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8時3分、今日の声向きです。
今朝は、5時半ごろに目が覚めました。
その後に、洗濯をして、
あと、昨日洗った食器、乾かしていたのを片付けました。
それから、朝食をとりました。
今朝は、白いご飯にきゅうりの漬物、
あと、甘い味噌のタレというか、
一緒にご飯や、何かにつけて食べるとおいしい味噌を添えて、
それから、味噌汁も一緒に食べました。
あと、語学アプリをしました。
いつものデュオリンゴと、
名前がはっきりしない、
台湾華語のアプリと、
スピークです。
あと、今朝は、朝食を用意するまでの間、ちょっと時間が空いたので、
昨日、ポッドキャストで聞いたもので、
ちょっとメモを取りたかったのがあったので、
そのポッドキャストを探していました。
何で探していたのかというと、
ブラウザで聞いていたら、
ブラウザを閉じた時に、どうも履歴が残っていなくて、
寝る前だとかにちょっと聞いていたので、
タイトルもおぼろげ、
初めて聞いたポッドキャストだったのもあって、
タイトルがおぼろげで、
その中で出てきた単語だとか、
キーワードを頼りに、そのポッドキャストをもう一回探すというのをしていました。
それをやっている時に、
たまたま別のコンテンツが目に入ってきたんですけども、
そこでちょっと、おそらく知っているであろう人の名前を見かけて、
すごく心臓が飛び上がりました。
名前とかプロフィールを見ると、
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この人はこの時に会っていた人ではないかという、
確信に近いものがありまして、
向こうからすると、おそらく私のことはわからないはずです。
しかし私は、その人のことに心当たりがあって、すごく驚きました。
例えば一回も会ったことがない人、
画面の向こうでしか見たことがない人、
画面の向こうでしか話を聞いたことのない人の名前を
全然違うところで見ても、
特に何とも思わず、フラットな気持ちで見ます。
なんですけれども、
一回でも言葉通り手の届く距離、
一対一に近い環境だとか、
何かの集いで一緒だったことがあるとか、
そういう人を、
時間が経ってから、
違う媒体、メディア、
そういうところで名前だとか、現在の活動だとかを
思いがけずに見聞きすると、非常に
心臓が飛び上がります。
で、なんでそうなるのかなと、
どうも、その人たちの
名前だとか、
それが多分、
引き金になって、
その時の感覚だとか、
その人たちの名前だとか、
その時の感覚だとかが、多分一気に
引っ張り出されるから、
不意打ちをくらって、
ドキッとするのかなと思います。
常に多分、自分の中に何かしらを毎回
隠している、蓋をしているという感覚があって、
で、それを、
実際に会ったことがある
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人に関しては、
すごくその蓋を開けられやすいというか、別にその人たちが
何かをするわけでもなく、ただその人たちの名前や
現在の姿を見るだけで、
自分が蓋をしていたものを一気にわっと
開いていく、それがちょっと驚きというか、
不安や不快に近い感覚を呼び起こすのかなと思います。
これもちょっと面白いなと思うのは、多分こういう感覚にならない人もいる、
というかならない人の方が多いのかもしれないと、
ここ数年思うようになりました。
昨日聞いていた、これまた別のポッドキャストで、
このポッドキャストを聞いた人たちからの感想文、
感想文や声に対して返信という形で答える回を流していたポッドキャストがありました。
その中で、視聴者の人がこういうふうに感じていたのに対して、
ポッドキャストを聞いて、こういうふうに感じたというお便りを送っていたんです。
それに対して、配信の方がいろいろコメントを返していたんです。
そのやり取りを聞いているうちに、
その中でちょっと、
番組内では鬼コーチという表現をしたんですけども、
鬼コーチがいる人といない人がいるという話をしていて、
私はその番組内での表現を借りるなら、
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自分の中に鬼コーチが常にいて、しかも鬼コーチが複数にいる感じですね。
複数にいても常に頭の中で議論している。
コーチというよりもあるかもしれない。
会社だとかの上層部が常にいっぱいいるという感じの方が近い。
私の場合は近いかもしれないです。
それが、いる人といない人がいるというのにすごく驚いて、
すごく傲慢ですけれども、自分の見方は、
見方じゃないな。
自分の内にあるものは他の人も同じようになっているのではないかという傲慢さがあったんですけれども、
その鬼コーチの話を聞いて、
そうじゃないんだ、そうじゃないし、鬼コーチ何それっていう人。
心の中に、
友達というのは他者ではなくて、自分という名の友達しかいたことがないという人もいたり、
鬼コーチの存在どころか、応援者が自分の心の中、頭の中、思考の中にいるという人もいるというのがすごく驚きました。
それでちょっと今朝の話に戻ります。
今朝、知っている人かもしれないという人の名前を見たときに、
ドキッとしたのは、蓋をしていた何かを開けられるような気持ちになったことと、
開けられたときの気持ちが、そのいわゆる鬼コーチに何かを指摘されたときと感覚と似ているものがあって、
その心の鬼コーチの存在が知っている人の名前を見ただけで、
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ドキリとすると、何か繋がりがあるんじゃないのかなと考えた朝でした。