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2017-12-03 39:24

2017/12/03:クリスマス・シリーズ・メッセージ(1)イエスさまと救い

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2017/12/03 聖日礼拝

尹善鎬牧師

マタイの福音書 -25

00:00
改めたい皆さん、おはようございます。 本日から今年のアドベントが始まります。
イエスさまのご好感を覚え、またお祝いし、 そのサイリーンを待ち望んで参りたいと思います。
それでは、メッセージの前に隣の方と挨拶をしましょうか。 おはようございます。
ありがとうございます。
それでは一言お祈りします。神様感謝します。 今日もこのようにして愛する兄弟姉妹方々を、
主がこの礼拝堂に、その教会に集めてくださって、 喜びのうちに礼拝できます。この恵みを、主よ本当に感謝いたします。
主よ、賛美を捧げました。また祈りもお捧げいたしました。 そして今から神の御言葉が、主よ語られます。
神様どうか一人一人に、主御自身が、 このアドベントのクリスマスのメッセージを語ってくださいますように。
そして信仰と希望が本当に生み出され、 いよいよ主を愛し人を愛し、主にすがる者として、
我らを主よ本当に引き上げてくださいますように、 本当に信仰に立って強くしてくださいますようにお願いをいたします。
感謝して、イエス様の皆によってお祈りいたします。 アーメン。
感謝します。 先週ご案内しましたように、今年のアドベント、今日から第4週ありますけれども、
4つのクリスマスシリーズメッセージをさせていただきたいと思います。 今日はその1番目で、イエス様と救いという題になります。
1つ1つ独立していると同時に、 また4つが全部1つにつながっていますので、
1つ1つ聞いていただき、 また4回の説教をすべて聞いていただけたらと思っております。
今日は先週、主要にもありましたように、 クリスチャンの皆さんは改めて信仰、
イエス様と救い、喜びとか命を確かめる、 そういうメッセージになってほしいと思いますし、
あるいはミシンジャーの方々には、 キリスト教は決して信じなさい、信じなさい、盲目的にですね、
03:01
信じることを強要する宗教ではなく、 確かに歴史的であって、そして事実であるということを、
そのことをまた少しずつ触れて、 お話をしていきたいと思います。
今日は特に前半は、イエス様が、 予言通りに本当に救い主なのか、
一般的では救世主と言いますね。 本当に救世主なのか、予言通りのものなのか、
捏造したものではないか、 あるいは詐欺師ではないか、いろいろですね、
一般的には実際そういう話がありまして、 それがこれは聖書の予言のとおり、
イエス様のことは聖主は捏造だ、 それを救命しようと思ってですね、
ところがその中で、本当に神様は終わられる、 イエス主人は終わられるとですね、
それは分かった人の話が映画にもなりましたね、 2年前からね、日本にも増描されましたけれども、
またそれをぜひ見ていただきたいなと思っております。
今日はその中でイエス様と救い、 イエス様と救いについて考えていきたいと思います。
まずですね、イエスという名前の話にあたりまして、 ちょっと面白いことを調べてみました。
日本人の中でですね、名字じゃなくて下の名前で、 男性の1位は何なのか知りますか、皆さん。
ヒロシさん、2位はタカシさん、3位はアキラさん、 女性の1位はケイコさん、2位はヨウコさん、
ロバニーにも何人かいられますね、おられますね、 3位はヨシコさんだそうです。
多分ですね、親の方々がいい意味を持って お名前をつくってあげたと思うんですね。
漢字がいろいろですね、同じヒロシさんと言っても たくさんの漢字がありますからね、
一律的には言えませんけれども、 例えばヒロシさんと言ったら、
広くて大きい人物になってほしいという 意味じゃないでしょうかね。
子供の名前をつくりながら、コケルーさんとか スベルさんとか、そういう名前はつくらないでしょうね。
キリスト教で信じるイエス様、 そのイエスという名前についてちょっとお話したいと思います。
イエス様が生まれた当時、だからAD0、 その生まれた紀元前4年とかいろいろありますけれども、
その辺としましょう、1世紀頃。
イスラエルの男性の中で、 まるで日本人のヒロシさんのように、
イエスという名前は多くあるお名前でありました。
だからですね、エルサレムに行って、 イエスさんと言ったらですね、
多くの男性が俺とですね、そう見たかもしれない。
06:00
なぜなら、イスラエル人にとってイエスという名前は、 本当に歴史的にもとても意味の深い、大事な名前だからです。
イエスという名前の意味は何でしょうか。
イエス、英語ではジーザスと言いますけれども、
イエスは主は救い主である、 あるいは主は救いであるという意味であります。
というのは、イエス様がまずそのお名前だけ見ても、 救い主であって、本当の救いのお方であることがわかります。
ところが、名前だけ救い主だったら何の意味もないんですね。
一般的にもですね、立派な名前を持って、 もっとひどい犯罪の人々もいるわけですからね。
ところが私たちは、クリちゃんは、 イエス様が唯一でマコットの救い主であること、
そして神であること、乙女マリアから生まれたこと、 十字架で死なれたこと、三日目によみがえられたこと、
そして天に引き上げられて、 再び再臨なさることを私たちは信じます。
ところがそれは、私たちはクリちゃんだから、 イエス様を信じている者には、
それが当たり前じゃんとね、 そういうふうに思うわけなんですけれども、
では今日はですね、前半は少し、 未信者の観点から、
本当にイエスという人物が、 本当に救い主、救世主なのか、
それをですね、いわゆる弁償法的に お話をしていきたいと思います。
イエス様が本当に救い主だったと 言い張る証拠には何があるんでしょうか。
イエス様が成りすましていた、 詐欺師ではないという、言い切れるでしょうか。
あるいはイエス様の主張、自分は救い主だと、 そういうさまざまな主張を裏付ける証拠が、
どこにあるんでしょうか。
それを全部やるには、 今日1日だけでも足りないですから、
短くですね、少し触れていきたいと思います。
主に旧約聖書の予言があって、 そしてその予言通りに成就したということを前提として、
それに触れながらお話をしていきたいと思います。
いわゆるですね、世界にある宗教の世界では、 この予言というものは、とても重要な機能を果たしています。
09:00
なぜなら、予言というものは、 人が神に託された言葉を話しているかどうかを知る確実な方法となります。
なぜなら、全能の神のみが未来を、将来を余すところなく知ることができるから、 その予言が成り立つということであります。
そういった意味として、この旧約聖書、新約聖書、 特にイエス様に対する旧約時代の旧約聖書の予言は、
独特なものであって、 そしてその通りに一つ一つが成就されたということであります。
ところが、他の宗教人には知られている、 それらの聖典があるわけなんですよね。
そこにも禅帳となる予言に触れてはいますけれども、 だいたいその予言には欠けているんですね。
例えば、モルモン教の聖書とか、 ヒンズー教のウェーダーというものがありますけれども、
そこに神の啓示を主張していながらも、 その主張を裏付ける方法があんまりないんです。
だから、それを聞いていても、 彼らは確かに神様が言いそうなことですねって思わされる。
それだけで終わるわけなんです。
裏付ける証拠、科学的な、歴史的な、 そしてキリスト教的、非キリスト教的証拠が欠けているんですね、一般の宗教は。
一つ、聖書学者のウィルバー・スミスという方がいて、 聖書の予言を他の歴史書と比べて、
聖書はどういうものなのか話をしています。
ちょっと見ていきましょう。
諸国イスラエル、地上のすべての人々、特定の都市、 そして旧聖書として来るべきものに関わる、
大規模な予言を含む人、または集団によって作られた、 唯一の巻物だと述べているんです。
つまり、個人であれ大規模な予言があって、 それによって作られた唯一の巻物が聖書だということであります。
ところが、旧約聖書には皆さん、 家様に対する予言がどれぐらいあると思いますか、皆さん。
いくつぐらいあると思いますか。
具体的に救い主に、救い主家様について、 具体的に書かれた予言が、この旧約聖書に61ヵ所あります。
12:00
そして、救い主については約300ヵ所あります。
しかし皆さん、いくらたくさんの予言が、 この旧約聖書に書かれていたとしても、
そのすべての、今日は61ヵ所、 全部を見せることはできませんが、
そのいくつかを話をしたいと思います。
61ヵ所の予言があります。
その中で一つだけを成就することも難しいです。
しかも、その61ヵ所を全部合わせて成就させる 可能性はどれぐらいないと思いますか。
それはもうゼロパーセントに近いということであります。
例えば皆さん、簡単に考えてみましょう。
今、世界人口が70億ぐらいでしょうかね。
75億人のうちに、日本人になれる確率かける。
そして兵庫県に生まれる確率かける。
そして神戸市に生まれる確率かける。
お父さんの苗字が、例えばですよ、すいませんが、 田中さんである確率かける。
そのお父さんの田中さんが長男である確率、 その確率をかけていくと、
それがもしも予言されて、それが成就される確率は 0.00000000パーセントになります。
それをイエス様のことを話していきましょう。
ところがイスラエルの人々は、予言というものは、 100パーセントを成就しないと予言ではないです。
イスラエル人は、旧約聖書の予言が そのとおりに成就したことを予言とします。
そうするならば、イエス・キリストは 予言とおりに生まれになって、育てられて、
十字架に死なれて、天に引けがえられたのだろうか。
それを話をしていきたいと思います。
その中で旧約聖書に書かれたイエス様に関する 61の中で2つだけ見ていきたいと思います。
聖書箇所を見ていきましょう。
まずは、イザヤー書7章14節です。
一緒に読みましょうか。
それゆえ主自らあなた方に一つの 印を与えられる身を所長が身を持っている
そして男の子を生み その名をインマヌエルと名付ける
アメン
この見言葉は、どおりに成就できるんだろうか。
その確率はどれぐらいなんだろうか。
三箇所も一緒に読みます。
ベツレム・エフラテヨ
あなたはユダの種族の中で最も小さいものだが あなたのうちから私のためにイスラエルの支配者になるものが出る
15:10
その出ることは永遠の昔からの定めであるアメン
61の中のたった2つだけお見せしましたけれども
そうすると皆さんこの2つだけ考えてみてください。
家様が本当に救い主になれるんだろうか 可能性は確率はあるんだろうか。
ベツレムの街で所属から生まれたものが 一体何人ぐらいいるんでしょうか。
さあ面白いことがあります。
一人の人によって成就された61の詳しい 予言がありますけれども
それは本当に61全部を成立するためには これはどれぐらいなんだろうか。
アメリカのピーター・ストーナーという 数学学者がそれを数学的に究明しました。
それをちょっと見ていきます。
61全部も難しいですから その中で確率的な8つの予言を選んで
そして自分の学生さんに宿題を出しました。
例えば一人の人があの1世紀にベツレムで生まれる確率 そしてその人がお母さんの名前がマリアである確率
そして生まれるときにヘロで王である確率 そして生まれてエジプトに逃げる確率
変えてきてなざれで育つ確率 いろいろなその中で8つの確率を計算してみました。
そしてその答えはどれぐらいになったのか 数字でお見せしましょう。
これなんです。
これぐらいの確率なんです。
読めませんね皆さん。
帳を越してケース越して調べてみた その次は害と言いますね。
10外分の1なので0.00000000で1%がイエス様が その予言通りになれる可能性ということになります。
さあいいです。
そしたら何が話したいのか。
それは人間にはそれをあえてそれを合わせて そうなれる可能性はもう極めて希薄であるということ。
そうすると本当にその通りに 成就されたというものはイエスという人物が
人間を超える超越的な神であること あるいは嘘つきであるかどっちかなんですね。
18:02
ところが60字全部は見れませんので その中で4つだけ旧約聖書の予言がどういうふうに成就されたのか
今から4つを見ていきたいと思います。
まず1番エレミア書という聖書があります。
そこの23章の5節には救い主は ダビデ王の血筋から出るであろうという言があるんですね。
それは紀元前約600年頃に予言されました。
ところがそれがどういうふうに 成就されたんでしょうか。
本当にその通りにイエス様は ダビデの子孫で生まれました。
それがルカニオの福音書3章23節31節にあります。
それは約紀元前4年といいます。
だからこれだけ見ても 600年前に予言されたものが
600年後その通りに成就できたわけなんです。
次に行きましょう2番。
救い主は30枚の銀貨によって 裏切られるであろうということが
ゼカリア書11章13節に予言されています。
これは紀元前約487年頃なんです。
ところがどうなりましたか。
その予言通りに彼らは彼に30枚の銀貨を与えたといって
イエス様は銀貨30枚で イスカリア王帝ユダの裏切りによって売られました。
それがどこですか。
マタニョの福音書26章15節。
これは英理30年になります。
だからそれを合わせても約500年前の予言が その通りに成就できたということであります。
この次も行きますよ3番。
ご覧ください。
救い主は手足を砕かれるであろう。
つまりこれは十字架でイエス様の手足が 砕かれることが予言されました。
それが4編22編16節にありますが
これは紀元前1000年前、1000年ごろ予言されたんですよ。
ところがどうなりましたか。
ルカニオの福音書23章を見ますと
彼らはサレー神戸と呼ばれているところに来た。
そこでイエスが中央に2人の囚人が その両側に十字架につけられて
その後その通りに手足が砕かれました。
それはAD30年ごろでしょう。
そうすると1030年の時代のギャップがあって それが成就されたということであります。
さあ4番に行きましょう。
救い主がロバに乗って現れる。
エルサレムを入所するときに ロバに乗って現れることが予言されました。
それがゼカリア書9章9節にあります。
紀元前500年ごろです。
ところがそれがマタエニオの福音書21章7節を見ますと
21:02
本当にその通りロバと子を連れてきて その背に衣服をかけると彼はそのロバの子に乗った。
そしてその通りにロバに乗ってエルサレムに入所されました。
それがAD30年であります。
さあここまで見ますと4つだけ見ました。
ところがその予言のギャップは 約500年から1000年のギャップがあるんですよ。
そしてゼカリア イザヤ ダビデとかそれぞれ時代がはるかに違うんです。
ダビデの時代とゼカリアの時代は だいたい500年以上の時代のギャップがあるんです。
だから彼らが同じ時に同じ場所に集まって エルサレムどこかの喫茶店で集まって
さあこれを結託してさあこれを作りましょうとできないんですよ。
しかもそれが1000年1500年頃の時代のギャップがあるのに それぞれダビデがイザヤがゼカリアがジェパニアが予言したことが
その通りにイエス様によってすべてかけることなく成就された。
それは人間があえてそうできるんだろうかその確率は さっき見せたその通りにほどそれはできない不可能であるということであります。
つまりイエスキリストは本当の神であるということであります。
そして本当の神様であって我々を救うためにこの地上に
500年前あるいは1000年前の予言通りにお生まれになって
それはただの赤ちゃんではなく唯一の本当の救い主としてお生まれになった。
そして我々を救うためにすべての罪を背負って十字架で手足を折れて
槍に刺されて血を流して 死んでくださって救ってくださった。
それが歴史的に科学的に事実的に証明される証拠が裏付けられるということであります。
クリスチャンの方々は皆さんは当たり前のように信じていますから
今さらそれはどう言われるかもしれませんが
ミシンジャーの方にはそれがどうしても納得ができない
腑に落ちないということがあるということなんですよね。
もう一度申しますと
61の予言を一人の人が上手にすることに対する可能性は
24:00
数学の世界を超える神の世界なんですね。
多分何兆分の何兆分の何兆分の1という確率になることではないでしょうか。
ところがもう一つ話をしたいと思います。
でもそれを信じたくないいわゆる無神論者の人々は
その900世の予言というものはイエス様が生まれた後
そしてイエス様が本当に救い主のように作り出したから
その聖書というものをイエス様の後の時代の人々が
それを修正したものだろうという話がある。
誰かそれがぴったし一致しているだろう。
そんなことはないでしょうということが
イエスキリストを認めない人々の主張なんです。
ところがその主張を一気で打ち消すものが発見しました。
それをお見せしたいと思います。
これなんですね。
いわゆる司会写本というものがあります。
どこかで皆さんは聞いたことがあるかと思いますけれども。
1946年から47年にイスラエルの司会に近い
ああいうところがあるんです。
とても柔らかい地帯になっているところで
ベドインの少年の羊が伝説に
噂で言えばああいう洞窟に石を投げたそうなんですね。
石を投げたら何かカシャンという
何か瓶みたいなものに当たる音がしておかしいなと
普通の土地だろうと思って行ってみて掘ってみたら
そこでたくさんのいわゆる陶器の瓶がたくさん発見しました。
そしてその中にイザヤ書とかほとんどの旧約聖書の写本が出てきました。
しかもその写本は1940年ですから
既に持っている聖書のほとんどと一致している。
そしてその時に持っている写本の中で一番古いものであることが
それは証明されました。
これによって旧約の時代であることが証明されました。
これは本当にイザヤの時代
だからBC1000年とかBC700年とかBC500年に書かれたものだということが
科学的にそれが証明されたということであります。
何か申し上げたいと言いますと
それはイエス・キリストは人が作った月上の架空の人物でもなく
あるいはただの立派な人であったんだけれども
27:01
いい話をした人ではなく
旧約聖書に予言された通りに生まれになった神であるイエス・キリストであるということが
私たち信者は信仰を持って信じる
そしていくらそれを打ち消そうとしても
それを打ち消すことができない歴史的科学的事実であること
それが確立されているわけなんです。
だから他のところではイエス様が救い主であるかどうか
それを信じたくない人であっても
イエス様が実存の人物であることはそれを否定する者はいない
そして先ほど申し上げたように
多くの人々がそれは嘘だろう偽りだろうと思って
研究し続けてやってきた結論は
イエスは神である救い主であることが
多くの人々が実は論文とかそういったものを出しているわけなんです
ですから私たちはこのような結論に至ります
イエス様は善能なる神であって
三明体の神として父・御子・御霊の神であられるお方であります
そしてその方は私たちを救ってくださる唯一の誠の救い主であります
ところが皆さんどうでしょうか
私たち自分自身は本当に無限な存在ではなく
有限な存在であることを皆知って認めますね
そうです本当に有限なものなんです
決心したことを永遠にそれを守り通せるんだろうか
そうではないんです
三日坊主のようなものがよくあります
あるいはこの世のすべての知識をすべて知ることができるんでしょうか
知ることはできません
たとえこの世界のあらゆるすべての分野のすべての知識を学んだとしても
それをすべて覚えられません
そういった有限な存在であります
だから私たちが知っている知識あるいは経験に基づいて
イエスはあるないとか救い主であるじゃないとか
そういう判断することはいかに小さいもので偏狭なものであって
そこに限られたものであるか
それを私は本当に知らなければならないと思います
何より私たちは生まれながら神の御怒りを受けるべき存在であるということを
聖書は語っています
30:00
ちょっと聖書を一緒に開きたいと思います
新約聖書のエペソビトの手紙に行きましょう
エペソビトの手紙第二章一節から三節です
エペソビトの手紙第二章一節から三節
私が一節と二節を読みしますので皆さんで三節を読みください
エペソビトへの手紙第二章新約の三百七十四ページです
二章の一節
あなた方は自分の罪かと罪との中に死んでいたものであって
その頃はそれらの罪の中にあってこの世の流れに従い
空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている
例に従って歩んでいました
一緒に私たちも皆かつては不従順の子らの中にあって
自分の肉の欲の中に生き肉と心の望むままを行い
他の人たちと同じように生まれながら見怒りを受けるべき子らでした
そうです私たちは生まれながら見怒りを受けるべき人なんです
それはアダム依頼すべての人は原罪を持って罪の中に生まれるわけです
そして神様の絶対の善という観点から見ますと
私たちはいくらいい人であっても
世界的に迫害精神を実践してすごいことをなした人であっても
神の絶対善から見れば絶対善の者は一人もいないということであります
人から比べたら本当にすごいですねいい人ですねそういう人がいるかもしれませんが
それはいわゆるどんぐりせぐらべなんですね
罪人同士の慰め合いにすぎない神様の絶対善という観点から見れば
人はこの御言葉通りに生まれながら見怒りを受けるべき存在です
ところが皆さん人は自分が罪人であることを認めたくなくても
自分は絶対善の清い者であるということではないことはみんな認めます
33:05
ところがもう一度申しますと全く清きの神様の標準から見るならば
すべての人間は生まれながら見怒りを受けるべき存在である
そうするとすべて滅ばされてそれで終わりなのかそうではありません
聖なる神様その神様は私たちを憐れみのゆえに恵みのゆえに愛したかゆえに
私たちをその見怒りから罪からその死から滅びから救うことを お定めになったということであります
それは神様が神様ご自身の意思を持って喜んで自ら救うことを定められたということであります
そしてその救いのために神なるイエスキリストが旧約の予言通りに
生まれになって救ってくださったということであります
それが先のエペソーションの2章の4節5節続いて読んでいきましょうか
エペソービというのは手紙2章の4節と5節一緒に読みたいと思います
よろしいですか4節と5節
しかし憐れみ豊かな神は私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに
罪かの中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし
あなた方が救われるのはただ恵みによるのです
アーメン
実は生まれながら身怒りを受けるべきものでした
どうしても罪の中に溺れていた私たちでした
しかし神様は憐れみ豊かな神は私を愛してくださった
皆さんお一人お一人を愛してくださった
無限の愛をもって愛してくださっている
大きな愛のゆえに罪かの中に死んでいたこの私たちを
イエス様とともに生かしてくださいました
だから私たちが救われるのはただ何によるものですか
神の恵みによるものであります
なぜ憐れんでくださるのでしょうか
なぜ愛してくださるんでしょうか
こんなものをも主は憐れんで許してくださる
なぜなら私たち一人一人に向かう神の心は滅びではない呪いではなくて
憐れみであって生来であって救いであるからであります
ところがここで短くお話をしますと
36:01
救いというものは何なのか
それは亡くなってから行くパラダイス
それだけを意味するわけではないんです
救いというものはあるいは永遠の命というものは
死んでから行く極楽パラダイスその場所
その以上の意味を持っているわけなんです
イエス様の救いは私たちが今ここで
今ここで命の道真理の道
永遠の命の道に歩むことであります
それはね短くお話しましょう
イエス様の救いは私たちが今ここで喜びと感謝にあふれて
死にあって幸せに生きることが救いであります
イエス様の救いは私たちが今ここで
私の魂も霊も肉も主の恵みによって恵みにあって生きることです
イエス様の救いは私たちが今ここで神の国が来ますように
そのために奉仕して信じて従っていくことであります
イエス様の救いは同時にイエス様が誠の王様になって
この全てを治めてくださる全く国になること
神の国を待ち望むことが救いであります
救いはただ死んでから行くパラダイスのことだけではありませんよ
救いというものはここでその喜びと感謝と永遠の命を味わうことであって
体験させていただくことが救いの本当の意味じゃないでしょう
そうでしょう皆さんそうなんです
だから神を信じてイエス様を救い主として信じる私たちは
人々は今ここで命と真理と永遠の命を豊かに味わって体験させていただいて
喜びと感謝に満ちあうれそして神の国が来ますようにと
待ち望みつつ歩む人々であります
それが救いの恵みであります
そしてこれこそクリスマスにメリークリスマスと挨拶する本当の意味であります
なぜメリーなんでしょう
なぜ嬉しい喜びの救いなんでしょうか
救いは永遠の命はここでこの地上では今ここでとても苦しんで苦しい
何の希望もなく喜びなく死んだからのあれがあるからでしょうか
違う全く違います
願うわくはここにおられる神道の皆さん
どうか皆さん今ここでその救いの恵みと
祝福と喜びをそれを日々豊かに体験していただきたいと願っております
そして民主党の方々もイエスこそ歴史的実際的信仰的唯一であって
39:07
誠の救い主であることを信じて救われて
その救いの恵みを今ここで豊かに味わっていただきたいと切に願っております
以上です今日ここまでしたと思いますお祈りいたしましょう
39:24

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