いちいち「今日」に驚くわ|ままならジオ(ままなラジオ)#16
2026-06-17 22:31

いちいち「今日」に驚くわ|ままならジオ(ままなラジオ)#16

「ままならジオ」は、人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者であり、オンライン読書プログラムの「問い読」主催者でもある井上慎平が、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考える番組です。

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いちいち今日に驚くわ。びっくりすんのが楽しいわ。今日はそんなお話です。

ままならジオ。

『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の“ままならなさ”を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。

もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。

なんかね、もう鬱を発症してはや5年近くなるわけですよ。

5年かー。ずいぶん、早かったなという感じがあります。「ふつうに元気な日」っていうのは1日だってなかったわけですが。そんななか5年もやってきのねーと。感慨深い。

今日は、鬱になってからの時間感覚の変化についてお話ししようかなと。

自分としてはね、鬱になってから「なんか生き急いどるな」という感覚がずっとあったんですよ。何かやりたいことがあったり、会いたい人がいたとき、その衝動を後ろ倒しにしない、「また今度」と考えへんくなったっちゅうか。その日思ったことは、その日にやる。

たぶんそれは、「死ぬこと」の感覚がずっと生々しくなったんやろうな、とそんなふうに整理してました。

死との距離感が近くなったっちゅうか。でも最近はそればっかりやないよなと思うようになりました。

っちゅうんも、別に自分の寿命が短くなったように感じとるわけやないんですよね。まあ平均年齢を考えると、あと40年50年生きるんかなー、っていうその感覚が急に変わったわけやない。

だから、よく言う「メメント・モリ」というか、死を思って毎日を生きるという感じとは若干違うんですよね。

いつ死ぬかわからん、っていう生きることの不安定さの再確認みたいなのはあったかもしれんけど。

たぶん、もうちょっと具体的に言うと「この安定した日常がいつ壊れてもおかしくない」ってことをいつも感じとるんでしょうね。

この感覚は、健康を一度失ったということが多いに影響しとると思います。うっすら鬱と、しっかり鬱を行ったり来たりしている毎日やと、まず自分の状態が数時間単位で安定しないわけで。昼頃には元気やったのに夕方には動けへんという日も珍しくない。

でも、この自分がいつか死ぬことに対する距離感というか感覚は、自分だけの話やないんですよね。みんな僕みたいに自分はなんとなく平均寿命くらいで死ぬんかなーというぼんやりとした感覚は持ってると思うんです。

ただ、そのなかでも健やかな状態で会える・話せることは当たり前やない。

人と人とが話すでも旅行にいくでもなんでもいいけど、何か一緒にするには当然ながらお互いがある程度健やかやったり、ライフスタイルに大きな変化があったり、急に引っ越す、みたいなことがなかったり…あらゆる、「特別なことが何もない」っていう状態が続いて初めて成立することやと思うんですね。

それがいまの自分には、あんまり大袈裟な言葉は使いたないけど、奇跡のように感じるんですよ。逆に言えば「今日会いたい相手が一年後にも会えるんやろう」っていう予想は、奇跡を期待しすぎやろうって感覚なんですね。

やから「今日会いたいと思ったら会う」みたいなことを大事にしてきたし、それが結果的に「生き急いでる」みたいな感覚につながってたんやと思うんやけど。

いや、ほんまに人体が動いているというのは奇跡みたいなことで。

急病になってない、脳の働きが悪くなってない、事故にあってない。何百億の微生物がバランスをとってうまくやっとる。

それって自分だけでもなかなかそれは珍しい人やのに、お互いが、身内の人も含めて緊急事態がない、ってもう針の糸を通すようなむずかしい話で。お互い何百個の、なんや? 信号で言うと青信号が灯っていないと、今日会うっていうそれだけのことができひんのですよね。

でもこういうことって、一度日常が崩壊しーひんとわからんのが人間の悲しいさがなんですよね。頭ではわかってても。

当たり前の日常に感謝すると言うとチープなんやけど…感謝というよりは驚くって感じですね。日常が日常として回っているという事実に驚くっていう感じかな。

僕はずっと鬱になったあの日から、偶然性・偶然性っていろんなところで言ってるんですけど、今日僕がこうやって生きてることにも、僕にとって大事な人が無事で生きてることにも、新鮮な驚きが常にあるんですね。いい方を変えれば、明日になったらそうやなくなってるかもしれないという恐れや不安が常にある。

「いつ何があってもおかしくない」っていうんは、単なる強迫観念とか焦りやなくて、この世界の真理や思うんですよね。そのことを、いつ当たり前が壊れるかわからんってことを、僕はずっと「世界の残酷さ」と呼んでいる。

たぶん、これを聞いている人のなかにも、そういう経験をして、その残酷さを知ることによって、今日が今日としてあることに驚けてるっちゅう人はけっこういるんちゃうかな。

今日に驚けること。それは健康を失った人に儚く残された特権なんやなと思います。でも、そうなるとけっこう楽しくてね。今日人と会えた、話せた、働けたっていうことがそれだけで嬉しいんですよ。このあたりも僕が鬱になってからかえってごきげんになれてることとつながってるんかもしれへん。

世界は偶然に満たされてるわけでしょ。その偶然性のなかでたまたま今日楽しく過ごせた。それはもう一回きりの奇跡みたいなもんよ。

一回きりしか立たない波を、ずっとサーフィンしてる感覚なんよな。今日の偶然のなかで今日を楽しむ。楽しめない日やってある。

そのなかでリスクも知りつつ飛び込んでいく。連絡を取りたい人には連絡する。今日会いたいと言ってみたりする。

このサーフィンは、見方によっては健康を失った人の悲劇なわけやけど、波に乗ったり海にドボンしたりしてる人間の側としては、けっこう喜劇として楽しめるもんでね。

僕は、「人生は自分次第や」っていう「みずから、する」の物語から、「人生どうにもならんこともある」っていう「おのずから、なる」っていうふうに、僕の物語は一気に書き換わったんです。このあたりは「おのずからとみずから」っていう本の影響をすごい受けてるんやけどね。どっちも自分の自に、「ら」って書く、同じ書き方やのに意味がまったく違うよね、ってことについて考察した、竹内聖一さんって人の本。

このおのずから、なるっていう物語は「ままならなさ」の物語と言いかえてもええと思う。で、それは、見方によっては無力感そのものなんよね。みずからこの世界を、自分をコントロールできへんってことは、「運命を切り開くぜ!」みたいな力強い言葉を信じることができんっていうことやから、なんというかすぐ虚無というか、虚しさにつながりそうやないですか。

でも、本人は人生は一回きりの奇跡のような波を渡り歩いくサーフィンなんやって思ってるから、そんなに虚しくないんですよね。というか虚しくなる暇なんてないほどに毎日がアップアンドダウンでハードボイルドなわけですよ。

やから今は、「ままならなさ」の物語に対して、ときに無理をしながら、明日体調が悪くなるかもしれへんけど今日は遊ぶんやっていうその無責任さに流されながらやってると。これはこれでけっこう楽しいのよ。

無責任って言ったけど、不安定な体調とともに生きていく自分には、未来に責任を持てるという感覚のほうがおこがましいくらいに思うしな。

今たまたま現れた波に乗っていく。その不安定なサーフィンが毎日をつくっていく。それを繰り返してたらいつか死ぬ。それは50年先かもしれへんし、明日かもしれへん。

なんでこんなこと話してるんでしょね。

たぶんそれは、今日現れた波がまた明日現れるかはわからへんねやで、っていうこの世の忘れられがちな真実を、やっぱりこれを聞いた人に驚いてほしいと思ってるからなんやろな。ほんで逆に、未来はどうなるんやろう、とかそういう不安を原動力に今日をいきんといてほしい。人生はどこまでいっても1日の積み重ねでしかないんやしね。そしてその積み重ねの数が多いか少ないか、つまり寿命が長いか短いかなんて、正直あんまり大した問題やない。いや、大事やけど自分にできるんは今日の波に乗ることだけやから。


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