どうせレールから外れてしまったなら、その先の景色を味わい尽くすしかない。今日はそんなお話です。
ままならジオ。
『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の“ままならなさ”を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。
もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。
今日は「世界との摩擦」について考えたいと思います。これ、僕はよく使う言葉なんやけど、その割に「世界との摩擦」って具体的に何なんや?ってことはあんましっかり考えたことがなかったなと思って。
「世界との摩擦」って、大きい人と小さい人がいると思うのよね。世の中には。
摩擦が大きい人は、なんちゅうの? 生きているだけで抵抗の大きな人。ふつうの人がふつうにこなせる「生きる」ということを、こなせはするんやけど、すごい疲れてしまう、みたいなイメージかな。
なんかみんながふつうに陸を歩いてんのに、自分だけ水中で、まさに抵抗や摩擦を感じながら歩いてるみたいなイメージかな?
うーん、やっぱ、具体的な自分の実感から話してったほうが伝わりそうな気がすんな。
僕はね、5年前に鬱を発症して、そこからうっすら鬱とがっつり鬱の間を行ったり来たりしてんのよ。
今日は1日元気でした!っちゅう日はまったくないのね。
で、鬱の症状はどんなんかっていうと、詳しくは#5の「鬱っぽい人の憂鬱な日常」で話したからそちらを聴いてほしいんですけど、ひとつは人と話すんがめちゃくちゃ疲れるってことなんですよ。あ、でも人と話すんが大好きな人間なんでね、僕と話す機会がある人は「疲れさせてるな」とかはマジで感じんといてほしいんですけどね。このうえない喜びですから。
でもまあしんどいんは事実なのと、あと、それが他人からはぱっと見そんなわからんってとこにもまた二重のしんどさがあるわけですよ。
話してる間の僕って、そこそこ普通に見えると思うんですよ。ただ、自分にとっては、何や? 見えない鉄球が手足にくくりつられているような感じですね。
少しの時間なら一緒に歩けるけど、長い時間ずっと歩き続けることはできへんって感じかな。あと、この鉄球は周りの人には見えへんねやっていう感覚もすごくある。
いや、僕は障害という「ままならなさ」をOpenにしてるからめちゃくちゃ恵まれとるほうなんやけどね。
なんで鉄球のたとえ出したんやろな。さっきの水の中を歩いてるでも全然よかってんけどな。なんか僕のなかで、市民プールのおばちゃんが浮かんでしもたんよね。
まあまあ、そこはええとして。
別に不幸自慢をしたいわけではなくて、ふつうの人がふつうにこなせることを、こなせはするけど、すごい疲れる、って程度の差はあれ誰でもなんかの場面ではあると思うんよね。
もう少し違う表現で言えば、ルールとのズレみたいな感じかな。たとえば、人間は集団で生きてかなあかんから、集団行動が苦手やともう学校に入るくらいのタイミングからそのルールのズレに苦しむやないですか。職場でもルールとのズレに困ってる人たくさんおると思う。
で、僕は今どんな人間になったかというと、世界との摩擦が大きい毎日をなんとかこなしてる人こそ「おもろい!」って思うようになったんよね。なんかもうシンプルにおもろ!って。
いや、面と向かって「それ、おもろいな!」とはそうそう言わんけどもね。
でも、おもろい!って純粋に関心を寄せてしまうんよな。
これは僕がそういう人間に変わってしまったんやというしかない。
今思ったんやけど、この世界との摩擦っていうのが、世に言う「生きづらさ」っていうことよね。これも#6の「「生きづらい」という言葉の危うさ」で話したから繰り返さへんけど、あんとき言わんかったこととしては、「生きづらさ」みたいな、自分の負の感情をなんでもかんでも受け止めてくれる万能ワードを使ってたら、それ以上考えが深まらへんような気がするねんな。やから、わざわざ世界との摩擦が〜とか言って、こうやって発信してるんやろね。
いやー、嫌なやつやね〜自分。自分だけ深いこと考えてるみたいないい草やね〜。まあ、そういうめんどくさい人間なんですわ。嫌いじゃない。嫌いじゃないよ!
僕はね、けっこう自分のこと好きですよ。まったく立派な人間やないし、自分の嫌いな部分も、そらたくさんあるけどね。自分のことをめっちゃ好き!と自分にはとても嫌いな部分があるっていうのは両立するんですよ。すごくナチュラルに。
なんの話やっけ。
もう迷子になってるけど、これって一個前の「理不尽について」の回で話した誇り、プライドの話と関係してるんよね。
「世界との摩擦」が急激に大きなった状態が理不尽なわけやから。それを一過性のものやなくて、ずっと続く慢性的なものと捉えると、理不尽やなくて「世界との摩擦」っていう表現になるんやな。
やからここでも、それを誇って生きていこうやということはもう一回言っときたいよね。
なんで誇れるんかっていうと、それは、その人がつけてる鉄球が誰にも見えへんからです。周りの人にはふつうに生きてるように見えるからです。
誰にも見えへんから自分で褒めてあげるしかない、っていう消去法で考えるんやなくて、誰にも見えへん鉄球を抱えて、それでもなんとかやってる自分まじですごいな!って素直に思うことです。無理なポジティブシンキングとかやなくて。だってすごいやん?回りの人からは見えへん鉄球をつけて歩いてるって。
世界との摩擦が大きいということは、また違う言葉で言い換えてみるとマジョリティのレールから大きく外れてしまったっていうことやと思うのね。
で、どうせマジョリティのレールから外れてしまってるんならその景色を楽しむしかない。
ただね、そう言うと「井上さんは自分のままならなさを本として売り出したり、こうやってラジオで話せてるからいいじゃないですか。私はただ苦しんでるだけです」って感じる人もいると思うんやけど。
まず、それはその通り。やけど、その「世界との摩擦」を社会的に認められるような価値に変えていけるか、役立てていけるかっていうことは実はまったく大事ではなくて。
味わっていくちゅうことが大事なんよ。
「世界との摩擦」はどうにもできひん理不尽なもんとして、ある。その事実はどうにもならん。自分はマジョリティのレールからは外れてしまっとる。そういう状況にいるなら、もうその外れたレールの先にある景色を味わい尽くすしか選択肢はないわけよ。
この「どうせ」っていう開き直りの精神が大事やと思ってんねんな、おれは。同じようなままならない状況に対して、「せめて」って頑張るか「どうせ」って開き直るかの二択があると思うんです。でも、「せめて」ってがんばって、マジョリティのレールに乗っかってるかのように強がってもあんまええことないからね。
そもそも強がっていること自体をみんな気づかんし。それやったら「どうせ」って開き直って味わいにいくくらいの気持ちのほうがいっそ清々しいやんっていう気がする。
ただ、それには大事なことがあって。
なんでもいいから、形に残すことが大事やと思うんよね。具体的に言えば、多くの人にとってはそれは「書く」か「話す」かっていうことになるんやと思う。
僕は『弱さ考』で書いて、こうやってラジオで話してっていうのを意識的にやってます。
「世界との摩擦」の先に見える景色を、おいしいネタにして形に残してる。摩擦が大きいって事実は「どうせ」変わらんわけやん? そこで自分が心と身体をもって感じたことを書く、あるいは話すって決めたら、全部がおいしいネタになるっていう。
「おいしい」っていう表現はまあ関西人特有やと思うんですけど。
でも、どうせ「世界との摩擦」が大きいならその人にしか味わえへんもんを味わい尽くしたほうがいいとほんまに思うし、一方で、味わい尽くすにはその先に話すなり書くなり、形に残す、アウトプットする作業がイメージできてへんとなかなか味わい尽くすんも難しいなっていう気がする。
これは土門蘭さんっていう人が書いた『ほんとうのことを書く練習』っていう本に教えてもらったことなんやけどね。
さっきの「井上さんはままならなさを表現に変えてるけど、自分にはそれはできない」って思う人もいる、っていう部分ともつながってくるけど、もはや誰かに読んでもらう必要はないんよ。
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