「ままならジオ」は、人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者であり、オンライン読書プログラムの「問い読」主催者でもある井上慎平が、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考える番組です。
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人生における理不尽とは何か。そして理不尽をどう引き受けていくんか?今日はそんなお話です。
ままならジオ。
『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の“ままならなさ”を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。
もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。
理不尽。きたね。ザ・ままならなさって感じのテーマですね。
いやー、おもろいもんで。僕は鬱を発症して障害者にならんかったら、絶対こんなことを深く考えなかったでしょうね。
初めての方もいるのでお伝えしておくと、僕は5年前に1年ほど深い鬱になり双極性障害の診断を受けています。今も、うっすら鬱と、がっつり鬱のあいだを行ったりしたりしながらなんとかやってます。
やから僕にとって、理不尽とはまさにこの「しんどさ」のことです。毎日鬱ちゅうんは毎日しんどいっちゅうことですからね。でも、人には人それぞれの地獄がありますから。これを聞いている方にも、必ず理不尽はあると思う。それをどう受け止めるかですよね。
理不尽でわかりやすいのは、不慮の事故とか、病気とか、障害とかですよね。あとは急なリストラとか?
僕にとって「理不尽」って結局なんなのかっていうと、一言で言ったら因果関係が崩壊することやと思うんですよね。因果関係というのは、要は原因と結果のことです。原因と結果が、頭の中で全然結びつかへん状態が、理不尽。
まず、「事前に予測不可能やった」ってことが大事ですね。結果が予想できなかった。
不慮の事故の「不慮」って予期せず・思いがけず、って意味ですからね。
で、この思いがけずっていうのが、自分がどうにかできる範囲の「外」で起こってしまうこと。
自分が起こしてしまった事故は、反省や後悔はするけど、理不尽ではないんですよ。自分に原因がある場合はね。
でも、自分の家族が、知らない誰かの運転によって交通事故にあってしまった。これは、自分に原因はないわけですよね。
人間はいつも、だいたいこういう原因にはこういう結果が起こるっていう予測を立てて生きてるんですよ。でも、その原因と結果の関係が壊れる。自分はまったく悪いことをしてないのに、とっても悪い結果が生まれる。そのとき、原因と結果の因果関係が壊れるんです。人はそこではたと立ち止まり混乱するんです。「こんなん理不尽や」と思うんです。
僕がこのラジオの#1で話した「世界は残酷だ」っていうのはそういうことです。いいことをすればいい結果が待ってる。そんな優しいふうには世界はできてないんですよね。
この理不尽の感覚は時代によっても違うんでしょうね。子供を10人産んで2,3人成人すればラッキーっちゅう時代ってめっちゃ長かったわけです。たとえば、一人子供を失ったとする。その悲しみの度合いは時代によって変わらんとしても、それを理不尽と感じるかというと、その度合いは、昔のほうが低いんちゃうかなと。
逆に言えば、人類は医療を進歩させたり、社会のなかに法律を作ったり、差別を少しずつなくすことで、理不尽が生まれへんように努力してきたとも言えるわけで。
そういう観点から見ると、現代人は理不尽そのものに弱いし、理不尽なれしてへんのですよね。
さて、じゃあいざ理不尽がやってきたら、どう引き受けるかってことですよね。僕のなかでは「引き受ける」と「受け止める」は全然意味が違う言葉なんですよ。
受け止めるは整理して、納得してる感じがするよね。それに対して、引き受けるは「イヤダイヤダ」と言いながらも、なんとか立ち上がって歩き始めるイメージです。再び歩き始めないといかん状況がやってくるイメージです。
理不尽を受け止めるなんて、無理やからね。イヤダイヤダでええんよ。ただ、そこまでいくにもまず、大前提としてだいぶ時間がかかる。
心がケガしてる状態やからね。理不尽に直面したら心から血が出てる。そんときはまず止血することを考えてほしいです。自分の気持ちを楽にしてくれる本にすがってもいいし、人前で突然泣いてもいい。とにかく心の出血を止めるのがまずいちばん大事。
そこから、長いアップダウンの旅路がはじまるんよ。「ああ、なんとか自分はこの理不尽を引き受けれた」と思ったらある日「全然引き受けられてへんやんけ、自分」って気づいて愕然としたり。
「わかった、もう大丈夫や」「全然わかってなかった」の繰り返しですわ。僕が自分の障害を引き受けるために、何回も繰り返し通った道やね。
でも、引き受けるだけでも時間がかかるってことを知っておくのがまずは大事で。何十年もかかるかもしれへん。それを一気に解消しようとしすぎると無茶苦茶な方法にすがったり、オカルトに引っかかってしまったりするんやな。
あとは、考え方の転換やね。これが大事、っていうかもうこれしかあらへん。
「考え方を変えてみましょう」とか言われたら、理不尽に出会う前の、マッチョイズムゴリゴリの若かりし自分からしたら、なんかヘタレやな、自己啓発チックでなんかいややなって思ってたんちゃうかなあ。
でも、今は全然思わへん。
さっきは因果関係が壊れるって言ったけど、それってようは偶然、たまたま起こるってことですやん。でも人間って偶然を偶然のまま受け入れられるほど強くないと思うんよね。
僕、西田幾多郎っていう哲学者が、小さな娘を亡くしたときに書いた文章が好きで、彼はこう言っとるんよね。
「さっきまで遊んだり楽しそうに話したり、歌ったりしてたじゃないか。そんなお前がなんで今骨壷の中にいるんだ」って。で、その後に「もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない。ここには深き意味がなくてはならぬ」って言うんですよね。
「意味がなくてはならぬ」。これってすごく強い宣言に見えて、弱さが露呈しているのが僕は人間らしくて好きなんです。
意味を作り出すっていうのは、壊れた因果関係をもう一回作り直すってことですよ。で、「意味をつくるんだ」って自分で言っちゃうってことは、すごく悪い言い方で言えば捏造するってことですよね。でも、そうやって自分なりに物語を捻り出さないと、人間はもう一度立ち上がって歩き始めるなんてできへんのですよ。ほんまの理不尽に打ちのめされたら。
じゃあ、考え方の転換っていうのは実際にどうやんのかと。あくまで僕にとって効果があったことを、共有しますね。
まず、原因と結果が一対一で対応してるんやっていう考えをやめることです。たとえば、「僕がAって言ったから、あの子はBをしてしまったんや」みたいなAだからBになったみたいな考え方をやめてみる。
自分のことを責めてる人の頭ん中に必ずあるんは、この原因と結果を一対一で対応させる因果関係ですね。
でも、当たり前ですけど、原因は、一億とか、一兆とか、それこそ無限にあるんですよ。僕が障害を負ったのも、遺伝子的な問題もあるかもしれんし、たまたまコロナ禍やったとか、それこそ20代のときたまたま運良く結果が出せたことが、巡り巡って鬱に繋がっとる。もうね、歴史とか自然科学とか社会学とかを学べば学ぶほどわかってくるんは、とにかく世の中たまたまでできとるってことです。
でも、さっきの西田幾多郎の例で出てきたように、たまたまで済ませられるほどに人間は強くないんです。人間って原因と結果が対応してないと、ものすごく不安になる生き物なんですよ。これは『弱さ考』の6章でしっかり書いたんで、よかったら読んでみてください。
一個だけ紹介すると、この「原因は一対一対応やない」ってことを僕に教えてくれたんはスピノザっていう哲学者なんですね。彼は、原因は一個ではなく群であるって。僕もほんまにそう思います。
原因を一個に絞っちゃうのは人間の脳がしょぼいせい、複雑なものを複雑なまま受け取るだけのキャパがないからエラーが起こっとるだけです。
やから、「自分のせいで息子が病気になった」と思っている人がいたら、僕は「原因はいつも群なんよ」っていう教えを手渡したいなって思います。
そう、一個目の考え方の転換が、「原因と結果の一対一対応をやめて、群として捉える」。
二個目のキーワードが、彫刻ですね。理不尽による彫刻。理不尽こそが、あなたという存在をユニークなものとして形作っていくんだ、あなたをよりあなたっぽくしていくんだっちゅう考え方ですね。
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