SCP-CN-590 保委5 非表示 ファイル6 空夜遊覧 意図 ありがたきかな? 超試験による第6次報告 抜粋
経験なる元信者 商工業者 学者 新職者 後職者 軍人 MOTHER文議会議員閣議
こんにちは。現在大統領を務めさせていただく 超試験と申します。
おそらくここにいる皆様は私のことをよくご存知かと思います。 この極秘の元信者ホールは外界と隔絶され、意外がない限り情報の漏洩はあり得ませんが、この際、機密保持はもう重要ではありません。
情勢はもはや歯止めが効かなくなっています。 偽りの信仰から天命教教徒を助け出す計画はすべて中止を宣告されました。
奇跡でも起こらないと彼らのことはもう助けることができません。 これは人類の運命のターニングポイントになるでしょう。
安全なる堕落への分岐点という意味で、私にはもう挽回することはできず、大統領失格と言われても言い返すことができません。
今は事件のまとめと元信者以外の人類の運命について分析することしかできないのです。
我々が最後の元信者です。 我々が全力を尽くさないと。
では本題に入らせていただきます。
ことの発端は1ヶ月前、それによる突然の活動でした。 厳密に言うと、それは活動とは呼べません。
なぜならそれは確かにまだ修行中です。 おそらく事前に進行力で時計仕掛けの類を設定したのでしょう。
道具をもたらす時と同じように。 今回それがもたらしたのは道具ではなく、進行力に似た能力を全ての天命教教徒に授けたのです。
我々はそれを有効的祈祷と呼んでいます。 その効果としてはお分かりの通り天命教教徒がそれに対して何かしらを手に入れたい
または何かしらの目的を達成したいと祈ると即座にそのものが手に入れ、または目的が達成されます。
ただしその能力に制限があり、どんなものも手に入れられるというわけではなく、どんな願いも叶えられるとは限りません。
つまり適度の願いなら叶えるということです。
それに加え我々元信者に関連する祈りも有効化されません。
なお天命教の聖職者が受ける制限は小さいとのことです。
しかし現時点では制限が具体的にどれほどのものなのかまだ詳しくわかっていません。
それに続くように第二の事件が発生しました。
有効的祈祷が制限を設けたせいで最初こそ感激に浸る天命教教徒たちでしたが、
自分の願いが何でも叶えられるわけではないことに気づくと即座に
ご神恩代理人様は得るはずも無きものを授ける自然者であるという標語を破棄し、
鈍欲が天命教の信仰とやらに勝って表に出るようになりました。
経験層に見える天命教ですが本質が腐っていては人の無限の欲望を抑えるはずもありません。
それの本意はおそらく信仰の強化を図り同時に我々元信者を動揺させることでしょうが、
本当に読みが甘かったと言わざるを得ません。
信仰を強制され人類を人類たらしめる全ての高尚な精神を放棄させられ、
人ならざるものになり下がってしまった堕落者たちの天命教への信仰のもとに、
あれほど完全に展開された醜悪な本質があるなんて想像だにしなかったでしょう。
次に起こることは皆様もよくご存知でしょう。
人類の無限の欲望が完全にさらけ出され、3週間前の暴動に繋がりました。
天命教教徒はまるで狂ったように世界各地の天命教寺院、教会と四つ星教営拠点を包囲攻撃しました。
なぜ善能なる御神恩代理人様が自分の合理的な不合理的な需要を全て満たさないと言い張って、
つまり彼らにもともと手にするはずもなかったものを授ける。
我々からすれば彼らの御神恩代理人様からの御徴ともいえるこの行為は、
彼らの貪欲の前では御神恩代理人様は人類を愛さない、
信心は死悪などといったレッテルを張られる行為となったわけです。
なったというわけです。
もちろんこのような反逆行為は別に初めてというわけではありません。
かつてそれの言い付けを無視して悼んがりを行った善家があります。
彼らはただ心の不安をなくそうと、無意識に自分の信仰を証明しようとしているだけなのです。
ことがここまで及ぶにあたり、天命教が何かの対策を取らないと、
教徒たちが天命教に害を及ぼす内容を有効的祈祷で発言できないとしても、
遠くない未来に天命教の教会組織と四つ星教会組織が地球上から抹殺されることが目に見えています。
そして一週間後、元信者を除くほとんどの人間が理智の放棄を選択したことを示す書物、
幸福論が天命教の保身の策として急ピッチで編集、出版されました。
明らかに彼らはズルをしています。文字だけではどうにもならないため、彼らは書物にミームを追加し、
天命教の聖職者が保有するより高レベルの有効的祈祷をも使用し、書物内容の成就を願いました。
やがて出版された書物には体系的な理論だけでなく、天命教教徒の価値観をわずかながら歪めるミーム的有効的祈祷的効果も含まれ、
教徒たちの欲望の上限は有効的祈祷が発行できる程度に制限されることとなりました。
ここで、事件の幕はようやく落とされます。
残念ながら、幕を落としたのは私ではありませんでした。
私は何もできず、みすみす我々の態度がまた一つ消える光景をただ見ていました。
天命教教徒を虚偽の信仰から救う機会はもう二度と来ないのです。
勢いよく、幕は切り落とされ、境界線上に由来でいた人類は真の堕落へと誘われます。
誘われますの方が正しいですかね。
それは我々が予見していなかった必然的な偶然の繋がりでした。
それが神徒をさらに制御するために有効的祈祷を授ける。
有効的祈祷により神徒たちがパンドラの箱を開ける。
有効的祈祷が神徒たちを満足することができなくなる。
神徒たちが天命教へ報復攻撃を始める。
天命教が保身保士さに神徒たちの価値観を有効的祈祷の能力以下に制限する。
という流れが出来上がったのです。
そして数週間以内に、このいかにも合理的で誰に操られているわけでもない流れがもたらしたのは、
なんと人類が夢にまで見たような、それでいて神器牢のように儚い天国でした。
その後に我々が直面している未曾有の危機が訪れます。
実在する人類は、実在する天国にたどり着く時、堕落は不可避なのです。
全てが合理的であったのに、その結果が壊滅的でした。
人類文明の精神にとっては、ことの重大性に未だお気づきでない方もいらっしゃると思います。
天命教の組織が大打撃を受けたのでいいではありませんか、という人もいらっしゃるかもしれません。
しかし、天命教への信仰を強制された人々にとっては、そう簡単ではありません。
漠然とした信仰しか持っていなかった彼らは、心の内に秘められている真の思想を認めたくないがゆえに信仰をこじらせていただけであり、
真の意味で堕落しているわけではありませんでした。
しかし今では、そもそも天命教教徒の中でも少数だった研究者が、
ここ数週間、完全に姿を見せなくなっていることや、
元信者を行き通らせた民間組織による自発的な研究成果破棄キャンペーン、
過去との欠別、楽園を迎え入れよう、の件もあり、
彼らが真の意味で堕落しきっていることが完全に確証されてしまったのです。
人類が前進するのに頼りにする、対敵にして侵入、
人類の本性の一つである欲望は、相当多くないうちに、
数日以内にか数ヶ月以内にか、完全に満たされることによって消滅することになります。
偽りの楽園が訪れれば、ほとんどの人類は追求と情熱をかけることのやりがいを完全に喪失するでしょう。
この件以降、神徒たちの内心にもともとあった天命教への不安と同様は全て消されてしまいました。
元信者以外の人類の奮闘気、奮闘し、いわば彼ら自身の歴史は終焉を告げようとしています。
この結果は必然的なものです。
幸福を追求するための理智が、理智自身が目的から乖離していることを阻害してしまったことをわかってしまったのです。
そこで理智が下した最後の決断は、理智自身を諦めることだったわけです。
何しろもはや理智の存在が目標を達成する妨げになってしまったのですから、
元信・荒神への信仰、虚構された幸福論と善能な有効的祈祷は、
すでに人類が今、幸福の至極に至ったという虚偽を、
知知と密の流れる土地にたどり着いたという信念を仕立て上げてしまい、理智が不必要になってしまったのです。
果ては、最も堅牢で、科学の終焉の日に普及の文化財として残されると思われた啓示浄学も、
やはり壊滅から逃れられませんでした。
人類は意義の追求すら諦め、先見的なものを探索する劇場の炎は消えてしまったのです。
そんな彼らは、まだ思考を続け、思弁を立てることができるのでしょうか。
まだ探索を継続し、科学を研究することができるのでしょうか。
たとえ、単に信仰の便利さを測るためだけに研究することが。
否、このすべてはもう起こるはずもありません。
理性は理性として追い求めるべきものを帰却し、啓示浄学は崩壊し、科学は人類の生活から抹殺されてしまったのです。
完全なる現世に、精神は経験なる信仰に満たされ、空虚を覚えることすらなくなっていきました。
たとえ、その内核にあるのは空虚でしかないとしても。
なぜなら物質と精神、両方の虚偽の満足によって、
人々は疑う能力を、自分の思想で自分を認識する能力を、
内核に秘めたる真の空虚に気づく能力を失ってしまうのです。
なぜ、これが真の堕落の境地だと言えるのか。
なぜ、彼らを救うために信仰への疑念を抱かせるすべての計画が失敗の運命にあると言えるのか。
皆様はもうお分かりでしょう。
彼らは前人未到の、内部に完全な安定性を持つ段階に至ってしまったのです。
たとえ偽りの完全だとしても、一切の満足感を与えることで、不完全への疑念や気づきを押し殺すことができます。
自分を認識することは、もう彼らの脳に現れません。
不意に思いつくことすら不可能になります。
すべての懐疑と思弁は、地平線の向こう側へ投げ出され、一切の思想から排除されてしまいます。
奇跡でも起こらない限り、元に戻ることはないでしょう。
そして、懐疑と思弁を帰却した思考は、自我を殺したも同然です。
彼らの人間としての歴史は終わります。
彼らはもはや人ではなく、動物ですら亡くなっています。
なぜなら、人として、動物として根本的なもの、思想と欲望を喪失してしまったのですから、
今、すべての重荷は我々元信者の創建にかかっています。
我々はすべてを挽回しなければなりません。
我々にしかできないことなのです。
すでに堕落してしまった人類、天命教教徒たちはもう信用するに足りません。
これは、大部分の人間を救えないという意味になりますが、
私はせめて元信者を存続させようと考えています。
私に力はありませんが、我々が一致団結すれば、反撃の機会はいずれ訪れるでしょう。
現状に対して、最も意気消沈しているのは、研究者たちであることは認識しています。
自然法則が操られ、奇跡が法則になり、法則もまた奇跡になるこの時代に、
法則の探求を生涯の仕事にするのは、とてもできないことは重々承知しております。
しかし、分かっていただきたいのです。
その奇跡が、「諦めろ!」ではなく、「立ち上がれ!」と我々に囁きかけているということ、
今回の事件で、それが全能でもなんでもないということを我々は再び気づかされました。
地球への関心が薄いのか、儀式に夢中になっているのか、
少なくとも、信仰力を用いれば全知全能、というわけではありません。
その信仰力により改変された法則も、漏れなく個体に限定したものであり、
偏在の美的感覚を全く持ち合わせていません。
これは、かつて財団に収容されていたあくまで個体の異常であるアノマリーと、現象的に何が違うのでしょうか?
それで、我々の探求の歩みを止めることは到底可能なのでしょうか?
否。なぜならば、我々元信者は人類の希望なのですから、我々は決して諦めません。
1956年4月2日。
なるほど。
一アノマリーに過ぎない、と銘打ったわけですね、張さんは。
なんか、見れば見るほど、あれですね。
欲望とか、考える力がないとか、うんうん。
ナルトのラスボスの無限つく読みとか。
あとは、どうだろう。
これ放送時、もう最後までアニメやってるのかわかんないですけど、ダンジョン飯の後半にも関わってきますね。
ダンジョン飯、もともと食欲とか何かの欲がテーマ、食と何々したいっていう欲望がテーマになっていると思っているんですが、
その辺とちょっと通ずるところがあるというか、人が人足り得る要素は何かみたいなのをちょっと考えさせられますね。
続きを読んでいきます。
わな…が…え?これ…え?
激長だが。
あと40分で撮れる?これ。
ちょっと、巻きでいけそうであれば巻きますね。
無限の民、神の民、第一原因の民、万物の民、不動にして動かれざる、動かされざる自然の民、
未だ移し世の名無に惑わされし凡が、知恵を愛す者、宇宙統一法則の追求者、超越の崇拝者、
芸術的美の探求者、美しき未来に憧れる者、完全なる政治的理想の追随者、
神の存在を信じるか信じないかに関係なく、敬意と愛と信仰を胸に意義を追い求める全ての人類、
人類が射線されています。
全ての知恵ある生命。
セキュリティ施設はもう長くもたない。
四星教会と我が愛した偉大なる世界にはびこる堕落者たちは、間もなく門を破って入ってくるだろう。
これは私の絶筆だ。
私の生涯の思想や創作のまとめだと思ってくれても構わない。
日頃から言っているが、最後にここで改めて強調する。
宗教は宗教ではない。
ゆえに、我が兄弟姉妹である君たち、元信者たちに再度言わせていただく。
闘争は君たちのものだ。
信仰は君たちのものだ。
体験は君たちのものだ。
理性も思想も君たちのものだ。
私は教主ではない。
なぜなら、これは決して宗教ではない。
私はあくまで理論の体系を構築したものに過ぎない。
歩み始めたばかりの君たちが心配で、盗んできたアノマリーの複製品で命を流らえて数百年間君たちのことを導いてきたが、どうやら終わりが来たようだ。
私の存在を、君たちの存在意義と頼みの綱にすることだけはやめてほしい。
これでは、悪魔の代弁者たるそれと四つ星教へと、その両者によって人ならざるものにされてしまった人間と何らの違いもないからだ。
私がいなくても君たちには歩み続けてほしい。
無限へと、信仰の向こう側へと。
信ぜよ。愛せよ。敬意せよ。心の内に秘めた君たちだけの超越を追い求めよ。
一つ、宗教について。
元信者が宗教について何も知らないということはまずないと思う。
しかし、宗教のことを詳しく知らない元信者にとって、宗教は宗教ではないという言葉の意味と宗教の本質に関してはおそらくピンとこないだろう。
簡単に言うと、宗教は二つの概念を指している。
まず、それはある思想を指している。
それは信仰体系に対する信仰体系、信仰規範に対する規範、信念及びその教義である宗教の思想理論体系にして信仰の基準。
つまり、それは信仰の扱い方そのものであり、その信仰の扱い方自体に対する信仰でもある。
各宗教の信者たちが元の信仰を保持したまま、宗教を信仰することができる理由である。
宗教はあくまで信仰に対する理論への信仰だ。
つまり、信仰の対象は理論であり、神聖にして超越的な何かというわけではない。
神学に関する理論が現行の理論とは多少異なるところがある以外、各宗教とはほとんど矛盾しない。
次に、それはまたある集団の総称として使われている。
それは、この理論体系を信仰する者の集団、その者たちが構成する社会組織、世界政府に承認されなかった元信者の中央機関。
無論、この中央機関は政治的な管理は行わず、思想の指導だけを役割としている。
宗教の具体的な主張については、後の各説で詳細な説明を行う。
2つ、信仰の内法と特徴、及び主状況の選択について。
過去において、信仰という包括的な概念を研究対象とし、信仰を信仰たらしめる規範の特徴と本質について議論する例は少ない。
既存の研究は、あくまで信仰の一部である宗教的信仰を切り取り、宗教学上の規範について討議するものだった。
私の研究対象は、信仰という概念の全体である。
宗教的信仰は信仰の一部という扱いだが、以下の検討では宗教の内容を使用して、信仰という概念全体に押し広めるとしている。
まず、宗教の特徴を包括的に言うと以下のようになる。
その対象から見ると、宗教の対象は超自然的で、経験の域の内部と外部に同時に存在する。
中期、SCP財団及びその収容物が公衆の目に触れる前は、宗教の対象は先見的だと思われていた。
この部分については公文で説明する。
超越的で神聖な存在である。
その主体から見ると、宗教の信者は特殊な生活様式を持ち、ある種の究極的関心、アルティメットコンサーンを持っている。
さらに、経験な信者は通常、人それぞれの宗教的体験を有し、宗教の対象への追求心も持ち合わせている。
その社会的機能から見ると、宗教は生活における根本的な問題に対して闘争を起こす行動の体系である。
この体系は常に満足のいく必然的な結果を追求させ、苦痛から思考の善を見出させる。
その結果、副次的な社会的影響として人を善に向かわせる効果がある。
無論、この定義はあまり厳密ではない。
宗教だけでなく、これから論述する多種多様な信仰が構築する全体に対してもこの定義は適用されるからだ。
むしろ、この点は信仰そのものの社会的機能における特徴といえよう。
以上の内容をまとめてみると、宗教の真の内包に気づくことも難しいことではなかろう。
宗教というのは、超自然的な神聖に対する精神的な経験、情景と追求だけでは事足りない。
そこには、宗教の思想だけを研究しているものにしばしば無視される、もう一つの側面が存在する。
あまりにも規模が大きい側面、宗教は一つの完全な社会的体系を内包している、ということだ。
その体系は宗教の信仰から由来するものでありながら、逆に宗教の信仰を強化することもできる。
活動の場所、行動の様式、組織の形など、諸々の事柄を含めて、世俗の社会において教徒の在り方を規定している。
しかし、宗教でいう信仰全体を対象とすると、前二点の特徴はあまりにも極限的だ。
思うに信仰全体の特徴は類似しているものの、より簡潔であるべきだ。
対象から見ると、信仰の対象は必ず超越的で、現時点の主体より上位の存在でなければならない。
例えば、宇宙原初の統一法則、つまり、悪魔の代弁者たるそれに改ざんされなかったものへの信仰、
単純に神への信仰、自然への信仰、ある未完の最高政治的理想への信仰など様々である。
ここで断りを入れるが、神への信仰は必ずしも、神を対象とする宗教の信仰となるわけではない。
後者は前者の従属概念である。
神への信仰は、単に全能にして絶対的な思考、宇宙を創造した何かしらの存在に対する信仰であることもあり得るし、
信者の行動規範も必ずしも何かしらの宗教のものに準じるわけではない。
アノマリーがまだ公衆の視野に現れていなかった頃、
神は幾度もなく挑戦され、反論され、果ては殺害されてきた。
そしてベールが切り落とされた後は、
刑事上学の神こそまだ上位に存在しているものの、
一部の宗教における神はその限りではなくなった。
一方、人に対しては宗教を打算的な目的に利用するだけ、
金銭、権力の入手や、精神的日和み主義者による来世の幸福の追求などの信者もどき、
おそらく一定数以上いる。
を除いては、宗教は人々に超越的な神聖のために奮闘させ、
人々の目的となり、人生の根本的目的と究極的関心に目を向かわせ、
精神の豊かさと自身の下脱を求めさせてきた。
理性を制約する時もあれば、理性の成長の助力となることもある。
確かに、宗教が果てのない戦争と破壊を招いたのは紛れもない事実だ。
だが、精神面にかけては、禅術の部分はより価値がある。
ならば、プロト天命教に何が起こったのか。
初期のプロト天命教に関する具体的な資料がないが、
確実に言えるのは、初期のアブラハム系宗教に類似しているということだ。
両者とも、神が、厳密に言うとキリスト教とイスラム教はそうではないが、
前者の創始者は完全なる神にして完全なる人間と、後者の創始者は神の使徒とされている。
当時の文明に何らかの影響を及ぼしたことが発端だ。
しかし、なぜこの両者は異なる道を辿ったのか。
最初の原因は簡単だった。歴史が空っぽでは独立した体系の構築は到底成し得ないし、
それ以前の伝統的な価値体系から完全に切り離すこともできない。
なぜなら、そもそも伝統が存在しなかったのだ。
神の捨て子として、それらはただ神のご慈悲を賜っただけであり、
もしかするとそれなりに堅牢な価値体系も作られていたかもしれないが、
メサイアも現在も最後の使徒も、こういったまとまった内容がなければ、宗教の理論は破綻する一途だ。
歴史として、それこそ物語としても失格なエピソードである。
神が現れた。神で知識が開けた。生活も良くなった。神が逝ってしまった。
と、あまりにも起伏に乏しい。ただそれだけである。
あの時に現れたその威嚇の神が残したのは、ある種の手抜き工事、不完全な宗教だったのだ。
体系にならない秩序と、見出しにくい意義、価値と目的が乱雑に混ざり合う。
その上、それらの全ては神によって構築されたものだった。
神がいなくなると、それらは困惑し始めた。
ただでさえ無理やりに成長させられたそれらは、自らの経験を積む機会はもちろんなく、
加えて神に賜った物質的基盤のおかげで、信仰を経験に実践すること以外の宗教的事柄にも目を向ける余裕が生じた。
言い換えれば、それは驚異と予感を持て余していたのだ。
その結果、それらは日頃からくだらない思想にふけるようになってしまった。
第7の門が破られた。
新しい思想は、どこもかしこも存在する宗教的な雰囲気に影響され、哲学的思考にはならず、もともと不完全だった宗教と教義に基づく神学へと変化した。
舌のごとく上もしかり、構築された理論がまともなものになるはずもなかった。
穴だらけの神学に、それらはやがて、堅持して間もない神に対する信仰と敬愛を諦め、ただ神の輝きを浴びているだけでは絶えない。
なぜなら、神の輝きを浴びることは何の意味もなさないから、という結論に至った。
それもそのはず、それらの宗教がもたらしたのは不完全で粗末な合体系であり、
意義と目的は霧のように掴みどころがなく、ややもすると崩壊してしまう代物だった。
神に全身全霊を傾けることの素晴らしさは、それらは到底理解できなかった。
時が過ぎ、一切の体系は風化していく。
人類のような太古の時より一歩一歩としっかりと戦ってきた歴史を持たないそれらは、
自身に適した価値を見つけることができず、自らそれを構築することも叶わなかった。
やがて、それらは生物を生物たらしめる原初の支配者にして、最も健在化している導き手、欲望に頼ることにした。
ここまで来ると天命教の英道士ウィンディケーターが、
信仰する神に再び会いたい願望こそ、敬虔な信仰の極致であり、
醜悪な欲望とは何ら関係もないと擁護するだろう。
しかし全くもって見当違いだ。
これもプロト天命教の体系に最も紛らわしい点である。
本質を見失うのも無理もない。
本質的に、プロト天命教の信徒が神に会いたがる起因は、純然たる宗教的追求ではない。
それらが熱狂的に神卸しを行うのは、結局のところ、自分の思理・思欲を満足させるためでしかない。
実際、よく観察すればわかる。
それらの行動には、欲望の域を超えた動機など、どこにもないのだ。
道徳の観点から、それらの追求は文明全体のためではなく、
あくまで自らの思欲を満たすためであるがゆえに、
文明全体が団結して神卸しを行うことができたのも、
個体の利益が互いに合致していたからに過ぎない。
天命教の英道士が反論するために見出した例、
宗教の定義する信仰における政治的理想に対する追求は、果たして同じであろうか。
否である。
共産主義を例としてあげよう。
プロト天命教とは欲望の満足という点で類似しているものの、
共産主義にはより高尚な特徴がある。
それは、共産主義の真の信仰者は、全人類の利益を考慮しているところだ。
彼らは全人類の解放のために闘争することを厭わない。
それは単に個人の私利私欲によるものではないのは明らかだ。
これも一部の共産主義者が天命教にとらわれず元信者になったゆえんである。
神に対する信仰という観点から、神が去ったのには必ず理由があり、
それらに信仰があるとすれば、せめて神の選択へ尊重の意を示したはずだ。
しかし神が、我を思うな、という言葉を残して自ら去ることを選んだにもかかわらず、
それらは依然として必要に神に会いたがっている。
これは神の御意思に背く行為ではなかろうか。
神は言う、我を思うなと。
そして神は言う、善にこそなれと。
しかしそれらは皆明をないがしろにしていた。
神の下辺であるそれらは、神の御意思を受け入れるばかりか、それを裏切った上、
悔いも知らずに自身の文明の誇りとした。
信仰の上着がいかに華麗で彩り豊かだろうと、
所詮は自身の欲望によるものであり、
その行為は富と権力と快楽を求めるのと何らの際もない。
要約すると、それらにとって神は信仰の対象などではなく、
都合のいい使用人でしかない。
ある日使用人が勝手に家を出たことで生活が成り立たなくなってしまっただけの話だ。
それらはその使用人を手厚く扱ったつもりでいたが、
我々にとってはその使用人は至高にして信仰すべきお方だ。
これこそ、プロトテン明教が宗教として疎外した部分であり、
最も紛らわしい部分でもある。
それらが欲しがるのは物質的な豊かさでも、
現実的な成果でもなく、神が再び目の前に現れることである。
それを通知らず、余つさえ自分たちが経験だと思い込んだ。
不適切な比喩だが、ケルゲゴールの概念を借りると、
文明がまだ美的な段階に停滞しているというのに、
それらは文明がすでに宗教的な段階に到達したと勘違いし、
あたかも勝ち誇っているようにしているのだ。
まず一番目の反論を見てみよう。
彼らの言い分は、
ご親恩代理人様の文明のやり方は、
人類の一部の初期宗教と同じく、
手段を尽くして知事と密を求めるだけだというのに、
なぜ前者だけが疎外した宗教だと言い切れるのか、というものだ。
しかし、彼らには知らない。
前者は、志願から悲願へ渡り、
そして悲願からまた志願へと戻る、というプロセスを経験したということを、
このプロセスは決して、
これは否定の否定であり、
自らの信仰に従って自らの信仰を放棄することを選ぶことである。
まさにこの時にプロトテン明教が疎外しているのだ。
志願は志願でなくなり、
今の志願はもはや神への愛に根付くものでなく、
逆に神への愛に根付かれたものとなってしまった。
志願は神への愛の原因となる。
これはすなわちプロトテン明教にも天明教にも成り立つ、
あらがみの救済というものである。
あらがみが源であるところが重要だ。
このあらがみとは、我々元信者が信ずる師匠の存在ではなく、
悪またる神恩代理人の代名詞でしかない。
これこそ彼らに認識できない、
彼らの宗教と信仰に存在する根本的矛盾による疎外現象だ。
我々より敬虔そうに見える天明教のいわゆる宗教は、
あくまで神への愛を目標達成の手段としか扱っていないのだ。
敬虔な信仰はダサン的な信仰になり下がる。