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2021-04-22 45:28

#008 佐藤拓さんに聞く (4) 「常民」の合唱活動

合唱指揮者・アンサンブル歌手の佐藤拓さんとみっちりお話を収録してきました。
引き続き、拓さんの音楽家としての人物像に迫ります。
盛り上がりすぎて長編です。最後まで聴いてくださった方にはおまけがあります。
佐藤拓「日本民謡と合唱」~ 私たちは民謡をどう歌うか ~(全3回)
受講予約はこちらのサイトから。 https://choruscompany.com/seminar/210408initium/
(photo: Takuya Niimura)

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サマリー

第8回では、合唱指揮者の柳嶋康太さんが、佐藤拓さんについて語ります。彼は「常民」という言葉をテーマに、自分の声や歌う行為の必然性について考えます。彼は常民の存在と歌を歌うことを一体化させ、普通の生活の一部として捉えることの重要性について語ります。佐藤さんはドイツ語の語学留学をしていた経験があり、同じ世代の合唱指揮者との出会いで彼のお世話になりました。その経験から、合唱における個人のあり方や社会の状況についても考えています。また、新型コロナウイルスの影響で合唱活動が制限されている中、リモートを活用した合唱団の国際的なプロジェクトや屋外での歌唱の可能性についても話し合います。また、話の中で彼は東京のような感覚が全くないことに気づき、自然がないと嘆いていたが、最近は花などを見て感動している自分自身の感覚の変化についても話します。そして、佐藤拓さんとの対話を振り返る話も聞くことになります。

愛される自分の声
みなさま、こんにちは。合唱指揮者のKota Yanagishimaです。
4回にわたってお送りしています。
佐藤拓さんに聞く、今回が最終回となります。
このね、日本民謡っていうところを切り口に始まった、この2人の会話なんですけれども、
前回最後に出た大きなキーワード、自分の声を好きになってもらう、というところですね。
このことと、民謡、そしてたくさんのグループの名前でもある、常民という言葉ですね。
これがどういうふうに関わってくるのか、そこを切り口に、お話がめちゃくちゃ盛り上がってしまいました。
とっても長いです。最後まで聞いてくださった方には、最後におまけも用意してありますので、
もしよろしければ、ゆったりと聞いていただければ幸いです。
それではどうぞ。
もうすでに収録の時間上で相当喋ってしまっているんですが、まだ喋っているテーマが6割ちょい。
ヤバいですね。
ヤバいね。
まあでもね、せっかくなんで、できるだけ喋り倒して、
使えるところを今皆さんにお聞きいただいていると、そういう状況になっていきます。
で、そうですね。合唱指揮者をやっていく、そのモチベーションがどういうところにあったのかって話も聞きましたし、
大切なキーワードね、自分の声を好きになってもらいたい。
で、これはもう一個前の大切なキーワードの声の必然性みたいなところにも関わってくるのかなと思いますね。
そういう皆さんが自分の声の、歌うという行為のということかもしれないですけど、
それを行っているということをすごく自然な形で捉えられるようになっていくのかな、そういうことを考えられていると。
やっぱり他人と比べたり、周りの人に、結構合唱ってそういう危険な、
割とネガティブな要素が大きいなと思うんですけど、
それをかわすじゃないですけど、それを受け止めながらありのままに歌うじゃない、
そういうのを僕はどういう曲をやる時にも目指せたらいいなと心で思っていて、
いろいろ試行錯誤しているんですけどね、という段階なんだけど。
難しいんだよね。自分の声にもともと自信があって、好きな人はワーッてやっていると思うんだけど、
それが合唱の中でいいかどうかというのが違った問題があって、
今、合唱団の中で作ろうとしている、みんなでやろうとしている音楽に、
ちゃんと入っているのかとか、ちゃんと理解して没入しているのかというところがないと、
その音楽に対する必然性がなくなっちゃう。
自分にとって必然性があるかもしれないけど、
合唱団とか音楽にとって必然性がない音を出してしまうことに対しては、
指揮者としては言わなきゃいけないんだけど、
その言い方が、あなたの声は合唱には向いていないね、みたいな言い方だと、
多分ひどい傷つけちゃう。
アウトオブアウトですね。
そこをどのように伝えていくか、しかも個人攻撃にならないように、
どう巻き込んでいくかっていうのが結構気を使うところだなと。
そうね、だからそうなんですね。
必然性、自分にとっての必然性があるけど、それが起きるっていうのは。
つまり、詰まるところ、他者に対して何かが開けているかというか、
そこも結構難しいっていうのかな。
それって音楽表現一般に通じるんですけど、
もちろん歌っているので自己表現ではあるんだけれども、
でもその音楽っていうのは、結果としてある音楽があって、
でも楽曲があって、他人がいて空間があって、
常に他者が開催し続けているはずなんですよね。
それを感じられるかどうか。
しかもそれって、つまり自分で家出て起きて歯磨いて家出て、
起きて歯磨いて、今ヤバい人ですね。
起きて歯磨いたりして準備して家出て、練習会場に向かって行って、
そこで歌って、だから日常とずっと繋がっているというか、生活があって。
なんかよく言うじゃないですか、ヨーロッパ羨ましいバランスで、
合唱が生活の一部となって教会で歌っていると。
でも練習行ったら繋がってるじゃないですか。
それを割と晴れとけみたいな感じですけど、
割と分節したがるっていうことがあった時に、
結構ある種の自分の連続性とか、
そして空間に存在しているというか、他者とのアンサム感。
合唱そのもの以前の意味で。
みたいなものをある程度置いといて、そこで楽しむみたいなモードになっちゃうと、
もしかすると逆に危ないのかなって気はしたりもするんですよ。
歌と普通の生活の一体化
なるほどね。これはまた民謡の話に繋がるんですけど。
どうぞ。毎回どうぞ。
常民一座別金である常民という名前を付けているんですけど、
柳田邦夫が作った言葉で、
野山、里山で農作業をして暮らしていた普通の人たちのことを常民と言っているんですけど、
今僕が使っている常民という言葉は、
本当に今例えば日本でサラリーマンやって暮らしています。
主婦やって過ごしています。学生やっています。
この人たちのことを常民と呼んでいいと思っていて、
普通に生きるために何か動いている人、学んでいる人たちを全部常民と捉えていいんじゃないかと。
常民と呼ばれる人たち、かつての日本の常民と呼ばれる人たちは、
普通に歌を歌っていた。
それは歌いたくて歌っていたのもあるし、歌わないとやってられなかったのもあるし、
歌わないと仕事ができないというやつもあって、
とにかく歌があちこちになって、何か歌を歌っていた。
あるいは踊っていたというのがあって、
それは上手い下手とか関係ないけど、生活の中に当たり前に歌があった。
そういうものを我々は失ってしまっているというか、
やっぱり歌は特別なもの。
さっき晴れとけって言ったけど、
何か本来の自分はこっちだぞみたいな感じで歌の方に振るしたりすることがあるんじゃないかなと思うんだけど、
実際は本当は連続してその中にあってもいいはずのものを抜き出しちゃったというのがあって、
いつでも歌っていいし、いつでもその普通のサラリーマンならサラリーマンの、
学生なら学生のそのままの声でいいんじゃないかと思っていて、
常民という言葉を使ったんだけど、
今言った話とすごくつながっていて、
歌を歌う時に自分の生活感とかを無しにしてしまったら、
もうそれはその人の声じゃなくなってしまうと思っていて、
もちろん歌う時にお化粧して着飾ってっていうのは当然いいと思うんだけど、
そうでない自分、普段の自分みたいなものを影として捉えてしまうと、
本当はあんまりちゃんとその人の歌にはならないんじゃないかなと思っていて、
僕は実は一昨年まで仕事をしていて、サラリーマン的な仕事をしていて、
それをやって合間で音楽活動をしてたんですけど、
それは音楽活動だけでは食っていけなかったからって最初は始めてたんだけど、
途中からこのまま一生やっててもいいかもと思って、
仕事をしながら音楽をやるっていう方が、
仕事が面倒くさい、辛い、嫌だって思うことが結構あって、
その感覚を歌の時に忘れるためにやるんじゃなくて、
そのまま歌うとちょっと違ったものが出てくると。
わかる気がする。
滲むものは出てくる。
今ここで歌っている自分、指揮をしている自分は、
昼間デスクの前でこうやって仕事をしている自分と同一なんだと思った方が、
自分の中で落ち着く演奏ができるようになるなと思って。
昔は僕も別にしてたよね。
働いてるってことは全然隠したいようなことだと思ってたけど、
むしろこっちの方は自然体だなと思って。
世の中の多くの合唱をやっている人達ってみんなそういう生活をしているわけだから、
こういう方が実は城民っぽいんじゃないかなと思って、
普通の生活に合唱団の活動が入っているってすごくいい状態なんじゃないかなと思って。
だから自分でもそのままできるなと思ったけど、結局いろいろあって辞めちゃったけど。
まあでもね、それを伝えることを運命としてお願いされているんですよ。
神の権限に。
生活感があるというか、
ヨーロッパと日本がそういう意味で違うのかと言われたら別にそうでもない気もするし。
リモート合唱の危険性
だから生活の一部として合唱があるんじゃなくて、
生活の一部として合唱があるということを、ただ肯定すればいいだけなんですよね。
で、それはなんかあれなんだよね。
どうなんでしょうね。
でもちょっとやっぱり、もしかしたら日本の特性なのかもしれないけど、
やっぱりちょっとこう、仮想したいというか。
願望をなんかより強く感じるというか、もしかすると。
ちょっと違う自分でありたいみたいな。
それ自体はすごく肯定可能なことではあると思うんですけど。
なんて言ったらいいんだろうね。
それ自体をそういうことを行っていって、そしてまた戻っていくみたいな。
この間みたいなところとか。
そういうことに結構自覚的でもいいのかなという気がする。
そこで断絶しちゃうと、やっぱり体がついていかないっていうことが多分一番あると思うし、
体がついていかないとうまくいかなくて、
しかも合唱の危険はその時に周りの人がいて、周りの人がうまくいってたりするんですよ。
そうすると戻ってこれないんですよね。
戻って自分のものとして捉えてこれぐらいでいけるみたいな。
じゃなくて、なんか行っちゃおうって言ったらうまくいかなくて、こけってなって。
自分を縮小していくしかなくなっちゃう。
それがすごく大変だなというのはすごく感じましたね。
そういうことこそがある意味で、オンラインになっちゃうと家で録音するでしょ。
生活とマジで実生活。
そこから逃れられないという。
その味気なさにやけがさせる人もきっといっぱいいると思うんですけど。
ある意味ですごく、こういうふうに思おうみたいな。
生活の一部だと思おうとかじゃなくて、マジで生活の一部。
ブーンと録れなかったとか。
自分が空港の近くに住んでいくことを実感するとか。
家庭環境とかいろんなことも含めてですけど。
それって良し悪しだけど、いわゆる良き面もある。
そこからしか実は始まれないということもあるのかなというのは思うので。
リモートのいろんな技術が進んで、リモート合唱みんな結構やれるようになったことで、
ある意味本当に生活の一部に入り込んできているのかなという気がするよね。
ちゃんと服着て楽譜持って会場まで行くっていう、その前段がないから。
家でパソコン開いてっていうところに。
だから自覚なしにそういうことに突入しちゃってるっていうのはあるのかな。
そうですよね。危険ですけどね。非常に危険だと思うんですけど。
なんかその切り替えが存在することが、自分にとってエネルギーを出す根本だったみたいな人も結構多いので。
それがなくなったことで、いろんなことが自分のある種プライベートな空間に入ってきてると思われるみたいなことに対する恐れを抱く場合ももちろんあるんですけど。
でも逆に言うと歌を歌う、出前的な歌を歌うときは、なんかあれですよね、裸ですよね。
それはだからどこかでその境目は体験せざるを得ないというか。
ドイツでの出会い
そのある意味でちょっと厳しいかもしれないけど、真実を突きつけているような面もなきにしもあらずかなと思いますね。
なんかこれはね、今突然裸で思い出したから、裸で思い出した話をしていいのかわかんないんですけど。
これは僕が最初留学に行く、本格的に行く半年前に1回ドイツに行ってて。
それはドイツ語の語学留学でもあり、かつ先生とコンタクトを取りに行く。
ドイツの問題ってタクさんも1回やったからわかるかもしれないですけど、
割と先生とコンタクトを取ると受験するみたいな、そういう流れが割とあったりするんですよね。
で、そういうのがあるんですけど、それで行って、実はその先生とはコンタクトを取れずに激鎮するんですけど、
で、またそこから色々探すんですが、その過程の中で、その時マスターの学生をやっていた僕の、タクさんと同じくらいの世代ですけどね、
合唱指揮者の人がいて、その人が結構お世話してくれたんですよ。
僕がわざわざ日本から来たということに当たら、こう感動して。
で、レッスンも見てくれて、個人レッスン何回か。その時は通訳の人を通してました。
で、何回かやって、その語学学校の1ヶ月の間に教わった。
最後に指揮者をやるっていうのは、何でしょうね、やっぱりある意味で、
今の話の流れで言うと、日常性が損なわれるように感じるぐらい極端なことでもある。
つまり全裸状態で、突然ステージに放り投げられて、目の前に合唱団がいたら、体を隠すのか合唱振るのかどちらかと思って。
僕は体を隠しますねって思ったんですけど。
でもなんか、もちろん例え話っていうことなんだけど、
なんていうか、それこそだから、つまり色んなこう、今こういうモードだから、
そういうことを飛び越えて、根源的に必要な音楽があって、
それが他者との関わりの中で具現化していって、
それがある程度の敷地を越えた時に、みんなに伝えて、それを共有して音楽を作る、
という感じのイメージなのかなと思うんですけど。
でもそのイメージを作る時に、やっぱり色んなものが邪魔しちゃう条件とか、
本当の自分ってなんだろう、この思考自体が超危険かなという感じはしてるから、
そういう意味で、どんなにミスボらしくても、
なんか自分が今生活をしてる時に起きたらちょっとお腹が緩かったとか、
合唱における自己表現
寝坊したとか、なんかテンション上がんないなとか、なんかすごい口臭いなとか。
朝ね、朝テンション最低。僕超朝寝起き悪いなっていう感じなんですけど。
でもそれですよね、それをありのままに感じているというか、
調子いい時も調子悪い時も、それをありのままに感じていることができると、
その時に出る音が必然的なものなのかなっていうのはすごくいつも思いますね。
だからそういう時になるべく外面を良くしようっていう気持ちを、
なるべく抑えながら、みんなと関わるけど、自分らしくなる。
難しいね、これ。なんで難しいことをやってしまったんだろうね、という感じはしますけどね。
それを歌っている人にも教わってほしいと願うというのも、なかなか贅沢な悩みかも。
かなりハードルの高い。
最近エストニアの人たちとやり取りをしていて、面白い話があって。
リモートガッシャーのやつ?
そうそう、リモートガッシャーをエストニアとやるという話でやり取りしていて、
向こうのエストニアはもう今結構コロナやばくて、
10万人あたりのコロナの感染者数、1回ヨーロッパで1位になっちゃって。
そうなんだ。
先月かな。
かなり感染者が増えていて、またちょっと半ロックダウン状態になっていて、
当然合唱もできない。
そのある合唱団、今回共演する合唱団も、1年くらい集まっていなくて、
半年以上会合すら持っていなかったと。
ズームで集まるとかもやっていなかったけど、
団員の方からリモート合唱というのがあるらしいからやってみないか、みたいなことがあって、
やってみたら結構みんな満足してくれて、
じゃあもうちょっとやってみようって言って、日本と合同でやる話だったんだけど、
そこの指揮者の話では、合唱にかける熱は日本人の方が高いと。
エストニア合唱大国って言われてるけど、
日本人コロナになって、それでもどうにか合唱やりたいって言って、
すぐみんなリモートの技術使って始めて、みんないろいろやってる。
エストニアではほとんどないと、そういう動きが。
IT大国なんですね。
そうそう、IT大国で、1人1台iPadとか持ってるような国なのに、できるのに、
まあまあ別にいいか、みたいな。できないならちょっと我慢します、ぐらいの感じで、
だっていうのを聞いて、えーっと思って、
歌の民族って言ってるから、歌わないと死んじゃう人たちなのかなと思ったら、
なんか違うんだと思って。
日本人とエストニア人の合唱観
もしかすると日本人の合唱とか歌に対する特別な感じ、
晴れの感覚みたいなものがないがゆえにそうなってんのかなって。
それはそうかもしれない。
だから今日から共有病が出たので、今日から牛丼食べれませんって言われたら、
しょうがないな、豚丼食うかってなるよね。
実際日本人はなった。
僕は松屋でバイトしてるから、牛丼なかったっすよ。
それで結局豚飯にしてさ、豚飯が根付いたじゃん。
牛が戻るまで。
まあまあ美味しいっすからね。
それで、そんな感じだったのかもしれない。
豚飯いくかみたいな。
うまいうまいうまいっつって。
死なねえ死なねえって。
どうしても牛飯が食いたいなって言って。
植物肉みたいな。
っていうような努力まではしてたのかもしれないけど、
当たり前になるともしかしたらそうなんのかなって。
そうか、それは確かにそうかもしれないですね。
さすがのエストリア人も、
MAXを超えてしまって歌いたい欲がじりじり溜まったのを超えて、
バーチャルに挑戦してみようってなったんだと思うけど、
でも日本人に比べて溜まる速度が全然違うと。
やらなくてもいいっていう時間が結構あったっていうのがすごいなって。
普通に一人で歌ったりしないんですかね、家の中とか家族と歌ったり。
家族で歌ったりとかは、それはあるだろうね。
ここはもう全然住宅事情が日本と違うから全然歌えるだろうけど。
なるほどね。
そうか、それ面白いね。
今その話聞いてて思ったのは、
なんで僕たちは結構やったじゃないですか、日本との話を。
しかも割と早い頃からやったじゃないですか。
なんでそっちに行こうって思えたんだろうなっていうのはすごいありますね。
マティアはぶっちゃけこの前喋ったんですけど、いろんなところで。
でもなんかその一家にはならなかった。
そうね。
一つは仕事ないし。
それはめっちゃでかいですよね。
それはそうなんだけど。
僕は思ったのは、逆に僕は歌、合唱についてこの期間すごく思ったのは、
それをその形式が必ずしも唯一ではないなっていうのを逆に思って。
僕はどっちかっていうと、その必然性っていうのはすごく同意するところがあって。
特に僕は社会の状況とかいうことに対して、
それを客観的に全てを俯瞰して見ることができてはいない、もちろん。
だから自分の肌感とか、人々のざわめきとか、そういうのをすごく感じることがあって、
そういうものを現在的に表現する必要があるなっていうふうに思っていて。
曲を選ぶ時とか、僕はずっとその視点が常にどの演奏会でもあるんですけど、
その時にコロナ禍っていうのはある意味で、会えない、集まれない、
飛沫飛ばせない場所はそうですけど、ということを音楽にしたらいいんじゃないかと思った時に、
僕はそれで確かに今スッと来るなっていうところがあったんだよね。
だからなんかもしかすると、エストニアの人たちはまあいっかってなるんですね。
なったんですね。
お隣のラトビアもリモート作品っていうのはあったことあったけどそんなになくて、
ラトビアはどっちかっていうともうさっさと集まって歌っている人たち。
プロ合唱団はすぐ集まって演奏会やって。
なんか発生したよね。
全てのプロ合唱団でクラスターが発生していて。
そして免疫を獲得して。
そうそうそう。
強え。
誰も死んでない。
で、それを社会のどこからも批判が起きないと。
まあそうよなみたいな、集まった。
まあそうやってたらなるよねって。で終わり。
合唱ダメだとはならないと。
その感覚もすごい色々違いましたね。
ある意味で、逆に言うと例えばドイツとかはすごいリモートやってるんですよ。
そうなんですね。
で、しかもそれもかなり初期から。
多分僕らよりもZoom連とかのやり方の情報は早かった。
まあ向こうの方がロックダウン先だったので情報は早かったし。
あとリアルタイムで今ね、日本だとヤマハのシンクルームってあるじゃないですか。
8人でやるやつ。
向こうだとジャムルスって言って20人でできるサーバー立ててそこで結構低遅延で練習するっていうのをやったり。
リアルタイムで音出しして練習する人たちもいたりもするし。
なんか割となんだろうね。
なんか思考として、思考としてなんか割とテクノロジー思考があるのかもしれないですね。
なんか問題はそういうことで解決できるみたいな。
ある種の、ある種のが一つの資本主義の社会、工業化した社会みたいな感じもしますけど。
その思想が結構問題解決、問題解決みたいな。
あれ知ってます?
インターネットに上がってる問題解決思考に関する国の様々な違い。
面白い。
ドイツ問題矢印解決。
チェコとか問題って真ん中にビールの絵が描いてあって、次モザイクで隠された問題って。
すごいめちゃくちゃ失礼な、いわゆるエスニックジョークのやつ。
イタリアも問題って、問題問題問題問題問題。
増えとるやんみたいな。
もしかすると、そういう共通の社会問題で発生した現象が同じでしょ?
制限される状況も同じで、リアクションが違うっていうのは、それはそれで面白いなって。
面白いのは、民族性みたいなものに回帰するかどうかは、かなり懐疑的である必要がありますけど。
だから、逆に合唱というものをこれまでどう捉えてきたかによって、行動が変わりましたよね。
日本の国の中だけでも多分そうですよね。
結構、意見が分かれたっていうか、あれが分かれてたのかどうかは分かんないけど、
なんかこう対立はあったよね。
謎の。
謎の。
謎の対立ね。
対立してるつもりはないのに。
その後どうなってくるかっていう話を、この最後のまとめに。
このコロナ禍においてどうなのか。
ポストコロナの合唱活動について考えてます。
まずマスクがですね。
ポストコロナね、何も読めないし、希望的観測を言えばワクチンが普及してとか、
いわゆる対コロナの体制が十分であれば、
新しい形での合唱活動
普通、従前の合唱活動をもう一度獲得できるんじゃないかという希望もあるけれども、
この1年間いろんな人が試行錯誤したことが、
新しい価値を持ち始めるようになるんじゃないかなと思って。
リモートもそうだし、
今エストニアの合唱団とリモートでやりましょうっていうのは、
リモート始めた頃に思いついていて、
これだったらどこの国の人ともできるじゃんかと思って、
じゃあ繋がりがあったらいつかやってみようかなと思ってたのを、
たまたま向こうから声をかけてもらってやってるんだけど、
こういったものがもっと容易にできるようになるし、
あれでも横浜合唱協会も、アメリカとドイツだっけ?
アメリカとドイツ。
大きなプロジェクトをリモートで参加するっていう。
しかも本番はコンサートなんですよ。
すごいね。
廃墟みたいな会場でプロジェクションマッピングやって、
生オケとアンサンブルアマルコールド、
ライブスキーの男性アンサンブルがリアル合唱で行って、
オケが行って、後ろに僕たちの横浜合唱協会とか、
アメリカの合唱団のリモートの映像がバーッと並んでて、
その録音されたものと生演奏のミックスなんですけど、すごい。
録音されたものと生演奏同時に?
同時にやって、生で乗っけてて。
オケがカラーコーラスに乗るみたいな。
そうか、そういうことですね。
そのコーラスも生の人何人かいるんで、
結構サウンドも面白くなってて。
これを放送する頃にはもう流れてるんですけど、
どんなになるのかすごい楽しみだなって思ってますけどね。
こういう国際的なプロジェクトとか、
距離を問題にしないで、
いろんなことを合唱っていう形で仕上げられるんだとしたら、
面白いなと思って、
わざわざ行き来しなくてもそういう交流ができるっていうのは強いし、
あとは、ビッキンダーズ山に歌うで言うと、
屋外での演奏機会の拡大
これは希望的観測ですけど、
屋外でやる演奏の機会が増えてほしい。
それいいですね。
例えば公演の中にステージ、特設ステージみたいなの結構あるじゃんか。
ほとんど使われてないんじゃないのね。
あれってどうやったら使っていいんですかね。
どうなんだろうね。
許可とかあるよね、きっとね。
多分公演の管理者に許可を取ってっていうことだと思うけど、
もっとああいうところを活用してもいいんじゃないかなと思って。
特に合唱をああいうところでやるっていうのは、
東京都の合唱連盟が屋外で歌いましたっけね。
文化会館とかね。
そうそう文化会館とか、府中の森とか。
そうなんだ。
で、屋外で歌うっていうやつやってるけど、
ああいうのがイベントとして可能なんだったらもっとやってもいいかなと思って。
天気に作用されるっていう問題があるからね。
でも合唱をやる人にとっては外で歌うっていうのはすごく新鮮な経験になるんじゃないかなと思って。
最初は結構難しいと思うというか。
難しいですよね。
反響がないじゃないですか。
そう反響ない。
あと一緒に歌ってるメンバーの声も聞こえないとか、向こう側に立ってる人。
そういった時に出てくる体の感覚みたいなのを繰り返しやっていくと多分、
全然違ったものは出てくると思う。
で、その感覚がセーブされてホールに戻ったら面白そうですね。
そうね。
そしたら全然、
こんな会話したっけ?
めっちゃ俺の声返ってくるやんみたいな。
こんなのある?みたいな。
ありますよね。
さらにあると。
今までは他人の声が返ってくることに少し怯えながら歌っていたりした人たちの視測が開いてくる。
それめっちゃ面白いですね。
このポッドキャストもう死ぬほど語り続けてるんですけど、
2時間を超えようとしているんですが、
あんちょこでどういうことをしゃべるか返ってきて、
最後に合唱音楽家として何を目指すかとかいう、
誰も答えられないようなこと。
でも今でもその話にちょっと入ってきてるかなという気がしていて、
その目、ポストコロナ。
でもなんか色々学んだ面白いことがあって、
屋外で歌うっていうのにパッと出てきたのがいいですね。
全然ちょっと違うんですけど、
変なところで歌いたいっていう。
それだけで変な変な変態みたいですけど。
だからコンサートホールと協会ではない、
変なところで歌いたいっていうのがすごくあって。
せっかく山で歌っても誰も聞いてもらえなかったのが、
例えば動画にすることができて配信できるとか、
それがだんだん身近になってきているっていう一つの話があるので、
変わり種の歌唱場所
そういう活動を、
ちょっと2021年、2022年は、
僕自身もやってみたいなと思って、
全然足がかりはないんですけど、
なんかやりましょう。
やりたいね。
船の上で歌うとかね。
船の上で歌う。船の下はどうですか?
船の下?
海中?
何の曲でしょうね。
潜水クイズ。
潜水クイズ。
早く答えて死ぬわよ。
やってみたいね。
場所、
コロナで歌うってことは制限されたけど、
実は場所は制限されてないんじゃないかなって気もして、
何ならいっそいろんなとこ開拓してみたらいいかなと思って。
ビッキンダンスも今、川で歌いたいとか、
友人のやってたイベントを参考に、
山で歌うをツアー化しちゃうと。
みんなついてきて。
お客さんをツアー客として連れてって、
ハイキングちょっとやって、歌聴いて、
みんなも歌ってみるって歌ってもらって、
絶対楽しいじゃないですか。
コンサート付きツアーパックみたいなのを企画してもいいかも。
旅行会社とか。
すごい楽しそうだな。
天井員で参加していいですか?
それちょっと活用してもらって、またオーディションで。
ぜひぜひ。
面白いな。
山で歌う、海で歌う、最後空で歌う。
空で歌う。
スカイダイビングしながら。
スカイダイビング。
ほぼ拷問だけだった。
乗民がスカイダイビングしてる時の民謡。
そう、飛び降り歌とか。
飛び降り歌。
形式としてね。
ハングライダーオンドとか。
全部風切るようにね。
録音できないから一番貴重なね。
資料も残らない。
全身死んでるから。
歌ったとされているらしい。
この時歌う。
句伝とかね、聞いたやつも落ちて死にますから。
地上で聞こえたやつを誰かが書き取ってくれて、
こうじゃねえかって。
全然ぼやぼやなって。
ぐしゃっとかなくなって。
ぐしゃっとかなくなって。
いやいや、空はいいですけどね。
でもそのシリーズも面白いですよね。
ぜひぜひ
いろいろこれから
そういう幅が広がるといいなって
すごい思いますね。
ぜひ僕の合唱団にも民謡を教えてあげてください。
ぜひお願いします。
この前お願いしましたからね。
体験して。
体験して。
何かやりたいこと思いついたら
やりましょう。
今年まだほら
暇だから。
そうね、全然何も
先の予定がもう
1ヶ月ぐらい先の予定ぐらいしか決まってない。
いいですね。
そんな感じですよね。
ちょいちょいあるでしょ。
5月ぐらいまだ結構あって。
先は何も見えてない。
楽しみですね。伸びしろしかないですね。
伸びしろしかない。
登り坂だから。
途中で肉体がだんだん耐えられなくなっていくという危険もありますが。
いやー、いいですね。
いやでも
多分ですけどこの1年とか1年半の
起きたことは
すごく
役に立つと思いますね。
そうですね。
割と
アルタナの楽しみも
見出せるし
それが元の
ところに回帰していく感じもするし
それは
僕はすごく
逆にさっきの生活の話に戻ると
コロナ禍以降
すごい生活感増えましたね。
家の中にいることも
家の周りですよね。
だって今までは
ある規定の朝の
これくらいだったら仕事だって電車に乗って
電車っていうのはワープマシンですからね。
ワープマシンでパッと全然違うところに行って
何かやって
パッと帰ってくる。今は地続きで
緊急事態宣言のコロナ禍を
散歩しまくるじゃないですか。
家の近くに歩いて
行ったことないスーパーを買い戻して
とか
それがすごくあるから逆にすごく
生活者としての
自覚がすごく増したような
感覚もあって
それはそれですごく
良いなって思ってます。
いろんな大きなこととか
大きな夢ももちろんあるんですけど
でもそれがここから始まるんだな
っていう
それを思い出せるというか
それが失われちゃうと
何か目標を達成する
途上に今自分はいるんだって
戻りもしないし行けもしないみたいな
逆に行けるっているときはいいけど
行けなくなった時にすごい
グワーンってなるみたいな
のからストンってなって
良いか悪いか分かんないですけど
でもストンってなっているから
具体的に
積み上げていくことに
自分の脳みそを使っていける
って感じはすごくあります。
良いことなんじゃないかね。
そうですね。
僕もコロナ禍になって
同じように散歩めちゃくちゃしてて
僕もたくさん歩道はしてないです。
半端ないですよね。
一年前
前回の緊急事態宣言
4月の緊急事態宣言が
出た時に
めちゃくちゃ散歩して
木にハマって
道に生えているこの木は何という木なのか
一本も知らなかった
桜しか知らなかった
それで木の名前分かんないと思って
木を調べるようになってから
ハマって
目についた木の名前を
言うっていうね
小学生かよ
ケヤキとか
これで何が豊かになったかは
分かんないけど
東京都
23区内に住んでるんだけど
自然が
すぐそこにあるなっていう
実感が突然湧いてきて
新宿の街中でも
こんなとこにこんな大きな
ケヤキの木があったんだとか
なるほど
今まで一度も見たことない
新宿の街中で木なんか一回も見たことない
あるイメージが全くない
見たらめっちゃ鳩いるとか
新芽が出てるな
というのに
気づくようになってから
コンクリートジャングル
自然の美しさに感動
東京みたいな感覚が
全然なくて
別に自然あるやんけ
と思って
それが田舎出身なんで
自然がない自然がないって
愚痴を言ってたんだけど
全然そんなこともあんの
最近はもう
花とかも見て
やばいね
年寄り
老毛だよ
この花は
つって
いいじゃないですか
すごくいいね
ある意味で最高地区みたいな
自分の感覚の
そうね
それは起きてるなと思いますね
バリバリエネルギー出してるときに
出来てたことと
違う質のものになってくる
こっちに
こっちを向かっていって
その結果見えてくるものが
鋭ければ
それは一番
僕としては願ったり
かなという気はしてます
ある意味で
ドイツで勉強してきたという
やっぱりあるから
しかもそういう人として
見られるから
そういうところで
それが自分なんだよ
という風に
見えてるところに
意識は向きがちなんだけど
そういう側面
その要素はある
だけど自分自身が
自分自身が
どのように
なってその要素が
消失してるか
みたいなことっていうのは結構
もっといろいろあるので
佐藤拓さんとの対話を振り返る
それを忘れそうに
なる
さっきの識者の
意識が病の話と似てるかもしれないですけど
そういう意味で
いい機会になったし
より良い音楽が
出来るし
楽しみになってきました
じゃあ今年は
一緒に
これからもって感じです
一緒に音楽活動して
変なところで歌いましょう
シリーズ化しましょう
変なところで歌うシリーズ
誰が歌う年シリーズ
誰がそこに行く年シリーズ
はいそんなところで
佐藤拓さんと
マジでじっくり話しました
2人でこんなにじっくり喋ったのは
僕の記憶では10年以上ぶり
そうだね
留学前の思い出横丁の
そうそう思い出横丁
それ以来です
でも喋っている内容
結構似てました
確立したことは
いっぱいある
安定したことはいっぱいあるけど
何だろう
例えば
自然な歌とは何かとか
そういう
もっと
聞き意識が強そうな感じがしたよね
そうだねあの時は結構
これじゃダメだかもな
もしかしたら
攻撃的な要素も当時はあったかもしれない
っていうのが
すごい10年間の
感慨深いものが少しありました
皆さんにとっても
多分楽しいんじゃないかなと思いますけどね
楽しくなかった人は
ここまで聞いていないと思います
ということで本日は
どうもありがとうございました
佐藤拓さんでした
4回にわたって
お届けいたしました
佐藤拓さんに聞く
今回で終了となります
とても盛り上がりまして
かなり盛りだくさんの内容ということになりましたが
皆さん楽しんでいただけましたでしょうか
今後も
合唱指揮者のポッドキャストでは
こういった形で
合唱指導者指揮者
あるいは合唱関係者の方々とですね
お話をするような企画も
引き続き
考えていきたいなと思っております
今日はここまで聞いてくださった方のために
おまけで
最後にですね
1曲お聴きいただきます
ジョーミン・イチザ・ビッキンダーズ
山に歌う
というですね
イニツイムオーディトリウムで公開されている
シリーズから
1曲佐藤拓さんによる
南部うしよい歌を
お別れにお聴きください
本日はどうもありがとうございました
また次回を楽しみにしてください
さよなら
はい
ここで
見つめながら
菅野さくなるさ
元米の
宿でな
はい
丑方の
お金にな
はい
ゆるきゃ鍋かけ
丼がない
ぱぱ
ぱぱぱぱぱ
うい
うい
45:28

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