校庭のゴミとその由来
親の愛なる皆様、アロハです。愛です。今日は2月の17日月曜日ですね。
今日はカナダのファミリーレイという祝日で、お休みとなっております。 雪も溶けたんで、雨も止んだんで、
ユー太郎の校庭に遊びに来ております。
クラスのお友達がいてですね。
勝手によく遊んでくれてます。 真っ白な校庭が雪溶けて何が出てくるかというと、
まあとにかくゴミですよ、ゴミ。 今ちょっとひとしきり拾って
来たとこなんですけど、来て30分40分ぐらい拾ってたかな。大きなゴミ袋持ってきて
拾ってたんですけど、まあねー もういっぱいになっちゃって、多分2キロぐらいあるんじゃないかな。そんな重たいもんないんですよ。
プラスチックとかね。プラスチックのおやつのね。
ジュースのフタとか、 ジュースの紙バッグとか、スナックの袋とか
そういうものなんですよね。だから誰が捨ててるかというと、まあ子供たちが捨ててるわけなんですよ。
それがね、本当30分か20分か30分拾っただけでゴミ袋いっぱいになっちゃうっていうね。 今も全然拾いきれない。拾いきれてないっていう。
とりあえず今日はゴミ袋もないし、 これぐらいかなということでちょっと休憩してるんですけど。
まあいろいろ本当考えさせられちゃうんですよね。 こっちにいるとなんか
拾いたいから拾っているし、 それは汚いより綺麗な方がいいっていう。
綺麗な方が気持ちいいっていうことを私は知っているからで、 体が知っているからで。
じゃあ汚い、ゴミが落ちてる悲しいなぁとか、誰が落としたんだとか思う前に、 拾うっていうことを体の反応としてね、習慣にしようって思ってですね。
まあやり始めたハチドリのゴミ拾い部なんですけど。
とにかく、校庭でさえ、 そんな感じで拾いきれないぐらいゴミが落ちてるっていうね。
状態だし、まあましてやね、街のストリートとか出るとですね、 本当にもう悲しい状態なわけなんですよね。
教育と文化の影響
なんでかなーっていうふうに思うわけなんですよ。 ここ学校だから、私が今拾った2キロのゴミもね、
まあ子供たちが捨てているわけですよね。 それに対して、なんか先生も親も、子供たち自身も何も感じないのかなーっていうふうに、
私は普通に不思議に思うわけなんですよ。 それは別に、なんていうのかな、
私がゴミが拾っている私が偉いとか、 ゴミ拾いとかね、そのお掃除の習慣、お掃除っていう文化がね、
自分の使ったところは自分で綺麗にするっていう、そういう文化がね、 ちゃんと学校の中で
そういう時間が取られてるっていうね、強制的にね。 まあ騙されるっていう、そういう日本人が偉いっていうわけじゃなくて、
やっぱり普通にゴミが落ちてるより落ちてない方が いいと思うんですよね。
普通に。 なんか何も感じないのかなっていうのは本当に普通に不思議。
それも全部教育だったりとか、あとまあこっちはね、 本当にいろんな国の人たちが来ているわけなんですよね。
だからまあ私たちいわゆる日本の一般的なね、
一般的って、まあ何が一般的かって感じなんですけど、 まあ恵まれてますよね、日本って。
大体の人がね、学校教育受けて屋根のある家に住んで、 戦争もないし、
平和でね、守られている。税金によってね。 守られてるっていう、そういう国の、
そういう安心安全の国から来た人だけじゃないわけで、 やっぱりいろいろアフリカとかそういう風にね、
中東の紛争地帯から来た、 命ががらがら逃げてきたとかね、
そういう国の人たちもいるわけで、 だからまあいろんな水準基準がね、あるとは思うんですけど、
でもやっぱりこの学校っていうのはね、 子供たちが大人になるためのね、
場所であって、 その場所がこんだけのゴミで溢れてるっていうのは、
ほんとちょっと不思議であるし、どうしたもんかなっていう風に、 やっぱり拾ってるとね、感じさせられるわけなんですよね。
命の循環と環境への考察
とにかく拾っても拾ってもつきないっていう。
ちょっと校長先生にメールしようかなって思ってます、今。
思ってます。 ギブデスの法則その3、人を変えようとしないなんですけど、
でもそれと同時に今私ができる最も価値のあることっていうのは、 私が今感じていることをその先生たちとか親の親にね、
伝えることかなっていう風に思ってます。
それは別にさっきも言ったように日本の教育はこうなのになんでこうなの? カナダはそれしないんだっていうわけじゃなくて、
お互いにやっぱりね、学び合っているわけで、 私は本当にカナダの学校にすごく感謝しているし、
カナダ、バンクーバーのね、 移民である外国人である私たちを本当にね、よく受け入れてくれる。
差別もほとんどないし、銀行、役場の人たちも本当に優しいし、 英語も聞き取ろうとしてくれてるっていう。
それはアメリカに住んでた、ロクサンゼルスに住んでた時とは ちょっと結構な違いがあるわけなんです。
本当に優しい移民に対して。 カナダも移民を受け入れて大きくなってきたっていうものもあるし。
だから本当に感謝しているし、私も受け入れてきてもらっているし、 ユタローはユタローでね、英語がまだね、日本語よりは得意じゃないから、
やっぱり先生たちにちょっと迷惑かけたり、 いいこと聞かなかったりする場面もあると思うんですよ。
でもそういう方たちに対しても、やっぱりユタローこういういいとこあるからね、 こういう場合はこういうふうにやってるよっていうふうにちゃんと報告してくれて、
ユタローの個性を活かして受け入れてくれてるわけなんですよね。 それはやっぱり本当にすごく感謝しているし、
カナダのいいとこだな、違うものを、 違うものとして素晴らしい部分を見つけて受け入れてくれるっていうのは、すごく感謝しているからこそやっぱり、なんていうのかな、
そうそう感謝しています。 でも日本の文化がどうのっていうよりは、やっぱりその日本とかカナダとかいろんな国の文化それぞれ尊重して、
それはまあ良きなんですよ。でもその根源にもっともっと、じゃあその何人とか国とかいうものを超えて、 私たちみんなやっぱ地球人なわけですから、
地球に対するリスペクトっていう、感謝とリスペクト、礼ですよね。 そういうものをやっぱり子どもたちに伝えていかないといけないんじゃないかなっていうふうには感じるわけですよね。
ゴミ拾いしてたら本当にそう感じる。 やっぱりリスペクトと感謝がないっていう、自分が使っている場所に対してのリスペクトと感謝があったならば、ゴミなんて捨てられないわけで。
そのゴミに対してもね、ゴミが悪いっていうよりは、そのゴミもね、おやつをこうやってちゃんと包んで安全にね、
売金入ることなく持ってきてくれてるわけじゃないですか。その袋があることで、 清潔に保っているわけじゃないですか。
ゴミに対する、袋に対するリスペクトと感謝っていうものも足りない。 そういうことをやっぱりゴミを拾っているとすごく感じるわけです。
このゴミがどこから来たのかなーとか、どこに行くのかなーっていうことも感じるわけですよ。 どこに行くかって言ったらこのゴミだいたいさ、ほとんど土に帰らないでしょ。
ほとんどのゴミはプラスチックとかね、ホイルのフィルムのね、袋だったり、だからずっとやってたって、ずっと放っておいたって、土には帰らないわけですよ。
どこに行くかって言ったら風に飛ばされて、ほとんど海に、水に流されて、全部海に行っちゃうっていうね。
で、海に行っても、海に溶けない。
永遠に彷徨い続けて、そして彷徨うだけじゃなくて、それがマイクロプラスチックとかになってね、お魚がそれを食べて、
その魚を私たちが食べるっていうね。魚を食べなかったベジタリアンだったとしても、やっぱりその海、生態系、海とか川とか生態系、
環境問題と子供たち
土もそうですけど、変えてしまうことで、やっぱり誰の首絞めてるかって言ったら自分の首絞めてるんですよね、人間が。
だから、母なる地球を大事にとかね、母なる地球が泣いているよとか言うけど、いや、地球は泣いてないと思う。
地球は泣いてないと思います。
地球は地球で、人類がね、死んだとしても、人類が滅びたとしても、
生きてますよ、地球は。ただただ。
誰が泣くかって言ったら、私たち人間ですよね。
こうやって、まだ大丈夫、大丈夫っていうふうに、まだ大丈夫って思って思い込んでるわけですよね。
原子力にしても、お話が大きくなってきたけど、原子力にしても、ゴミの問題にしても、プラスチックの問題にしても、まだ大丈夫だろうって思ってるわけですよね、私たちも、私も含めてですよ。
でも全然大丈夫じゃないわけですよね。どっかで気づいてるけど、今の生活を壊したくないから、
続けてる。知らないふりして。
だから泣くのは私たちなんですよね。もうそれをわかってるし。
大人はやっぱり子供より先に死ぬじゃないですか。大抵は、ほとんどの大抵はそうであれと思うんですけど、私は。
子供よりね、先に大人、私たちは死ぬ。だから私たちがいなくなった時に、
子供たちがどうなってるかっていう。子供たちが大人になって、次はまた次の世代を守る。
憂いてね、今の私のように。次の世代を憂いて守る。なんとかせねば。って思って行動してると思うんですけど、
そうなった時に、もうどうしようもしてあげられないから、魂になっちゃったら、
まあ愛は送れるし、引き寄せとかね、そういうのでお手伝いできるかもしれないけど、死んだら何もできないから。
だからそうなんですよね。
どうしたもんかなと思います。こんだけ語尾が落ちてるとなんか。
でもね、まあそういう行き通りっていうかね、
疑問というか、なんでかなっていうのの中にすごく大事なことが、こうありたい、こうあれっていうね、
命からのメッセージだと思うので、 ちょっと校長先生に手紙書こうかと思います。
だってこれ、子供はね、ほんと素直ですよ。大人がね、
ちょっと話したらね、わかりますよ。子供は。そんなこともわかりますよ。
ゴミがどっから来てね、どこに行くのかっていう話もそうだし、
物が落ちてたらね、
かわいそうだとかね、
物を大事にしようとか、運動場がね、汚いと悲しいよねっていうね、
綺麗な場所で、綺麗な心は育つよねっていうことは、そんなことはもう教えてあげたらすぐわかる。
体でわかると思うんですよ。 子供なんてね。だからまず大人からだし、
あとまあほんとね、ゴミ拾いはね、楽しいですよ。ゆーたろともよくやってるんですけど、ほんと宝探しみたいな感じで、
あ、見つけた赤ちゃんみたいな感じで、ほんと宝探しなんですよ。ゲーム感覚。
だからそういうふうに、ほんとちっちゃい時から、なんで拾うのかっていうのは、もう拾ったらわかるわけです。
私たちもそうだし、子供なんかもっとわかるわけですよ。なんでゴミ拾うのか。
拾ったらわかる。面白い、楽しいし、で拾った後はやっぱり気持ちいいしね、綺麗になったら気持ちいいし、心地いいし、それが自分の体と心で感じる。
だからこそ大人がそういう機会をね、用意してあげないといけないんじゃないかなっていうふうに思います。
だから今日さ、30分か40分拾ってもなおね、拾いきれてない。今私たちの、
私の目の前にもいっぱい落ちててめっちゃ気になるんですけど、拾いきれてないゴミさんたちってね、
例えばちょっと放課後のね、5分はそのみんなでゴミのね、ピックアップする時間にするとか、親がね、迎えに来るね、
子供たち待ってるその5分間をね、5分10分をね、みんなで拾ったらね、もう一瞬で綺麗になるわけじゃないですか。
なんかそういう提案っていうかね、できたらいいなっていうふうに、
私は今思っております。 まあそれがどうなっても拾い続けていこうかなというふうには思ってるんですけどね。
大人の責任
というわけで私は私の望む世界のためにハチドリのゴミ拾い部続けていこうかなというふうに思います。
というわけで皆さんもね、一緒にやってくれる部員の方募集中ですので、ぜひ一緒にやりましょう。
参加の仕方は、そうだな、詳細欄に書いておきますので、
ぜひお気軽に、誰でもなれます、部長に。
はい、というわけで引き続き良い1日をお過ごしください。
バイバイ