みなさま、こんにちは。合唱指揮者のKota Yanagishimaです。
4回にわたってお送りしています。
佐藤拓さんに聞く、今回が最終回となります。
このね、日本民謡っていうところを切り口に始まった、この2人の会話なんですけれども、
前回最後に出た大きなキーワード、自分の声を好きになってもらう、というところですね。
このことと、民謡、そしてたくさんのグループの名前でもある、常民という言葉ですね。
これがどういうふうに関わってくるのか、そこを切り口に、お話がめちゃくちゃ盛り上がってしまいました。
とっても長いです。最後まで聞いてくださった方には、最後におまけも用意してありますので、
もしよろしければ、ゆったりと聞いていただければ幸いです。
それではどうぞ。
もうすでに収録の時間上で相当喋ってしまっているんですが、まだ喋っているテーマが6割ちょい。
ヤバいですね。
ヤバいね。
まあでもね、せっかくなんで、できるだけ喋り倒して、
使えるところを今皆さんにお聞きいただいていると、そういう状況になっていきます。
で、そうですね。合唱指揮者をやっていく、そのモチベーションがどういうところにあったのかって話も聞きましたし、
大切なキーワードね、自分の声を好きになってもらいたい。
で、これはもう一個前の大切なキーワードの声の必然性みたいなところにも関わってくるのかなと思いますね。
そういう皆さんが自分の声の、歌うという行為のということかもしれないですけど、
それを行っているということをすごく自然な形で捉えられるようになっていくのかな、そういうことを考えられていると。
やっぱり他人と比べたり、周りの人に、結構合唱ってそういう危険な、
割とネガティブな要素が大きいなと思うんですけど、
それをかわすじゃないですけど、それを受け止めながらありのままに歌うじゃない、
そういうのを僕はどういう曲をやる時にも目指せたらいいなと心で思っていて、
いろいろ試行錯誤しているんですけどね、という段階なんだけど。
難しいんだよね。自分の声にもともと自信があって、好きな人はワーッてやっていると思うんだけど、
それが合唱の中でいいかどうかというのが違った問題があって、
今、合唱団の中で作ろうとしている、みんなでやろうとしている音楽に、
ちゃんと入っているのかとか、ちゃんと理解して没入しているのかというところがないと、
その音楽に対する必然性がなくなっちゃう。
自分にとって必然性があるかもしれないけど、
合唱団とか音楽にとって必然性がない音を出してしまうことに対しては、
指揮者としては言わなきゃいけないんだけど、
その言い方が、あなたの声は合唱には向いていないね、みたいな言い方だと、
多分ひどい傷つけちゃう。
アウトオブアウトですね。
そこをどのように伝えていくか、しかも個人攻撃にならないように、
どう巻き込んでいくかっていうのが結構気を使うところだなと。
そうね、だからそうなんですね。
必然性、自分にとっての必然性があるけど、それが起きるっていうのは。
つまり、詰まるところ、他者に対して何かが開けているかというか、
そこも結構難しいっていうのかな。
それって音楽表現一般に通じるんですけど、
もちろん歌っているので自己表現ではあるんだけれども、
でもその音楽っていうのは、結果としてある音楽があって、
でも楽曲があって、他人がいて空間があって、
常に他者が開催し続けているはずなんですよね。
それを感じられるかどうか。
しかもそれって、つまり自分で家出て起きて歯磨いて家出て、
起きて歯磨いて、今ヤバい人ですね。
起きて歯磨いたりして準備して家出て、練習会場に向かって行って、
そこで歌って、だから日常とずっと繋がっているというか、生活があって。
なんかよく言うじゃないですか、ヨーロッパ羨ましいバランスで、
合唱が生活の一部となって教会で歌っていると。
でも練習行ったら繋がってるじゃないですか。
それを割と晴れとけみたいな感じですけど、
割と分節したがるっていうことがあった時に、
結構ある種の自分の連続性とか、
そして空間に存在しているというか、他者とのアンサム感。
合唱そのもの以前の意味で。
みたいなものをある程度置いといて、そこで楽しむみたいなモードになっちゃうと、
もしかすると逆に危ないのかなって気はしたりもするんですよ。
なるほどね。これはまた民謡の話に繋がるんですけど。
どうぞ。毎回どうぞ。
常民一座別金である常民という名前を付けているんですけど、
柳田邦夫が作った言葉で、
野山、里山で農作業をして暮らしていた普通の人たちのことを常民と言っているんですけど、
今僕が使っている常民という言葉は、
本当に今例えば日本でサラリーマンやって暮らしています。
主婦やって過ごしています。学生やっています。
この人たちのことを常民と呼んでいいと思っていて、
普通に生きるために何か動いている人、学んでいる人たちを全部常民と捉えていいんじゃないかと。
常民と呼ばれる人たち、かつての日本の常民と呼ばれる人たちは、
普通に歌を歌っていた。
それは歌いたくて歌っていたのもあるし、歌わないとやってられなかったのもあるし、
歌わないと仕事ができないというやつもあって、
とにかく歌があちこちになって、何か歌を歌っていた。
あるいは踊っていたというのがあって、
それは上手い下手とか関係ないけど、生活の中に当たり前に歌があった。
そういうものを我々は失ってしまっているというか、
やっぱり歌は特別なもの。
さっき晴れとけって言ったけど、
何か本来の自分はこっちだぞみたいな感じで歌の方に振るしたりすることがあるんじゃないかなと思うんだけど、
実際は本当は連続してその中にあってもいいはずのものを抜き出しちゃったというのがあって、
いつでも歌っていいし、いつでもその普通のサラリーマンならサラリーマンの、
学生なら学生のそのままの声でいいんじゃないかと思っていて、
常民という言葉を使ったんだけど、
今言った話とすごくつながっていて、
歌を歌う時に自分の生活感とかを無しにしてしまったら、
もうそれはその人の声じゃなくなってしまうと思っていて、
もちろん歌う時にお化粧して着飾ってっていうのは当然いいと思うんだけど、
そうでない自分、普段の自分みたいなものを影として捉えてしまうと、
本当はあんまりちゃんとその人の歌にはならないんじゃないかなと思っていて、
僕は実は一昨年まで仕事をしていて、サラリーマン的な仕事をしていて、
それをやって合間で音楽活動をしてたんですけど、
それは音楽活動だけでは食っていけなかったからって最初は始めてたんだけど、
途中からこのまま一生やっててもいいかもと思って、
仕事をしながら音楽をやるっていう方が、
仕事が面倒くさい、辛い、嫌だって思うことが結構あって、
その感覚を歌の時に忘れるためにやるんじゃなくて、
そのまま歌うとちょっと違ったものが出てくると。
わかる気がする。
滲むものは出てくる。
今ここで歌っている自分、指揮をしている自分は、
昼間デスクの前でこうやって仕事をしている自分と同一なんだと思った方が、
自分の中で落ち着く演奏ができるようになるなと思って。
昔は僕も別にしてたよね。
働いてるってことは全然隠したいようなことだと思ってたけど、
むしろこっちの方は自然体だなと思って。
世の中の多くの合唱をやっている人達ってみんなそういう生活をしているわけだから、
こういう方が実は城民っぽいんじゃないかなと思って、
普通の生活に合唱団の活動が入っているってすごくいい状態なんじゃないかなと思って。
だから自分でもそのままできるなと思ったけど、結局いろいろあって辞めちゃったけど。
まあでもね、それを伝えることを運命としてお願いされているんですよ。
神の権限に。
生活感があるというか、
ヨーロッパと日本がそういう意味で違うのかと言われたら別にそうでもない気もするし。
だから生活の一部として合唱があるんじゃなくて、
生活の一部として合唱があるということを、ただ肯定すればいいだけなんですよね。
で、それはなんかあれなんだよね。
どうなんでしょうね。
でもちょっとやっぱり、もしかしたら日本の特性なのかもしれないけど、
やっぱりちょっとこう、仮想したいというか。
願望をなんかより強く感じるというか、もしかすると。
ちょっと違う自分でありたいみたいな。
それ自体はすごく肯定可能なことではあると思うんですけど。
なんて言ったらいいんだろうね。
それ自体をそういうことを行っていって、そしてまた戻っていくみたいな。
この間みたいなところとか。
そういうことに結構自覚的でもいいのかなという気がする。
そこで断絶しちゃうと、やっぱり体がついていかないっていうことが多分一番あると思うし、
体がついていかないとうまくいかなくて、
しかも合唱の危険はその時に周りの人がいて、周りの人がうまくいってたりするんですよ。
そうすると戻ってこれないんですよね。
戻って自分のものとして捉えてこれぐらいでいけるみたいな。
じゃなくて、なんか行っちゃおうって言ったらうまくいかなくて、こけってなって。
自分を縮小していくしかなくなっちゃう。
それがすごく大変だなというのはすごく感じましたね。
そういうことこそがある意味で、オンラインになっちゃうと家で録音するでしょ。
生活とマジで実生活。
そこから逃れられないという。
その味気なさにやけがさせる人もきっといっぱいいると思うんですけど。
ある意味ですごく、こういうふうに思おうみたいな。
生活の一部だと思おうとかじゃなくて、マジで生活の一部。
ブーンと録れなかったとか。
自分が空港の近くに住んでいくことを実感するとか。
家庭環境とかいろんなことも含めてですけど。
それって良し悪しだけど、いわゆる良き面もある。
そこからしか実は始まれないということもあるのかなというのは思うので。
リモートのいろんな技術が進んで、リモート合唱みんな結構やれるようになったことで、
ある意味本当に生活の一部に入り込んできているのかなという気がするよね。
ちゃんと服着て楽譜持って会場まで行くっていう、その前段がないから。
家でパソコン開いてっていうところに。
だから自覚なしにそういうことに突入しちゃってるっていうのはあるのかな。
そうですよね。危険ですけどね。非常に危険だと思うんですけど。
なんかその切り替えが存在することが、自分にとってエネルギーを出す根本だったみたいな人も結構多いので。
それがなくなったことで、いろんなことが自分のある種プライベートな空間に入ってきてると思われるみたいなことに対する恐れを抱く場合ももちろんあるんですけど。
でも逆に言うと歌を歌う、出前的な歌を歌うときは、なんかあれですよね、裸ですよね。
それはだからどこかでその境目は体験せざるを得ないというか。
そのある意味でちょっと厳しいかもしれないけど、真実を突きつけているような面もなきにしもあらずかなと思いますね。
なんかこれはね、今突然裸で思い出したから、裸で思い出した話をしていいのかわかんないんですけど。
これは僕が最初留学に行く、本格的に行く半年前に1回ドイツに行ってて。
それはドイツ語の語学留学でもあり、かつ先生とコンタクトを取りに行く。
ドイツの問題ってタクさんも1回やったからわかるかもしれないですけど、
割と先生とコンタクトを取ると受験するみたいな、そういう流れが割とあったりするんですよね。
で、そういうのがあるんですけど、それで行って、実はその先生とはコンタクトを取れずに激鎮するんですけど、
で、またそこから色々探すんですが、その過程の中で、その時マスターの学生をやっていた僕の、タクさんと同じくらいの世代ですけどね、
合唱指揮者の人がいて、その人が結構お世話してくれたんですよ。
僕がわざわざ日本から来たということに当たら、こう感動して。
で、レッスンも見てくれて、個人レッスン何回か。その時は通訳の人を通してました。
で、何回かやって、その語学学校の1ヶ月の間に教わった。
最後に指揮者をやるっていうのは、何でしょうね、やっぱりある意味で、
今の話の流れで言うと、日常性が損なわれるように感じるぐらい極端なことでもある。
つまり全裸状態で、突然ステージに放り投げられて、目の前に合唱団がいたら、体を隠すのか合唱振るのかどちらかと思って。
僕は体を隠しますねって思ったんですけど。
でもなんか、もちろん例え話っていうことなんだけど、
なんていうか、それこそだから、つまり色んなこう、今こういうモードだから、
そういうことを飛び越えて、根源的に必要な音楽があって、
それが他者との関わりの中で具現化していって、
それがある程度の敷地を越えた時に、みんなに伝えて、それを共有して音楽を作る、
という感じのイメージなのかなと思うんですけど。
でもそのイメージを作る時に、やっぱり色んなものが邪魔しちゃう条件とか、
本当の自分ってなんだろう、この思考自体が超危険かなという感じはしてるから、
そういう意味で、どんなにミスボらしくても、
なんか自分が今生活をしてる時に起きたらちょっとお腹が緩かったとか、
寝坊したとか、なんかテンション上がんないなとか、なんかすごい口臭いなとか。
朝ね、朝テンション最低。僕超朝寝起き悪いなっていう感じなんですけど。
でもそれですよね、それをありのままに感じているというか、
調子いい時も調子悪い時も、それをありのままに感じていることができると、
その時に出る音が必然的なものなのかなっていうのはすごくいつも思いますね。
だからそういう時になるべく外面を良くしようっていう気持ちを、
なるべく抑えながら、みんなと関わるけど、自分らしくなる。
難しいね、これ。なんで難しいことをやってしまったんだろうね、という感じはしますけどね。
それを歌っている人にも教わってほしいと願うというのも、なかなか贅沢な悩みかも。
かなりハードルの高い。
最近エストニアの人たちとやり取りをしていて、面白い話があって。
リモートガッシャーのやつ?
そうそう、リモートガッシャーをエストニアとやるという話でやり取りしていて、
向こうのエストニアはもう今結構コロナやばくて、
10万人あたりのコロナの感染者数、1回ヨーロッパで1位になっちゃって。
そうなんだ。
先月かな。
かなり感染者が増えていて、またちょっと半ロックダウン状態になっていて、
当然合唱もできない。
そのある合唱団、今回共演する合唱団も、1年くらい集まっていなくて、
半年以上会合すら持っていなかったと。
ズームで集まるとかもやっていなかったけど、
団員の方からリモート合唱というのがあるらしいからやってみないか、みたいなことがあって、
やってみたら結構みんな満足してくれて、
じゃあもうちょっとやってみようって言って、日本と合同でやる話だったんだけど、
そこの指揮者の話では、合唱にかける熱は日本人の方が高いと。
エストニア合唱大国って言われてるけど、
日本人コロナになって、それでもどうにか合唱やりたいって言って、
すぐみんなリモートの技術使って始めて、みんないろいろやってる。
エストニアではほとんどないと、そういう動きが。
IT大国なんですね。
そうそう、IT大国で、1人1台iPadとか持ってるような国なのに、できるのに、
まあまあ別にいいか、みたいな。できないならちょっと我慢します、ぐらいの感じで、
だっていうのを聞いて、えーっと思って、
歌の民族って言ってるから、歌わないと死んじゃう人たちなのかなと思ったら、
なんか違うんだと思って。
もしかすると日本人の合唱とか歌に対する特別な感じ、
晴れの感覚みたいなものがないがゆえにそうなってんのかなって。
それはそうかもしれない。
だから今日から共有病が出たので、今日から牛丼食べれませんって言われたら、
しょうがないな、豚丼食うかってなるよね。
実際日本人はなった。
僕は松屋でバイトしてるから、牛丼なかったっすよ。
それで結局豚飯にしてさ、豚飯が根付いたじゃん。
牛が戻るまで。
まあまあ美味しいっすからね。
それで、そんな感じだったのかもしれない。
豚飯いくかみたいな。
うまいうまいうまいっつって。
死なねえ死なねえって。
どうしても牛飯が食いたいなって言って。
植物肉みたいな。
っていうような努力まではしてたのかもしれないけど、
当たり前になるともしかしたらそうなんのかなって。
そうか、それは確かにそうかもしれないですね。
さすがのエストリア人も、
MAXを超えてしまって歌いたい欲がじりじり溜まったのを超えて、
バーチャルに挑戦してみようってなったんだと思うけど、
でも日本人に比べて溜まる速度が全然違うと。
やらなくてもいいっていう時間が結構あったっていうのがすごいなって。
普通に一人で歌ったりしないんですかね、家の中とか家族と歌ったり。
家族で歌ったりとかは、それはあるだろうね。
ここはもう全然住宅事情が日本と違うから全然歌えるだろうけど。
なるほどね。
そうか、それ面白いね。
今その話聞いてて思ったのは、
なんで僕たちは結構やったじゃないですか、日本との話を。
しかも割と早い頃からやったじゃないですか。
なんでそっちに行こうって思えたんだろうなっていうのはすごいありますね。
マティアはぶっちゃけこの前喋ったんですけど、いろんなところで。
でもなんかその一家にはならなかった。
そうね。
一つは仕事ないし。
それはめっちゃでかいですよね。
それはそうなんだけど。
僕は思ったのは、逆に僕は歌、合唱についてこの期間すごく思ったのは、
それをその形式が必ずしも唯一ではないなっていうのを逆に思って。
僕はどっちかっていうと、その必然性っていうのはすごく同意するところがあって。
特に僕は社会の状況とかいうことに対して、
それを客観的に全てを俯瞰して見ることができてはいない、もちろん。
だから自分の肌感とか、人々のざわめきとか、そういうのをすごく感じることがあって、
そういうものを現在的に表現する必要があるなっていうふうに思っていて。
曲を選ぶ時とか、僕はずっとその視点が常にどの演奏会でもあるんですけど、
その時にコロナ禍っていうのはある意味で、会えない、集まれない、
飛沫飛ばせない場所はそうですけど、ということを音楽にしたらいいんじゃないかと思った時に、
僕はそれで確かに今スッと来るなっていうところがあったんだよね。
だからなんかもしかすると、エストニアの人たちはまあいっかってなるんですね。
なったんですね。
お隣のラトビアもリモート作品っていうのはあったことあったけどそんなになくて、
ラトビアはどっちかっていうともうさっさと集まって歌っている人たち。
プロ合唱団はすぐ集まって演奏会やって。
なんか発生したよね。
全てのプロ合唱団でクラスターが発生していて。
そして免疫を獲得して。
そうそうそう。
強え。
誰も死んでない。
で、それを社会のどこからも批判が起きないと。
まあそうよなみたいな、集まった。
まあそうやってたらなるよねって。で終わり。
合唱ダメだとはならないと。
その感覚もすごい色々違いましたね。
ある意味で、逆に言うと例えばドイツとかはすごいリモートやってるんですよ。
そうなんですね。
で、しかもそれもかなり初期から。
多分僕らよりもZoom連とかのやり方の情報は早かった。
まあ向こうの方がロックダウン先だったので情報は早かったし。
あとリアルタイムで今ね、日本だとヤマハのシンクルームってあるじゃないですか。
8人でやるやつ。
向こうだとジャムルスって言って20人でできるサーバー立ててそこで結構低遅延で練習するっていうのをやったり。
リアルタイムで音出しして練習する人たちもいたりもするし。
なんか割となんだろうね。
なんか思考として、思考としてなんか割とテクノロジー思考があるのかもしれないですね。
なんか問題はそういうことで解決できるみたいな。
ある種の、ある種のが一つの資本主義の社会、工業化した社会みたいな感じもしますけど。
その思想が結構問題解決、問題解決みたいな。
あれ知ってます?
インターネットに上がってる問題解決思考に関する国の様々な違い。
面白い。
ドイツ問題矢印解決。
チェコとか問題って真ん中にビールの絵が描いてあって、次モザイクで隠された問題って。
すごいめちゃくちゃ失礼な、いわゆるエスニックジョークのやつ。
イタリアも問題って、問題問題問題問題問題。
増えとるやんみたいな。
もしかすると、そういう共通の社会問題で発生した現象が同じでしょ?
制限される状況も同じで、リアクションが違うっていうのは、それはそれで面白いなって。
面白いのは、民族性みたいなものに回帰するかどうかは、かなり懐疑的である必要がありますけど。
だから、逆に合唱というものをこれまでどう捉えてきたかによって、行動が変わりましたよね。
日本の国の中だけでも多分そうですよね。
結構、意見が分かれたっていうか、あれが分かれてたのかどうかは分かんないけど、
なんかこう対立はあったよね。
謎の。
謎の。
謎の対立ね。
対立してるつもりはないのに。
その後どうなってくるかっていう話を、この最後のまとめに。
このコロナ禍においてどうなのか。
ポストコロナの合唱活動について考えてます。
まずマスクがですね。
ポストコロナね、何も読めないし、希望的観測を言えばワクチンが普及してとか、
いわゆる対コロナの体制が十分であれば、