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2025-08-28 11:59

26 ゴヤ「裸のマハ・着衣のマハ」

ゴヤの「マハ」・官能と批判の二重像

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今日はですね、美術の歴史の中でもかなりスキャンダラスと言われる一体の作品に迫ってみたいと思います。
なんでも100年もの間、美術館の地下に隠されていた、なんて話もあるくらいで。
フランシスコでゴヤの裸のマハと着衣のマハ、この2枚ですね。
なぜこれらがそんなに物業を醸したのか、あなたと一緒にその謎を探っていきましょう。
今回見ていくのはですね、これらの絵についての解説記事、これを元にしています。
この情報源を手がかりに作品が生まれた背景とか、2つの絵の面白い対比、それからゴヤが込めたかもしれないメッセージ、これを掘り下げていきたいなと。
単に絵として見るだけじゃなくて、当時のスペイン社会、その常識にゴヤがどう挑んだのか、その辺りを読み解きたいですね。
ではこれを紐解いていきましょうか。
ゴヤの生きた時代、その背景を知るのが大事ですね。
18世紀の終わりから19世紀の初めにかけてのスペイン、王様がいてカトリック教会の力もすごく強くて、貴族文化は華やかでしたけど、一方で社会の矛盾みたいなものも見え隠れする、そんな時代です。
当時の美術界のこれが普通だよねっていう感覚、それを知らないとこの絵の衝撃度っていうのはなかなかわからないかもしれないですね。
まずやっぱり驚くのは、裸のマハが当時のタブーを真っ向から破ってるってことですよね。
そうですね。
西洋の昔の絵描画だと、女性の裸を描くんだったら普通はビーナスとか神話の登場人物とか、そういう大義名分、言い訳みたいなのが必要だったんですよね。
そうなんです。一種のフィルターですよね。神話とか偶話の人物ですよってことにすれば、芸術だからって許される範囲が広かった。
なるほど。
でもゴヤが描いたのは、どう見てもその時代に生きている実在の女性だろうと。
うーん。
しかも視線がすごい直接的で、こっちをじっと見てなんか挑んでくるような感じさえある。
確かに。
これはもうただのヌード画っていうだけじゃなくて、当時の道徳観にどうなんだって問いかけてるように見えたわけです。
しかもゴヤって宮廷画家だったんですよね。いわば大西側のエリートじゃないですか。
そうなんです。そこがまた面白いところで。
その立ち座でこんなある意味危ない作品を描いちゃう。情報源にもありましたけど、実際に後で異端新聞所に呼び出されたりしてるんですよね。
ええ。
これってただ絵の好みが違うって話じゃ済まなかったってことですよね。
まさにそこが確信です。宮廷画家っていう安定した立場にいながらも、ゴヤは社会の何ていうか偽善とか権力のいやらしさみたいなものを版画なんかで結構封死したりもしてるんですね。
ああ、そうなんですね。
だから彼の中には常にこう、大西を見る冷めた目があったんでしょうね。
マハっていう言葉自体は、当時のマドリードの下町にいたちょっと粋でおしゃれで威勢のいい女性たちのことを指す言葉なんですけど。
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特定の名前じゃないんですね。
そうなんです。モデルが具体的に誰かは諸説ありますけど、いずれにしてもその神話じゃないリアルな感じと朝鮮的な視線がやっぱり宗教とか社会の偉い人たちにとっては都合が悪かった、脅威に感じられたということでしょうね。
うーん、なるほど。
異端新聞っていうのはその危険性を物語ってますよね。
さらに話をややこしくしてるのがキーのマハもあるってことですよね。
この2枚がセットで作られたというか、一緒に見せるつもりだったんじゃないかと。
情報源にも同じ女性が同じポーズで片方は裸、片方は服着てるってありますもんね。
これってもう何か意図的としか思えないですよね。
そうなんですよ。このタイになってるっていうのがすごく挑発的なんです。
はい。
裸の絵がポンと1枚あるのと、同じ人が同じ格好で服着てる絵が隣にあるのとでは、見る側の意識って全然違いますから。
確かに。どうしても脱がすとか着せるとか、そういう行為を連想しちゃいますよね。
そうそう。あるいは見る側と見られる側っていう関係性とかね。
さらに情報源も指摘してますけど、裸のマハは西洋の絵画の歴史で女性の陰謀をはっきり描いた最初の例の一つだって言われてるんです。
それもですか?
これも徹底的にリアルに描こうっていう意思の表れでもあるし、同時にやっぱり当時のタブーに挑戦してるわけですよね。
なるほどな。その生々しさとか明らさもな感じ、そして社会のルールへの挑戦、そういうのが全部合わさって結局プラド美術館の地下に100年も隠されちゃったと。
当時の人たちがどれだけ衝撃を受けたかよくわかりますね。
ここで興味深いのは、これが単なるセンセーショナルな裸の絵っていうだけじゃなくて、もっと普遍的な、例えば芸術表現の自由とか、個人の内面とか、身体そのものを肯定するみたいなテーマも投げかけてるように思える点ですね。
ではもう少し具体的に2つの絵を比べてみましょうか。
まず裸のマハの方から。情報源の説明を見ると、画面の真ん中に体をちょっと斜めにして横たわっている女性がいますね。
はい。白いシーツとかふかふかしたクッションに上寝そべってて、腕は頭の後ろで組んでる。
え?
顔は少しこっちを向いてて、その視線が。
これは強いですね。まっすぐこっちを見てる。こびてる感じは全然なくて、むしろちょっと挑戦的というか。
そうですね。表情には情報源にもあるように、ちょっと恒骨としているような、あるいは自信にあふれてるような、そんな雰囲気も感じられますね。
うんうん。
背景はすごくシンプルですよね。暗い色でまとめてあって。
はい。
それが逆に柔らかい光が当たってる肌の質感とか滑らかさ、体の曲線の美しさを際立たせてる。
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確かに肌の表現がすごいですよね。小屋の筆使いが肌の微妙な色の移り変わりとか、肉付きの感じとかを見事に捉えてて、本当に生きてる人間の存在感、なんか体温まで伝わってきそうな。
うーん。
さっき言った陰謀の描写も、やっぱりこの徹底したリアリズム。理像化しないぞっていう姿勢の表れでしょうね。
じゃあ一方の着衣のマハ。こちらも同じく横たわる姿ですね。ポーズは肌のマハとほとんど同じ。
基本的には同じ構図ですね。
でも当然ですけど印象は全然違いますね。情報源によれば当時の流行っていた服なんでしょうか。白いブラウスに金の刺繍が入った短いジャケット。
うんうん。
それから体にぴったりしたピンクの帯、ファハって言うんですか。これを締めて足元まである白いドレス、というかスカートとマンティーヤを身につけてる。
えー、服装の描写がこっちはすごく細かいですよね。ジャケットのツヤ感とかレースの繊細さ、帯の布の感じまで、小屋の技術がもう遺憾なく発揮されてる。
きらびやかですよね。
こちらは裸のマハの直接的なある意味むき出しの感能性とは違って、服を着ることでその人の社会的な立場とか豊かさとか、当時の粋なファッションセンスみたいなものをまとっている姿ですよね。
なるほど。
これをより大きな視点で見ると、当時の上流階級とかそれに近い人たちの女性の姿として、その時代の空気みたいなものまで伝わってくる。
背景も裸のマハよりはちょっと具体的ですよね。深みろのビロドみたいなクッションとかが描かれてて、落ち着いてるけど豪華な感じ。
そうですね。より生活空間というか、外の得られた空間の中にいる感じがしますね。
同じ構図で同じ人と思われる女性なのに、片方は生身の体のリアルさと挑発的な視線、もう片方は綺麗な服と社会的な創造意。この二つを並べることで、ゴヤは一体何を言いたかったんでしょうかね。
うーん。
単に注文書の個人的な楽しみのためだけだったのか、それとももっと深い何か意図があったのか。
情報源を読むと、単なる性的なものとしてじゃなくて、女性が持つその身体の美しさとか力強さ、あるいは社会での存在感みたいなものを象徴的に描いたんじゃないかって書いてありますけど。
ゴヤ本人がどういうつもりだったのか、はっきりした記録はないんですよ。
ああ、そうなんですね。
だから解釈はいろいろできるんですが、まあ結果としてこれらの作品が美術の歴史に与えた影響っていうのはものすごく大きい。
はい。
裸のマッハはその大胆さ、それまでのアカデミックな絵画のルールからの逸脱によって、後の時代の例えばマネのオランピアみたいな近代の伊達表現に道を開いたって言われていますね。
なるほど。
一方で、キーのマッハを単なる肖像画じゃなくて、ゴヤの手術的な表現力と色彩感覚が際立つ傑作として非常に評価が高いです。
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つまり、スキャンダルっていう側面がどうしても強く語られがちですけど、それ以上に芸術家がその時代の常識とか制約にどう立ち向かって、それを乗り越えて新しい表現を生み出そうとしたか、その戦いの記録でもあるということですね。
まさにその通りです。
ゴヤが挑戦したからこそ、後の芸術家たちがもっと自由に表現できるようになった。
ええ。ゴヤの技術的な上手さ、心理描写の深さ、そして社会を見る目の鋭さ、そういうものが全部詰まっているのが、この2つのマッハと言えるんじゃないでしょうか。
うーん。
たに綺麗とか、挑発的とか、そういうことだけじゃなくて、美術史の流れを変えるくらいの力を持った作品として、今でも私たちにいろんなことを語り投げてくる。
ゴヤっていう画家の、なんというか、複雑な魅力の確信に触れる作品だと思いますね。
さて、今回はフランシスコでゴヤの裸のマッハと着衣のマッハ、この2枚を取り上げて、その衝撃的な登場の背景、2つの絵の鮮やかな対比、そして美術史における意味合いについて深く見てきました。
神話っていう隠れ身のなしに描かれた生身の裸体、同じ構図で並べられた服を着た姿が想像するもの、陰謀を描くっていうタブー破り、そして異端神門と100年の封印、いやー本当にドラマチックな物語を持つ絵画でしたね。
ええ、本当に。
では、あなたにとって、今日これらの作品について深く知ったことはどんな意味を持つでしょうか。
芸術っていうものが時に社会のタブーに鋭く切り込んでいって、時代を映す鏡になって、そして後の時代の価値観さえも変えていく力を持つ、そのダイナミックな動きを示すすごく面白い例だったと思います。
私たちが表現の自由とか美しさの基準ってなんだろうって考えるときに、ゴヤのマッハは時代を越えて何か問いを投げかけてくるのかもしれませんね。
最後にちょっと未来に思いを馳せるような問いかけをさせてください。
はい。
異端新聞にかけられて、長い間日の目を見なかったゴヤの2つのマッハ、これを踏まえてちょっと想像してみてほしいんです。
今私たちの周りにあるいろんな芸術作品とか、さまざまな表現の中で、もしかしたらちょっと物議を醸していたり、一部の人からは理解されなかったり、あるいは問題作だなんて見られているものがあるかもしれませんよね。
ええ、ありますね。
そういうものって、100年後、あるいは200年後の未来の人たちにはどういうふうに評価されているでしょうか。
今日の私たちにとっての常識とかタブーって、未来にはどう変わっている可能性があると思いますか。
うーん、深い問いですね。
この問いへの答えは、今日の情報源の中にはもちろんありません。
ぜひあなた自身で考えてみる、そんなきっかけになったら嬉しいですね。
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