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TOKYO NORTH MOVEMENT 飛鳥山の窓から
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠三宏さんの部屋には、未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。情熱とアイディアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
TOKYO NORTH MOVEMENT 飛鳥山の窓から
パーソナリティを務める小篠三宏です。今、私がいる場所は、大寺飛鳥山にある邸宅の談話室。
こちらに、帰宅内外の多彩な企業家、経営者を招きして、グラスを傾けながら、じっくり楽しくお話をする。そんな雰囲気でお送りしたいと思います。今月のゲストはこの方です。
有限会社篠原演劇企画、代表取締役、篠原雅博です。
よろしくお願いいたします。
篠原さんというと、北区民は知らない人はいない、十条の篠原演劇場、大衆演劇の名家ですよね。
こちらの社長さんということですよね。
これから7月4日にわたって、篠原さんから大衆演劇のいろいろなこと、そして篠原さんの経営者としての考え方、在り方を伺っていきたいと思います。よろしくお願いいたします。
さて、篠原さんが今、社長を務めるということですけれども、何代目でいらっしゃるんですか。
大衆演劇の興行史としては、私で3代目になります。
ただ、その昔というのは、埼玉の河野津の方でサーカスの巡業もされていたみたいなんですけど。
どのくらいの頃だろう、明治?
明治時代だと思いますね。
そうですか。河野津ね。なるほど。
それをずっとやられていて、篠原さんのおじいさんの代になって、今の興行という形になられたっていうことでしょうかね。
そうですね。祖父が戦後、焼け残っている地域として、この十条親戚から、ここだったら興行が打てるんじゃないかっていう。
なるほど。ここだったら演劇見てくれる人いっぱいいるよと。
その当時は工業として、以前はサーカスでしたので、何をやるかは決めていなかったらしいんですね。
その当時、女権劇が大変流行っていまして、都内だけでも50件以上の大衆演劇、女権劇の劇場があったんです。
これだということで始めたのが大衆演劇になります。
なるほど。それで十条のいくつかの、当時ですからバラックでやってたんですかね。
そういうところを回られた上で、本拠地として今の演劇場のある場所に構えられたというような感じでしょうか。
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そうですね。十条内で4カ所ぐらい、バラックでいろいろ試しながら、最終的に今の場所に行き着いたわけでございます。
篠原さんは、そうすると、そういうおじいさんもお元気だった時代、それからもちろんお父さんの時代と、お生まれが昭和56年というふうに伺いましたけれども、
その時、育つプロセスの中では、そういう大衆演劇の中で育ったという感じですか。
そうですね。昔の篠原演劇場というのは、劇場の入り口と大衆演劇の中で育ったという感じですね。
そうですね。昔の篠原演劇場というのは、劇場の入り口と自宅の入り口というのが同じだったんですよ。
そうですか。なるほど。
そういう意味では、学校に行って帰ってくると、いつも毎日舞台がやっていて。
そうですよね。だいたいスタートが3時とかそのぐらい?
いや、その当時は6時だったんですよ。
今というよりはもう少し遅くからスタートだったんですか。
そうなんです。その当時の篠原演劇場は夜の部しか公演がなかったんです。
なるほど。そうすると、学校から帰ってきて、そろそろ準備が始まってというか、
お客さん入るか入らないかみたいな感じで、一緒に帰っていくみたいな感じだったってことですか。
そうなんですよ。帰ってくると、並んでいるお客さんから、
おかえり、お兄ちゃんって言われながら、
今日もありがとうございますって言いながら入ってましたね。
そうですか。役者さんとの関係性みたいなものもいろいろあったんですか。
そうですね。ちょうど私の世代って、今の座長さんたちがものすごく多い年代なんですよ。
なんで、子供ぐらいの時は皆さんそれぞれ子役として活躍したんで、同じように学校行って。
同世代の方が多かったの?
今は多いですね。今の座長さんの6割ぐらいが40代。
あ、そうか。逆に言うと、当時は摂取の方も多かったから、
お父さんが座長の時代っていうことだよね。
そうですね。
昭和56年、57年って言うと、ちょうど今テレビとかバラエティなんかでも大活躍されてる
梅澤富雄さんのね、お兄さんのやられた梅澤劇団なんかもあそこの品川映画場に出られてて、
あの当時TBSのドラマでね、寂しいのはお前だけじゃないっていう西田栃之さんの主演のドラマがありましてね。
そこに大衆演劇っていうものが一つテーマとして出てきて、そこに梅澤さん兄弟が出られる。
で、夢姉妹がヒットするみたいなね。ちょうどその時、タイミングだよね。
そうですね。そのタイミングになりますね。
なるほど。
そうすると、あのところ下町の玉砂風呂なんてね、梅澤富雄さん言われてたんですけれども、実はこのキャッチフレーズを作られたのもおじいちゃん。
そうなんですよ。祖父がそのキャッチフレーズとかをつけるのが大好きで。
なるほど。その他に何かあるの?
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ちび玉三兄弟ですとか。
なるほど。
そうすると戦後、昭和20年代から始められて、本拠地を作られて、大体30年ぐらいされて、そこでテレビっていうものともつながって、戦後すぐと2回目の噴射器というか。
そうですね。
ちょうど祖父が出た時代っていうのは、大衆演劇がものすごく円溜めが少ない時代だったんですよ。
娯楽がない中で、やはりどの劇場も満パンだったんですけども、ちょうどテレビの復旧、オリンピックの後ですよね。
とともに、やっぱり円溜めがものすごく多様化したんですよ。
その中でも1軒潰れ、2軒潰れっていうような形で。
再生期は東京都内50軒あった劇場がどんどんどんどん少なくなってきたっていうね、そういう話を伺いましたね。
そうなんですよ。最終的に残ったっていうのが、十条の篠原園芸場。
1軒だけになっちゃった。
1軒になったんです。
それが大体、今の篠原社長が生まれた頃っていう感じのイメージ。
生まれるちょっと前ぐらいですね。
そこで、じゃあっていうので、おじいちゃんは手を打とうということでね。
いろいろな選択肢があると思うんですよね。
あそこ駅の近くのいい場所だから、マンションにして自宅も作ってっていうアイディアも多分あったんじゃないかと思うんだけど。
そうなんです。
家族の中では、もう大衆演劇はもうこの先栄えることはないから、もうマンションにして蕎麦屋にしようよっていう話が。
蕎麦屋っていうのはなんだろうね。
だから蕎麦やりたかったらしいですね。
そこまで決まってたみたいなんですけど、ある日突然帰ってきたら、もう契約してきたからと。
何を?
浅草の木馬館という劇場を。
その当時、やすき節をやられてた劇場だったんですけど。
ちょうどやすき節が終わって、ここなら行けるっていうんで、もう勝手に全再三叩いて契約をしてきてしまったんですよ。
なるほど。じゃあ1館しか篠原演芸場っていう大衆演劇の劇場が1館しかなくなってしまったのに、
だからやめようかっていう声があったのに2館目を作るっていう話に、逆に攻めに転じたっていうことなんですね。
そうなんです。話を聞いてみると、その当時東京の大衆演劇の劇団っていうのが6劇団しかなかったんですね。
でも6劇団が回る場所がなくて、もう同じところに常にこう、何て言うんでしょう、年間2回とか3回回りながらやっていく中で、
もうその人たちのことを思ったらやっぱりやめられない、減らせないっていうのが祖父の思いだったみたいなんですよ。
なるほどね。で、おじいちゃんの時代から、小屋で工業を打つということのほかに、
そうやっていくつかある劇団を地方のホテルだとか、何て言うんでしょうね、当時だったらヘルスセンターのようなところに派遣をするみたいな、
マネジメントみたいなお仕事もされてた。
そうですね。祖父の時代はまだヘルスセンターだったと思うんですけども、
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ヘルスセンターに大きく健康センターになってから派遣を始めたっていうのは父なんですけども、やはり祖父の時代で10箇所ぐらいですかね。
そんなになかったですからね。昭和30年代、40年代ね。
僕は船橋ヘルスセンターっていうところの、すぐ近くの市川市っていうところで育ってたと思うんですから、
時々行くと、やってましたね。お風呂から出てね、してとかね、たぶんおじいちゃんが派遣してたりとかってあったでしょうね。
小岩の健康センターから行きましたね。新小岩の駅前の。
じゃあだんだんそうやってお父さんの代になられて、今度はより増えてきた健康ランドとかそういうところにも派遣するようになってきたみたいな、いうことですかね。
そうですね。健康センターの方っていうのが無料でお芝居が見れるっていう取り組みをやったのが父だったんですよ。
大衆演劇ってどうしても5年配の方が昔は多かったんで、その中で新聞織り込みとか宣伝の方法っていうのがものすごく少なかったんですよ。
その中で実際に大衆演劇を見ていただいて、この空気を知ってもらうっていうのが劇場に足を運んでいただく一番の近道なんじゃないかって。
売り興業って言って、出演料をいただいて健康センターで無料で見ていただいて、足を運んでいただくっていう方法を取ったのが父だったんですよ。
健康センターとしても大衆演劇を見に行きたいっていう人も来てくれるしみたいな。
その中で健康センターから費用がいただいてみたいな。
そうなんです。
それもまた画期的ですね。
実際時間が延びますんで、飲食しながら見れる演劇って少ないと思うんですけども、飲みながら、食べながら。
そうですね。今の品川演劇場、品川演劇場名物のおにぎりが美味しいんですよね。
そうなんです。おにぎりだけは取材も受けるんですけど、劇場のほうにおにぎりの取材を受けるという。
おにぎりブームだからね。
確かに。ちゃんと入らないとおにぎり買えませんよね。
そうなんです。
そういう時食べたいって人がいるらしいけど、それは勘弁してほしいって。
お話し取りましたけど、そういうものも召し上がりながらでも見ていただけるっていうのも大衆演劇の良さみたいな。
それで健康センターでそういうことをされたのがお父様。
今の品川演劇場はお父様の代にお建て替えになられたんですよね。
そうなんです。平成10年の1月オープンしたんですけど、これもちょっとお話がありまして、祖父がすごい楽しみにしたんですけど、
1月、元旦に祖父って亡くなってるんですよ。
オープンのほんとにちょっと前に亡くなってしまったんですよ。今の劇場を見ることができず。
そうですか。
そうなんです。一番楽しみにされてたんですけどね。
僕覚えてますけど、本当に初代の小屋が木造の、今から考えれば個人マリしたものが、すごい綺麗な立派なものになったっていうね。
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それはお爺様に見せたかったですね。
ですよね。
篠原さんはその時はいくつだったんですか?
その当時15ぐらいだったと思いますね。
当時、篠原さんはこのお仕事を継ごうという意識をお持ちだったんですか?
継ぐ気はなかったですね。
うち代々そうなんだけど。
その当時は何になりたい?
その当時はそうですね。働くのが好きだったんで、中学校卒業とすぐ梱天の方に勤めたんですね。
1年ちょっと。やっぱり働くことっていうのが、体を動かして働くことが好きだったんで。
夢っていうのはなかったんですけど、とにかくその当時は働きたい。
外に出て稼ぎたい。家が貧しかったっていうのもあるんですけど。
その思いやけでしたね。
なるほど。でも今になってみると、ちょっとした舞台掃除とか手伝えるしいいんじゃない?
そうなんです。うち本当に大衆演劇って、もちろん入所料金が安い演劇ですんで、
全てを自分でやらなきゃいけないんですよ。
本当に道具作りの絵もそうですけども、文字も書けなければいけない。
表で呼び込みもできなければいけないっていう、全てをやらなきゃいけないんで、
その時の経験っていうのがものすごく今は生きてる気がします。
なるほどね。やっぱりそういう話を聞くと、本当にエンターテインメント、
演劇の世界ってちょっと私たちの仕事から遠いのかなと思うんだけど、
でもやっぱり中小企業の在り方として、まず経営者自らがマルチに動けるとか、
それからまず社員さん一人一人もいろんなことができるっていうのはすごく大事なことで、
いろんなことができる上でそのレベルを上げていくみたいなね、
そういう努力がやっぱり僕らも必要だと思ってるんですけど、
そういう話を伺うと、ああそうかって感じがしますね。
ああそうですね。
なるほど。何かもう一つか。
今で言うといいか悪いかわからないんですけども、
その当時は本当に日常業務終わってから絵描きさんが絵を描くんですね。
夜出社してきて。その絵をもう自分の台で絵描きさんいなくなってしまうから、
覚えなさいと父に言われて。
なるほど。
日常業務が終わってから朝まで絵を一緒に描いて、
朝の日が出たぐらいに紙にとって、
その次の日また自分で呼び込みをし始めるっていうのを4年5年続けましたかね。
なるほどね。
本当にご創業をされて、次の一手として木馬館を買ってきたおじいちゃん。
そして時代の流れに合わせて次々と手を打っていき、
今の劇場を作られたお父さん。
そしてそれをご覧になっていた篠原さんが継がれて、
今がある、これからがあるということですよね。
そうですね。
来週からはそんなお話を伺いたいと思います。
本日はありがとうございました。
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ありがとうございました。
ここで一つ私からお知らせがございます。
私が会長を務めます東京商工会議所北支部が、
7月20日土曜日、オクトピアにて渋沢フェスタを開催いたします。
本イベントは東商北支部設立50周年記念事業、
並びに北区新一万円札発行カウントダウンプロジェクトの一環として、
渋沢英一に関する様々な催し物を実施いたします。
当日はジモキッズさんによる10種類以上の子ども向けワークショップや、
渋沢ゆかりの商品、北区の食品などの物産展、
支部青年部による北区伝統工芸品の体験、
以前この番組にもご出演いただいた産経プランニングの
溝口さんによる特別講演会なども予定しております。
そして渋沢くんFMのブースも出展しております。
そして渋沢くんFMのブースも出展があり、
なんと東京ノースムーブメント初の公開収録が決定いたしました。
詳細は渋沢くんFMのホームページからご確認ください。
皆様のご参加をお待ちしております。
それでは次週もお楽しみに。