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社長に聞くin WizBiz
本日の社長に聞くin WizBizは、株式会社ディー・ディー・エス代表取締役社長 久保紀吉様でらっしゃいます。
当初、マザーズ上場企業の社長様でらっしゃいます。
まずは、経歴をご紹介させていただきます。
1987年、愛知工業大学工学部卒業。
1987年7月には、株式会社キラコーポレーションに入社。
その後、ジャストシステム・シマンテック株式会社・トレンドマイクロ株式会社と移られて、
シスコシステムズで営業本部長をやられ、そしてクオリティソフト株式会社では代表取締役社長にご就任されていらっしゃいます。
その後、DDS様に移られて、専務取締役、そして現在代表取締役社長をなさっていらっしゃいます。
久保様にお越しいただきました。久保様、よろしくお願い申し上げます。
こちらこそよろしくお願いいたします。
まずは最初のご質問なんですが、ご出身は愛知でいらっしゃいますか?
愛知県の西尾市になります。この3週間くらい前から西尾市、田舎の市なんですけど、杉屋局さんのおかげで有名になりました。
なるほど。ちょっとコロナの最中ですが、杉屋の有名な西尾市ですね。
小学校時代はどんな風に過ごされましたか?
かなり悪だったんですね。悪って言うと悪ガキって不良ってイメージがありますけど、わんぱくの方の悪でしたね。
朝早く日の出とともに家を出て、真っ暗になるまで真っ黒になって汚れて帰ってきた、そんな生活をずっと送っていました。
ガキ大将って聞いたんですか?
大将ではないですけどね。もうやんちゃ坊主でしたね。親の言うこと全然聞かなかったですね。
中学時代はどんな環境を過ごしましたか?
中学はですね、実は私身長が1メーター70センチなんですけど、小学校5年生の時から今の身長なんですよ。
中学に入学しましたら1メーター70センチって当時は結構背が高くてですね、みんなの身長が僕の胸ぐらいだったんですね。
なのですぐバレーボール部の顧問がスカウトに来まして、ぜひ一緒にやろうじゃないか、なんて言われてバレーボールに明け暮れてましたね。
でもだんだん背がみなさん伸びてきてですね、卒業する頃には同じぐらいの高さになってしまってましたが、でも一生懸命バレーボール部でアタッカーとしてやってました。
アタッカーということは運動神経も結構よろしかったですか?
いやー、背が当時高かったからですね、それだけでしたけど、でも鶴城中学校という愛知県西吉野中学校にいたんですけど、
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西三大会でベスト4、西三川の大会でベスト4に残れたのは多分初めてのことじゃないかなというふうに思いますので、
仲間にも恵まれたんですけど、非常に楽しいやりがいのある中学生活を送ってましたね。
そうですか、ありがとうございます。高校も愛知の方で?
そうです。地元の普通科の高校に入学しまして、西尾東高校という高校なんですけど、そこでは帰宅部で毎日麻雀をしたりとか、コミュニケーション能力を高めてましたかね。
なるほど。引っ張るとかスポーツとかは何もやられない?
いや、先ほど申し上げたとおりですね、いつの間にか皆さんより身長が低くなってきてまして、高校になったらみんな中学1年の時に僕の胸ぐらいの背だったやつが僕よりも高くなってましてですね、
これはバレーボールとかバスケットボールは向いてないなというので、スポーツはやめて、だからといって勉強する気にもならないので、
麻雀をやったりとか、いろんなことをして友達と遊んでましたね。
なるほど。その後、愛知工業大学にお勧めになりましたと思うんですが、愛工大を選んだ理由は何かございますか?
いや、単純に愛知県の工業大学、工学部の学校に行こうということで、愛知工業大学というのは私立の中では明星大学、愛知工業大学、中部大学、大道大学とかあるんですけど、
明星大学落ちたので愛知工業大学ということですね。
だから理系に進まれたのはこういうのを勉強しようと思われたとか?
いや、単純に国語よりも数学の方が好きだった。国語はあんまり好きじゃなかったので、あると社会もあんまり好きじゃなかったので、
数学、英語、物理、科学等々で受験できるのは私立理系になりますから、自然的に私立理系を選んだ。単純にそれだけです。
なるほど。大学時代はどんなふうにお過ごしになったと思いますか?
大学時代は本当にアルバイトに焼け暮れていました。授業もほとんど行っていなくてですね、もっと行けばよかったなって今は思うんですけど、
当時スポーツショップでアルバイト、愛知県のスポーツショップでアルバイトしてましてですね、スポーツショップにいるといろんな方がお買い物に来るんですね。
夏になるとテニスラケットを買いに来たり、冬になるとスキーの板を買いに来たり、そんな時に女性のグループなんかがスキーの板やテニスのラケットを買いに来ると、
それを買って自分たちで練習するの。よかったらテニス上手い人、スキー上手い人たちがいっぱいみんなで合宿に行くんで、一緒に参加しない?なんていうと女の子が友達を友達を誘ってたくさん集まってくるんですね。
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そうすると女の子が集まっちゃえば、男の子を集めるのは非常に簡単で、すごい人数のテニスツアーとかスキーツアーができて、ボロ儲けしてましたね。
その頃からイベントサークルじゃないですか、イベント会社じゃないですか、そういうのを儲けながらやってらっしゃったんですか?
会社じゃないんですけど、単純に会費を集めてですね、それでバスを仕立てていくんですけど、かなり男性からは高い値段が取れますし、利益を得てましたね。
ですからスポーツショップのバイト代よりも、そちらの利益儲けの方が大きかったかもしれないですね。
その頃からもう社長寄室と言いますか、商売寄室であったんですか?
やっぱり商品っていうんですかね、その場合は旅行が商品になりますけど、欲しい人は高い金を出してでも来る。
いらない人に売り付けては誰も買ってくれない、そういうことがよく分かって結構面白い経験をしました。
大学時代にそうすると、もう社長寄室をやってらっしゃったのとほぼ一緒かもしれませんけど。
そうですね、個人寄室かもしれないですね。その利益は当然申告とかしてないので、今なら怒られちゃうのかもしれませんけど。
ありがとうございます。
その後卒業後、株式会社チランコーポレーションという会社に購入されたんですが、こちらはどんな会社でいましたか?
ボール板といって鉄に穴を開ける機械があるんですけど、その機械の日本で一番シェアを持っている会社で、私の住んでいる地元にある会社なんですね。
私は大学時代、英語とコンピューター、これが苦手で、英語とコンピューターだけはやるまいというふうに思って、
チランコーポレーションというところでエンジニアとして、技術者としてやっていきたいなというふうに思ってそこに入社を決めたんですけど、
10月ぐらいでしたかね、内定式というのがありまして、行きましたらそこの若い社長、今社長になってますけど、当時専務だった方が、
久保くんと、君はコンピューターも勉強してきたねと、そういう仕事に期待してるよと言われてしまいまして、
そこからそれを得意になっておかなきゃまずいって言うんで、コンピューターの勉強をそこからしてそこに入社をしたということです。
チランコーポレーションさんでは割とコンピューター系というか、そっちのエンジニアなんですよね。
当時は今みたいにITとかITCという言葉ではなくて、OA、オフィスオートメーションという言葉がありまして、
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OAの担当になりまして、給料計算とか会計だとか、在庫管理から始めまして、工場ですから、
物を注文して、それが入ってきたのを自動倉庫に、全部自動的で動かすと、
FAの分野、ファクトリーオートメーションの分野までいろいろ経験をさせていただきました。
じゃあ、ご経歴からすると僕のイメージはIT、ITって感じのイメージなんですけど、
チランコーポレーションさんに入る前はそこじゃなかったのに、チランコーポレーションさんでそっちの道が開けたという。
そうなんですよ。やってみたら面白かったですね。やっぱりやらなきゃダメですね。
チランコーポレーションさんをその後、ジャストシステムさんに転職されていないんですが、これから何が言われたんですか。
工作機械メーカー、ボール板みたいなメーカーっていうのは、非常に景気によって浮き沈みが激しい業界って言われていて、
そんな中でちょっと不安があったっていうことと、当時、今はインターネットが当たり前なんですけど、パソコンがつながるっていうのが珍しくてですね、
今まではパソコン一台一台で動いていたのを、ローカルエリアネットワーク、LANというものができて、
それを接続してやるというような世の中になってきた中で、LANの技術を持ってましたら、
ジャストシステムがこのLAN、当時ネットウェアという商品でLANを組んでいたんですけど、
そのネットウェア向けの製品をジャストシステムが販売することになって、そういうエンジニアを大募集していたんですね。
これはもしかしたら自分の能力を活かせるかもと思って応募させていただいたっていうのがきっかけでございます。
なるほど。ジャストシステムさんでは名古屋の営業省庁とかは歴任されていましたが、どんどん出世していったという感じでしょうか。
出世といいますか、運と仲間に恵まれた感じですね。
ジャストシステムも最初は営業技術、営業を支える技術者として入社したんですけど、
入って半年くらいしたら、やっぱり技術やめとけって言って営業だけ残って営業になりましてですね。
その時に、例えば市太郎がバージョン4からバージョン5ってバージョンアップしました。
昔ってライセンスっていう制度がなかったんで、パッケージが1つ3キロくらいしたんですね。
名古屋のある自動車会社さんで3万本使ってたんですね、市太郎。
だからそれをバージョンアップすると3万本かける3キロ、90トンじゃないですか。
それを送らなきゃいけない。
実は私、ジャストシステムの前にロータスさんがバージョンアップして似たようなことをして、ちょっと失敗したんですよ。
私はそれじゃダメだって言うんで、ライセンス少女に3万本まで使えるっていうライセンス少女を作ったんですね。
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それで会社とユーザーさん、あるいは間に入っている調査さんを説得しまして、会社としてみたらコストがかからない。
お客さんからしてみたら面倒くさいものが来ない。
両方大喜びで利益も出たというので、非常に喜ばれて名古屋の営業所長になったりとか、東京で新しいビジネスを考えてくれたとか、
いろんな巡り合わせと周りに囲まれて、みんなのメンバーに囲まれて、そういういい思いをしました。
なるほど。
そうすると、わりとジャストシステムの時にいろんなアイデアを出すとかいうのも開花させたというか、そんな感じでしょうか。
学生時代の通話を組んでたからかもしれないですけど、
そういった難しいことがあった場合に、会社のルールを押し付けるんじゃなくて、お客様のニーズを引き出して、要望を引き出して、会社のできることを考えて、
両方うまくいくような考えを、なるべく皆さんの協力を得ながらやっていくというのを、そのあたりからしっかりやってきたつもりではあります。
西田さん、市太郎をご存じの若い方もいらっしゃるかもしれませんが、市太郎ってどんなやつだったんでしょうか。
市太郎どんなやつだった、いいやつだ、そうじゃなくてですね、市太郎ってワープロソフトなんですね。
今でいうとワードと同じものになります。
ただ国産のものでしたから、非常に原稿用紙だとかですね、いろんなものに組み合わせが良かったりとか、
あとは何と言っても、金漢字変換、英特、青は徳島の略じゃないかと言われてますけど、
英特というものが素晴らしくてですね、変換効率が非常に良くて、入力が楽になるというもので、世の中の7割ぐらいは市太郎を使ってた。
当時の営業活動っていうのは、パソコンが売れればここのオフィスの近くのNECさん、そして市太郎、そしてロータス123、
この3つは必ず売れるという状況でしたので、営業活動は市太郎を買ってください、ではなくて、
NECさんとロータスさんと一緒にパソコン使いませんかっていうのが営業活動でした。
西田さん、ウィズウィズ株式会社の田町にございまして、歩いて3分ぐらいからNECさんなので、
そこで今日は収録した工房社長にお越しいただいて、NEC、ロータス、市太郎で、
聞いてる方、古い方もいらっしゃるので、ソウソウって言ってる方と、何じゃそれはっていうかと思った方もいらっしゃると思うんですけども、
私はソウソウっていう古い派でございますが、その後閉まっていく株式会社、これ部長としてご入社されていますか?
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これは本部長として入社しています。
引き抜きでいらっしゃいますか?
引き抜きって言いますかね、JASOシステムが前から太田と戦ったりとかして、
人事異動とかいろんなことがある中でJASOシステムに対する夢が失いかけつつある中で、
その頃インターネットが急に出てきたんですね。
インターネットが出てきた世の中、どう変わるかなって自分で一生懸命考えたら、おそらくセキュリティが重要になるだろうって思ったんですね。
アンチウイルスのソフトをこれからエンタープライズ、法人向けの市場を立ち上げるんだっていうシマンテックに入社して、
法人事業を立ち上げる、家族化させるというような役割を担っているところに、
当時の成田社長と話があって、縁あって入社させていただいたということです。
こちらの時の思い出なんかございますでしょうか。
そうですね、いろいろありますよね。
新しい会社、新しいビジネス、ノートンアンチウイルスって当時は言ってましたけど、
コンシューマーでは有名ですけど、法人ユーザーではほとんど使われていないような状態でしたので、
それを大きく伸ばしていかなきゃいけないという中で、いろんな経験をさせていただきました。
一番大きかったのは三井物産さんとのお付き合いですかね。
シマンテック製品をすべて、ライセンス製品は三井物産さんにエクスクルーシブでご提供を差し上げて、
三井物産さんのリソース、お金とか人とかをかけていただいて、ビジネスを立ち上げていく。
お金がない中で、そういった消費者の力を使って新しいビジネスを立ち上げていくっていう経験をしています。
そうしたことは非常に楽しく、非常にアグレッシブでしたね。
なるほど、ありがとうございます。
その後、トレンドマイクロに、これも営業法部長として、これも引き抜きというか。
引き抜きと言いますか、3年、4年シマンテックをやっていて、
法人市場が立ち上がって、5位くらいのシェアのメーカーが2位まで上がってきて、
そろそろ自分の役割は果たしたかなという時に、
実はシマンテックに入る前から誘われていたトレンドマイクロさんなんですけど、
縁あって、じゃあこのタイミングでということで、シマンテックの強豪になりますから、
シマンテックの都になれた社長に、トレンドマイクロで新しいビジネスを立ち上げさせてもらいたいということで、
人気を切って転職させていただいて、新しいことって何かというと、ハイタッチセールスなんですね。
エンタープライズセールスって今でもそういう部署があるみたいですけど、
その事業の立ち上げを携わらせていただきました。
ハイタッチセールスってどういう意味なんですか。
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トレンドマイクロの製品をエンドユーザーに売りに行くわけですけど、
トレンドマイクロはサーバーとかネットワークとかを扱っているわけじゃないので、
そういったものは会社さんにお任せするということで、
トレンドマイクロの製品をお客さんにアプローチをして、
納品は販売パートナー様にやっていただくっていうビジネスモデルになります。
なるほど、ありがとうございます。
その後、シスコシステムに行ったりとか、これも営業部長ですよね。
これも引き抜きでらっしゃるんですか。
引き抜きって言いますか、当時トレンドマイクロとシマンテックがアライアンスを組んだんですね。
シスコの製品にトレンドマイクロのアンチウイルスの技術を組み込むという。
当然のことながらシマンテックに、すぐシスコシマンテックって言っちゃいますけど、
シスコシステムに対して売ってもらわなきゃいけないですよね。
そんな中で私はハイタッチセールスの責任者でしたから、
シスコのハイタッチセールスの方々にアプローチをかけて、
シスコで売れるようにしよう。
話が進んでからやってても遅いので、いち早く私動いてたんですね。
そうしたらシスコシステムの方から声掛けをいただいたので、
どうしようかなっていう風に迷いまして、
トレンドマイクロのスティーブちゃんに、今会長ですけど当時社長でしたが、
シスコシステムのセキュリティの責任者で誘われてるから行きたいと思う。
相談してみたらスティーブちゃんは立ち上がってですね、
おめでとう、コングラツレーションって言いましたね。
お前素晴らしいなと。
シスコシステムの金でトレンドマイクロを売る気だなと言いましたので、
ザッツライトだと答えたら円満大社でシスコに移るという形になりまして、
その後すごかったのはスティーブちゃん会長、社長が
シスコのボードメンバーたちにそれを言いふらしてたっていうのが後ですごいことになりました。
3分コンサルティング。ウィズリズが社長の悩みを解決。
本日の3分コンサルティングは
A様でいらっしゃいます。新退院さんはじめまして、Aと申します。
既存事業の成長が見込めない中、新規事業に打って出て経営をたたなしたいと考えています。
しかし目の前の仕事で手一杯と社員が協力できなくなかなか社内で進まない状態です。
どうすれば理解や協力が得られるのでしょうか。
また従業員がもっと経営者的視点で仕事を絶えられるための指導教育方法はないでしょうか。
というご質問でいらっしゃいます。
先に経営者的視点を持てたらというところからお話しますと、
これはですね、もう、花から簡単ではないし難しいと思っていただいた方がいいんじゃないでしょうか。
正確に言うと社長様と同じ感覚になるということは100%ない。諦める。これが答えになってきます。
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私自身ですね、当初一部上場起動で常務をやってたことがあって、上から3倍目になった時もあったんですが、
社長業を丸10年以上やってみまして、全く社長業とナンバー2、ナンバー3とは全く違うというのを経験しています。
ですので社長様とほぼ同じ感覚になることはない。トップとナンバー2の差がものすごく大きい。
そういうふうにまず思っていただく方が重要じゃないでしょうか。
その上で、とはいえ社員や従業員や役員の皆さん方が経営者的視点をある程度持つというのはできると思っています。
それは教育でできると思っています。
例えばウィズウィズではウィズウィズスピリットという経営理念書があり、その理念書が40項目ぐらいあるんですが、
毎日毎日ですね、昼礼中礼で誰かが一項を読み、そしてそれに対してのコメントをし、そして私や役員もコメントをするみたいなのを毎日やり、
そして日報には全社員その項に関して何かしら書くというのがルール化されています。
日報は必ず書かなきゃいけなくて、私も書かなきゃいけない、役員も書かなきゃいけない、社員はもちろん書かなきゃいけない、
就業規則にまで入っている、こういうことになっています。
これは大変重要なルールでございまして、それを毎日毎日毎日やるということは、
1年間で200何十日でしょうか、3年間で600日以上、600回以上経営者的な視点を書かなければいけない、こういうことになっていくんです。
そうすると割と社長感覚といいますか、社長に近い感覚を持てるようになってくる、こういうことになっています。
ですので、そういう意味では経営者的視点をある程度持つというのは教育とかでできる、また日々の会議やまたは研修でもできるのではないかと、こういうふうに思います。
一方で新規事業のことをお話ししますと、新規事業というのは私は常に言っているのは、社長が社員役員の中のエースに任せなければならないというふうにお話しします。
どうやって社員たちがそんな新規事業をできるか協力できるかというと、忙しいので簡単ではないので、これもなかなか簡単ではないことをおっしゃっていらっしゃると思います。
ですので、社長自らが一生懸命新規事業を立ち上げない限りは、社員が協力しようがしまさおうがうまくいかないし、社員が協力してもうまくいかないかもしれないし、社員が協力しなかったとしてもそりゃ関係ない。
ある程度新規事業は新規事業ですので、社員に任せるとか、社員が手伝ってくれるなと思うこと自体が間違っているというふうに思っていただいた方がいいんじゃないでしょうか。
よって社長様が24時間364日使って新規事業を立ち上げていくべきだと私は思います。
ぜひそのことを考えてもう一度事業の立て直しを図っていただければと思いますので、よろしくお願い申し上げます。
本日の3分コンサルティングはここまで。また来週。
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本日も社長に聞くインウィズビズをお聞きくださり誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの生光社長、生光経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、私どもウィズビズが運営するウェブサイト、経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、皆さんの会社経営に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき経営ノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長に行くインウィズではここまで。また来週。