称文として判断してしまうことによって、嘘じゃない嘘をついてくる。
ここにも出てきてあまりあえて詳しくは触れないんですけど、嘘というものも、嘘が悪いわけではない。
悪い嘘といい嘘。嘘じゃなくても悪いものはあるし、嘘でも悪くないものはあるし、というものがいっぱいあって、
悪口と嘘はイコールでもなんでもないし、一部重なっている部分があるけれども、相関関係があるわけでもなんでもないんですよね。
こういう断定を何回も何回も聞いたら、当たり前なんですけれども、ずっと聞いてたら、あれそうなんかなってだんだん思えてきてしまう。
僕たちのシステムイチはそうなってますね。
うん。でも嘘を言うなって言われたら、嘘なんて言ってないじゃんって言えてしまう。
なるほど。
これ結構ヤバいですよね、総称文という用語というか。言語のヤバさというもの、危険さというものにすごいこれを言われて気づかされて。
そうか。さっきのメキシコ人とかで言うと、主語がデカいっていう言い方をインターネットでよくしますけど、
でもそうか、別に間違い、不全なことを言っているわけではないと。言語的にはそういう言い方もありっちゃありっていうのは確かに言われてみるとそうですね、それは。
そう、そこがやっぱり危険でよろしくないというか、言語の危険な機能という言い方をしたらいいのかな。
言葉というものをその不要意に使ってしまうといかに危ないかということが出てきて、ここら辺からその読んでいてめっちゃ面白くなってきたんですけど。
さらに言うとね、総称文の続きなんですけど、総称文というものは本質主義だっていう言い方をしているんですよね。
で、哲学で言う本質主義と実存主義っていうのが出てきて、めっちゃ簡単に言うと男らしくあれみたいな、男というものは本質主義だという言い方ができて、勝手に男というものはこういうものが本来の男で、
究極の形というものはこういうもので、男である限りはそうであらないといけないというのが大雑把に言う本質主義の考え方。
プラトンのイリアからつながる考え方ですね。
総称文というものはそれを使うと自動的に本質主義的な意味を伴ってしまう。
さっきの英語の例でも出てきて、これは英語の理解としてもすごく面白い、興味深いなと思ったんですけど、英語で言うと、あがついてるかついてないかって全然意味が違うんですよね。
例えばなんですけど、2つの文章が英語の文章があります。
アドリアン is female というのと、アドリアン is a female とか、フランク is black とか、フランク is a black っていうので、アメリカ人が感じる印象というものが全然違うみたいで。
これを使うとさらに言うと、もっといろんな文章の使い方というのができて、
メイリル is blonde, but not a blonde っていう言葉がアメリカ英語では存在しているみたいなんですよね。
この意味を説明すると、メイリルという人は金色の髪の毛、金髪の人である。
ただし、一般的なブロンド女性に関連付けられているステレオタイプなブロンドという特性は持っていない。
これと同じく、メイリル is a blonde, and she isn't even blonde.
その場合は、メイリルは見た目は金髪じゃないんだけど、中身が金髪みたいなやつだ。
これが総称文というものの面白いところというか、英語でも総称文というものを持っているという言い方ができるのかな。
さらに興味深いのが、日本語ではこれ言えないんですよね。
日本語では、猫が猫だから。
そうそう。
つまり、そこにいる一匹の猫と猫そのものを、猫という概念を指す言葉の区分けがないからね。
これが日本語の危険なわけではない、日本語の特徴でもあって、総称文を考えるときに世界全体で考えることができない難しさでもあったりすると思うんですけど。
ここが違うから、英語の場合はもっとそこの概念に注意深い使い方をするのかなと思ったんですけど。
おそらくなんですけど、英語圏の人は、なので我々よりももうちょっと総称文がやべえということが感覚的に理解できるんじゃないのかな。
なるほど。
総称文は何がやべえって、要するに名詞を使ってしまうとやばいっていう感じの言い方になるんですけど。
名詞化してしまうことによって、日本語でも要するに総称文になってしまうという言い方ができるんですが。
これもあーって思ったんですけど、左手でボールを投げたっていう言葉と左投げっていう言葉って全然意味違うことなんですか。
どっち、どっちもっていう風に考え、そこまで思ってなかったですけどね。どっちが先なんでしょうね。
だから対策をどうしたらいいのかなって考えた時に、言葉遣いをまず改めるのか、それとも本質主義っていうものについて思想的にチェンジしていたらいいのか。
著者が言っていたニュアンス的なのと、自分の意見もそうなんですけれども、言葉遣いを改めるしかないんじゃないかなと思います。
言葉が持っている機能を変えることは容易にはできない。
この後最後に言論規制というものと、わりとニュアンスで言うと言ってはならない言葉というか、言葉遣いのルールを決めるべきだっていうニュアンスのことを著者は考えているんですよね。
一般的にそういう悪口を、そういうことを言うと世の中の人たちは誰もが言論の自由の規制だっていう言い方をするじゃないですか。
そこに対してもちゃんと答えというか、こういう理由で言葉というものの危険性をちゃんと考えてもいけないというところに、最後きれいにヘイトスピーチというものの説明を通じて、そのあたりの話もちゃんとつながっていて。
ヘイトスピーチという言葉を考えるにあたって、まずヘイトというのはどういう意味なのか。スピーチとはどういう意味なのかっていうところから、やっぱり哲学的に考えていくんですよね。
ヘイトという言葉について、アリストテレスの概念が出てきます。憎悪と怒りって違うくないって言うんですよね。
アリストテレスが言っていた怒りというものは、個人に向けられるもので対象に共感もするし、大体が分別や損害から生じることが多い。
衝動的な行為に結びつく場合が多い。憎悪というものは一般的に集団に向けられるもので、相手に共感をせず対象の不幸というものを願って、分別とか損害とかそういうことを味わったということと無関係で、衝動的な行為じゃなくて熟慮された行為に結びついていく。
ヘイトスピーチのヘイトって、怒りじゃなくて憎悪だよねっていう。好きとか嫌いとか、怒られたから怒ったとかムカついたから言い返したっていうものとは異なるものだ。感情が爆発してしまったとかそういうものじゃなくて、圧倒的な憎しみを持って発せられている言葉だ。ヘイトというのはそういう意味だ。
もう一個スピーチというものについても真面目にちゃんと考えてみましょう。スピーチの話で言うと、言語の辞書みたいなのを引くと大体会合の席とかで大勢を前にしてする話だとか談話っていうふうに定義されるよねっていう。
言語哲学的な話で言うとスピーチというのは大体心理条件を持った平常文が多く含まれているでしょう。こういう言い方するとやっぱり難しくなってしまうんですけれども。そして内容というのはある程度構成を考えられて話されていないといけない。
イメージなんですけどスピーチの例えばスピーチとして本日はお集まりいただきありがとうございます。お日柄も良いためスピーチは短くしましょう。さあ祝え飲めって言った場合、これってスピーチって言わなくないっていう。
スピーチというものはちゃんと心理条件的内容を満たした、よくある結婚式のスピーチで言うと何々さんと何々さんはこういうところで知り合ってっていう事実があってこんな風に出会ってこんなことが好きみたいですっていうそういう心理条件的内容というものが含まれているはずで、さらにちゃんと構成が考えられて喋ってるよねっていうものがスピーチであるはず。
だとすると、よく聞くヘイトスピーチって全然違うやん。
確かに。
すごいね、ヘイトスピーチがなぜいけないのかということをそのヘイトとスピーチの意味付けをちゃんと考える、意味というか意味かな意味をきちんと考えるだけでもうちゃんと突っ込めるんですよね。
なるほど。だからツイッターとかで瞬間的に悪口言うのはヘイトスピーチなんかじゃ全然ないわけだ。
そう、だからヘイトスピーチというものがまずすげえ難しいというか、すごい安易に使われてしまう言葉で、これもある意味総称分という言い方もしれないんですけど。
確かに。
なんかね、すごく安易にヘイトスピーチって言ってしまうんだけど、全然そういうもんじゃないよっていうことをまず知っておかなければならないし。
だからなんか集会とかで集団に向かって一人の人が立って5分なり喋るのはこれはヘイトスピーチになると。
そうそうそうそう。
おそらくだからブログとかでも1000字、1500字でちゃんとした文章で書かれているヘイトなメッセージはヘイトスピーチになりうると。
そうですね、言語の定義としてヘイトスピーチであると。
なるほどね、なるほど、わかります。
で、例えばその何とかは出ていけっていう話だとか、何々反対とかってやってる案なんとかも、だからヘイトスピーチではない。
で、もう一個が、もう一つヘイトスピーチ話として出てきたのが、ブックカタリストでも最初の頃に出てきたJ.S. Millの自由論。
J.S. Millという人はその自由論という言葉で言論の自由みたいなことも割と強く訴えていて、ヘイトスピーチというか悪口言っている人たちにお前らやめろって言うと言論の自由の侵害だっていう言い方をされるんだけれども、
Millが言っている自由論で語られる言論の自由というのは、真か偽となる意見というものを提示する自由が擁護されるものであって、その意見でないようなものを提示する自由を擁護していない。
で、例えばそのサンプルでできたのが、ほら悔しいだろう、オラみたいな言葉は意見ではないんですよね。
そうだね。
で、そのような言葉、そのような意見、意見ではないものを語る自由というものを、少なくともこれまでの人類の歴史の中で偉大な哲学者はそんなことは言ってないと。
そういう点で、ヘイトスピーチというかよくある、いわゆる一般的に認識されているヘイトスピーチというものは、意見の提示でもない加害行為だから、言論の自由だとして守る必要はまずないと言える。
なるほど。
で、もちろんヘイトスピーチというものが、もし言論だとして守るという意味ではないんだぞっていう、その上で、まずそもそもヘイトスピーチ以前のものというものを、ダメだよね、ちゃんと言わないと、ちゃんとダメだよねっていう風にここまで話を持ってきた流れが見事だなという感じがして。
なるほどね。だからもし、内容が反対できないものでも主張が含まれているものを発言する自由は守られるべきだが、それ以下のただの悪口みたいなものは、それを仮に規制したとしても、いわゆる言論の自由の侵害には当たらないという意見なわけですね。
ですね。
うん、なるほど。でもそれは確かにそうかもしれないですね。
なんかね、すごくね、ここまでだいぶ苦労して読んで、腑に落ちたというか、見事だなって、結構ね、ずっとライトに書かれていたので、結局何が言いてるんだろうっていうことをずっと読みながら思ってて。
最後の方に全部きれいに回収されて、ちょっと上手に、自分の場合は上手に回収できてないんですけど、その心理条件的内容みたいな言葉とかを解説されたのも、何なんだこの長い難しい話はって思っていたんだけど、その最後のヘイトスピーチの話に持っていくために、全部ちゃんと伏線として貼られていたっていう印象で。
なるほどね。
最後に出てきて、あーすげーなーって思ったのが、ヒラリー・パトナムという有名な哲学者がおりまして、水槽の中の脳っていう試行実験を考えた人ですね。
その人が残した言葉として、有名な言葉というものがあるみたいで、言葉を道具としてみなすとしても、ハンマーやねじ回しばかりではなく、複数の人間が関わる蒸気扇のようなものである可能性も考慮しなければならない。
これをここまで全部を読んでから聞いた時に、すごく腑に落ちた、納得できたという感じで、言葉狩りっていう言い方をしていたりだとか、言論の自由っていう言い方をしているんですけど、ここまでの話で言っても、言葉というものが実は自分たちが思っている以上に、総称文の危険さみたいなのもそうだと思うんですけど、
思っている以上に巨大で危険な道具なのではないかっていうのがまず前提としてあるならば、例えばアメリカ社会で当たり前なんだけど、銃って誰でも持てないですよね。危険な道具だから。
銃を自由に使えないし、所持するだけでも、ちゃんと資格を取らないといけないし、アメリカの現実がどうかちょっとわかんないけれども、そういうものがあって、言葉というものが仮に道具だということをしたとしても、道具って何でもかんでも安全なものばっかりじゃないし、
やっぱりなぜなのかというのが語れることはすごく重要だと思うんですよね。
一つ気になったんですけど、悪口とか差別用語っていうのが自動的にランキング付けるから悪いという話でしたけど、
例えば何かしらの誰か意見を発したとして、その意見が自動的にランキングを付ける機能を持ってたとしたら、それはやっぱり悪口と同類の悪さを持ってるってことなんですかね。
そうだと言えるんじゃないですかね。なのでおそらく言葉遣いというものをすごく気にして喋らないといけないと言えるんじゃないかな。
ただ相当難しいですよね。そのレベルの話になってくると。
たとえば同じく刑務所2.0でも、やっぱり礼儀って大切だよねっていうことを話し合いの土台を作るのはやっぱり礼儀だよねっていう話があって、それに通じることだと思いますね。
それはおそらくそうだと思います。だから議論をするときに見学帳で議論をしたら、ダメなのはこの理論で言ってもダメだと言えるんじゃないかなと思いますね。
おそらくそういうのはちゃんと自動的に相手を舐めているという意味を含んでしまう。お前本当にバカだなーなんて言ってしまったら、おそらくそこはダメなはずで。
しかもさっきも言ったように言ってなくても、言葉のニュアンスでそういうのって伝わってきますもんね。完全に相手をバカにしている風の人っていますもんね。
言葉の含みとかね。言語じゃないところでも言う人はいますからね。音というか、イントネーションとか上下響き強弱とかでも。
振り返ってね、やっぱり難しい。すごい難しくて。難しいね。
1回目を読んでいるときは、なんていうんだろう。なんか修行のように読んでいた印象があって。
なんかこういう分野には一応興味があるから読んでみようって読んだけれども、1回読んでやっぱりかなりわからなくて、もう1回最後まで読んでから読むと、やっとちょっと俯瞰した目線で見ることができたような印象があって。
一応その修行のような感じでも一応最後まで読めたわけですね。
そうですね。それが何でなのかって言われると、ちょっとわかんなくて。文章に魅力があったのかどうか、ちょっと断言できるほど自分ではわからなかった。なんか熱意はあったんですよね。
もし読む人で、俺と同じくらいわかんない人というものもいると思うので、今回の話を聞いてちょっとメタな目線で読めれば、読む場合の大いなる助けになるのではないかと思うので。
そうですね。
参考までにTwitterの感想などを読んでみたりすると、大体の人がこんなわかりやすい本はなかなか見たことがないというふうにおっしゃられておりまして、そこも生存バイアスというものがあって、読み終えることができる人がおそらく感想をつぶやいていて。
すごく理解できて、たくさん数が売れる本ではないと思うので、そういう知らない層にも届いてはいない、なかなか届きにくい本だとは思うんですが。
確かに。
とはいえ、哲学というものの、前回のフランス現代史等とは違う方面での役に立つ使い方の一つとしても、なかなか良かったなと思って。
なるほど。
こういった正義論にもちょっと近いような言い方になるんですかね。
という意味で、正義論が役に立たないと言ってしまったらそれまでなんだけれども。
でも、役に立つものなんだなっていうのをこれを読んだ時も改めて思って。
そういう点でもなかなか、一応入門でおそらくこれは簡単らしいので。
簡単だったとは思わないですけれども、ぜひ気になった方はぜひ読んでみてほしいなと思います。
はい。
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では、今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。