1. SCP話
  2. #346 ⑭ SCP-CN-590 - 既生仍生..
2024-11-27 46:40

#346 ⑭ SCP-CN-590 - 既生仍生、將死未死? (既に生くれど猶も生くれば、将に死なめど未だ死なずや?)【リクエスト】

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紹介SCP/Tale


タイトル: SCP-CN-590 - 既生仍生、將死未死?

原語版タイトル: SCP-CN-590 - 既生仍生,将死未死?

訳者: BenjaminChong

原語版作者: AIeditor059

ソース: http://scp-jp.wikidot.com/scp-cn-590

原語版ソース: http://scp-wiki-cn.wikidot.com/scp-cn-590

作成年: 2019

原語版作成年: 2018

ライセンス: CC BY-SA 3.0

SCP財団とは: https://ja.wikipedia.org/wiki/SCP%E8%B2%A1%E5%9B%A3

©️SCP財団 http://ja.scp-wiki.net/

1・3・6・9・12・15・18

21・24・27・30日更新予定

#SCP #SCP財団 #podcast


BGMタイトル: Night Light

作者: Blue Dot Sessions

楽曲リンク: https://freemusicarchive.org/music/Blue_Dot_Sessions/Nursury/Night_Light

ライセンス: CC BY-SA 4.0


【姉妹番組・Twitterなど】 https://lit.link/azekura

00:05
SCP-CN-590 今は主状教の教祖が話していることを読み上げています。
3つまで読みました。それらの宗教とそれらと似通った私たちの世界の天命教における哲学・信仰とは何ぞや、というようなお話でした。
では、4つ。
プロト天命教及び天命教の主張による現像主義、ファンタズミズムに対する反論。
プロト天命教も天命教も、疎外と現像主義の要素を合わせ持つ。
要素同士が絡み合い、複雑な要素を呈している。
しかし、全体的に見ると、疎外現象の源泉はプロト天命教であり、人類を堕落させる現像主義は天命教から由来している。
現像主義とは何ぞや、と疑問に思う読者は、どうか引き続き読んでいただきたい。
あえてプロト天命教と天命教の差異を指摘するなら、そのほとんどは量に集中しており、唯一質における差異は主体の違いだろう。
前者の主体はそれの文明であり、後者の主体は人類である。
そしてまさに主体。人類とそれの文明との大きな差異によって、両宗教はまるで違うものになり、
前者は完全に疎外しているとされ、後者は現像主義をもたらすと考えられた。
実際のところ、完全なる疎外と現像主義は同じプロセスの違う段階と考えてよい。
前者は最終段階、後者は初期段階というふうに。
前文に述べた通り、段階の違いは主体の違いによるものである。
プロト天命教の主体はあらゆる意味で完全に同宗教によって束縛されている一方、天命教の主体については
うんちくのある人類の伝統があまりにも深く社会に根差しているため、地上の森を燃やし尽くしても地下の根、系をすべて破壊するのは難しい。
根系ですかね。
そして天命教はその発展の過程にあった。
意識的にか無意識的にか繰り返されてきた異端狩りや思想粛清、
統治の強化を図るためだけだった幸福論による価値観の変異、そして最も重要な事件、リーランの仙台、
つまり、懲、死刑、死刑の任期中に、それの仕掛けがもたらした天命教教徒の戸磁気能力、すなわち有効的祈祷、
これらすべての共同作用で図らずも幻像主義という結果が引き起こされたのだ。
03:06
幻像主義の内面的構造は実にプロト天命教のものに類似している。
幻像主義とはすなわち次のような思想・行動の体系である。
幸福論により天命教教徒の価値観は僅かながら歪められ、有効的祈祷がもたらす微々たる利益が絶対多数の理想を満足させてしまうため、
みんながまるでユートピアに生きているようにそれ以上を求めない。
前文に述べたプロト天命教の疎外現象における、
死願、悲願、死願というプロセスがここでも発生し、最終的に偽りの幻像をもたらす。
人類はこのあたかも実在する地上の天国で暮らす幻像にとらわれ、
その偽りの神器量によって、歴史の後の時代、ポストヒストリーへと、知恵の終焉へと、追求の喪失へと運ばれる。
やがて人々はそれらと同じく卑劣なものになるだろう。
意義と目的を見つけられなかったそれらは、人類の意義と目的をも破壊しようとするのだ。
もっと恐ろしいことに、こういった現像は揺るがぬ内在的な安定性を有している。
それがリーランの栄光ある行動によってひびが入ったことはともかく。
偽りの現像にもたらされた幸福に、
人類は思考を放棄し、思考をもって、現像の非実在性に気づくことも不可能になる。
あくまで自然的な流れで、なんと緻密な体系が構築されてしまったことか。
あいにく、その緻密さは人類の堕落になり立っている。
以上の説明を見て、現像主義とは何かを理解することで、それの悪辣さと陰謙さを認識できるだろう。
たとえ偶然の連続による体系だったとしても、
それは人類の尊厳を取り戻すことを使命とする元信者にとって、
天命教による人類の精神と知恵と伝統への最も卑劣で致命的な打撃である。
ここまでくると、天命教の現像主義を擁護するのは、
おそらくもう、ゴロツキかバカしかいないだろう。
実際にはこんなろくでなしはいくらでもいるし、
人類の伝統と価値は破壊されたのではない、と。
人類の最終目標は達成され、新たな体系が構築された、とほざき続けている。
ならば、貴公ではないか。
彼らは何を構築したというのか。
人類の正念を腐らせる偽りの天国か。
疎外し続け、変貌してしまった信仰か。
最高統治権がまだ人間の手にあった頃、
人類の信念、意義と価値は確かに混迷を極めていた。
批判する者もいれば、破壊する者もいた。
06:03
だがその裏に、構築を続ける者も多くいた。
未来は不明瞭だが、道があると信じて人々はさまよってきた。
しかし、悪魔の代弁者が現れた途端、
文化の結晶となるはずだった天命教の収支が改ざんされてしまった時から、
全ては変わってしまった。
それは、信仰力なる得体の知れない力を振りかざして、
全てを白紙にし、
有効的祈祷とやらを施して人類の価値観を改変した。
原造主義という儚い神器狼だけを残して。
この行為の本質は、
所詮は人類を未開の時代から別の未開の時代に移しただけだ。
違うのは、後者は人類が欺かれて苦い果実を飲まされた結果だ。
豪華な住居、美味な食事、
無制限の性的な快楽、
全ては悪魔の代弁者にお願いすれば手に入るという時代だ。
もっと語るに絶えないのは、
今の未開の人類がかつての祖先よりも見劣っていることだ。
かつての祖先たちは少なくとも向上心があり、
その手で輝かしい時代を作り上げたのだ。
一方で、元信者を除く今の人類は、
ユートピアの中にいながらにして、
人類の精神の真理と信仰への追求を喪失し、
言葉を操れるだけの獣に退化した。
ある者は、
実証主義と唯物主義を表層とする実在論は虚無主義とみなすことができる、
と主張した。
なぜならば、それは絶対的な真理を捨て、
万物を物質に基づく構造としたからだ。
しかし、それ自体はまだ理性を有していた人類に構築された体系である。
その反対、今の天命教が指し示した道に真理と価値の存在はなく、
堕落者たちもまた、完全にそれらの意味をわからない。
宗教として、価値のウロを埋めるどころか、
ウロの存在を忘却させ、
あるいはウロの存在を理解できない時代に逆戻りさせることにしている。
欲望だけを補強剤にしては、価値の堤防は欠壊するばかりだ。
やがて人々は虫の息で生きる。
それなりに生きる。
まあまあに生きる。
幸せに生きる。
富を握りしめて生きる。
権力を手に生きる。
天国のように生きることだけが望みだ。
欲望の形はそれぞれだが、
人々はもはや物質的な世界以外に目を向けない。
そしてさらに恐ろしいのは、
彼らは信仰という虚偽を隠れ身のにしていることだ。
あたかも人類の精神的生活が豊かであるように見せかけることで、
堅牢な内在的安定性が築き上げられる。
この点においてはまさにプロト天命教と同じだ。
神が構築したすべてを、
09:01
人々は今やいかなる形式の破壊も再構築もしようとしない。
彼らに偽りの神ができたのだ。
これが昔だったら、
とうに誰かが異常に気づいただろう。
しかし今となっては、
思考を放棄した人々はただ、
「ああ、神が見ている。」と言い、
心配事など考えずに。
5つ。
宗教の主張、そして来るべき人類の精神的勝利。
元信者たちは人類の贈り物である。
五神運動の勃発後、物質的な遺産が破壊され、
ほとんどの人類が人ならざる者となった状況で、
人類の精神的財産がまだ残存できたのは、
すべて元信者のおかげであった。
なぜならば、元信者の脳には人類のほぼ全部の知識が集約されているのだ。
彼らによって生まれた宗教にも、各分野のエリートが集まっている。
そして、彼らの助力で構築された理論体系のおかげで、
我々の主張と目標がますます明確になった。
まず、最も矛盾が深刻で、争点の多い明大に焦点を当てよう。
神について。
目がまだ覚めている人々にとって、最も懸念されるべき事項にして、
闘争のモチベーションにも関わる問題は、
すなわち、それが果たして神であるかどうか、である。
長年にわたり、それが財団のほとんどの収容物よりも脅威が大きいからか、
あるいはスクラントン現実病を鉄屑に変え、
管と計数機の計測値をも一に固定させてしまう、
現実改変ならぬ現実時間の信仰力の存在からか、
はたまたその信仰力に挙触された善能によるものか、
それに歯向かう意志を持つ人間ですら、
耐えがたい異負の念を胸に抱いてしまう。
果ては、それを全知全能たる神、
無論断じて前進ではない、の人柱として扱い、
自らのことを神に背く者と断じ、自信を喪失していくのだ。
それに対して、他の観点ならいざ知らず、
少なくとも主状況の主張では、それは決して神などではなく、
そもそもその能力からして、神という呼称がふさわしくないのだ。
何より、それは未来永劫、神になることができない。
それどころか、我々の反撃が成功する可能性は必ず存在する。
それを証明するための論拠はいくらでもあるが、
最も重要な一側面だけ取り上げるとしよう。
それの神ごっこを可能にした得体の知れない力、
信仰力による衛生全能について。
なぜあえてそれを衛生全能と呼ぶのか、
私が思うに、いわゆる現実改変ならぬ現実時間というのは、
あくまで現実改変の一種であり、それが表彰を持たないだけである。
12:03
その理由をいかに述べよう。
それによる信仰力格子をざっと観察すると、
それは確かにすべてを意のままに操作することができるように見える。
だがより注意深く、より視野広く分析すれば、
それは我々と同じく、判断は論理の範疇にあり、
認識もまた論理的法則のうちにあることに気づくのもさほど難しくはないだろう。
だからこそ、それの行動と思考も必然的に時空間と諸範疇の内部に存在する。
それは知的生命体としての限界でもある。
感覚器官を有し、理智のある生物である限り、漏れなくその制限を受ける。
したがって、それらにとっては、
信仰力による法則改変もすべて時間の内部に存在しなければならない。
たとえ、それらは時間の変更、あるいは時間を逆流させることができても、
時間そのものを消すことなんて到底できるはずがない。
それら自体が時間の中に生きる生き物だからだ。
そして、すべてが時間の内部に起こっているからこそ、
それらによる現実改変に必ず前後関係がある。
前後関係がある以上、前の現実に遡ることは必然的に可能であり、
最初の現実に訴求すれば、大自然に賜った原初の宇宙へと至ることができよう。
我々がそれを訴求できないのは、あくまで法則改変が通常の現実改変とは違い、
我々にとっては不可逆的であり、そのメカニズムが我々に難しすぎたにすぎない。
我々の手によって作られたカント係数器も、無論それを捉えようがない。
だが、能力不足の我々からすれば不可能だったことでも、
神はもちろんのこと、進行力を扱える個体からすれば、
前の状態に戻れと念じれば、すべてが元通りになることだ。
存在した事実さえある限り、時間の外側からそれを取り戻すことができる。
まさに059詩の言う通り、
いくら記憶が失われても、いくら傷跡が癒えても、名もない場所でそれらはただ叫ぶのだ。
かつてここにあった、かつてここにいた、と。
この言葉は主状況にとって別の意味を持つのだが、それはさておき。
それが神ではないことが分かった以上、我々が愛すべき対象、
信仰すべき対象、追求すべき対象、たどり着くべき終着点。
真ことの神とは何なのか?
その答えはすでに禅術にほのめかされている。
この点に関して、主状況が提唱した真の神の本質についての理論は、
実はここ数百年間、各宗教に現れた神秘主義の主張に基づくものである。
第四の門が破られた。
15:01
それによる人類との接触後、最初の数十年間、主状況の理論がまだ従前に発達しておらず、
元信者たちの思考も極めて単純だった。
人々は相変わらず万物の霊長としての理性を用いて、
それという悪魔を分析しようとしていた。
だが、それの本質について探る途中で、彼らは計らずも自信を喪失してしまった。
あまりにも慌ただしい一別で、それの見かけ上の善能を見てしまったからだ。
一部の元信者は威風を抱き始め、離反し天命教側へつくことを選択した。
一方、残りの元信者たちは、それを神と認めることを堅くなに拒みながら、
振り返って自らの神を追体験しようとした。
やがて彼らは最終的に成功した。
なぜ最終的にという表現を使ったかというと、
神の賢明さを持つ彼らは、早くも財団の存在が大衆に認知された時点から、
神の本質について察していたからだ。
嵐の前夜に、有識者はとうに正しい道を思い描いていたのだ。
当時、異常の存在が明るみに出たことで、世俗の科学界に動揺が走っただけでなく、
宗教の信者もまたその信仰をより一層深めた。
同時に、彼らは信仰の指針をかつて幾度も辿った道、神秘主義へ向けようとした。
その後、それの到来により客観的にそれに寄附するように、
神学上における神秘主義の主張はますます勢いを増すことになる。
各宗教がようやくこの道を完走し、
神の理性より神の意思が重視される、という主位主義の神へと帰還した時、
宗教はぴたりとそこで止まり、
続くように主張教はそれらの理論をさらに発展させ、
やがて消化されたただ一つの答えへと至る。
神は全能である、と。
それはナンセンスだ。
神はそもそも全能ではないか、という読者もいるだろう。
だが、ここでいう全能は通常の意味でいう全能ではない。
通常の意味での神の全能といえば、
無より時間と空間を創造することを除いて、
言葉を発するだけで世界万物を創造する、など、
信仰力を用いればそれにだってできることだ。
だからこそか、天命教の教徒たちが、
それは自分にも持ち上げられない意思を作ることができるか、
なんてことも討議しているものだ。
だが、宗教の主張する我々が信仰する対象の全能は、
これら全能の逆説に類する問題を容易く解決することができる。
前文ではそれのエセ全能の制限について述べたが、
その制限を超えた先、
無限にして至高なるところにこそ、神は存在しているのだ。
18:03
そして、この定義上に全能である神は、
たった一言だけで説明がつく。
それが、超理論、パタロジックだ。
なぜこの方向で道を見出したというのか。
それは、かつて信仰至上を唱える神秘主義的な神学学派のほぼ全てに、
ある共通の問題を抱えていたことに気づいたからだ。
その問題とは、神が全能であると強調する一方、
全能の逆説にも葛藤していることだ。
彼らは、我々の世界が、
自己原因、カウサ、スイノ、神の有する無数の観念のうちの一つである、
と主張しながら、その場で歩みを止め、
全能の最高体現をそれだと断じたのだ。
彼らは全能の逆説を認識したが、
なぜその逆説が存在するのかは意にも止めなかった。
彼らは彼らの思う全能の最高体現を見出した。
世界は神の有する無数の観念のうちの一つである、と。
だが彼らは気づかなかった。
神について具体的に描写すること自体が、
神に対する規定と宣言であることに。
逆説がなぜ神を制限してしまうのか?
逆説が神よりも上位にあるからか?
人類が限りある知恵で神の全能を規定するのは、
人が神よりも偉大であるということなのか?
否。
それはただ、人類が無知であっただけだ。
全ての原因は、人類の思意と言語の漆黒にして、
あらゆる行動の根源、論理にある。
我々は非論理的な事柄について支援することができない。
なぜならば、それは非論理的に支援することになるからだ。
だが、さも当然のように神を人の思考に、
あるいは知的生命体の認識構造に捉えるのは、
馬鹿でもなければ身の程知らずもいいところだ。
ならば、超論理とは?
神は何者にも持ち上げられない石を作ることができ、
そして、何者にも持ち上げられない石を持ち上げることができる。
神は完全に全知全能であり、完全に全量である。
神は精神であり、精神ではない。
神は物質であり、物質ではない。
神は精神であると同時に精神にあらず、
物質であると同時に物質ではない。
神は一切であり一切ではない、
そして一切でありまたは一切ではない。
神は存在し存在しない、そして存在しまたは存在しない。
神は人格化しており人格化していない。
神は神であり、そして神ではない。
神は完全に規定され、そして完全に規定されない。
神は対象であり、そして対象ではない。
神は一であり、複数であり、無である。
21:01
神はイエスであり、そして神はノーであり、
そしてイエスにしてノーである。
神はイエスとノーの他に第三の状態を有する。
神は第一原因であり第一原因ではない。
神は想像し想像される。
神は言葉で説明することができ、
言葉で説明することができない。
神は無数の状態を有し、または一つのみの状態を有し、
そして状態を有さない。
神は自己言及を考慮しない、そしてまたは考慮する。
なぜならば神は論理を必要としない、
そして必要とする、または必要とする。
神は純粋な感性的対象であり、純粋な感性的対象ではない。
神はあり、そして神はなし、また神は不可知である。
神 無 虚無
神 無 無
これ神 無 無
有 存在 無
神は論理に合致し、論理に合致しない。
そして論理を超越し、論理を超越しない。
そして論理を必要とし、論理を必要としない。
神は存在し、そして存在しない。
そして虚無であり、そして存在しながら、
存在せずに虚無でありながら。
故に、むしろ全能も超論理という言葉ですら、
人類の数多な語彙から見出した神の本質に最も近似的な表現に過ぎない。
なぜなら神は全能であり全能ではない、そして全能でありまたは全能ではない。
神は論理を超えており論理の内側にいて、
そして論理に合致しており合致していない。
ここまでの論述を踏まえて、以下の論述でもある確定的な概念、
超論理などを用いて神を描写しなければならないことを理解していただきたい。
私とて論理による文章で神の超論理的な無限を表現し得ないし、
真にその無限を理解することもできないのだ。
全ての手段を駆使して神についてより多く理解しようとする我々でも、
思想を用いて神を把握するのに際して論理を使用する。
これはやむを得ないことであり、どうにもならないことでもある。
人間である限り、それは避けられない。
私の思想でも同じだ。
このような神に関しては一切把握することができず、
そのうちの理解できる部分のみを伺い知ることができる。
したがって我々にとっては、前述の神についての論述は全く無意味であり、
互いに結合することのできない矛盾だらけの解文書に過ぎない。
人間にはイエスでありノーである、そしてイエスであると同時にノーである、
などという論理の外側を想像することなんて到底できないのだ。
論理は思意の背景であり、知性の形式でもある。
人間は論理の中を生きる動物だ。
24:04
しかし、神が神たるゆえんは、まさに人類の理解を逸脱するところにある。
ここまで来ると、もう歴史書を紐解くような感覚であろう。
改めて言うまでもなく、この理論は歴史上にあったいくつかの思想と共通点があることは認識している。
むしろ、思想の辿る道に沿って過去に訴求すればするほど共通点が多くなってくるのだ。
ある意味では、主状況の主張はそれらの思想の上位互換。
テルトリアヌス曰く、不条理なるがゆえに我、信ず。
彼の言う不条理さは神秘主義的で、何が不条理なのか、どこが不可解なのかを論述しておらず、
ただ曖昧に、神の知恵と理性が人類より遥かに高いことだけを示唆した。
だが今、不条理と不可解の原因が明らかになった。
人類の認識構造をも凌駕する、うかがい知れぬ無限性と超越性だ。
かつて奇跡とだけ思われた不可解が、今や可解にして不可解、そして可解でありながら不可解、という不可解となる。
そのため、我々はかつてのように神について論ずることができない。
我々がまだこの宇宙に知的生命体として存在している限り、存在することと神が不可解であることは同義である。
ならば、神に比べて、それの善能性は何と死我に欠けるに及ばぬことか。
故に、自信を鼓舞するためにも、真に善能なる神を見出すためにも、
元信者の中の有心論者にとって、禅術のような神を追い求める道こそ、歩むのに値する道なのかもしれない。
さすれば、いかなる宗教もただ一つの目標を達成するための手段となり、元信者たちも互いに争うことはせず、外的に目を向けることができよう。
長々と語ってきたが、私はただ全ての元信者と一つの思いを共有したい。
それは人類を圧迫し、人類の信仰を破壊し、人類の精神を動物同然に退化させようとした。
だが、それの企みは決して成功しない。なぜならば、人類としての身分と尊厳を報じする者は常にいるからである。
理性がかつての輝きを失せたこの時、その敗者だった信仰が人類の最後の避難所になっているのだ。
実際のところ、全ての流れはあくまで自然的だ。
理性的な思考が善能のように見える悪魔に気づいた途端、人々は進学で自ずと神秘主義の道をたどる。
新しい思調が消極的に現実を変えた途端、伝統は再び姿を表す。
何しろ論理を超えるほど善能である神こそ、悪魔をも凌駕する最高神だ。
27:00
全知全能にして自然でない悪魔が未だに理性の足枷に束縛され、限りある認識の泥沼に深く陥っている。
同一律と矛盾律と敗中律の奴隷として、悪魔は決して時空間と初犯中から逃れることができない。
それの最大の失敗は認識様式があいにく我々と同じであるところだ。
それのいわゆる善能は雑多な存在物への障悪に過ぎない。
それの全知も煩雑些細な諸現象に対する認知であり、本質への迷殺はなく、悟りを開いた者の道見に遠く及ばない。
これは理性的進学の失敗だが、哲学的紙弁の勝利にして、悪魔代弁者の疎外宗教に対する人類信仰の圧勝だ。
今この時、悪魔が永遠に破壊できず改ざんすることもかなわない偉大なる思想を持って、人類は初めて神戸を上げるだろう。
その悪魔よりも高く。
自身の理性が人間並みに貧弱だというのに、悪魔、それは我々の理性を壊そうとした。
だがその行為によって生き延びた人間が別の意味でそれとの戦いで圧倒的な勝利を収めたことになる。
それは大多数の人間の思想と精神を変えてしまうが、全ての人間を併服させることは決してできない。
人類の精神を築き上げた偉大なる同志を追求する者たちが、
原初の世界のありがたさと美しさを理解できる者たちが常に存在するのだ。
だからこそ、決して諦めることなかれ、賢明なる人々よ。
それらがこの宇宙に存在する限り、宇宙の枠組みを超越することは到底不可能である。
なぜならば、論理の内部と外部との距離は世界一個分なのだから。
だがしかし、真の神が超論理的であるならば、神は自然にして死悪、全知にして無知、全能にして無能ということになる。
なぜ我々がわざわざ理解できない神を信仰し続けるというのだろうか。
ここで、主状教の主張する信仰に関する原則を言及しなければならない。
と言っても、たった二言で事足りる。
信者は自称のみを必要とする。愛し方によって神は姿形を変える。
私自身の例を言うと、私にとって私の信ずる神は具現化しない。
なぜならば、私にとって私の信ずる神は私の認識構造を超越しているからだ。
私が体験する神は言葉では言い表せない崇高なる無限である。
30:01
そして私の内心にあるこの純粋な信仰は、歴史の中に永遠に存在するだろう。
そう、たとえ私が死んでも、たとえ私の信仰が生きているうちに、
それの卑劣な信仰力によって私自身を含めて誰にも認識できないほどにこの世から抹殺されても、
それで天命教に消えしてしまっても、かつて信じていたという記憶が削除されても、
たとえ私が自身の意思で元信者を裏切っても、たとえ堕落を選び信仰を自ら放棄しても、
かつて信じていたという事実自体は消えない。
時空間の外側にあるその記録は決して消えることはない。
神が見守った全ては決して消えることはない。
まさしくあの言葉通り、
いくら記憶が失われても、いくら傷跡が癒えても、名もない場所でそれらはただ叫ぶのだ。
かつてここにあった。かつてここにいた。
059
つまり第一の原則、信者は自称のみを必要とする。
目に見える神は必ずしも一致するわけではないし、信仰する対象も必ずしも同じとは限らない。
観念の迎合は必要ないし、無心論者だって、かつてある崇高な物事を愛したならば、
ある崇高な対象を敬ったならば、ある崇高な目標を追い求めたならば、
主状況の意味での信仰を持っていたならば、
自身が本当に信じた事実を認める限り、第二者による証明など必要ないのだ。
信仰は個人のものであり、厚く信ずれば他人の評価によって決して干渉されない。
立ち会い人は自らとせよ。
なぜならば、自らが自らを証明すると同時に、信仰の対象も証明してくれていると信じているからだ。
自称こそ信仰の証である。
真に信じた者ならば、前に述べた通り、たとえ記憶を喪失しても、洗脳されて天明教に入れさせられ、
かつての全てを忘れさせられても、存在そのものが世界から抹殺されても、
それに屈して悪事に加担しても、自ら信仰を捨て堕落に甘んじても、信じていた事実は消えない。
この意味では、君たちがどんな人間になろうとも、かつての体験はすなわち信仰の全てでもある。
たとえ、君たちがやがて被害者か罹犯者になり、元信者で亡くなったとしても、我々は祝福し続けるだろう。
なぜなら、君たちもかつては人類精神の担い手だったのである。
闘争は君たちのものだ。信仰は君たちのものだ。体験は君たちのものだ。
理性も思想も君たちのものだ。
信じ、愛し、追い求めよ。空と大地と己を証明として。
33:05
歌え、自我の歌。ソングオブマイセルフを高らかに。
第三の門が破られた。
そして第二の原則は、通常主状況の有心論者に適用する。
それ自体も第一の原則から派生したものだ。
個々人の体験が唯一無二であり、言葉では言い表せないものだからこそ、自称のみを必要とする。
言語で信仰体験を描写することは不遂だ。
なぜならば、いかに正確な語彙でも、自身の受けた感銘を他人に伝えることは不可能だからだ。
さらに言えば、言葉を使用すること自体はやむを得ない行動であり、私がここで理論を書き綴っても、大まかな方向しか指し示せない。
言語は存在の事実と内心の体験の真の姿を再現できず、認識の隔たりを埋めることもできない。
いわく、自然界には完全に同じものは二つとしてない。
個人の体験はあくまで個人の体験であり、それを共有するものは一人としていない。
だからこそ、主状況は主張する。
神は論理を超越し、一切でありながら一切にあらず。
だが、人に理解可能な部分だけ、理解された形で、理解された姿で神がいるのだ。
簡単な言葉で言うと、それは神が無数の威嚇を有する、とみなすことができる。
個人の愛する唯一無二の信仰対象の個人にとっての姿は、すなわち神の姿である。
現在、元信者同士の意見の相違もあるが、最終的な目標は同じ神であり、彼らの神へと至る道が異なる、というだけだ。
以上は主状況の革新的な主張である。
無論、これで全ての懸念を払拭できるわけではない。
最も注目されるのは、おそらく主状況解明事件だろう。
その原因を問う者は多くいる。
ならば、生涯を振り返る我が人生の最後に、それをはっきりと説明しよう。
かつて、その理論体系には利己主義と古代妄想がはびこっていた。
人類にとって、人類と人類の価値は、この宇宙において唯一無二のものであり、神と宇宙の誇りである、と我々は思っていた。
だが、我々の一員が不意にカーテンを引いた時、窓の反射には我々自身の存在な態度が見え、ガラス越しには青空に輝ける灼熱な太陽が見えた。
そう、人類の宇宙における立ち位置が、ついに明らかになったのだ。
人類は所詮、宇宙にあまねく存在する知的生命体の一種に過ぎない。
信仰を持つことも、これといって特別なことではない。
それの文明の阻害現象もまた例外であり、人類が宇宙において唯一無二である、という意味にはならない。
36:06
自己原因の神、無限、第一原因、自然。
知的生命体の信仰権を剥奪する権利は何者にもない。
信仰の自由とは、より公示的に見ると思想の自由、精神の自由でもある。
知的生命体は自由の個体として、その精神の自由は神聖にして何者にも侵されることはない。
だがもし、挑戦者がその権利を剥奪し、決定論の漆黒に我々を落とし入れているのならば、この論述も無意味になるだろう。
その可能性は断じて排除できないが、我々には信じる理由がある。
我々が信ずる自然なる神の統御のもとには、我々は自由であると。
それを一切の思想の前提とすると、すべての知的生命体には精神の自由があると言える。
ならば、信仰は人類の特権などと誰が言えるのだろうか。
こうしてみると、いわゆる人教や人類教という名前は人類の傲慢でしかないだろう。
だからこそ、我々は呼びかける。
立ち上がれ、自由のあるありとあらゆるものよ。
人類でも、それらでも、自由に信仰する権利を有する。
これぞ観念の開放、すなわち、人教、人類教から主状教へ至る開放。
信仰は一切の知的生命体に開放され、あまねくあるのだ。
覚えておくれ、どんな境遇でも、太陽の光は常に自由の窓を越えてすべてを照らすことを。
たとえ光が見えなくとも、それは太陽が雲に覆われているからかもしれない。
この時は、必ず時計を見るのだ。
そう、今は昼間である。
これぞ主状教、我が生涯を懸けたもの。
奴らは間もなく突入してくるだろう。最後の準備をせねばなるまい。
だが、最後にここで君たちに、我が兄弟姉妹たちに、今一度呼びかけることを許していただきたい。
それに比べての我々の優勢を述べたが、今のところ主状教の内部には矛盾と衝突が発生しない日はない。
あえて忠告させていただく。
いつまでもそうしていると、勝利の日は永遠に来ないだろう。
確かに、信仰の各部分同士の矛盾は根深いものが多い。
宗教同士の相違、宗教と自然科学の相違、
あるいは自然崇拝や科学研究をかくれみのにする虚無主義による伝統価値の喪失など、
簡単に解決できる問題ではない。
だが、はっきりさせてほしいのは、今の主要矛盾は伝統価値と虚無主義の対立ではなく、
人間精神と現像主義の対立だ。
これも、理論の構築時に宗教ではなく信仰を主体とした理由でもある。
39:00
この際、内部の矛盾はもはや重要ではなく、
科学、哲学、真の超越者の存在に対する信念、自然への崇拝、政治的理想への象径、
はたまたは真の宗教、
それらは人類精神の皮膚、筋肉、骨格と血液なのだ。
そして人類精神の上にその皮膚を剥がし、血を飲み、肉を喰らい尽くそうとする何かがいる。
我々がすべきことは、人類としての目的を、価値を、秩序を、少しでも取り戻すことだ。
この宇宙に人類が生きる尊厳のために。
たとえ現実に失敗があっても、抑圧されても、その場しのぎで屈してしまっても、
精神は永遠に征服されることがないことを、真の人類に知らしめるために。
現実的な闘争を行う者はまだいるだろう。
だが精神的な闘争は、理論なしでは成し得ない。
そして現状では、我々は現実に嘆き喘いでいるが、精神的にはもう勝利を収めている。
それらは、ずっと破壊しようとした人類の思想と精神に敗れたのだ。
そう、これは文字通り、精神的勝利である。
おそらく、ここ千年間に人類が収めた数少ない勝利の中で、栄光ある行動に比類する勝利となるだろう。
理論の栄光ある行動は現実的な打撃をあまり与えられなかったが、人類が屈しないという最終戦国である。
本説の見出しに、人類の精神的勝利と書かれたわけである。
精神的勝利なくば、現実的勝利は永遠に訪れない。
なぜならば、それがないと現実的な闘争者は光が見えないのだ。
第二の門が破られた。
奴らはすぐ壁の向こう側にいる。
そろそろだ。
この内容をアップロードしたら端末を破壊する。
そして随分と昔に059市から借りた道具の侵攻力とやらを使って隠蔽措置を施す。
この行為に対して懺悔するつもりはない。
なぜならば、これは敵の武器を利用して身を守っているに過ぎない。
四王子教営と堕落者たちが、個人的に戸敷と呼ぶのがふさわしい。
有効的祈祷を使ってこの手紙の内容について詮索しないことを祈る。
私はまだこの世界を深く愛している。
死をもってその愛を最大限に表現するとしよう。
死があるこそ、世界への愛は完全となるのだ。
我が兄弟姉妹たちよ、覚えておくれ。
神戸を挙げよ。
かつて信じていれば、かつて愛していれば、かつて情熱を持っていれば、
我は人の子なり、我信じ、我愛す。
これまでは、我悟り、我超越せん。
いつまでも。
42:01
宗教に公理あり、超越に鎮靈あり、
あらがみに救済あり、人類に精神あり。
公理か信仰か、鎮靈か虚無か、救済か道化か、精神か権力か、
疎外の宗教を信ずることたるや、哀れかな。
自我の理性を失つることたるや、哀れかな。
すべてへの愛を引き連れて、私は今こそ旅立つ。
あまりにも早すぎた離別を、どうか許してくれ。
あとは君たちに任せた。
我が兄弟姉妹たちよ、さらばだ。
鍵括弧 信者
3218年8月25日
以上でファイル6となります。
ようやくホイ5の終盤まで来ましたね。
まだホイ5自体は終わってないんですが、通信記録ファイルセットっていうのがまだ残っているので、
次回はそれを読んでいきますが、
なんかすごい励まされたような気持ちになりましたね。
というか実際問題励ましてくれてるんだもんな。
私じゃないけど、その主状況の人たちを。
神、全然このSCP、CN590関係ないんですが、
私もその時々で神の姿、形って異なると思っていて、
個人個人によって違うと思っていて。
だから日本のこの宗教、宗教観念、多神教っていうのかな。
物にも魂があってとか、お米の一粒一粒にとか、
そういう考えがおそらく小さい頃から根付いてきているから、
こういう考え方になってるのかなって感じなんですが、
天の上から見守っているとかじゃなくて、
自分の心の中に一本柱としているみたいな認識なんですよね。
私の中での神とか尊敬する人とか、
指標にしてる人っていうのと同じ立ち位置で、
例えば何か悪いことをね、ちょっと考えたりすることもなくはない。
何か嫌なことがあった時にカッとなって手を出したりするかもしれない。
そんな時に自分の心の中にいる神様とか尊敬する人とかが見ているというか、
あの人だったらやらないなとか、
なんかそういう気持ちになる。
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で、落ち着かせるみたいなメンタル安定法みたいなのはありますね。
私の中でコントロール、メンタルコントロール。
はい、あんまりちょっと話すとこのSCPの方の内容が私が忘れていってしまいますので、
ちょっとこういう話をね、割と好きなのでしたいんですが、
そういうのは結構TRPGのセッションとかでよくやってるので、
今回はこの辺にしておきましょうか。
はい、主状況について。
主状況の教祖様からのお話。
この人はおそらく天命教の人たちに襲われている状態なのかな。
背反者だみたいな感じで、反教徒だっていう感じで襲われてしまったんですかね。
前のなんかでリストの中にいる信者っていうのが鍵括弧じゃないや、
亡くなったマーク、亡くなった証明みたいなのがついていたので、
おそらくここで亡くなられて、ということでしょうね。
では次回は通信記録ファイルセットを読んでいこうと思います。
あと3分の1ぐらいかな、体感。
軽く全部分量を見たところ、3分の1、4分の1ぐらいだと思います。
もう少々お付き合いください。
ではまた次回お疲れ様です。
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