上京25年の振り返り
聞いてくれているそこのあなた、おはようございます。 こんにちは、こんばんは、はじめまして、お久しぶりです。
いつもありがとうございます。 高円寺とらんぽりん店主のとらです。とらのソロ回、とらえろ!in the earth、ep95.6かな?
はい、ソロ回が続いちゃった。なんか撮れると思ったんですけど、 撮る隙がなく、はい。
あの、だったらロボトドリームズをね、水曜日に配信したらよかったんですけど、 今週土曜日にちょっと配信したいものがあって、
なんか水曜日なんかやりたいなと思ってたんですが、結局間に合わず、 今大阪にいるんですが、大阪のホテルで撮ってるので、また音質がちょっとだけ違うと思います。
収録日が4月1日なので、はい、翌日には流れますね。
先日のエイプリルドリーム、ポッドキャストも無事、みなさん完走されてお疲れ様でした。 68番組のみなさん、そして仕切ってくれたロコツパキオちゃんありがとう。
なんかいろんな人の夢が聞けて、 あ、そういう夢もあるんだなぁとか、結構壮大な夢もあるんだなぁとか、
なんか僕は僕でね、自分がお店出した時の気持ちとかをちょっと振り返れることにもなりまして、
楽しかったです。本当に良い企画でした。 今日本当に何話そうと思ってて、
ただ、この4月1日という日が、あのちょっと僕の中では良い記念日になってますので、その話をしようと思います。
エピソード59、ナレソメネイロ桜の頃編という企画、こちらもね、あのロコツパキオちゃんが企画で、
ゲイで茶を沸かす、ゲイちゃんのジャスミンさんがアートワークを作ってくれた春の歌を、思い出トークとともに語ろうという企画だったんですが、こちらでちょっと話したんですが、僕とらは2000年の4月の1日に北海道札幌から東京に上京してきました。
なので、今日で上京して25年なんですよ。 今大阪にいるんですけどね。
当時の思い出と生活
いや25年経っちゃったと思って、もう18歳で出てきたので、もうとっくにね、北海道にいた時期を越えましたね。北海道は札幌、北見、淡路、串尾と住んでたんですけど、親がね天津族だったんで、
いや25年経ったかと思って、でその時にあのスピードのエイプリルという解散の時に発表された歌があって、
それがすごい表に残っているという話もしたんですけど、スピードが2000年の3月31日に解散したんで、スピードの最初の解散からも25年経ったということですね。
先日のアクターズスクール大風活祭で島袋裕子さんがホワイトラブを披露して、それも感慨深かったですね。
で25年って言うとなんか、どこから話していいかというのと、あとホテルのチェックアウトがね意外と大迫ってるので、
住んだ町で言うと、最初に小平市の花子がね居という、結構田舎だったんですよ。花子がね居に住んで、
それは当時専門学校通ってて専門学校の寮で、でもなんかにしては専門学校から遠くて、
1年でちょっと学校変えたいって言って、調布の方にある慶応多摩川駅というところの多摩川沿いの学生寮に住んだりして、
そっから慶応線という沿線で、千歳からす山という駅に住んで、その後隣駅の仙川という駅に住んで、そっから、
あ、そっから違う、ルームシェアをしたんだ。上借地という、西武新宿線の上借地という駅、その後についに高円寺。
高円寺で住んだんですけど、ちょっと2丁目のお店やる話が出て、その2丁目の時の会社経営のお店だったんで、
会社寮で、まる新宿5丁目、ほんと2丁目からすぐそば、地下に発展場があるビルに住んでました。
1階がね、ブックオフでね、もうわかると思いますけど、はい、住んでて、
で、また、お店辞めて独立するってなったので、高円寺に戻ってきて、高円寺で何回か引っ越してっていう感じの25年ですね、はい。
現在の自分と成長
なんか、高校の時の友達が電話でね、話してて、テレビ付けっぱで話してたら、やっぱお前東京いいんだなぁみたいな話で、なんでって言ったら、
いやなんか今CMからゴキブリのCMが聞こえてきてさぁみたいな、確かに最近は出るかもしんないんですけど、
北海道ってね、ゴキブリが出なかったから、ゴキブリのCMなんてやってなかったので、それも、ああ、なんか、ああ、そっかぁと思って、
だからちょっと、なんか、こう、距離をね、感じるみたいな、僕その友達にカミングアウトをまだしてなかったので、
なんか、ちょっと自然に添えになっちゃって、今はね、もう連絡もつけれない状態で、どっかでね、元気に生きてくれてたらいいなぁなんて、勝手に思ってます、はい。
会いたいのかなぁ、でもちょっと照れくさいかもしれない、なんか、僕は結構高校時代、もう人間関係ダメダメで全然人と絡めなくて、そういう時に結構、なんか、世話してもらったみたいな感じでしたね。
結構オラオラ系の、ヤンキーとは違うんだけど、文化系オラオラみたいな、文化系ビキンビキンみたいな、そう、なんか結構言うことをちゃんと言うタイプの人で、同じ部活でね、放送局、放送部だったんですけど、
そんなことがありました。東京出てきて、2年間専門学校行って、その後、たまに行ってますけど、テレビ関係の会社で働きました。
編集というね、スーパーを売ったりとか、ドラマの予告編を作って、主演の人は絶対2秒以上、2番手、3番手は1秒、4番手、5番手は0.5秒みたいな、そういう制約がある中でCM作ったりしてて、
そっからカメラマン目指したいですって言ってやめて、フリーターをやり、みたいな感じでしたね。
25年で何だろうな、数え切れないことがありましたけど、やっぱり、この番組で言うと、ゲイと公言してますが、親にもカミングアウトは未だにできてないし、
18歳までの札幌にいた頃には、誰一人にカミングアウトしてなくて、たまにね、まだ当時、ISDNとかだったのかな、2000年とかって、父親の部屋に夜中忍び込んで、パソコンでフォトメッセージを見漁って、
ゲイの人っているんだ、画面越しには、みたいな、そんなことを思って、悶々としてた時期で、もう東京、それまで東京出たいって思ったんですけどね、札幌いたらこのままウジウジしてるだけだろうなと思って、それで25年です。
ありがたいことに、今はね、いろんなこういう関係ができて、虎さんあの人撮ったの?って言われるような、ゲイの中では有名人な人とかを撮る機会もできたりとかね、僕もね、有名人だと思うこともあるけど、そうじゃなくて、単純にこう、人対人として接してくれる人は、意外と仲良くなれたりしたり、そういうことがあって、
はい、なんかうまくやれてるのかなぁ。
本当にいろんな人の夢を聞いて、こう、自分の中で人生を振り返るいい機会にもなりました。もちろんね、そのお子さんがいらっしゃる、
まあ、農家さんってちょっと言い方にしちゃいますけど、ストレートの農家さんのポートキャストもたくさん聞けたりして、
やっぱあの、お子さんがいる、いないでこう、自分の成長って止まっちゃう不安みたいなのがすごくあって、それで子供欲しいみたいな感じにはならなかったんですけど、昔は思ってたんですけどね、自分の遺伝子残したいみたいな、こういう遺伝子は世の中にひとつ必要だみたいな、ちょっと過激派だったもんで、今はね、もうなくなっちゃって、まあその代わりにお店をやってて、
やっぱなんか、お店ってこうね、いろんなお客さんと接して、自分が成長できる機会にはなって、成長できてるかわかんないんですけど、なんかでもいろいろ考えさせてもらえる機会がたくさんあるので、そういう意味ではすごくありがたい環境をね、作れたなぁと思ってますね。
こないだあの、北海道に帰省したんですよ。まあもう父親も今年80になるし、母親ももう足ちょっと悪くしちゃって、まあたまに様子を見に行きたいというのと、今回はあの、親がスマホを買ったから、スマホをいろいろ見てほしいっていうので、なんかほんともう寝て起きて、5分後にね、これも教えてほしいんだけどみたいな、ちょっとイライラしながら、ほんとこういうのを業者に頼むべきだよ、マジでみたいなのを言ってやってたんですけど、
はい、それもね、なんか親は親でこう、新しいことしようとね、頑張ってるんだなって思いながら、あとはもう自分でやってくださいって言って、東京戻ってきて、やっぱあの、なんかね、飛行機が遅れちゃって、東京に戻ってくる時間が結構遅くなって、できたら僕はあの、その山手線とか乗るんですよ。羽田空港から品川行って、品川から山手線とか行ったりして、やっぱ混む時間に乗りたくないっていうのがあったんですけど、
久々にちょっと電車遅れて、久々に飛行機が遅れちゃったんで、その時間に当たっちゃって、もう激込みの中の荷物をね、2泊3日分の荷物を持って、ちょっと周りにはこいつ荷物でけえなって顔をされつつ、ただその電車に乗ってる時に、東京に戻ってきたなって思ったんですよ。
あの、もちろん北海道札幌も大事なふるさとですけど、もう今25年ともなると東京が染み付いたんだなって、なんかそれ自分でなんか、そうかこの過酷な環境も自分のなんか大事なものの一つになっちゃってるんだなぁみたいなことを思ったりした気性でしたね。
東京での25年の回顧
なんか多分切り替えがしやすいんですよ。すぐお店にね、その日もちょっとお店遅れちゃったんですけど、飛行機の遅延でオープンして、誰か来るかなと思って、北海道お土産用意して、そしたら北海道出身のお客さんがいるんですけど、結構トランポリンは多く、久々に帰省したからお土産だよ、これ美味しいよねみたいな話をして、
もうそこでこうまた、気性からその自分の生活に戻るみたいな感じがなんか、毎日そういう生活をねしているので、なんかこう、当たり前になってるけど、これは当たり前だけど大事にしなきゃいけないっていうのをなんか噛み締めたいなみたいなことを思ったりもしました。
すごい今ね、朝の10時なんですけど、この、いいかな、この感じでいいかな、なんか心配になってきちゃった。
まあでも25年って言うとやっぱ、あの本当にね、あの企画でもちゃんと名前を入れようと思っている林玲奈さんという、ミミズクズというね、バンドでメジャーデビューをした、今はとても仲良くさせてもらってるし、もうすごく大事な存在の林玲奈さんが、ミミズクズというバンド、メジャーデビューしてから25年なんですよ、今年で。
だからなんか、2000年っていろいろね、僕がミミズクズと出会ったのは2001年かな、だから24年前に、19歳の時に、当時の専門学校が主催した、なんかネクストブレイクアーティストライブみたいなのを渋谷アクセでやってそれで出会ったんですけど、そう考えるともう、そんなにこう時が流れて、お互いにね、歳を重ねて、なんか、僕写真も撮っているので、こう、
10何年前写真撮りました、久しぶりに撮りました、っていう時に、やっぱ老けたよね、みたいな、いやいやいい感じじゃない、みたいな、いい感じのなんか年齢ですよ、みたいな、そういう会話ができるのも結構、なんか、愛おしいな、みたいなことを思っています。
そういう日がね、できるだけこう、仲良く続けばいいと思いつつ、まあでもあんま長生きできないと思ってるんですけど、本当に。
この人よりは先に死んじゃダメだな、みたいな人がいっぱいいるんですけどね、だから、なんかいろいろ考えることも多いです、そういうことも、はい、その、こんな感じでいいですかね、今日ね、すいませんね。
あ、なんか樋口愛さんのライブを大阪で見たんですよ、あの、僕も林玲奈好きと呼びますが、最近本当にちょっと浮気性なところで、樋口愛さんのライブも大阪であるっていうんで、
他にね、あの、いろんなことが重なってこれたんですけど、すごい良かったんですよね。樋口愛さんってMCが本当に刺さるんですよ。
腹渡話してくれているっていうか、なんか、すごく上手に話されるんですけど、絶対本心だな、みたいな、なんか、嘘がないから、
すごく僕は相性がいいな、みたいなのを持って、歌も好きだし、その歌にも説得力があって、はい、そういうので、なんか救われて、
救われてるって言うとちょっと大げさなのかな、でも、すごく自分のこう人生において大事な部分になってます、樋口愛さんの歌って、はい、
こういう時にね、みんなぜひ聞いてください、めっちゃいいからって言ってもなぁ、自分のこと嫌いな人はなぁ、逆効果なんだよなぁ、みたいなことをいつも思ってて、
みんなどうしてるんだろうっていうのを、こないだ気になってお便りをとある番組に送ったんで、楽しみにしてますよ、はい、よろしくお願いしますね。
トラエロインザスでは、そらの会の皆様のお便りも募集しています。概要欄のURLからお便りを送ってみてください。
ハッシュタグトラアス、ひらがなトラ、カタカナアスで感想いただけても嬉しいです。えーと、引き続き、
エイプリルドルイム、ポッドキャストの感想も受け付けてます。はい、トラエロインザス会も間もなく100回を迎えますので、
100回おめでとうコメントという欄も用意しているので、それもね、送ってくれたら、もうあの何件か送ってくれるんですけど、結構普通に、
すげー嬉しくてちょっと泣きそうになっちゃったお便りがあって、なんか、ありがたいですね。僕は対面で人とも会うし、こう、ポッドキャストで、あの、
まだ会ったこともない人が聞いてくれてるっていうのもね、最近ちょっと感じるので、
すごいありがたいんですよ、本当に。こないだの、聞いてくれてるね、ポッドキャストもやってる方から教えてもらったのはなんか、あんまり飲みに出ない20歳くらいの人に、よく行く店を聞かれて、
トランポリンって店って言ったら、その20歳くらいの方が、あの、あれでしょうね、ラジオやってる店ですよねって言われたよっていうのを報告してもらって、
なんかそれすごいなぁと思って、あの、トラエロインダスカイ並みにトラエロインジアース並みにトラの好きな人は、トランポリンの集客をあげるためにやっている媒体ですので、
えー、あの、ぜひ、とても、あの、その言葉、ありがたいです。はい。そんなわけで、ちょっとね、あの、バタバタ言ってる隣が、あの、あれです。
そろそろホテル出る時間なんで、掃除ですよね。掃除の人たちも大変だ。はい。
きれいにしてくれてありがとうございます。ああ、こういうのふざけちゃいな。思ってるんだけど。はい。
それでは、またよかったら聞いてやってください。 公園寺トランポリン店主のトラでした。